会津郡橋爪組上米塚村

陸奥国 会津郡 橋爪組 上米塚(かみよねつか)
大日本地誌大系第31巻 48コマ目

この村至徳の頃(1384年~1387年)葦名直盛高久組幕内村に住せしとき米倉ありし処ゆえ米塚と名け、中頃米丘と書きしこともあり。同称の村あるゆえ上下の字を加えしという。

府城の西南に当り行程1里。
家数34軒、東西2町44間・南北47間。
四方田圃(たんぼ)なり。
村中に下野街道あり。

東3町38間本郡南青木組飯寺村に界ひ鶴沼川を限りとす。その村は丑寅(北東)に当り14町30間余。
西3町・北3町、共に下小松村の界に至る。その村は酉戌(西~西北西の間)に当り11町30間。
南8町大沼郡本組本郷村の界に至る。その村は未申(南西)に当り6町余。
また未(南南西)の方2町上荒井新田村の界に至る。その村まで2町10間余。

端村

出新田(でしんでん)

本村の南50間余にあり。
家数18軒、東西42間・南北2町30間。
四方田圃にて村中に下野街道あり。
寛永3年(1626年)に開く。その時蒲生氏より与えし制札をこの村に持伝う。その文を載す。旧はこの村より東の方鶴沼川の傍にあり、何の頃にかここに移せし
とぞ。
    定
大沼郡小松村に新田宿相立候 御代官給人共に構無之者 望次第罷出開作可仕候 幷廿ヶ月以前に至欠落候者屋燒人殺仕者外は 御代官給人構雖在之罷出於令開作は異義有間敷候 御年貢之儀三年作取に被下候 御役義末代可被成御用捨候條可存其意者候也
  寛永三年二月廿四日   外池信濃守
              福西吉左衛門
              稻田数馬之助

宗頥町(そういまち)

葦名盛氏本郷村の向羽黒山に城を築き、元亀元年(1570年)ここに町を開き、医師糟尾宗頥という者を置きし(ゆえ)この名あり。
本村の巳午(南南東~南の間)の方5町10間余にあり。
家数20軒、東西53間・南北1町20間。
四方田圃に東は鶴沼川に近し。
(宗頥がこと滝沢組滝沢村の条下を併見るべし)

山川

鶴沼川

俗に大川という。
村東30間余にあり。
本郷村の境内より来り北に流るること20町余、飯寺村の界に入る。

関梁

船渡場

村東にて鶴沼川を渡す。
府下より下野国に通る街道なり。
冬月は橋を架す。

水利

思鑿堰(おもひほりせき)

本郷村の方より来り田地の養水とし下小松村の方に注ぐ。

寺院

泉現寺

村の西南にあり。
浄土宗府下徒町願成就寺の末寺なり。開基詳ならず。
天正年中(1573年~1593年)普門という僧住して白米山泉現寺と號す。
本尊弥陀客殿に安ず。

地蔵堂

境内にあり。
地蔵、長2尺8寸。
糟尾宗頥が守本尊なりという。
旧端村宗頥町にあり何れの頃にかここに移せりという。


最終更新:2020年03月09日 14:27