府城の西南に当り行程6里6町。
家居8軒、東西50間・南北1町、山間に住し東に川を擁す。
木地小屋
土倉
本村より申(西南西)の方1里にあり。
家数15軒、東西35間・南北1町10間。
深山の間に住す。
山川
明王山
宮川
源は村より未申(南西)の方明王山
朝日森という所より流れ出、諸山の渓流合して2里余丑寅(北東)の方に流れ東に転じて大瀧に
瀉ぎまた折れて北に流るること1里計、村東を過ぎて
中村の界に入る。広6間。
滝
村南1里宮川にあり。
懸流激瀉すること12丈余(約36m)、響山谷を撼す。
俗に大瀧という。
旱歳雨を祈れば験ありという。
清水
村東にあり。
周6間余。
関梁
橋3
一は村南8町にあり。
その南1町計つづを隔て2あり。
共に山中の通路にて宮川に架す丸木橋なり。長7間。
古蹟
館跡
村より辰巳(南東)の方3町にあり。
周3町計。
應永の頃(1394年~1428年)本田平蔵某という者住せしとぞ。
今は畑となる。
旧家
勇蔵
先祖は公家土佐守時房という。
應永33年(1426年)濃州大垣よりこの地に来り、正長元年(1428年)葦名の家人となれり。
5世土佐守某が時、葦名の家滅て農民となりしと言い伝えれども家系詳ならず。
家に天正18年(1590年)・文禄3年(1594年)の検地帳を持伝るを見るに土佐という者あり。
廃村
入谷ヶ地
(町史より)
下谷ヶ地より約2.5km南東にあり、大滝川の高位段丘上にあり、標高552.7m地点に集落がある。
(中略)
入谷ヶ地の鎮守は大山神社で、祭神は大山祇命である。その位置は、集落の西南45mの杉林のなかにあり、入り口の鳥居についで石段二段の参道は緩い登りである。社殿は長床の形式をもった二間(3.64m)四方のつくりである。社殿の脇には、稲荷祠と享保年間に建てられた石灯籠がある。
(
会津高田町誌より)
(略)この地から、南会津郡桑取火と経る、田島、日光街道跡が、山の中腹の緑の中に斜に伸びている。江戸時代に年貢運搬に用いられた重要道路であり、入谷ヶ地は、交通上の要衝としてみなければならない。
土倉
(町史より)
入谷ヶ地から土倉沢上流の南西に4km離れた大滝高原の一角に木地小屋集落の「土倉」跡がある。『新編会津風土記』によると、文化の頃(1804~1818)は15軒の木地師が住み、周辺山地のホオ、ブナなどで木地挽きを業としていた。いつ頃からっこに住み着いたか定かでないが、明治十六年(1883)頃は全戸が小椋を姓とし、三戸18人であった。大正末期には、全戸集団移転し、いまに残るのは、大山祇神社の石祠のみである。移住先は、北海道十勝平野といわれるが、その詳細は不明である。
宮川の源流
(
会津高田町史より)
宮川の源流について、『新編会津風土記』では、入谷ヶ地の所に「源は未申(南西)の方明王朝日森という所より流出」と記している。なお、「明王山 村より未申の方三里(約12km)余、山奥ににあり雑樹茂れり、南は戸石村(南会津郡下郷村大字戸赤字戸石)に属し、西は野尻組喰丸村、大芦村(大沼郡昭和村)に属す」と記してあるから、これは現在の三引山に相当する。なおこれに該当する大滝川の源流は黒滝沢である。
また一説には大滝山(南会津郡下郷村戸石)を明王山とする考えもあるが、これに該当する源流は大ボウ沢、岩
菅沢である。いずれにしても見沢、三引山、大滝山の高原地帯に源流を持ち、岩菅沢入り口に合流して、大滝付近から大滝川となり、下谷ヶ地で博士川と合流して宮川となる。
尾岐の山と川
最終更新:2025年08月16日 21:53