府城の北に当り行程4里23町余。
家数92軒、東西1町28間・南北8町15間。
東は大塩川に傍ひ三方田圃なり。
出羽国米沢に通る街道駅所にて、村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
塩川組塩川村駅より1里28町ここに継ぎ、ここより1里12町
小沼組大塩村駅に継ぐ。
村の未(南南西)の方に一里塚あり。
東30間
小沼組高柳村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り50間余。
西7町47間
中里村の界に至る。その村まで12町。
南15町2間
小沼組中目村の界に至る。その村まで16町50間。
北7町13間
小沼組漆村の界に至る。その村まで13町。
また
未申(南西)の方14町20間
布流村の界に至る。その村まで20町10間余。
申(西南西)の方12町11間
三城目村の界に至る。その村まで15町10間余。
もと未申(南西)の方11町20間に中谷地という端村あり。今はなし。
この村もと毎月6度の市あり。慶安3年(1650年)より3度とす。その後廃せり。始めて市を立し時蒲生氏より与えし文書この村の検断物江左仲太が家に蔵む。その文如左(※略)。
山都之内熊倉村市場に相定候 月〻六齋五十に市可相立者也 仍而如件
慶長六年
丑十一月廿六日 満田出雲守
住長 判
高 備中守
貞成 判
蒲生忠兵衛
郷雄 判
町野主水佐
重就
熊倉村検断 物江土佐との
端村
八町
本村の西8町にあり。
寛文3年(1663年)に開く。
家数9軒、東西1町1間・南北56間。
四方田畠なり。
舞台田
本村より未申(南西)の方13町にあり。
家数6軒、東西1町・南北1町20間。
東の方米沢街道を隔て家居1軒あり。
四方田畠なり。
柳原
舞台田の西1町30間余にあり。
家数6軒、東西1町5間・南北35間。
四方田圃なり。
山川
大塩川
村東にあり。
小沼組漆村の境内より来り、南に流るること26町
中目村の界に入る。
広10間余。
関梁
大橋
村東にあり。
大塩川に架す。長9間・幅2間、勾欄あり。
米沢街道なり。
水利
小塩堰
漆村の方より来り中里村の境内を過ぎ、またこの村の境内に入り田地を潤し
三城目村の方に注ぐ。
郡署
代官所
倉廩
米倉三屋
共に村中にあり。
一屋は社倉なり。
二屋は本組の米を納む
神社
鹿島神社
祭神 |
鹿島神? |
相殿 |
稲荷神 3座 |
|
伊勢宮 |
|
八幡宮 |
|
戸隠神 |
|
天神 |
|
若宮八幡 |
草創 |
不明 |
村中にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。
諏訪神社
祭神 |
諏訪神? |
相殿 |
稲荷神 2座 |
|
熊野宮 |
|
三島神 |
|
日光神 |
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白山神 |
|
天神 |
|
天王神 |
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大宮神 |
|
羽黒神 |
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麓山神 |
|
幸神 |
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日御前神 |
境内にあり。相殿13座あり。
神職 山口美濃
先祖詳ならず。寛永中(1624年~1645年)修理尚嗣というもの当社の神職となる。今の美濃尚方まで4代なり。
寺院
光明寺
村中にあり。
浄土宗山號を紫雲山という。本州岩代専称寺の末山なり。
永正17年(1520年)相模国鎌倉の産江月という僧開基す。
天正中(1573年~1593年)兵火に罹て本尊千手観音の像のみ遺れり。今別堂に弥陀を本尊とし客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。
千手観音、長1尺7寸5分。行基作とも慈覺作ともいう。
会津三十三所順禮の一なり。
古蹟
館跡
村より戌亥(北西)の方6町10間にあり。
山口屋敷という。何人の住せんということしれず。今は田畠となりその字のみ残れり。
旧家
物江左仲太
この村の検断なり。藤原姓にて昔は鈴木氏を名乗り、代々葦名家に仕ふ。何の頃にか物江氏に改むという。
慶長の頃(1596年~1615年)雅楽之丞高辛という者、男子なければ細川氏の子土佐某という者を養い女にあわせ家名を継しむ。相続いて検断を勤め、今の左仲太高憲に至るという。
旧は多く武具・馬具の類をも所持し家計も詳なりしが、火災にかかりただ文書4通災いを免れ今に伝う。その文如左(1通は上に出す)。
(※略)
赤城長五郎
先祖を赤城和泉則元という。上野国勢田郡の産にて、天正中(1573年~1593年)会津に来り葦名盛隆に仕ふ。葦名氏亡て後浪々の身となり、蒲生氏のときこの村の長となり後上杉氏に仕ふ。上杉氏羽州米沢に移りし後また村長となる。
和泉が子を太郎右衛門といい、その子を長五郎という。相続いて肝煎役を勤む。今の長五郎則重は和泉が11代の裔孫という。
家に文書2通とこの村を知行せし家士の家に年貢の納し請取皆濟手形、慶長の末(~1615年)より寛永の始め寛永中(1624年~)までの年号あるもの数10枚を蔵む。煩しければその1、2を取て左に録す。
(※略)
余談。
「きたかた喜楽里博・行ってみんべぇ・まちめぐりツアー」という観光ツアーの中で関所跡、代官所跡、検断屋敷跡が挙げられているのでどこかにあるみたいなのですが、GoogleMap上では登録が無いようです。
追記:熊倉宿について
風土記本文にもある通り熊倉村は米沢街道の駅所(宿場町)でした。この地区の中央を通る道が米沢街道です。各所に当時の面影を忍べる史跡が残っており、町中には大きな案内板(鹿島神社前)が設けられどこに何があったのかが分かるようになっているようです。
※画像は下記参照元より。
最終更新:2025年06月18日 22:37