耶麻郡塩川組金川村

陸奥国 耶麻郡 塩川組 金川(かなかは)
大日本地誌大系第32巻 44コマ目

府城の北に当り行程2里8町。
家数42軒、東西1町38間余・南北3町44間余、四方田圃(たんぼ)なり。

村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
米沢に通る裏街道なり。

東8町10間山麓に至る。その奥は数峯連なりて界域分かちがたし。
西3町40間河沼郡笈川組高瀬新田村の界に至る。その村は未(南南西)に当り6町余。
南3町50間河沼郡代田組島村に界ひ日橋川を限りとす。その村まで4町50間。
北1町44間余三橋村の界に至る。その村は戌亥(北西)に当り3町50間余。
また
辰(東南東)の方6町馬場新田村の界に至る。その村まで8町。

山川

駒形山

村東10町余にあり。
この山の南面草木生せざる沙石の地、その形逸馬に似たり故に名く。
天正巳丑磨上原の戦い散して後、伊達政宗駒形山を下て三橋村の塁に拠るというはこの山のことなり。

日橋川(堂島川)

俗に堂島川という。
馬場新田村の方より来り、村西南を回て29町余流れ三橋村の方に注ぐ。

関梁

村より2町30間未(南南西)の方、日橋川に架す。
幅2間・長16間余、勾欄あり。
米沢に通る裏街道なり。

水利

駒形堰

赤枝村の方より来り三橋村の方に注ぐ。

狐堰

駒形山の麓にて日橋川を引き田地に(そそ)三橋村の方に注ぐ。
昔、金川・三橋・深沢・田中・竹屋・下窪、小沼組金森7ヶ村の者共、水に乏しく耕すべき便りなきを患い相共に田中村の稲荷神社に詣り深く祈願せしに、神巫女に託して2月初午の日を待べしという告ありければ皆奇異の思をなし、翌春の2月初午の日を待て稲荷神社に詣りしに白狐彼社の森の中より出て残雪に(あしあと)付て東南の方に走り行く。人々その蹤を認て従行しに、駒形山の辺にて跡なくうせにけり。因て麻穣(あさから)を束て験しとし堰を築ん事を金川村の地頭石井丹波守に講う。石井また下荒井大和守盛継に謀り命じてこの堰を築しむ。應永2年(1395年)6月朔日にその功成れり。これより瘠地(せきち)みな膏腴(こうゆ)*1となり、今に至てその利に頼れり。因て狐堰と名付けしとぞ。
この村の百姓藤吉をいう者の家に古文書あり。堰を築きしときの文書なり。因てここに録す(※略)。

神社

戸隠神社

祭神 手力雄命(たぢからおのみこと)
相殿 伊勢宮
   八幡宮
   熊野宮
   婆神
   礫神
   加和利権現
   今宮
鎮座 不明
村西にてあり。
古木多くして神さびたり。
鳥居拝殿あり。府下北小路大久保播磨仮にこれを司る。

寺院

金川寺

村中西頬にあり。
松峯山と號す。曹洞宗会津郡南青木組北青木村恵倫寺末山なり。
開基の年代詳ならず。
昔、若狭国小浜より1人の老比丘尼来りて勝地を相し、この村の地頭石井丹波守に請て1宇を建立す。地名に因て金川寺と號せり。みづから弥陀の霊像を刻て本尊とす。長2尺6寸あり。住職年を経て800歳の齢を保てり。因て世にこれを八百比丘尼という。別に法諱(ほうき)ある事を知る者なし。
またこの寺の前に鶴淵という淵あり。その側に大なる奇石2つ並べり。その形状奔馬(ほんば)に似たり、因て歌あり。
會津山麓の里の阿弥陀堂霞かくれの鶴淵の駒
縁起の載する所斯の如し(この寺昔は村の辰巳(南東)で堂島川の南にあり。天正巳丑の乱に兵燹(へいせん)に罹て後この地に移せりとぞ。今なお礎石あり。この所の前に淵あり。即ち鶴淵なり)。
また俗説に、この八百比丘尼は秦勝道が女なり。勝道は秦川勝が孫にて朝*2に仕えて諫諍し讒者(ざんしゃ)のために放逐せられ、和銅元年(708年)この地に来り会津山の麓に謫居(たっきょ)す。里長の女に相馴れて養老2年(718年)正月元日にこの比丘尼を生めり。勝道かねて庚申を尊崇し村の父老を集めて庚申講を営しに、ある日駒形岩の辺鶴淵の底より龍神出て大衆を饗応(きょうおう)す。中に九の貝あり、人怪で食わず道に棄しを勝道拾て家に帰る。この比丘尼採て食しゆえ壽を保てりという。この説縁起と異なり。
いづれも来歴證とすべきなし。

客殿

8間に5間。
本尊、釈迦。
脇立、文殊・普賢。

阿弥陀堂

境内にあり。
本尊、長2尺6寸、立像なり。
聖徳太子の像を安置す。
共に八百比丘尼の作という。

古蹟

館跡

村中にあり。
石井丹波守平盛秀築くという。
今は民家となり館中(たてのうち)という名のみ残れり。

旧家

藤吉

この村の農民なり。
石井丹波守平盛秀が遠孫なりといい伝えれども世系詳ならず。
應永年中(1394年~1428年)の古證文を持伝う(文書は上の狐堰の条下に出す)




余談。
渕ノ上という地名が残っているんですが、鶴淵と関係あるのでしょうか?
今の日橋川は河川工事でほぼ真っすぐになっていますが、昔は蛇行しこの地区の近くを流れていました。金川寺も天正巳丑の乱で北に移転したとの話もあり、旧河道であるこの地区の南側辺りが件の淵である可能性が高い気がしています。

戸隠神社の相殿神、今宮は「馬場新田村より移す」と記載があります。現在馬場新田村に今宮神社が鎮座していますが、この神を元の場所に戻したのでしょう。
さて、謎なのが礫神と加和利権現です。礫神を調べてもどんな神様なのかはっきりしませんでした(四万十町の地名の由来の中の根々崎の所に少し記載があるくらい)。加和利権現(かわり-?)に至ってはまったく情報がでてきません。そもそも会津地方では珍しい(いや他に無い?)戸隠神社を祭っている事自体が謎です。駒形・狐両堰を作る際に験を求めたとすれば何年に勸請したかわかりそうなものですが、本文を見る限り不明です。力を司る天手力男命を祭る意味は何なのでしょうか。
金川寺の記述を見ればこの地区では庚申講が盛んにおこなわれていましたし、聖徳太子の像があるということは太子守宗の信仰もあったと思います。
最終更新:2024年02月24日 19:20

*1 土地が肥えていること

*2 朝廷