耶麻郡熊倉組上高額村

陸奥国 耶麻郡 熊倉組 上高額(かみたかひたひ)
大日本地誌大系第32巻 75コマ目

府城の北に当り行程4里20町。
家数37軒、東西2町30間・南北1町20間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東8町西中明村の界に至る。その村まで12町。
西6町20間小荒井組清治袋村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り10町計。
南5町下高額村の界に至る。その村まで10町。
北4町34間小田付組小田付村の界に至る。その村は亥子(北北西~北の間)に当り9町40間余。
また
寅(東北東)の方6町上勝村の界に至る。その村まで10町計。
丑(北北東)の方11町14間小田付組下台村の界に至る。その村まで18町40間余。
辰巳(南東)の方8町20間下勝村の界に至る。その村まで9町20間。
未(南南西)の方5町10間小田付組一堰村の界に至る。その村まで19町余。
亥(北北西)の方12町小荒井組小荒井村の界に至る。その村まで18町。
申(西南西)の方6町小荒井組高吉村の界に至る。その村まで14町。

小名

沢田(さはた)

本村の寅卯(東北東~東の間)の方4町にあり。
家数3軒、東西45間・南北20間。
四方田畠なり。

端村

百目(とうめ)

本村の南4町50間にあり。
家数9軒、東西1町・南北1町12間。
四方田畠なり。

山川

田付川

村西2町30間にあり。
清治袋村の境内より来り、南に流るること3町20間一堰村の界に入る。

水利

堤3

村より寅(東北東)の方4町にあり。
南北に相並べり。
一は周2町計、寶永5年(1708年)に築く。
二は周1町20間計、t藻に堂堤(たうつつみ)という。

神社

天満宮

祭神 天満宮?
相殿 伊勢宮 2座
   熊野宮
   宗像神
   幸神
   若宮八幡 2座
   稲荷神
草創 不明
村北1町20間にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。熊倉村山口美濃が司なり。

寺院

當勝寺

村中にあり。
天台宗郭内延壽寺の門徒なり。山號を高額山と称す。
開基の年代詳ならず。
應永中(1394年~1428年)中舜林という僧中興す。
本尊弥陀客殿に安ず。春日作という。

古蹟

寺跡

村中にあり。
旧龍虎山寶性寺という真言宗の寺あり。
寛永10年(1633年)廃寺となる。

褒善

近右衛門

この村の肝煎を務ること30年計。よく村民を教導し終に訴訟の事なし。
またよく人を恵て貧しき者に米を与え、或は人参の類価貴く民間の力に及ばざる品を貯置いて(すく)い、猪苗代辺より良材を求めて境内の橋をかけ己が費用を(かえりみ)ず。生れ付き文学を好んで経史記録など集置て暇ある日は常に披見(ひけん)し、近き(たと)えを挙げて人にもいい聞かせけり。或人、善にほこらずとは如何なる事ぞと問いしに、それは顔子の受用なれば吾儕(わなみ)*1(わきま)うべき所にあらざれどその一端をいわば、或日我下部(しもべ)2人山に入て材木をとりしに、1人は力たくましくて大きなる木2本負来り1人は(わずか)に1本を負来りしが、力強きは聲高に(ののし)りほこらわしげに見え、今1人は材木をそこそこに取おさめ掃除などせし様愛ありて見ゆ。凡て己が喜しと思えることは人にも憎まれ、自ら非なりと思えることは還て人の心えかない神明も加護あるべしと言いしとぞ。
元禄9年に(1696年)に身まかりしかば、後にその子清助を本組の郷頭とす。





最終更新:2020年07月15日 15:41

*1 一人称の人代名詞。対等の者に対して自身をいう語。私