大沼郡高田組雀林村

陸奥国 大沼郡 高田組 雀林(すすめはやし)
大日本地誌大系第33巻 20コマ目

この村の西に林あり雀林という。因て名とす。中頃法用寺村といいしが、寛文中(1661年~1673年)旧名に復す。

府城の西に当り行程2里18町。
家数96軒、東西2町13間・南北3町58間。
西は山に()ひ三方田圃(たんぼ)なり。

東10町11間寺崎村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り14町20間余。
西16町逆瀬川村の山に界ふ。
南3町23間永井野組八木沢村の界に至る。その村まで5町30間余。
北2町米沢村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り5町余。
また寅(東北東)の方9町25間檜目村にと隣りその村際を界とす。

山川

古方沼(ふるかたぬま)

村より20町余申(西南西)の方山中にあり。
この村及び八木沢村の境内なり。
東西2町30間・南北1町。
また3町計北に蓋沼というあり。この所もと数頃の凹池なりしが、何れの頃にか古方沼春水の溢れし時水湛て、一夜の中にこの沼となるとぞ。水草一面に浮かび蓋の如し故に名く。今に水に随て浮沈す。古方沼はこの沼を産するとて雌沼という。因て蓋沼は雄沼と称す。その周20町余。
明暦元年(1655年)土居を築て用水の備とす。
また旱歳に雨を祈れば験ありという。

土産

氷餅

法用寺の境内に春屋とて1屋を構えこれらを製す。
その製糯の新に熟する者を択び冬月に精け、厳寒の節に至て白餅に製し熱湯に和し、能黏するに及で箱に入れて氷らしめ、裁て数片となし藁に編て再風雪に曝し、春月温風やや至るに及で氷餅となる。その質束針の如く色極て清白なり。
同寺の中に倉3屋を構えてこれを納る所とす。
昔は法用寺より禁廷に貢せしという。
今、毎年府より江戸に貢す。

煙草

この村多く種て産業の資とす。
気味やはらかなり。

水利

堀抜堰

村西17町坊沢(はうかさは)という処より3町50間山腰を堀抜き、古方沼の下流と坊沢堤の水を通し、山中を流れ前坂提に入り下流を田地の養水とす。
享保3年(1718年)に築く。

堤2

一は村西1町30間にあり。
前坂堤(まへさかつつみ)という。
東西40間余・南北20間余。
慶安年中(1648年~1652年)築く。
一は村西17町にあり。
坊沢堤という。
東西18間・南北42間。
寛政2年(1790年)に築く。

神社

麓山神社

祭神 麓山神?
草創 不明
村より4町50間余申(西南西)の方山上にあり。
鳥居拝殿あり。高田村渡邊伊予が司なり。

龍像神社

祭神 五龍王神
草創 不明
村西山上にあり。
鳥居拝殿あり。
法用寺これを司る。

寺院

観音堂

※国立公文書館『新編会津風土記75』より

村西山麓にあり。
縁起にを按ずるに、養老4年(720年)得道この堂を建立し十一面観音を安置すという。
昔この像材、雷雨の後洪水ありて近江国高島郡三尾崎に流れ出る。その時(にわか)に疫癘行しに因り、所の者その祟を畏れ大和国葛下郡神河浦に移す。時に出雲大満という者この霊材を見て大願を発し、この木にて十一面の像を造らば定て利益多からんとて縄を繋でこれを牽きしに、思いの外軽々と漂動して大和国城下郡当麻郷に至る。然れどもいまだ因縁や至らざりけん、彫刻すべき資力なくして大満も世を辞しぬ。その後80余年を過ぎて疫癘また起りしにより、所の者共その祟を畏れこの木を引て長谷の川上に至る。それより30余年を経て得道出、この木を長谷の峰頂に移し藤原房前公の執奏により官祖を賜り、稽文會稽主勳という佛工に仰て1木3體の霊像を刻めり。時に供養の導師は菩提にして、開眼導師は行基なりしとぞ。因てこの堂を建立し本木の霊像を安置し中身の霊像を大和の長谷寺に勧請し木末の霊像を讃岐国志渡寺に安置せしという。
元亨釈書には長谷寺観音の事のみにてこの堂と志渡寺の事見えず。
その後80余年を経て大同年中(806年~810年)に得溢ここに於て修法すること多年、勅を受て33神の霊像を刻しここに勧請す。これより4民の帰依益多くして三重塔二王門33坊舎一時に功成りしという。
霊像は今に(つつが)なく霊験多しとぞ。
法用寺これを司る。

二王門

3間に2間。
左右に力士の像あり。極めて古物と見ゆ。各長7尺余。
堂舎みな新なれども、この門のみ昔の儘にて今に存すという。
柱梁朽損し、その製(すこぶる)古れり。

鐘楼

二王門を入り石階を升て道の右にあり。
2間四面。
鐘、径2尺1寸。銘あり。その文如左
 於奥州會津大沼郡
 法用寺奉鑄鐘一口
  大旦那平朝臣盛□
 別當法印権大僧都儼海比丘
  本願聖人長岡先達頼圓
        小聖智□
 大工越後国蒲原郡大崎住
          妙實
 火玉大工相合奉鑄也
文明六年甲午六月廿一日
      諸旦那等敬白
※文明6年:1474年
舊事雑考に平朝臣盛之とあり。今「之」の字見えず。
また小聖智範とあれども「範」の字詳に弁じ難し。

本堂

7間四面、東向。
1木3體の十一面観音を安置す。即稽文會稽主勳が作という。
会津三十三所順禮の一なり。
外に前立・脇立・八大童子守護の番属及び三十三身と得道の像を安ず。
三十三身は得溢の作という。
厨子の戸板に朱書あり。その文如左
佛且塗旦那梁田住仁 源性珠禪尼 葦田輔行次郎衛門 延徳二年庚戌三月吉日 別當長満敬白 令法久住利益人天故也

虎尾桜(とらのをさくら)

本堂の前にあり。
古木にして枝葉数歩の外に庇い、春月には花香寺境に満ち、希代の佳観なるゆえ花を賞する者多くここに集まれり。

弁天石

本堂の北にあり。
高4尺計。
昔徳溢ある夜の夢に天女天降りこの花の下にたたずむと見る。夢覚て怪しく思い晨*1を待て花下に至り見れば1の奇石あり。因て弁天石と名く。婦人の子なき者、或は子育てなき者この石に祈て験ありとぞ。

三重塔

本堂の南にあり。
高9丈余、二間半四面、東向。
本尊釈迦、脇建て文珠・普賢。
もと大同3年(808年)徳溢の建立にて安永の頃(1772年~1781年)までありしが、頽破(たいは)に及びし(ゆえ)別当亮椿再建し同9年(1780年)に造畢(ぞうひつ)*2す。

法用寺

観音堂の南にあり。
山號を雷電山という。
養老4年(720年)得道当寺を創造し十一面観音を安置すという(即上の観音堂これなり)。
昔は左計の大利にて寺領もまた少なからず。葦名盛舜の頃までなお盛なりしに世の乱に因り次第に衰えぬ。されども天正の頃までは(1573年~1593年)坊舎なお16ありしが、文禄(1593年~1596年)に至り残らず退転し、今わずかに2宇を遺せり。
上野国世良田長楽寺の末山天台宗なり。

制札

官御動にゆく道の右にあり。

客殿

9間半に5間、東向。
本尊弥陀。
ここより4間に1間半の廊下ありて庫裏に通す。
また客殿の前に四建門あり。

庫裏

11間半に5間。

地蔵堂

客殿の北にあり。
中古退転し地蔵は客殿に安置す。
正徳年中(1711年~1716年)住持教海霊夢を蒙り、日光山大悲院より別に地蔵を勧請しこの堂を建つ。
孕婦安産を祈て験ありとて、いつとなく子安地蔵をいう。
鉄の鉢あり。径1尺9寸5分。銘文如左。
法用寺 鉢常住 大旦那
新國又七 長谷川 四郎衛門
大工彦次 卓山次郎左衛門 
永正八天辛未十一月一日

喜見院

当寺の衆徒なり。
今は廃す。

大乗院

同上

寶物

不動画像 2幅。
1幅は慈覚筆といい、1幅は慈眼筆という。
縁起 1軸。
観音堂本尊彫刻の銘より当寺草創までのさまを図し、その事を上に注す。
書・画共に拙けれども古代の物と見ゆ。
裏書あり。その文如左。
天正巳丑年 伊達政宗打入 彼縁起亂物ニ申 白河ヘ罷越候 惠日寺ノ住物成上ニ申乞請申候得者 法用寺之住物ニ御座候 右為末代之新寄進ニ皈令進候ウラ打イタシ申候
文禄癸巳二年壬九月吉日
惠日寺   法印玄弘(花押)
古文書 3通。
その文如左(※略)
番板 1枚。
2尺に8寸計。
そお墨痕年を経て消滅せんことを恐れ近年住持これを彫刻せしむ。
その文如左(※略)


最終更新:2023年03月17日 15:03
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