会津郡南青木組小田村

陸奥国 会津郡 南青木組 小田(おた)
大日本地誌大系第31巻 56コマ目

この村、中頃寶積寺村と称す。寛文中(1661年~1673年)旧名に復す。

府城の東南に当り行程21町余。
家数16軒、東西2町8間・南北1町34間。
東南は山に倚り西北は田圃(たんぼ)なり。

東11町20間天寧村に隣りその村際を限りとす。
西5町10間深東黒川南町分の地に界ふ。
南28間北青木村の界に至る。その村まで3町20間余。
北1町20間東黒川千石町分に界ひ黒川を限りとす。

村東2町余に塩硝蔵2屋あり。火薬及び塩硝を納む。
ここより未申(南西)の方1町余に番所あり。

山川

化物沢(ばけものさわ)

村より辰(東南東)の方10町余にあり。
昔狸ここに住て人を(たら)せし(ゆえ)に名けりという。

黒川

俗に湯川(ゆかわ)という。下同。
村北1町20間にあり。
院内村の境内より来り、西に流るること10町余、千石町分の地に注ぐ。
広17間余。

土産

松蕈

村東の山中に産す。

神社

麓山神社

祭神 麓山神?
相殿 山神
   日月神
   稲荷神
鎮座 不明
村東21町余山上にあり。
鳥居あり。東黒川蚕養宮村佐瀬大隅が司なり。

寺院

寶積寺

村中にあり。
寶積寺

薬師堂

村中にあり。
草創の年代詳ならず。
寶積寺司る。

墳墓

葦名修理大夫盛氏墓

村東3町余にあり。
塋城、東西26間・南北16間。四方に3尺計の土居を囘らし、その中に塚2あり。東を盛氏の墓とし、西を盛隆の墓と巣。共に五輪を建つ。古木ありて物ふりたる所なり。
盛氏は遠江守盛舜の子にて英武の聞あり。善く人を擇用い武威を四隣に耀かし、永禄の頃(1558年~1570年)に至り仙道の諸将までも(ことごと)く従えり。葦名の盛なるこの時を第一とす。或は越後謙信の所領と浸し、或は岩城佐竹の邊へ度々討入りかども、会津に矢一筋も射る者なかりしという。北条氏康・武田信玄も折に付て音信を通じ好を結びけり。永禄4年(1561年)向羽黒山(大沼郡橋爪組本郷村)に城を築き嫡子盛興に家督を譲り隠居して止々斎と號せしが、盛興早世せしに因り再び黒川に帰住して政務を沙汰せり。天正8年(1580年)6月17日行年60歳にて没しここに葬る。瑞雲院殿竹岩宗関大庵主と諡す。今に(おこり)を患う者ここに祈れば験ありという(村老の説に昔碑を建てんとて巨石を2度まで引付しにその居士裂て建ることを得ず。霊の受ざる処なるべしとて止しといい伝う)。この墓及び盛隆の墓は、府下天寧寺町宗英寺の守れる所なり。文化2年(1805年)長く洒掃(さいそう)のことを司り怠るまじき(よし)寺僧に命じ年々白銀を付す。また四家合考に北条氏・武田氏より家臣に贈りし書簡の文を載す。今その1、2を左に録す(※略)。
(相伝う。盛俊の時葦名伊達確執の事あり。伊達より勝負沢上人という僧を使して和を請しに四天の宿老共許さざりしかばこの僧本意無く帰り、路すがら四天の輩の振舞を無念に思い我後身は会津の守りとなり四天の輩を恐れしめんとて、檜原峠より会津の方を(しばしば)顧望して去りしが伊達帰て幾程なく終れり。その頃廻国の白拍子会津に来り盛舜の寵愛深かりしに、或夜の夢に1僧あらわれ汝が胎内をからんといい遂に懐孕して家臣富田に預けけるに、富田もこれよりさき1僧来りしが彼の女の腹を借て汝が許に託せんと夢みしという。その後月足て男子生る。盛氏これなり。人々この夢の事を聞いて奇異の思をなしけるに、果して彼の僧の言葉に違はざりしにや。器宇(きう)人に勝れし英将なりしかば、さしも強大なりし四天の輩も膝を屈めてその威を畏れあへりとぞ。怪談なれども世に伝るに任せてこれを載す)

葦名三浦介盛隆墓

盛氏の墓の西にあり。
上に五輪を建つ。
盛氏実は須賀川の二階堂遠江守盛義の子なり。盛氏の子盛興早世せしに因り、その後室に配し盛氏の家督を嗣しむ。天正9年(1581年)三浦介に任ぜらる。同12年(1584年)10月6日嬖臣(へいしん)大庭三左衛門某に弑せらる。行年24歳という(大庭が事飯寺村の条下に出す)。瑞泉院蘭室永賀大居士と諡す。
またこの西北に2の塚あり。盛興及び亀王丸の墓の(よし)いい伝れども何れをそれと知難し。




※村東21町といったら羽黒山神社まで行ってしまうんですが…