府城の西南に当り行程3里20町。
家数16軒、東西3町・南北1町、金山郷に通る道に住す。
西は山に倚り三方田圃なり。
東1町4間余
冑村の界に至る。その村は南に当り4町。
西7町30間
菅沼村の山界に至る。その村まで1里。
南は村際にて
冑村に界ふ。
北4町54間余
松岸村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り6町40間余。
また
寅(東北東)の方1町25間余
仁王・
堀内両村の界に至る。仁王村まで3町20間、堀内村まで3町40間。
旧松倉という端村あり。寶暦12年(1762年)より
観音村に属す。
水利
堤
村より戌亥(北西)の方1町にあり。
周140間計。
本村及び
仁王村・
堀内村の田地の養水とす。
倉廩
米倉
村中にあり。本村の米を納む。
神社
八幡宮
村西30間山麓にあり。
石鳥居幣殿拝殿あり。
仁王村高橋相模これを司る。
末社 幸神社
境内にあり。
寺院
龍淵寺
村東にあり。
大永の頃(1521年~1528年)邑主坂内参河という者創立し、曹洞の徒圓清という僧を開山とす。
山號を峯小山という。
尾岐窪村龍門寺の末山曹洞宗なり。
客殿に本尊大日を安ず。
墳墓
五輪 2基
共に村北にあり。
高5尺計。各台石に法名を彫れり。
坂内参河夫婦の墓といい伝う。
旧家
五郎三郎
世々この村の名主なり。
先祖を坂内参河憲政といい葦名家に仕えてこの村を領せり。
憲政が子左馬丞憲勝が時、葦名家亡て所領を喪えり。
子孫分れて高田組高田村に住する者あり。
憲勝より7世相継で今に至るという。
- 大岩道 - 仁王から金山郷に通る道(狭間峠までの道)について記載
- Google Map
- 参照
村名について
小山の名は、『会津高田誌』によると小山朝明が逃れてきてここに住んだとも、また集落が小丘になっているからとも言われるが定かではな。明治八年の合併で吉田村となる。宝暦十二年より観音村に属することになった松倉は、かつては小山の端村であった。
八幡神社
村西奥に八幡神社がある。延元元年(1336)、北畠顕家家臣諌見次郎惟直が、足利軍追撃のための募兵の為に来村して、山城国男山八幡神社から分霊勧請した。応永年間に村民社田若干を寄進した。いつしか衰微したが、天正年間に坂内参河が再建して現在に続いている。境内には幸神社も祀られてある。祭礼は四月一日で、一時は出店がでるほどの賑いを見せたこともあった。この八幡神社は子供好きであるといわれ、拝殿の戸は閉められることはない。この戸を閉めると村の人に災いがあるとも言われ、真冬でさえも開けられたままである。
龍淵寺
村東に峯小山(後、小峯山)龍淵寺があった。『新編会津風土記』によると、大永の頃(1521~)の坂内参河守が創立し、曹洞宗の徒圓清が開山したとある。本尊は大日如来で、坂内家が権威盛んな頃は寺も栄えたがその後衰えた。昭和に入って火災に遭い、今は観音堂が建つのみである。観音堂には、子安観音が祀られており、遠方よりの参拝者もある。観音講のご詠歌はもとより、安産祈願のご詠歌も村の主婦によって行われている。神社が子供の遊び場だったのに対し、観音堂前の広場は球場的な場として用いられ、昭和五十年頃までは草野球などに興じる子供の声が聞かれたが、今は草におおわれ閑散としている。広場には約60kgもある丸みがかった石が今でも置かれてあるが、この石を担ぐことができたものは一人前の青年と村人から認められたという。
余談
最終更新:2025年08月13日 22:50