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会津郡高久組高久村

陸奥国 会津郡 高久組 高久(たかく)
大日本地誌大系第31巻 26コマ目

もとは村より丑(北北東)の方6町にあり。慶長18年(1613年)今の地に移せり。

府城の西北に当り行程1里19町余。
家数64軒、東西1町40間・南北4町34間、四方田圃(たんぼ)にて西に鶴沼川あり。

越後街道駅所にて、村中に官より令ぜらるる掟条目の制札あり。
河沼郡坂下組坂下村駅より1里16町3間北に継ぎここより府下に継ぐ。

村東に一里塚あり。

東3町24間界沢村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り11町30間。
西3町26間余坂下組塚原村の界に至る。その村まで25町。
南2町26間神指村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り8町30間余。
北5町29間河沼郡笈川組中目村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り9町40間余。
また
辰巳(南東)の方2町35間横沼村の界に至る。その村まで7町30間。

この村に住せる郷頭風間久次という者の家に文禄(1593年~1596年)及び慶長中(1596年~1615年)の水帳と免目録と藏む。

山川

黒川(湯川)

俗に湯川という。下同。
村より寅(東北東)の方5町50間余にあり。
界沢村の境内より来り、北に流るること7町20間余笈川組熊川村の界に入る。
広5間余。

水利

高久堰

神指村の方より来り田地を潤し中目村の方に注ぐ。

郡署

代官所

村中にあり。
役人を置き本組及び河沼郡青津組を支配せしむ。
本郡中荒井組中荒井村郡役所に隷す。

倉廩

米倉3屋

村中にあり。
一屋は社倉なり
二屋は本組の米を納む。

神社

八幡宮

祭神 八幡宮?
相殿 伊勢宮 5座
稲荷神 4座
熊野宮 4座
諏訪神
鬼渡神
照日神
白山神
荒神
八幡宮
草創 寛治中(1087年~1094年)
村東にあり。

縁起に、源義家朝臣東征*1の後寛治中(1087年~1094年)の草創にて、初は社地も広く宮殿の構も巨宏にして寛永の頃(1624年~1645年)まで本社の南百歩計柳田という処に総門の遺趾ありしという。
また昔は流鏑馬の儀式ありしにや。今に社の西に馬場田の字残れり。
天正巳丑の兵燹(へいせん)(1589年。伊達政宗との戦い)にあいて燒亡(しょうぼう)せしを、慶安の頃(1648年~1652年)里民相聚て再興せしより今に至る。古木陰森(いんしん)として神さひたり。
祭禮8月15、16日なり。14日前斎とす。15日神輿渡御の式あり。近村の男女あつまり(やや)繁栄なり。

鳥居
両柱の間6尺。
本社
6間に4尺5寸余、南向き。
幣殿
3間に2間。
拝殿
6間に2間半。

神職 黒沢縫殿之助

享保中(1716年~1736年)佐渡良興という者当社の神職となりき。
今の縫殿之助は6世の孫なりとぞ。

寺院

真徳寺

村中にあり。
高久山と號す。耶麻郡川西組本寺村恵日寺に末寺真言宗なり。
相伝う、弘安年中(1278年~1288年)の草創なりと。何人の開基ということを詳にせず。もと弘安寺という。
元和中(1615年~1624年)蒲生忠郷鷹狩に出しが、この寺に(よぎ)り暫く酒宴の興を催せり。時の住持を盛真朴淳なりければ、忠郷戯れて今より後弘安を改て真篤とせよと云いしより、世の人いつとなく真篤寺と称せり。その後篤を徳に作り遂に今の名に改めしとぞ。
本尊不動客殿に安ず。

地蔵堂

客殿の南にあり。

古蹟

堂屋敷

村南1町余にある田圃(たんぼ)の字なり。
往古神指村に「いたみ堂」とて大伽藍あり。この邊もその境内なる(ゆえ)この名遺りしにや。
神指村の条下と照らし見るべし)


外部リンク等


村名について

幕末まで(1868年)、会津郡高久村
明治22年(1889年)、高瀬村・黒川村・南四合村・中四合村・北四合村・高久村が合併し神指村となる。
明治32年(1899年)、若松町が市制施行して若松市となり郡より離脱。
昭和30年(1955年)、門田村・湊村・一箕村・高野村・神指村・大戸村・東山村が若松市に編入し市名を会津若松市に変更。
最終更新:2025年12月02日 22:25

*1 後三年の役:永保3年(1083年)~寛治元年(1087年)