耶麻郡小田付組入田付村

陸奥国 耶麻郡 小田付組 入田付(いりたつき)
大日本地誌大系第32巻 84コマ目

府城の北に当り行程6里10町余。
家数39軒、東西36間・南北7町30間。
山間に住し東は田付川に傍ひ、幽僻(いうへき)の地なり。

村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東5町30間大沢村の山に界ふ。
西18町五目組宇津野村の山に界ひ峯を限りとす。その村まで25町。
南22町39間大沢村の界に至る。その村まで30町。
北2里28町米沢領出羽国置賜郡に界ふ。
また
巳(南南東)の方18町中田付村の界に至る。その村まで32町余。
午未(南~南南西の間)の方22町39間上岩崎村の界に至る。その村まで30町30間。

この辺は天正中(1573年~1593年)伊達氏篝場(かがりば)を構えて、塩川村へ飛脚の合図をなし黒川の変を窺わしめし所という。

端村

二間在家(にけんさいけ)

本村の南18町、田付川の西にあり。
家数8軒、東西27間・南北2町27間、散居す。
南北に田圃を闢き東西は山に傍ふ。

杉山(すきやま)

本村の西4町にあり。
家数18軒、東西45間・南北2町6間、山中に住す。

沼尻(ぬましり)

本村の寅卯(東北東~東の間)の方7町40間余にあり。
家数10軒、東西48間・南北2町30間、山間に住す。

平沢(ひらさは)

本村の子丑(北~北北東の間)の方5町10間余にあり。
家数43軒、東西2町・南北2町48間。
山中に住し東に田付川あり。

大川入新田(おほかはいりしんでん)

平沢より子丑(北~北北東の間)の方9町にあり。
家数14軒、東西30間・南北6町。
山中に散居し東に田付川あり。

本小屋(もとこや)

大川入新田より丑(北北東)の方21町にあり。
家数5軒、東西30間・南北2町6間、重山の間に住す。

山川

高曽祢山(かうそねやま)

村の丑寅(北東)の方3里余、山奥にあり。
頂まで1里計、檜原村と小沼組大塩村と峯を界ふ。
雑樹多し。

行無沼(ゆくなきぬま)

※国立公文書館『新編会津風土記60』より
村より寅(東北東)の方18町30間にあり。
周900間程、層嶂(そうしょう)四方に圍み水面鏡の如く、佳景(かけい)の地なり。
北岸に貴船の社を勧請せり。
鮒を産す。鎮守の祟ありとて漁猟せず。また、舟を浮べることを禁ず。
ここに至る道の左右に雌沼・雄沼とて2の沼跡あり。村老の説に、昔は水多く湛え風あれば雌雄の沼より驚波(きょうは)相交わり行人往々溺死するものあり。斯く危なき所なれば1度ここに来り生きて帰るもの無の意をもて行無とは名けしとぞ。
この沼慶安元年(1648年)堤に築き本組諸村の養水とす。
不動滝にそそぎ出るはこの水なり(不動堂の条下と併せ見るべし)。

大沼

村より丑(北北東)の方2里余、山奥にあり。
東西1町10間・南北40間。

蘆沼

大沼の辺にあり。
東西40間・南北18間。

大峠(おほたふけ)

小峠ともいう。
端村本小屋の北1里20町計にあり。
ここを越て米沢領出羽国塩地平村にゆく。路狭して難所なり。牛馬を通せず。
この山東は檜原村に界ひ、西は五目組日中村より(のぼ)る経路ここに会し、即その村に界ふ。

田付川

村東にあり。
源を高曽祢及び大峠等の沢々より発し、南に流るること3里5町上岩崎村の界に入る。
広6間。
怪石(そばだ)ち急流なり。

大滝

村北1里6町、田付川にあり。
高3丈計。

関梁

橋5

共に田付川に架す。
一は村より巳(南南東)の方6町30間余にあり。長7間・幅1間半、大橋という。
一は村東にあり。長6間、六合地橋とて丸木橋なり。
一は本村より丑(北北東)の方5町30間余にあり。長7間半・幅7尺、金堀橋という。
一は端村平沢にあり。長6間半・幅7尺、平沢橋という。
共に村中の通路なり。
一は端村大川入新田より丑(北北東)の方8町50間余、塩地平村に往く道にあり。長7間・幅1尺、木根坂橋という。

水利

南原堰

村南にて田付川を引き中田付村の方に注ぐ。

神社

鹿島神社

祭神 鹿島神?
相殿 伊勢宮
   諏訪神
   愛宕神
   稲荷神 5座
   山神
   白山神
   総社
   鬼渡神
鎮座 不明
村より戌(西北西)の方1町40間余、山足にあり。
鳥居あり。熊倉村山口美濃が司なり。

貴船神社

祭神 貴船神?
鎮座 延久5年(1073年)
行無沼の北岸にあり。
延久5年の鎮座なりといい伝う。何人の勧請なること詳ならず。
神像、長1尺余、圭冠(はしはこうぶり)を戴き袍袴(ほうこ)を着く。古代の物なり。年旱すれば神像を沼に浴し雨を祈るに験ありという。
鳥居拝殿あり。山口美濃これを司る。

伊勢宮

祭神 伊勢宮?
相殿 蔵王神
勧請 不明
端村杉山の西2町、山上にあり。
鳥居あり。光徳寺司なり。

十二神社

祭神 十二神?
鎮座 不明
端村平沢の南、山腹にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

光徳寺

端村杉山の西にあり。
浄土宗大悟山と號す。文永元年(1264年)空行という僧建立す。
天正13年(1585年)兵火に罹り堂舎燒亡す。後葦名義廣、第9世普月という僧に良村(材?)及び人夫等を与え修造せしむ。12世圓誉木食(もくじき)して行法を勤む。因て空行を初祖とし圓誉を中興とす。13世舜道という僧武蔵国浅草幡随院に隷して末山となる。14世の僧行誉木食の行をなし堂宇を造立し、後五目組上三宮村願成寺に移る(願成寺の条下と照らし見るべし)。

総門

石階の上にあり。

客殿

8間四面、東向き。
本尊弥陀、脇立観音・勢至。

庫裏

16間に5間。

正福寺

端村平沢の西にあり。
平澤山と號す。光徳寺の末山浄土宗なり。
天正4年(1576年)空誉という僧造立す。
本尊弥陀客殿に安ず。

清龍寺

端村沼尾の東にあり。
浄土宗紫雲山と號す。旧は真言宗にて古刹なるよしいい伝う。何れの時、何人の開基なること知らず。大永4年(1524年)光徳寺の僧融海移住して始て浄家となる。因て融海を開視(祖?)とす。即光徳寺の末山なり。
彌陀を本尊とし客殿に安ず。

鐘楼

境内にあり。
鐘の径2尺1寸6分。『寶永六年丑良月上旬施主耶麻郡稲村花見彌兵衛』と彫付けあり(寶永六年:1709年)。

観音堂

境内にあり。

不動堂

清瀧寺の東にあり。
前に不動滝とて高3丈余の滝あり。岩上にこの堂を建つ。林木繁陰して石泉つねに牀下(しょうか)(そそ)ぎ幽閑賞するに余あり。
何れの頃にかこの村に星野宮五郎兵衛という者ありて空海作の不動・矜迦羅(こんがら)制多迦(せいたか)の3像を求め護佛としここに安ずという。
清瀧寺司る。

石佛

大橋を渡て1町計北道の側にあり。
高6尺5寸・幅3尺2寸。
何物ということ知らず。上に梵字、下に六字名號*1を掘る。土人車地蔵と称す。小沼組漆村の石佛に同しきものなるべし。




余談。
大峠(旧道。国道121号線とは別)は現在通行止めとなっているようです。

追記。
とんりすんがりより情報頂きました。
正福寺について
平沢集落の建物は正福寺で間違いが無いようです。元々のお堂は東向き、ちょうど旧121号線に背を向ける形で立っていたそうですが、明治10年前後に村の子供たちが蜂の巣を焼いていた火が燃え移って全焼してしまい、再建された際に現在の位置に移動したようです。建物こそ再建されたものの以後無住職となり現在は集落の集会所として使われているようです。
車地蔵について
入田付の大橋は現在の場所よりもやや上流に架かっていたそうで、車地蔵も風土記の記述通り橋からやや北の旧道(現道より田付川寄りだったようです)に安置されていたようですが、明治時代に大峠道路が開通した際に、治里(入田付本村)の方々が現在の場所に遷したそうです。
ちなみに車地蔵脇に車の轍が写っていますが、これが旧道の名残だそうです(田付川の流れに侵食されており完全に辿る事はできないようです)。

最終更新:2020年08月06日 15:30

*1 六字名号:『南無阿弥陀仏』の6字