耶麻郡川東組酸川野村

陸奥国 耶麻郡 川東組 酸川野(すかはの)
大日本地誌大系第32巻 12コマ目

この村酸川の水上にある(ゆえ)名く。昔は8町東に住せしという。何の頃にか今の地に移す。

府城の東北に当り行程6里28町。
家数32軒、東西2町9間・南北1町。
福島街道に住す。
山中に田圃(たんぼ)をひらき東南は酸川に()ふ。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東18町木地小屋村の界に至る。その村まで19町。
日11町渋谷村に界ひ檜原川を限りとす。
南11町余小田村の山に界ふ。その村は辰(東南東)に当り22町。
北は吾妻山の麓に連る。数峯を隔て米沢領出羽国置賜郡に界ふ。

この村は福島街道の駅所にて、猪苗代城下より1里26町52間ここに継ぎ、ここより5里22町公領信夫郡土湯駅に継ぐ。また22町木地小屋村駅に継ぐ。

端村

名家(みやうけ)

本村の西6町にあり。
家数23軒、東西1町・南北25間。
北は山に拠り南に田圃あり。
むかし妙見の社あり。故に妙見村という。その後転じて今の名となる。

多茂沢(たもさは)

本村の丑寅(北東)の方17町にあり。
家数4軒、東西18間・南北9間。
北は山により三面田圃なり。

木地小屋

高森(たかもり)

本村の丑寅(北東)の方3里にあり。
家数10軒、東西35間・南北1町40間。
山中に住す。
会津もと木地挽少かりしを、天正18年(1590年)蒲生家会津に封せられ近江国慈教寺が勧により君畑より木地頭佐藤和泉・同新助と木地挽5人とその外慈教寺の3男了性を連来り、了性をば府下木戸千軒道本光寺の住職とし木地挽は府下七日町に屋敷地を与えおき、会津郡慶山村にて始て木地をひき(それ)より処々に移り、享保3年(1718年)檜原村小野川よりこの所にうつる。今の木地頭彦右衛門というは和泉が遠孫なり。さればその業封内にひろまりしは和泉等におこれりという。常に山林に就いて小屋をかけ良木尽れば(ほか)山に遷り住処を定めず。その居を遷するを飛と唱ふ。

山川

吾妻山

村の子丑(北~北北東の間)の方より戌亥(北西)の方まで(めぐ)れり。
東吾妻・中吾妻・西吾妻とて3山相並び、西吾妻は檜原村に属せり。昔日本武尊を祭れる社あり。故に名くという。中吾妻は村の西北2里20町余にあり。頂上まで2里余、東は東吾妻に並び、西は西吾妻に対し、北は支峯環列し東西の吾妻に続り。半腹より下は大抵(とか)のみ多く茂り、頂は雲気四方に覆い陰晴常ならず。塵をたち俗を離るる幽境なり。中吾妻の麓に閼伽沢という処あり。渓辺より温泉湧出し煙気常に絶ず。これを吾妻権現の霊場なりとて民の崇信大方ならず。毎年7、8月の頃本寺村恵日寺・猪苗代城下修験成就陰各登山して小屋をかけ数日の間参籠して読経す。諸村より参詣のもの少なからず。山中に鷹の巣ふ所数処あり。北は置賜郡に界ひ、東は信夫郡に界ふ。数村入逢の山なり(本郡の条下と併せ見るべし)。

土湯峠

村の丑寅(北東)の方3里20町余にあり。
ここより福島に通す。公領信夫郡とその頂を界とす。
中に一里塚あり。
鳥取越というはこれより北に通せし古道なりという。東鑑に文治5年(1189年)『小山七郎朝光等安藤次を以山案内者為伊達郡藤田宿自会津郡之方に向于土湯之嵩鳥鳥越等を越』とあるは即この地なり。

水晶山(すいしやうやま)

大原新田村の北20町にあり。
多く石英を産す。

谷地平(やちがたひら)

中吾妻の東にあり。
1里18町四方計。山間なれども平地にて林木蕃蔚す。

幕平(まくのたひら)

東吾妻の南の腰にあり。
東西1里・南北18町計。
昔義家朝臣幕を打ち人馬を休めしゆえ名くという。

岩窟

大原新田村の丑(北北東)の方20町計蝙蝠沢という処にあり。
9尺四方ほどの岩屋なり。穴居の跡なるべし。
この辺より神代石と称する物を堀得ること多し。

中津川(なかつかわ)

西吾妻と中吾妻の間より流れ出、布滝に(そそ)ぎ諸渓に合し南に流れ倉川東北より来り注ぎ、凡4里計流れて檜原川に合す。
広10間計。檜原村とこの川を界とす。

倉川(くらかわ)

中吾妻と東吾妻の間より流れ出、小滝に(そそ)ぎ東南に流れ諸渓に合し小倉川を受けて6里計流れて中津川に注ぐ。
広10間計。

酸川

木地小屋村の方より来り、村東を西南の方に流るること30町檜原川に注ぐ。
広10間余。

岩弓川

村の丑(北北東)の方2里18町計にあり。
佛沢とい処より流れ出、北より南に流るること29町計酸川に入る。
相伝ふ。昔義家朝臣東征のときこの地に至り軍の勝利を祈り一矢を放たれしに、(たちま)ち岩の上にたちその矢より枝葉生せりとて岩弓と名くという。今なお箭竹多し。里俗八幡太郎箭竹と唱ふ。

小滝(こたき)

倉川の上流にあり。
両山の間にて岩上より遥に瀉ぐこと50余丈。滝壺なければ水勢大に激揚して珠璣となり四方に散す。

布滝

中津川の上流にあり。
両岸高く懸水20余丈あり。

三階倉滝(さんかいくらたき)

小倉川の上流にて東吾妻の下にあり。
高30丈。
その余吾妻の山中に瀑布なお多けれども煩しければ略す。

横向温泉(よこむきおんせん)

高森小屋より丑寅(北東)の方30町計、岩弓川の上流にて岩間より湧出。
清瑩(せいえい)にて気髪を鑑むべし。また硫黄の気を帯びず中風・脚気・積聚・眼病・瘡毒によしという。近来洪水の後崖崩れて修造せざれば今は浴し難し。
それより3町計登り「かしらなし」という温泉あり。水に雑りて熱せざれどもその功は横向の湯に同じという。

原野

顯元原(あきもとはら)

村より亥(北北西)の方2里計、吾妻山の麓にあり。
東西30町・南北10町計の萱野なり。
中に遺壘あり。相伝ふ。昔神野顯元という者合戦に敗績しここに蟄して終れりとぞ(何頃の人にて何人と戦いしこと知らず。町堤崎村町島田村の条下を照見るべし)。

牧場

村東にあり。
東西3町・南北13町。

水利

岩弓堰

木地小屋村の方より来り田地の養水となり末は酸川に入る。

関梁

酸川野口

村中にあり。
これより土湯峠をこえて信夫郡に達す。木戸門を設け、南は酸川を要害とし北は山麓に続く。
番戍をおき往来を察せしむ。

橋3

一は村より未(南南西)の方10町10間余にあり。長12間・幅9尺、酸川に架す。
一は村より丑(北北東)の方20町岩弓川に架す。長10間・幅9尺。
一は村より丑(北北東)の方2里11町余佛沢に架す。長7間・幅9尺。
共に福島街道なり。

神社

若宮八幡宮

祭神 若宮八幡?
相殿 鹿島神
   妙見神 本州宇田郡小高村より勸請すという
   稲荷神 昔後藤越中増子若狭という者
小田村に祭る所という
   山神 2座
鎮座 不明
村北2町、山腰にあり。
昔は村東7町余にあり。天明中(1781年~1789年)今の地に遷す。
義家朝臣奥州に下向ありしとき勸請せりという。
鳥居幣殿拝殿あり。

神職 伊藤伊予

その先葦名家の旗下なり。畠山太郎左衛門保忠とて安達郡高玉村を領す。天正年中(1573年~1593年)高玉城に戦死す。保忠が子正春僅かに2歳なり。同村伊藤助九郎というものに養育せられ、遂に伊藤氏を継ぐ。その地の鎮守高掌米倉両社の祠官となり伊藤出羽と称す。その子齋宮介正信本郡に来る。正信が5世の孫日向政國磐椅神社の神楽役人となり、今はこの社の神職となる。今の伊予政峯は政國が曽孫なり。

八幡宮

祭神 八幡宮?
相殿 山神
   蔵王神
   湯殿神
鎮座 不明
端村多茂沢の東にあり。
鳥居あり。伊藤伊予これを司る。

古蹟

白鳳寺跡

村より亥(北北西)の方2里計顯元原の続きにすこし高き処あり。今なお寺沢とて昔神護山白鳳寺という寺ありという。古代のことなれば詳ならず。





追記。
コメント欄で情報頂きました。
顯元原のあった場所は明治21年の磐梯山の噴火により秋元湖になり、この火山活動により近隣の村々に甚大な被害をもたらしたそうです。
なお秋元原は戊辰戦争の時、1868年8月21日の母成峠の戦いで敗北した大鳥圭介はこの秋元原から桧原の雄子沢を経て大塩温泉方面に向かった、との記録があるようです(参考:石田明夫の「会津の歴史」)。