会津郡高久組小見村

陸奥国 会津郡 高久組 小見(おみ)
大日本地誌大系第31巻 30コマ目

もとは村より申酉(西南西~西の間)の方1町にあり。何の頃にか今の地に移しき。

府城の北西に当り行程27町。
家数22軒、東西1町20間・南北1町30間。
四方田圃(たんぼ)にて西は筒沼川に近し。

東1町40間天満村の界に至る。その村まで3町。
西4町本郡中荒井組蟹川村の界に至る。その村まで13町。
南2町12間西柳原村の界に至る。その村は辰巳に当り12町40間。
北4町如来堂村の界に至る。その村まで4町50間。

山川

鶴沼川

蟹川村の境内より来り北に流るること2町余また蟹川村の界に至る。

土産

煙草

気味強からずして殊に佳なり。

水利

小見堰

鍛冶屋敷村の方より来り田地を潤し如来堂村の方に注ぐ。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 伊勢宮
   明神
   若宮八幡
鎮座 不明
村中にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。

古蹟

村南2町10間にあり。
高9尺方4間。字を「壇のうら」と唱ふ。
ここより東1町計に(天満村の境内なり)珠数塚石佛という処あり。相伝て、昔阿弥陀寺という浄土宗寺ありし処という。今枯骨(ここつ)*1の如きもの或は金滓子を掘得することありとぞ。




蛇足:花春酒造
檀のうらがあった場所(?)には今は花春酒造の工場があります。
花春酒造の創業は享保3年(1718年)で、新編会津風土記の編纂時期より古いです。
会社のHPから一部引用
  • 享保3年(1718年) 大内氏の子孫で弊社の創業者の宮森久右衛門は、鶴ヶ城外堀東門天寧寺口に酒造業を興し、屋号を「井筒屋」、酒銘を「天正宗」と致しました。
  • 天明8年(1788年) 会津藩家老 田中玄宰による藩政改革で殖産興業が奨励され、会津の伝統産業の礎が築かれました。酒の醸造方法も改良がなされて、より良質の酒が造られると、会津が酒どころとして知られていきました。
  • 慶応4年(1868年) 鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発、京都守護職を務めた会津藩主 松平容保を討たんと新政府軍が押し寄せ、会津領内も戦場となりました。城下は炎に包まれ、井筒屋も焼失してしまいました。
人々が敗戦と戦禍に打ちひしがれる中、五代目井筒屋久右衛門はいち早く蔵を再建し酒造に着手、人々の心に「花のような明るさと、春のような和やかさ」を取り戻すべく、酒銘を、漢詩「花開酒国春」にちなみ「花春」と改めました。

元は天寧寺町(現花春町)にあり、現在の場所に移転したのは平成17年(2005年)になってからです。

最終更新:2020年03月05日 06:55

*1 死人の朽ち果てた骨。