河沼郡野沢組安座村

陸奥国 大沼郡 野沢組 安座(あさ)
大日本地誌大系第34巻 13コマ目

相伝ふ。昔この所に八蛇沼(やしやぬま)と唱え大なる沼ありて八頭の大蛇住しが、上野国赤城山の神と下野国二荒山の神と中禅寺の湖界を争う時に、二荒山の神越後国蒲原郡鹿瀬組実川村に住せし猿丸に請て赤城山の神百足虫に現せしを射斃せし時(事迹実川村の条下に詳なり)、その霊この沼に移し住し(ゆえ)八頭の蛇は大沼郡大石組沼沢村の沼に逃れるという。
その後地震に逢て岩崩れこの沼を埋めし時、長10丈計の百足虫死せり。因てそのほとりに村里を開き沼岡村(ぬまおかむら)と名付けしが神霊祟りを成しかば、大同3年(808年)空海ここに来りし時、神託に依て余水を抜き百足虫の霊を境内の宮嶽(みやがたけ)という山上に封じ、骨を集めて1堆の塚に築き馬蚿塚と名け八蛇を龍嶽に封じて護摩を修せしよりその祟やむという。
今境内に護摩壇岩(こまたんいわ)十三佛岩(しふさんふついわ)七福神岩(しちふくしんしわ)等の岩あるはその遺趾なりとぞ。今もこの村の者日光山に至れども二荒神を拝すること能わず。また山中に宿することを得ざるは赤城神のことに因るという。実もしかありしにや。

四面の山勢(さんせい)殊に嶮しく奇石怪岩のみにて、灌木(かんぼく)地に蟠屈(ばんくつ)し往々水の(かけ)し跡の如く見ゆ。
葦名氏の時今の名に改むとぞ。

府城の西に当り行程8里32町。
家数23軒、東西3町2間・南北1町5間。
安座川をはさみ山間に住し2区の端村と相望み(かなえ)の如し。

東18町牧村の山界に至る。その村は寅卯(東北東~東の間)に当り20町余。
西26町23間蒲原郡上條組土井村に界ひ九才坂を限りとす。その村は申(西南西)に当り1里7町50間余。
南1里18町中野村の山界に至る。その村は辰巳(南東)に当り1里11町余。
北7町堀越村に界ふ。
また未(南南西)の方1里1町21間上條組柴倉村の界に至る。その村まで1里16町20間余。

端村

水沢(みつさは)

本村の西4町40間余にあり。
家数23軒、東西4町5間・南北40間。
北は山に傍ひ三方田圃なり。

堰根(せきね)

本村の南4町40間余にあり。
家数6軒、東西20間・南北1町。
東は山に傍ひ三方田圃なり。

山川

台倉山(たいくらやま)

端村堰根より未(南南西)申(西南西)の方5町30間にあり。
(本郡の条下に詳なり)。

目指山(めさしやま)

端村水沢より酉戌(西~西北西の間)の方12町にあり。
頂まで10町。(まき)杉姫松多し。
土井村と峯を界ふ。

龍嶽(りようがたけ)

村北4町にあり。
頂まで3町30間。巉岩(ざんがん)にしてたやすく登ることを得ず。
灌木地わだかまりその勢削成せるが如し。
堀越村と峯を界ふ。

鳥居峠(とりいとうげ)

堰根の南30町にあり。
頂まで15町。
中野村と峯を界ふ。

九才坂(くさいさか)

水沢の西5町にあり。
登ること12町。
土井村と峯を界ふ。

大師山(たいしやま)

水沢より申(西南西)の方4町にあり。
頂まで4町。山勢大抵龍嶽に比すべし。
この山の七分目計に、長3町計大岩列布す。
その東の方に空洞あり。内に柱を建て堂とす。東西2間半・南北1間半・高8尺。中に空海の木像、長1尺5寸なるを安ず。また大日薬師の像7軀あり。堂の側に清水湧出、土人大師の硯水という。炎天にも涸ることなしとぞ。

安座川

源2つ。
一は大倉山の南より出、北に流るること28町これを大沢川(おほさはかわ)という。
一は大倉山の北より出、御坂川(みさかかわ)という。東に流るること12町、村より未(南南西)の方3町にて2水合し安座川となり、東に流れ丑寅(北東)に廻り北に転じ村中を経て牧村の界に入る。
2水合してよりここに至るまで20町。
この川に瀑布あり。高3間・幅1間、不動滝という。

沼2

一は堰根の南7町10間余にあり。周1町、オソノ沢沼という。
一は村より未申(南西)の方5町10間余にあり。周わずかに6間余・深量るべからず。土人これを大清水池という。この沼、沼沢村の沼と水脉*1相通じて冬夏水の増減を同じくする(ゆえ)夫婦沼と名くという。この沼に魚あり。その形チホヤに類し口尖れり。これを安座魚という。この沼と沼沢村の沼のみに生じて他より産することなし。これ昔の八蛇沼のあとなりという。

温泉

村より寅(東北東)の方5町にあり。
微温にして人浴することあたわず。

土産

榑木(くれき)

境内の山中及び小川荘の諸山に入り製して府下に出す。

関梁

橋2

一は村中にあり。長5間半・幅7尺、大橋という。
一は高橋といい、村より未(南南西)の方40間余にあり。長5間、丸木橋なり。
共に村中の通路安座川に架す。

水利

堤2

一は村東14町にあり。周1町50間。
一はその東に並ぶ。周2町。
共に年附沢堤(としつけさはつつみ)という。

神社

赤城神社

祭神 赤城神?
相殿 熊野宮
鎮座 不明
村より辰巳(南東)の方40間にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。

神職 二瓶大和

寶永の頃(1704年~1711年)にや、伊豆吉綱という者この社の神職となる。今の大和方義は7世の孫なりとぞ。

寺院

清昌寺

村中にあり。
曹洞宗大澤山と號す。越後国高田耕文寺の末寺なり。開基詳ならず。
天正19年(1591年)耕文寺より達傳という僧来り住す。その後真言・浄土の徒かわるがわる住せしが、寛文4年(1664年)全昨という曹洞の僧住してより相続いて今に至る。
本尊弥陀客殿に安ず。
また正観音あり。木佛立像、長1尺余。石川隼人某という者の守本尊なりという。天正中(1573年~1593年)この像をここに移せし時の文書なりとて今この村の肝煎石川久右衛門という者の家に伝う。縁起に載ざる所なれども本書のままに左に出す。
  證文
當村大澤山青松寺殿堂従中山此所引移天正十三酉年當寺二世與達代殿堂建立極故今寺移地蔵観音者古佛而石川隼人守本尊佛柵作ニ傳此寺墓所墳始ハ隼人孫實名主殿古證跡謂此人永正三卯九月十五日死右子孫久吾代地蔵観音ノ木像堂大破而天正五亥九月十五日移當寺領置故實證跡久吾ニ渡之可傳也
  天正十五年亥九月 大澤山青松寺 印
               與達

石塔

境内にあり。
高3尺、『青松院傳翁儀山居士永正三卯九月十三日』と彫付けあり(永正3年:1506年)。石川隼人某が孫主殿某という者の墓なりという。後人の建しものと見ゆ。

古蹟

端村水沢より戌亥(北西)の方40間にあり。
高1丈・周16間。
昔蛇骨を埋めし所なりとて蛇壇(しやだん)という。
土人伝て、昔空海百足虫を埋めし馬蚿塚ならんを誤てかく唱るも知るべからずという。

旧家

八之丞

その先詳ならず。
寛永の頃(1624年~1645年)二瓶七左衛門というものあり肝煎を勤む。
加藤家府城修築の時所々より大材を運送せしに、七左衛門人夫を催促し上條組橡堀村の山中より大木数多伐出し車峠・束松峠等の新道を闢き真先に到着せしかば、嘉明嘉恱の余り褒賞は望に任すべしとありしに「安座村は卑湿にて五穀の実り勝れず、また四山絶嶮にして薪樵の便あしく村民産業に苦めり。願わくは1村の人をして蒲原郡小川荘の諸山に伐採することを得さしめん」といいにぞ。嘉明その望に任せしより今に至てなお故の如し。
家系を失て七左衛門より今の八之丞に至までの世数詳ならず。
家に古文書を蔵む。如左(※略)。



鳥居峠

※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

現在の大山祇神社奥の院の西より台倉山・日向倉山の間を抜け安座川上流の方へ下る峠道のようです。果して道は残っているのかどうか。

八蛇沼の大蛇

西会津史に安座の大蛇の伝承が記載されていましたので引用します。
 野沢から4キロ、四方を岩山に囲まれた3つの集落が安座である。昔は周囲5~6里もあったかと思われる沼であった。これが八蛇沼という沼で、この沼には100尋(約180メートル)もある大蛇の主が住んでいたが、大蛇には沼沢沼の主である雌の大蛇との美しい恋があった。そして、八蛇沼の大蛇と沼沢沼の大蛇とは、互いに沼と沼に通ずる水路を通っては逢瀬を楽しんでいた。
 沼沢沼の主は時折、織りあげた美しい織物を八蛇沼へ向けて水路から流した。その織物が八蛇沼の水面に浮かび上がっているのを沼の近くの村人たりは見かけることがあったという。そうした沼の主たちの美しい恋の沼にある日のこと、思わぬ大異変が起こったのである。
 突然、大きな地鳴りとともに山の一角が崩れ、満々とたたえていた沼の水がまたたく間に引いていった。宝亀年間(770-780)に起こった大地震である。
 やがてすかりみずが引いた時、岩石に打たれた大蛇はのた打ちながら、干上がった沼の底にもがき苦しんでいた。沼沢沼から流れ出る水路の水も、わずかに沼の底を流れるにすぎなかったのである。そして、やがてカラカラに干上がった沼の底で大蛇はついに死んだ。この後間もなく、沼岡村の人達はつぢつぎと疫病にかかり、倒れ死ぬ者が多かった。ちょうどその折、妙法寺に足を止めていた弘法大師は、この話を伝え聞いて妙法寺から急ぎ八蛇沼に至り、3日間岩土の洞窟にこもって護摩を焚き、大蛇の骨を拾い集めて地中に封じ込め、塚を築いてこれを修めてからこの大蛇のたたりがやみ、疫病はなくなったという。
 弘法大師は、護摩を焚いた洞窟に1軒の堂を建て、己の木像を彫り、この堂に安置し「われこの地に末代安座するなり」といわれたことから、その後にこの沼岡村を改め、安座と呼ぶようになったという。
 関根のムラの前に沼沢沼に通じているといわれる1坪ぐらいの大清水があってごぼごぼ流れている底の知れない深さであったが、圃場*2整備のために今は小さな和泉となった。また大蛇が苦しみながら登って巻き付いたという尾多返山は、今は竜ヶ岳と改められ、大蛇の骨を埋めた大塚が村の後ろの木立の中にあるが、今は近づく人もいない。
参照:西会津史 P.583~584
最終更新:2021年07月27日 13:32
添付ファイル

*1 水脈の事

*2 圃場(ほじょう):農作物を栽培するための場所