耶麻郡小沼組大塩村

陸奥国 耶麻郡 小沼組 大塩(おほしほ)
大日本地誌大系第32巻 55コマ目
※国立公文書館『新編会津風土記56』より

村中に塩井ある(ゆえ)名くという。

府城の北に当り行程6里。
家数88軒、東西6町・南北35間。
大塩川を挟み山間に住す。

米沢街道駅所にて、村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
熊倉組熊倉村駅より1里12町ここに継ぎ、ここより2里9町檜原村駅に継ぐ。

東1里26町・北1里20町計、共に檜原村の山界に至る。その村は丑寅(北東)に当り2里4町余。
西17町5間下川前村の界に至る。その村まで18町30間余。
南1里関屋村の山に界ふ。
また
未申(南西)の方27町樟村の界に至る。その村まで29町。
戌亥(北西)の方上川前村に接し田畠相雑て地界なし。その村まで18町。

この村三面に山連なり西に田圃(たんぼ)あり。

小名

二沢(にのさは)

本村より未(南南西)の方35町にあり。
家数2軒、東西2町・南北20間。
山中に住す。

遅沢(おそさは)

本村の東11町にあり。
家数7軒、東西30間・南北40間。
山中に住す。

端村

大窪(おほくほ)

本村より未(南南西)の方17町にあり。
家数24軒、東西2町・南北2町10間。
山間に住す。

木地小屋

(はら)

本村の東1里余、山中にあり。
家数14軒、東西1町10間・南北40間。
明暦中(1655年~1658年)五目組日中村の木地小屋より移る。

山川

高曽祢山(かうそねやま)

村北1里25町余にあり。
高120丈計。
檜原村と小田付組入田付村と峯を界とす。
楢・橡・ふな・雑木あり。

八森山(はちもりやま)

村より丑(北北東)の方1里15町にあり。
高曽祢山に連なる。檜原村と峯を界ふ。
高70丈計。

萱峠(かやとうげ)

村より丑寅(北東)の方28町、米沢に通る街道なり。
旧多く萱を産せし故名くという。今は雑木多し。
ここを下ること2、3町計、鹿垣(ししかき)という字あり。天正13年(1585年)5月葦名氏の臣松本備中というもの、心替えして入田付越の山道を闢き伊達勢を引入る。この時政宗は檜原村に陣取て新田・原田などいえる郎等に軍勢をつけ入田付越に向わしめ、その身は大塩・柏木等の塁を攻落し共に北方に乱入すべき謀あり。葦名の臣穴澤・中島が一党その外三瓶・伊東などいう者力を(あわ)せこの所に柵をつけ防守しり所(ゆえ)その名残れり。然るに田付の軍伊達方利なかりしかば、政宗も軍するに及ばす檜原に引入しという。

亀甲坂(きつかふさか)

村より未申(南西)の方5町にあり。
米沢に通る街道なり。
この地1町余の中に石理(さけ)て亀甲の如き文をなすもの多し。故名くという。

大塩川

上流を小塩川という。檜原村の境内より来り、北より南に注ぎ西に折れ、村中を経て未申(南西)の方に流るること凡2里20町計上川前村の南を過ぎ樟村の界に入る。
怪石きそひ秀て水勢湍急(たんきゅう)なり。

大滝

村東1里、大塩川にあり。
高10丈。

松手沼(まつてぬま)

村北18町にあり。
周360間。
寶暦7年(1757年)霖雨の時山抜て増沢という沢の流を塞ぎ、ついに沼となる。

塩井2

村中大塩川の北、大橋の東西にあり。
東の井筒、周1丈3尺。
西の井筒、周1丈5尺。
共に深1丈余、梁益塩井の類なり。
相伝て、弘仁中(810年~824年)空海この村に来て老嫗の家に止宿し、塩の乏しきを患るを見てこれが為に護摩を修すること17日塩水岩中より湧き出すという。今も塩を焼いて業をするものあり。
西行が詠なりとて2首の歌を伝う。
海士もなく浦ならすして陸奥の山かつのくむ大塩のさと
浦遠きこの山里にいつよりかたえす今まて塩やみちのく

清水3

一は村より未(南南西)の方17町にあり。周11間。
一は村南20町にあり。周14間。
共に田地の養水とす。
一は萱峠を下り檜原村の道左の山根よりもれ出る清水なり。樋を以てこれをひき行人の渇を療す。清冽ならびなし。

関梁

境橋(さかひはし)

村より丑寅(北東)の方1里にあり。
長5間・幅5尺、大塩川に架す。
この村と檜原村との界にあり、因て名とす。
米沢に通る街道なり。

大橋

村中にあり。
石を以て作る。長4間・幅2間、大塩川に架す。
米沢に通る街道なり。

一渡戸橋(いちのわたとはし)

村東16町にあり。
長5間・幅4尺、大塩川に架す。
檜原村の内、雄子沢に通る経路なり。

土橋3

共に村中にあり。
二は長7間、一は長8間、大塩川に架す。

神社

山神社

祭神 山神?
相殿 山神 3座
   伊勢宮
   熊野宮
   諏訪神
   羽黒神
   麓山神
   今神
草創 不明
村北より登ること1町20間、山上にあり。
鳥居拝殿あり。高柳村山本源之進これを司る。

温泉神社

祭神 温泉神?
勧請 不明
村中、塩井の傍にあり。
西福寺これを司る。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 伊勢宮
   山神
草創 不明
端村大窪より未申(南西)の方1町、山麓にあり。
鳥居拝殿あり。山本源之進が司なり。

寺院

長泉寺

村中にあり。
山號を石用山という。会津郡南青木組北青木村恵倫寺の末山なり。
縁起に、弘仁中(810年~824年)空海老嫗のために護摩を修し、手づから薬師地蔵の像を刻みこの寺に安ず。天正の兵乱に薬師の像を盗のために奪われ地蔵のみ存す。
旧真言宗にて空海の法流を酌しが、萬治中(1658年~1661年)恵倫寺尖英が弟子尖太来り住し尖英を請て中興とし曹洞宗となる。即空海作の地蔵を本尊とす。座像、長1尺3寸5分、客殿に安ず。

西福寺

村中にあり。
山號を鹽澤山と称す。曹洞宗恵倫寺の末山なり。開基詳ならず。
慶長中(1596年~1615年)休庵という僧再興す。
本尊薬師客殿に安ず。

地蔵堂

境内にあり。

正福寺

端村大窪にあり。
山號を金傳山と称す。真言宗府下道場小路観音寺の末山なり。
開基詳ならず。
天正の兵火に罹り殿宇(ことごと)く燒亡し、地蔵の木像のみ存す。同19年(1591年)に至て順教という僧再興す。これを中興とす。
本尊不動客殿に安ず。

虚空蔵堂

村より丑寅(北東)の方8町、山の半腹にあり。
4間四面なり。
虚空蔵座像、長3尺。立岩虚空蔵という。
開基の年月詳ならず。
堂の西北に立岩とて10丈余の岩山あり。蒼松争秀て奇観なり。
下に岩穴あり。辰巳(南東)に向い、口の広2間計。もとは本尊をこの岩屋の中に安じ拝殿をも桟閣(さんかく)にせしという。
修験喜福院これを司る。

古蹟

柏木城跡

村南5町、山上にあり。
東西125間・南北35間。
南の麓に長90間・幅4間の馬場跡あり。
その南に東西130間余・南北25間の空壕あり。
本丸・二、三ノ丸の形・堀切の跡残れり。
天正12年(1584年)葦名義廣これを築き、三瓶大蔵を城番としてこの辺の武士150騎をそえ米沢の押えとし檜原村の繋とせし所なり。今はみな田圃となる。

館跡

村中にあり。
地字を中島という。今民家となり堀土居の形なし。
天正の頃(1573年~1593年)葦名の臣中島美濃某というものこれに居るという。

老嫗屋敷蹟

村中大橋の南側にあり。
農夫これに居る。
その家に空海ならび嫗が像を安ず。嫗が像は空海の作といい伝う。
屋敷の中に護摩石という岩あり。高5尺計、石面平にして6尺に4尺計。空海の手形なりとてその趾あり。

腰掛石(こしかけいし)

村西1町、米沢街道の側にあり。
高2尺、石面4尺に3尺計。空海腰を掛し石なりとて名く。

旧家

穴澤源吉

この村の検断にて中島美濃某が後なりという。系図によるに美濃はその先和田義盛に出、建保年中(1213年~1219年)新左衛門尉常盛が子幸若なるを、乳母抱いて家難をさけ会津に来り、成長して中島靭負義仲と称し大塩村の地頭となる。美濃はその8世の孫なりとぞ。子なかりしゆえ檜原の穴澤加賀信徳5男左馬信清というものを養子とす。左馬後に源左衛門貞利と称し、伊達氏ここを襲いしとき穴澤等と力を(あわ)せ防守す。このほとりその遺蹤(いしょう)多し(檜原村の条下を照らし見るべし)。葦名氏滅んで後源左衛門上杉氏に仕え、氏を穴澤と称す。源吉貞英に至るまで9代なりという。




追記:木地小屋・原(現滝ノ原)について
コメント欄にてとんりすんがりより情報頂きました。旧村跡の現状について詳しい情報が記載されていたました。その内容を引用したいと思います。
木地小屋の原と言うのは現在の滝ノ原の事で間違いないです(少なくとも明治期には現在の名前になっています)。
滝ノ原は昭和60年代に全住民が集落を離れ廃村になってしまったそうです。数年前まで遅沢集落から車で訪れる事ができたようですが、今年探索を試みたところ、途中で路盤が徒歩でも無理なレベルで崩落しており断念しました。
滝ノ原から雄子沢を通って猪苗代へ下る道が昔あり、猪苗代道と言っていたようで(取上峠はその鞍部だったようです)、このあたりから旧道に入れるのですが、ほぼ藪化しており、こちらも一旦引き返しました。滝ノ原に電気を通していたと思しき電線がだるだるに垂れ下がっていました。
滝ノ原集落の名前の由来になったと思しき大滝(江戸時代に滝ノ原心中という心中騒ぎもあったと伝わります)も道の駅の観光案内板で名所として掲載している割に、細野峠の自動車道が廃道化しているせいで訪れるのが難しくなっているようです。せめてこちらは何とか手を打って頂きたいものです。

追記2:西福寺について
コメント欄にて情報頂きました。
明治の始め位まではあったそうですが、衰退して同じ宗派の長泉寺に吸収されてしまい跡地は民家になっています。
西福寺は伊達政宗の謀略で檜原を追われた穴沢一族の残党が菩提を弔うために開基した、ということです。

追記3:神楽岩洞門と亀甲坂
コメント欄にてとんりすんがりさんより情報を頂きました。
神楽岩の下、岩を掘ったトンネル(洞門)は亀甲坂とは関係ないとのご指摘を受けました。コメント欄から引用します。
この洞門の上に昔は道が通っており、神楽の一団が尾谷新田村から下川前村に向かう途中、あまりの険しさに神楽道具を谷底に落としてしまったという言い伝えから神楽岩と言われているようです(この話からすると風土記で既に廃村とされている遅谷新田村は洞門裏の山手にあったようです)。
ただし本来の神楽岩は洞門よりやや東の山肌にあるそうで(樹木が生い茂っており目視できませんでした)、洞門が穿たれている岩壁は本来無関係なのだそうですが、今や混同されているようです。神楽岩洞門の道は昔は県道で、路線バスも走っていたそうですが、今の国道459号線が出来てから管理が放棄され、そのうち土砂崩れなどで通れなくなったそうです。
また亀甲坂についても調べて頂いたようで、下記のような伝承が残っているそうです。
大塩から大久保に向かう途中の道にあったようで、グダ沼という沼に住んでいた人食い亀を弘法大師が退治しその死体をを埋めた場所という説、グダ沼がが干上がった際にに住んでいた亀たちが亀甲石になった説と云われが複数あるようです。

追記4:塩井・温泉神社・老嫗屋敷跡地について
とんりすんがりさんより情報を頂きリンクの文を修正しました。
また老嫗屋敷について下記のような伝承が残っているそうです。
ここで祀られていた嫗は小萬という女性で、若く美しい山伏に化けた大蛇に魅入られて蛇の子を産み落とし、悲嘆のあまり自害しようとした所を弘法大師に諭され、生きながらにして像を作られお産の神様として祀られるようになったとの事です。小萬はその後も長生きし、大塩で初めて伊勢神宮に参拝したり、塔寺の恵隆寺にはじめて戸帳を奉納するなどしたそうです。弘法大師の像と嫗像も現存しているそうですが、昭和10年頃に道路拡張のため長泉寺に遷され今はそちらでお祀りされているとの事です。
最終更新:2020年07月15日 22:42
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