耶麻郡五目組五目村

陸奥国 耶麻郡 五目組 五目(こめ)
大日本地誌大系第32巻 106コマ目

この村もとは郷明といいしが後今の字に改む。

府城の西北に当り行程5里31町余。
家数39軒、東西1町46間・南北2町38間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東29間根岸村に界に至る。その村は辰(東南東)に当り5町40間余。
西2町岩尾村の界に至る。その村まで5町余。
南4町5間鷲田村の界に至る。その村まで9町40間余。
北2町10間上野村の界に至る。その村まで10町10間余。
また
亥(北北西)の方7町百木田中村の界に至る。その村まで18町。
巳(南南東)の方22間下谷地村の界に至る。その村まで7町。
丑寅(北東)の方5町14間針生村の界に至る。その村まで11町20間余。
未申(南西)の方5町24間半在家村の界に至る。その村まで8町20間余。
戌(西北西)の方5町20間中河原村の界に至る。その村まで11町20間余。

小名

添田(そへた)

本村より未(南南西)の方8町余にあり。
家数5軒、東西2町・南北3町。
四方田圃なり。
寛政7年(1795年)新たに家居を開く。

端村

棘原(はらはら)

本村の北5町50間余にあり。
東西2区に住す。その間2町50間余を隔つ。
東は家数7軒、東西1町4間・南北56間。
西は家数9軒、東西42間・南北2町26間。
共に四方田圃なり。

大平(おほたひら)黒岩(くろいは)木地小屋(きちこや)

大平は本村の北2里5町にあり。
家数13軒、東西40間・南北1町、山中に住す。

黒岩は大平より亥(北北西)の方17町にあり。
家数13軒、東西2町36間・南北44間。四方重山なり。

木地小屋は黒岩より亥(北北西)の方13町にあり。
家数5軒、東西26間・南北38間。重山の中に住す。
僅かに田圃を開き木地挽を産とす。

共に上野村・百木田中村・針生村の境内を隔て本村の地に続かず。
地面、東西16町30間・南北2里33町余。
東は野辺沢村の山に隣り、西は山岩尾村の山に連なり、南は上野村の山に接し、北は米沢領出羽国置賜郡に界ふ。

山川

陣場山(ちんはやま)

端村大平より寅(東北東)の方26町余にあり。
頂まで32町余。野辺沢村と峯を界ふ。
天正中(1573年~1593年)葦名氏伊達氏と合戦ありし時陣せし所という。

閻魔嶽(えんまたけ)

大平より丑(北北東)の方1里余にあり。
またその奥に西並て藤内鳥屋山(とうないとややま)大頭森山(おほとうもりやま)あり、米沢領の界なり。

沼3

大平の西5町にあり。
東西1町40間・南北13町。
西は山岩尾村に属す。大平沼という。
慶長16年(1611年)の地震に山崩れ下流塞がり沼となる。
寛政中(1789年~1801年)土手を築き水門を設け旱災に備ふ。
水源は藤内鳥屋山の麓折渡沢(おりわたさわ)より出て渓水相会し、山間を未申(南西)の方へ流るること4里余この沼に注ぎ、下流また山中を経て百木田中村の地を過ぎ濁川となり、またこの村の境内に入り村西を南に流るること19町20間余鷲田村の方に入る。
一を上沼という。大平より戌(西北西)の方2里計にあり。東西40間・南北1町。この外に中沼・下沼とて小沼2あり。
一は亥(北北西)の方2里27町計にあり。東西50間・南北30間。

桜清水

大平より辰(東南東)の方16町余にあり。
周2間。
桜の本より出る故かく名付という。

関梁

窪橋(くぼはし)

村より戌(西北西)の方11町20間余にあり。
濁川に架す。
長7間・幅5尺。
隣村の通路なり。

神社

磐椅神社

祭神 磐椅神?
相殿 伊勢宮
   八幡宮
   稲荷神
   熊野宮
   三島神
   日光神
   総社
   鬼渡神
   金神
   十二神
   若宮八幡
鎮座 不明
村より未(南南西)の方1町にあり。
鳥居拝殿あり。上三宮村高村能登が司なり。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
端村大平の北2町にあり。
鳥居拝殿あり。高村能登が司なり。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
端村黒岩にあり。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
勧請 不明
端村木地小屋にあり。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

寺院

浄圓寺

村中にあり。
清運山と號す。浄土宗なり。開基の年月詳ならず。
慶長5年(1600年)順察という僧中興し府下大町融通寺の末山となる。
本尊弥陀客殿に安ず。

十王堂

境内にあり。

旧家

慶徳与市

小名添田の肝煎なり。家系によるに、平田是亦齋が子慶徳善五郎某が子孫なり。初小荒井組柴城村に住し後太郎丸村に移り、寛政8年(1796年)この所に移住す。
家に古文書1通を蔵む。その文如左(※略)。




追記:木地屋敷について
コメント欄にてとんりすんがりさんより情報頂きました。
蒲生氏郷が会津入府の際に、故地の近江から連れてきた木地師の一団を祖とし、以後四百年近く木地屋集落として続いていましたが、やはり高度経済成長以降、木地挽きが産業として成り立たなくなり、加えてあまりに市街地から遠い上に農業にも向かない立地であったがために生活が困難となり、昭和48年に当時残っていた7戸全てが旧熱塩加納村役場近くに造成された新崎団地に集団移転してその歴史を閉じました。
現在も黒岩集落の脇から旧集落の到る道が続いていますが、旧住民の方(黒岩集落の方もか?)が細々と山仕事を続けているらしく、関係者以外立入が禁止されています。
こういった表示がされているあたり冬場でも往来があるらしいのが驚きです。
また江戸時代には小屋集落を通って御川沿いに大塚山に登り、広河原に抜けて米沢に向かう十文字峠という間道があったそうですが、現在は自然に還っているものと思われます。 
現在の地理院地図を見ると、御川沿いに林道があり米沢との県境まで続いていますが、米沢側は県境までは道が残っていないようです。この県境が旧十文字峠だったのでしょうか。

なんと雪が積もる中黒岩から県境の尾根を経由して大塚山に登ったという方のレポートを見つけました。
1000マデノボレ
山頂から見る展望は絶景で『山頂からは後ろに飯豊連峰の山並みが素晴らしく神々しい。』との事です。
最終更新:2020年08月15日 15:52
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