耶麻郡小田付組小田付村

陸奥国 耶麻郡 小田付組 小田付(おたつき)
大日本地誌大系第32巻 81コマ目

この村の奥に入田付・中田付の2村あるゆえ古は出戸田付村という。天正10年(1582年)葦名の長臣佐瀬大和、中田付村(この村及び中田付村共に大和が領地なり)の市場便り悪きとて93ヶ村の人夫を発し、(たい)南條(なんしよう)古屋敷(ふるやしき)小田付(おたつき)という4区の民居をここに集めて町割りし今の名に改むという。

府城の北に当り行程4里27町余。
家数172軒、東西1町30間・南北5町。
四方田圃(たんぼ)なり。

上町・下町の字ありて、村中に官より令せらるる掟条目の制札を懸く。

東5町54間下台村の界に至る。その村まで8町40間余。
西2町18間小荒井組小荒井村に隣りその村際を界とす。
南5町熊倉組上高額村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り9町40間余。
北37間稲村の界に至る。その村まで6町20間余。
また
丑(北北東)の方4町48間上田村の界に至る。その村まで16町。
亥(北北西)の方3町2間小荒井組村松新田村の界に至る。その村まで12町20間。

この村毎年正月17日郷頭が家の前に仮屋を設け市神を祭る。この朝米俵を投じ、壮年の者上下に立分れこれを争う。
昔中田付村に月6度の市日あり後廃せしを、小荒井村の住人小荒井四郎左衛門某というもの取立て(しばら)く小荒井村に移せしが、(いささか)子細ありてもとの如く中田付村に返す。その後また所悪きとて天正10年(1582年)にここに移せり。このとき市の祝とて太刀1振・鷹2(れん)・馬1疋・黄金3枚を葦名氏に献すという。後また小荒井村と争論せしことありて、加藤家の時6度の市を3度は小荒井村に移すべき旨ありしより、今にこの村にては毎月7日・17日・22日、8月6日を市日とす。
初め市を移せしとき中田付村より1箇の大石を贈る。今鎮守総社の境内にあり、この村火災あれども昔より延焼せざるはこの石の加護なりとて市神石と称し崇敬す。
また古文書2通農民の家に蔵む。その文如左(※略)

山川

田付川(たつきかわ)

村西3町にあり。
稲村の方より来り、南に流るること7町30間余小荒井村の界に入る。
広10間。

須蟹沢川(すかにさはかわ)

村東2町40間余にあり。
上田村の方より来り、南に流るること11町余上高額村の界に入る。
広2間。

関梁

橋2

共に村西3町計、田付川の上下に架す。
上の橋は村松新田村に通り、下の橋は小荒井村に通る道なり。
共に長10間・幅4尺。

水利

村東8町にあり。
東西15間・南北33間。

郡署

代官所

村中にあり。
役人を置き小田付・小荒井両組を支配せしむ。
河沼郡笈川組浜崎村役所に属す。

神社

佐牟乃神社

祭神 不明
鎮座 不明
村中にあり。
祭神及び鎮座の年月詳ならず。
旧は村東3町計大小田付という処にあり。後この村の百姓新名総兵衛というもの今の地に遷せり。
鳥居拝殿あり。満福寺これを司る。

総社神社

祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ)埴山姫神(はにやまひめのかみ)
相殿 伊勢宮
   熊野宮
   山神
   日月宮
鎮座 不明
村西にあり。
境内に市神石あり、注連を張て不浄を遠ざく。
鳥居幣殿拝殿あり。熊倉組熊倉村山口美濃が司なり。

寺院

満福寺

村中にあり。
立法山と號す。真言宗、開基詳ならず。
もとは村西護神村(今詳ならず)という所にあり。天正中(1573年~1593年)本州岩城の産賢長という僧ここに来て今の地に移し、府下大町弥勒寺の末山となる。因て賢長を中興とせり。
大日を本尊とし客殿に安ず。

弁天堂

境内にあり。

地蔵堂

同上

古蹟

館跡

今米倉のある地なり。
佐瀬大和種常居るという。

真福寺迹

村の寅(東北東)の方2町にあり。
何れの頃にか塩川組下利根川村に移すという。
今は畑となる。



追記:総社神社と市神石
とんりすんがりさんより情報頂きました。
小田付村の総社神社は明治4年に明治政府の政策の一環で出雲神社に改称され祭神も大国主命に変えられたそうです。風土記に記述のある市神石も境内の北東にお祀りされていました。もともと中田付村でお祀りされていたそうですが、佐瀬大和守種常が市を小田付に移した際に、一緒に遷されたそうです。
余談ですが小田付の読みは行政上は「おたづき」なのだそうですが、地元の人は殆ど「おだづき(「き」も限りなく「ぎ」に近い発音)」と呼んでいます。
市神石




最終更新:2020年07月26日 07:19