もとは村より丑(北北東)の方6町にあり。慶長18年(1613年)今の地に移せり。
府城の西北に当り行程1里19町余。
家数64軒、東西1町40間・南北4町34間。
四方田圃にて西に鶴沼川あり。
越後街道駅所にて村中に官より令ぜらるる掟条目の制札あり。
河沼郡坂下組坂下村駅より1里16町3間北に継ぎここより府下に継ぐ。
村東に一里塚あり。
東3町24間
界沢村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り11町30間。
西3町26間余
坂下組塚原村の界に至る。その村まで25町。
南2町26間
神指村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り8町30間余。
北5町29間
河沼郡笈川組中目村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り9町40間余。
また
辰巳(南東)の方2町35間
横沼村の界に至る。その村まで7町30間。
この村に住せる郷頭風間久次という者の家に文禄(1593年~1596年)及び慶長中(1596年~1615年)の水帳と免目録と藏む。
山川
黒川(湯川)
俗に湯川という。下同。
村より寅(東北東)の方5町50間余にあり。
界沢村の境内より来り、北に流るること7町20間余
笈川組熊川村の界に入る。
広5間余。
水利
高久堰
郡署
代官所
村中にあり。
役人を置き本組及び
河沼郡青津組を支配せしむ。
本郡中荒井組中荒井村郡役所に隷す。
神社
八幡宮
祭神 |
八幡宮? |
相殿 |
伊勢宮 5座 |
|
稲荷神 4座 |
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熊野宮 4座 |
|
諏訪神 |
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鬼渡神 |
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照日神 |
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白山神 |
|
荒神 |
|
八幡宮 |
草創 |
寛治中(1087年~1094年) |
村東にあり。
縁起に源義家朝臣東征の後寛治中(1087年~1094年)の草創にて、初は社地も広く宮殿の構も巨宏にして寛永の頃(1624年~1645年)まで本社の南百歩計柳田という処に総門の遺趾ありしという。
また昔は流鏑馬の儀式ありしにや。今に社の西に馬場田の字残れり。天正巳丑の兵燹(1589年。伊達政宗との戦い)にあいて燒亡せしを、慶安の頃(1648年~1652年)里民相聚て再興せしより今に至る。古木陰森として神さひたり。
祭禮8月15、16日なり。14日前斎とす。15日神輿渡御の式あり。近村の男女あつまり稍繁栄なり。
鳥居:両柱の間6尺。
本社:6間に4尺5寸余、南向き。
幣殿:3間に2間。
拝殿:6間に2間半。
神職 黒沢縫殿之助
享保中(1716年~1736年)佐渡良興という者当社の神職となりき。
今の縫殿之助は6世の孫なりとぞ。
寺院
真徳寺
村中にあり。
高久山と號す。
耶麻郡川西組本寺村
恵日寺に末寺真言宗なり。
相伝う。弘安年中(1278年~1288年)の草創なりと。何人の開基ということを詳にせず。もと弘安寺という。
元和中(1615年~1624年)蒲生忠郷鷹狩に出しが、この寺に
過り暫く酒宴の興を催せり。時の住持を盛真朴淳なりければ、忠郷戯れて今より後弘安を改て真篤とせよと云いしより、世の人いつとなく真篤寺と称せり。その後篤を徳に作り遂に今の名に改めしとぞ。
本尊不動客殿に安ず。
地蔵堂
客殿の南にあり。
古蹟
堂屋敷
村南1町余にある
田圃の字なり。
往古神指村に「いたみ堂」とて大伽藍あり。この邊もその境内なる
故この名遺りしにや。
(
神指村の条下と照らし見るべし)
最終更新:2020年03月04日 04:23