会津郡橋爪組下小松村

陸奥国 会津郡 橋爪組 下小松(しもこまつ)
大日本地誌大系第31巻 53コマ目

府城の西南に当り行程1里15町。
家数47軒、東西2町43間・南北3町10間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東7町34間本郡南青木組飯寺村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り16町。
西5町59間新在家村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り7町20間余。
南1町50間上荒井村の界に至る。その村は未(南南西)に当り8町20間余。
北6町10間柏原村の界に至る。その村まで8町40間。
また巳(南南東)の方8町2間上米塚村の界に至る。その村まで11町30間。
申(西南西)の方5町20間金屋村の界に至る。その村まで10町30間余。
丑寅(北東)の方3町32間両堂村の界に至る。その村まで4町30間。

小名

四壇(よだん)

本村より丑寅(北東)の方3町20間余にあり。
家数8軒、東西20間・南北1町15間。
四方田圃なり。
寛政10年(1798年)に闢く。
昔ここに壇8ありしゆえ字を八壇といい、いまその4を遺せるにより名くという。
路傍の壇上に松樹あり枝葉繁陰して数歩を庇う。極めて古木なり。

端村

松野(まつの)

本村より亥(北北西)の方6町20間余にあり。
家数10軒、東西1町14間・南北1町46間。
四方田圃なり。

水利

思鑿堰

上米塚村の方より来り田地の養水となり両堂村の方に注ぐ。

神社

感應神社

祭神 感應神?
鎮座 不明
村より丑寅の方5町計にあり。
旧は社頭も巨宏なりしとて拝殿の旧礎今に残れり。
幣殿拝殿あり。

別当 覚法院

本山派の修験なり。その先を景莫という。現住丈應は12世の孫なりとぞ。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
鎮座 不明
村中館跡にあり。
村民の持なり。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
鎮座 不明
端村松野にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

常徳寺

村中館跡にあり。
東湯山と號す。北青木村恵倫寺の末山曹洞宗なり。
開基詳ならず。天正年中(1573年~1593年)峯瑞という僧中興す。
古き位牌2あり。一は嶺松院秀巖盛公大禅門と記し、一は帰眞秀岩盛公大禅門霊之位と記せり。何人と云うことを伝えず。

五輪

2基。境内にあり。
共に高2尺3寸。その制近代のものにあらず。由ある人の墓と見ゆるれども文字なければ知る能わず。
また村民の宅中に1基の五輪あり。高2尺余。これも古代の物と見ゆれども文字なし。土人相伝て小松殿の墓という。小松弾正包家が墓なるにや(館跡の条下と照し見るべし)。

古蹟

館跡3

一は村中にあり。
本丸趾、30間四方。
二丸趾、28間四方。
三丸趾、東西26間・南北16間。
延文の頃(1356年~1361年)小松弾正堤家築けりという。
その後平田総右衛門(諱を失う)という者住し、天正の頃(1573年~1593年)松本源兵衛(諱と伝えず)居しといい伝う。
土居堀回れり。

一派村より丑寅(北東)の方1町30間にあり。
東西30間・南北40間。今田圃となり。土居の形遺れり。
何人の住せしにか詳ならず。

一は村西にあり。
1町余四方。土居の形遺れり。
いつの頃にか佐々木鴨之助某というもの住せしとて、土人鴨之助館と唱ふ。



最終更新:2020年03月10日 20:41