この村、旧萱津に作り中頃海津に作る。寛文中(1661年~1673年)今の字に改む。
今上中下3村あり(上茅津・
中茅津は本組に属し
下茅津は坂下組に属す)。塔寺村八幡宮所蔵神役目録に萱津村あり。康安2年(1362年)府下五之町
實相寺の寄付牒にも"かやつの村とあり。意ふに、昔1村なりしを後に3村に分かちしと見えたり。
府城の西に当り行程2里18町。
家数34軒、東西1町14間・南北2町14間。
四方田畠なり。
山川
宮川
村西4町にあり。
和泉村の方より来り、北に流るること4町
中茅津村の方に注ぐ。
関梁
橋
村西4町、上金沢新田村の通路宮川に架す。
長20間余。土橋なり。
寺院
浄福寺
村中にあり。
三心山と號す。本州岩城専称寺の末寺浄土宗なり。
開基の年代詳ならず。
昔は化藏院と称して真言宗なりしとぞ。
本尊三尊弥陀客殿に安ず。
不動堂
境内にあり。
この村の伝承
会津坂下町史より一部引用
両堂に行った不動様
お不動様を祭ってあるお堂の戸が自由にあけたて出来た頃、よく乞食が泊まったそうだ。ある時泊まった乞食が御不動様を持ち出して、夜中に南の方へ逃げたが、途中で重くなって持ち切れず道ばたの草の中に投げて行った。両堂のある家の嫁さんが朝草刈りに出てその尊像を見付け、持ち帰って村人に知らせてお祭りした。
そのうわさを聞いて上開津の人々が貰いに行ったが返されなかったそうだ。今の北会津村両堂のお不動様がそれである。
上開津では元のお堂に別の御不動様を祭ったが、村では「上開津が姉様で両堂は妹だ」といい伝えられている。
向い住のこと
昔は村中に北会津村方面から流れてくる川があって、集落を東西に二分し、橋を架けて連絡していたそうだ。それで互いに「向い住」と呼んでいた。
その後、不便なのでその川を村前から西に流し、川跡は大抵埋めて立派な道ができ家も建っている所がある。しかし習慣とはおそろしいもので、今でも互いに「向い住」と呼び合っている。
会津の城郭年代記より一部引用
34、建久年中(1190~1198)河沼郡上茅津村柵
東西四十間南北二十九間建久年中佐原氏之臣平井又五郎頼秀築く。是より十六代之後胤茅津大炊介頼任に至つて天正十七年六月五日入倉にて討死す
(会津古塁記)
最終更新:2025年07月06日 20:59