この村、旧仁王寺村といいしに、寛文中(1661年~1673年)より寺の字を省けり。
府城の西南に当り行程3里17町。
家数13軒、東西3町15間・南北1町10間。
東南は宮川に近く、北は府下より金山郷に通る道を隔て
堀内村に隣り、三方
田圃なり。
東2町
上杉原村に界ひ宮川を限りとす。その村まで12町40間。
西1町54間
小山村の界に至る。その村まで3町20間。
南1町43間
尾岐窪村の界に至る。その村まで5町40間。
また
丑(北北東)の方村際にて
松岸村に界ふ。その村まで10間余。
未申(南西)の方1町15間
冑村の界に至る。その村まで7町30間。
山川
宮川
村南1町10間余にあり。
冑村の境内より来り、丑寅(北東)の方に流るること7町
松岸村の界に入る。
関梁
高橋
村東2町にあり。
長14間・幅1間半、勾欄あり。宮川に架す。
府下より金山郷に通る道なり。
水利
三貫堰
冑村の方より来り、田地の養水となり
松岸村の方に注ぐ。
倉廩
米倉
村中にあり。本村の米を納む。
神社
稲荷神社
村東舟岡山という丘の上にあり。
尾岐郷の総鎮守にて毎年8月12日・13日祭禮あり。
相伝て。この神の神獣に白狐あり、尾分れて2岐となる。故に郷名もこれに因るという。
その地宮川の北岸にありて舟を覆せる形に似たり。因てこの名ありとぞ。
喬木数株繁陰し、眼下に清流漲り高橋これに横はれり。東北の方府城及び居平の村落を望み、風景愛すべし。
石鳥居
両柱の間2丈。
随神門
3間に2間。
本社
1間四面。北向。
幣殿
2間に1間半。
拝殿
5間半に2間半。
神職 高橋相模
先祖は民彌冨壽とて𣴎應の頃(承応:1652年~1655年)当社の神職となる。今の相模冨直は6世の孫なり。
稲荷神社
村南1町にあり。
草創の初詳ならず。
鳥居あり。仁王寺司なり。
寺院
仁王寺
村中にあり。
上野国世良田長楽寺の末山天台宗なり。
縁起に拠るに、大同2年(807年)得溢の開基にて、造営の始め西尾岐の深山より材木を運びしに、その牛化して石となる。因て山號を牛伏山と称す呂いう。牛石とて今に門前前田圃の中に存せり。
本堂
4間四面、庇縁あり、南向き。
薬師の像を安ず。当寺往古よりの本尊にて秘佛なり。
毎歳元三に仁王経・薬師経を
読誦し国土安穏を祈る。
また十二神将・各長1尺9寸5分、及び力士の像を安ず。各長7尺。みな古物なり(
舊事雑考に薬師及び十二神将の像は徳溢が作なりという)。
客殿
9間に6間、南向き。
本尊弥陀。
庫裏
10間に4間。
鐘楼
客殿の辰巳(南東)の方にあり。
鐘、径2尺1寸。『享保二丁酉稔八月二十五日當院四十四代現住法印竪者辨亮願主冑邑金田権右衛門等勝』と彫付けあり(享保2年:1717年)。
銘あれども煩しければ略す。
寶物
古文書 3通。
2通は寺領寄付の状。
1通は巻数を朝に献せし時賜はりし伝馬證文なり。
その文左に録す。
(※略)
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- 仁王 堀ノ内 - 会津高田町史 第5巻(各論編 1)
村名の起こり
大同二年(807)の頃、会津入りした僧徳一が、この地に疫病が流行して苦悩する人が多いことを聞き、薬師像を彫刻してこの地に祀り、平癒を祈願して仁王寺を建立したことが、仁王村の起こりといわれる。
三貫堰について
水利は、冑村東の宮川にある三貫堰から揚げた。宮川の流れは急流で、止めるのに困難であったため、毎年の堰上げには、藩から青銅が年三貫文ずつ100年間交付されたという。また、この堰の名もこれに由来する。
船岡稲荷
村東には船岡山と呼ばれる丘陵がある。古墳にも似ているが断定しがたく、宮川の浸蝕と関係が深いと思われる。ここに船岡稲荷が奉祀されている。鎮座の年月ははっきりしないが、宇迦之御魂命・猿田比古命・大宮比売命が合祀されている。かつての尾岐郷三組(東尾岐組・永井野組・冑組)の総鎮守で、大沼郡内南山御蔵入村々の祈祷所であった。なお、南会津の村々は、田島の田出宇賀神社が庶民信仰の中心であった。
この地は全形が船を覆した形に似ているので船岡山と称され、神が遷座の折り石舟で降り立ったという伝説がありその舟石がある。山上にはお茶屋跡があり、藩主が参拝に来た時休息に用いたと伝えられる。
弘安十年銘石票
村西道端に弘安十年(1287)銘の町文化財指定の「弘安十年銘石票」(石造供養塔)がある。キリークが彫られその下に
蓮台が見られることから、鎌倉時代の関東系武士か豪族の戦死者、または先祖の供養に建てられたものといわれる。それが後に「右大岩道二十六丁十五間・左谷ヶ地道(以下摩滅)」と刻まれ、道標としてこの地に建てられたと思われる。
この道標が示す左谷ヶ地道は博士峠に通じ、金山郷(野尻谷・金山谷・川口谷)と尾岐郷、高田を結ぶ重要な道路であるとともに、南山御蔵入領(東部の永井野組・冑組・東尾岐組)であった折には、南会津に通ずる重要な道路であった。また、右大岩道は、小山・大岩を通り明神ヶ岳裾の狭間峠を経て柳津町の九々明・四ツ谷・砂子原・滝谷へ、さらに金山郷へと通じる道路である。
- 谷ヶ地道
- 概ね現在の国道401号線で博士峠に向かう道。
- おそらくは下谷地村を通るルートという意味ではないか? なお、下谷地村は新宮川ダム建設により水没している。
- 大岩道
最終更新:2025年08月14日 17:24