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みんなの新武将/曹魏 - (2019/04/30 (火) 09:13:17) の編集履歴(バックアップ)
注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
曹魏(220~265)
開祖の曹操は東漢末の群雄の1人で、自らの拠る許(許昌市)に献帝を迎え、
袁紹を滅ぼし華北を制して丞相として全権を掌握し、後には関中も平定して魏王とされた。
嗣子の曹丕に至って献帝から禅譲され、洛陽を都として魏王朝を樹立し、
明帝の代には遼東の公孫淵を滅ぼし、高句麗を大破して朝鮮北部にも威令を及ぼした。
曹操は法治を重んじ、国力回復の為に大規模な屯田制を実施したが、
同時にこの時代は貴族制への移行期でもあり、曹操幕下にも多くの名流子弟が加わっており、
文帝の時代に始められた九品官人制は後に貴族制の定着に大きく寄与した。
朝臣の貴族化は明帝・斉王代に進行し、貴族文化の先鞭として清談が流行したが、実権は宗族の曹爽、
ついで河内豪族の司馬懿に遷り、以後は司馬氏が天子の廃立を行ない、265年に元帝が司馬懿の孫の司馬炎に簒奪された。
魏は一族を冷遇したために藩屏と呼べる存在が事実上存在せず、これが司馬氏の簒奪を容易にしたとされる。
袁紹を滅ぼし華北を制して丞相として全権を掌握し、後には関中も平定して魏王とされた。
嗣子の曹丕に至って献帝から禅譲され、洛陽を都として魏王朝を樹立し、
明帝の代には遼東の公孫淵を滅ぼし、高句麗を大破して朝鮮北部にも威令を及ぼした。
曹操は法治を重んじ、国力回復の為に大規模な屯田制を実施したが、
同時にこの時代は貴族制への移行期でもあり、曹操幕下にも多くの名流子弟が加わっており、
文帝の時代に始められた九品官人制は後に貴族制の定着に大きく寄与した。
朝臣の貴族化は明帝・斉王代に進行し、貴族文化の先鞭として清談が流行したが、実権は宗族の曹爽、
ついで河内豪族の司馬懿に遷り、以後は司馬氏が天子の廃立を行ない、265年に元帝が司馬懿の孫の司馬炎に簒奪された。
魏は一族を冷遇したために藩屏と呼べる存在が事実上存在せず、これが司馬氏の簒奪を容易にしたとされる。
許定
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
61 | 81 | 35 | 19 | 48 | 護衛 | C | A | B | C | C | C | ? | ? |
【キョテイ】
後漢末から魏の将。魏を代表する豪傑である許褚の兄。
許褚が賊に抵抗するため若者を従えて砦に立てこもった時、許褚に従って一族と共に賊と戦った。
後に許褚と共に曹操に仕え、軍功によって振威将軍を拝命し、王道巡回の虎賁(近衛兵)を指揮した。
後漢末から魏の将。魏を代表する豪傑である許褚の兄。
許褚が賊に抵抗するため若者を従えて砦に立てこもった時、許褚に従って一族と共に賊と戦った。
後に許褚と共に曹操に仕え、軍功によって振威将軍を拝命し、王道巡回の虎賁(近衛兵)を指揮した。
夏侯衡(伯権?)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
65 | 61 | 52 | 54 | 68 | 弓将 | B | C | A | B | C | C | ? | ? | 夏侯淵 |
【カコウコウ(ハクケン?)】
魏の将。字は不明だが、伯権と考えられる。
夏侯淵の長男で、夏侯績の父、夏侯褒の祖父。海陽哀侯の娘を娶る。
太和年間に関内侯の爵位を賜り、父の死後、安寧亭侯を継ぐ。
彼の死後、その子・夏侯績が跡を継いだ。
魏の将。字は不明だが、伯権と考えられる。
夏侯淵の長男で、夏侯績の父、夏侯褒の祖父。海陽哀侯の娘を娶る。
太和年間に関内侯の爵位を賜り、父の死後、安寧亭侯を継ぐ。
彼の死後、その子・夏侯績が跡を継いだ。
夏侯称(叔権)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 | 親愛 |
65 | 74 | 31 | 21 | 54 | 射手 | C | C | A | A | C | C | ? | ? | 夏侯淵 | 曹丕 |
【カコウショウ(シュクケン)】
夏侯淵の3男。
子供の頃から近所の子供を集めて軍旅を編成し、戦争の真似事をしていた。
夏侯淵から項羽伝と兵書を読むよう命じられるが従わなかった。
16歳の時に狩りで虎と遭遇し、夏侯淵に止められるが馬を駆って一箭のもとに打ち倒す。
これを見た曹操から「我は汝を得た!」と賞賛された。
曹丕と対等な友人関係にあったが、18歳で没した。
夏侯淵の3男。
子供の頃から近所の子供を集めて軍旅を編成し、戦争の真似事をしていた。
夏侯淵から項羽伝と兵書を読むよう命じられるが従わなかった。
16歳の時に狩りで虎と遭遇し、夏侯淵に止められるが馬を駆って一箭のもとに打ち倒す。
これを見た曹操から「我は汝を得た!」と賞賛された。
曹丕と対等な友人関係にあったが、18歳で没した。
夏侯栄(幼権)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
50 | 63 | 76 | 53 | 74 | B | C | C | B | C | C | 207 | 219 | 夏侯淵 |
【カコウエイ(ヨウケン)】
夏侯淵の五男。
幼い時から聡明で、7歳で文才を示し、目を通すだけで千言を諳んじた。
曹丕がその評判を聞いて宴会で百余名の客と合わせると、
客の顔と名前を一目で覚え間違えることがなかったため、曹丕を驚かせた。
13歳の時に定軍山の戦いに従軍し、父の戦死を聞くと剣を奮って敵陣に突撃し戦死した。
夏侯淵の五男。
幼い時から聡明で、7歳で文才を示し、目を通すだけで千言を諳んじた。
曹丕がその評判を聞いて宴会で百余名の客と合わせると、
客の顔と名前を一目で覚え間違えることがなかったため、曹丕を驚かせた。
13歳の時に定軍山の戦いに従軍し、父の戦死を聞くと剣を奮って敵陣に突撃し戦死した。
※夏侯称と夏侯栄の記述は、正史の裴松之注の「魏晋世語」による。
両者とも新武将登録の際に没年の下限に引っ掛かるので、プレイでは寿命の仮想設定が前提。
なお、PC版ならTe-Person Editorで生没年・登場年の設定も可能。
両者とも新武将登録の際に没年の下限に引っ掛かるので、プレイでは寿命の仮想設定が前提。
なお、PC版ならTe-Person Editorで生没年・登場年の設定も可能。
王必
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 63 | 66 | 74 | 61 | 沈着 | B | C | A | C | A | C | ? | 218 |
【オウヒツ】
後漢末の将・政治家。曹操の挙兵以来の古参の将。
献帝が長安にいた頃、従事として曹操の命で長安に派遣された。
朝廷を壟断する李傕らは王必を捕えようとしたが、鍾繇の取り成しで救われた。
曹操が呂布を捕えると、呂布は縄を緩めるよう要請したが、
この時曹操を諌めたため、呂布は許されず絞首刑となった。
後、典農中郎将の厳匡と共に許昌での吉本らの反乱を鎮圧したが、
この反乱で矢傷を負い、その傷が原因で間もなく死去した。
後漢末の将・政治家。曹操の挙兵以来の古参の将。
献帝が長安にいた頃、従事として曹操の命で長安に派遣された。
朝廷を壟断する李傕らは王必を捕えようとしたが、鍾繇の取り成しで救われた。
曹操が呂布を捕えると、呂布は縄を緩めるよう要請したが、
この時曹操を諌めたため、呂布は許されず絞首刑となった。
後、典農中郎将の厳匡と共に許昌での吉本らの反乱を鎮圧したが、
この反乱で矢傷を負い、その傷が原因で間もなく死去した。
路招
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛武将 |
72 | 71 | 61 | 24 | 57 | 戟将 | B | A | A | C | C | C | ? | ? | 朱霊 |
【ロショウ】
後漢末の将。
曹操配下の歴戦の将で、同僚の朱霊と行動を共にすることが多かった。
袁術討伐の際、朱霊と共に劉備の指揮下に入るが、直前に袁術は病死したため、
劉備を徐州に残し曹操の下に帰還した。
曹操が荊州征伐に向かう際、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・馮楷の六将軍と共に趙儼の指揮下に入る。
後、やはり朱霊と共に、行護軍将軍の夏侯淵の指揮下で長安に駐屯し、
南山の劉雄を撃破し残兵を降伏させ、軍閥の一人である梁興を討った。
以後、路招の名は史書に現れない。
『演義』では「路昭」の名で登場する。
後漢末の将。
曹操配下の歴戦の将で、同僚の朱霊と行動を共にすることが多かった。
袁術討伐の際、朱霊と共に劉備の指揮下に入るが、直前に袁術は病死したため、
劉備を徐州に残し曹操の下に帰還した。
曹操が荊州征伐に向かう際、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・馮楷の六将軍と共に趙儼の指揮下に入る。
後、やはり朱霊と共に、行護軍将軍の夏侯淵の指揮下で長安に駐屯し、
南山の劉雄を撃破し残兵を降伏させ、軍閥の一人である梁興を討った。
以後、路招の名は史書に現れない。
『演義』では「路昭」の名で登場する。
劉延
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 75 | 56 | 24 | 59 | 不屈 | B | A | A | C | C | B | ? | ? |
【リュウエン】
後漢末の将。
官渡の戦いの前哨戦である白馬の戦いで、白馬城の城主として籠城し、
華北の猛将である顔良の攻撃に耐え抜いた。
『演義』では、顔良を斬った自身の恩人でもある関羽に、千里行の最中で助言している。
後漢末の将。
官渡の戦いの前哨戦である白馬の戦いで、白馬城の城主として籠城し、
華北の猛将である顔良の攻撃に耐え抜いた。
『演義』では、顔良を斬った自身の恩人でもある関羽に、千里行の最中で助言している。
棗祗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 44 | 78 | 87 | 72 | 屯田 | B | C | A | C | B | C | ? | ? |
【ソウシ】
後漢末の将。天性の忠義と才能を有すると評された。
董卓討伐に従事した後、兗州牧曹操に出仕。
張邈・陳宮らの造反に対し、棗祗は東阿の官民を統率して守備を固めた。
陳宮は直接東阿を攻撃するが、程昱が倉亭津を破壊したので行軍が遅れ、結局失敗した。
羽林監時代、韓浩らと共に曹操に屯田制の実行を進言した。
最初、曹操は採用を躊躇うが採用を熱弁した為、屯田都尉を拝命し実施に当たる。
屯田は顕著な成果を挙げ、後に任峻が大々的に展開し、曹操陣営の軍事力は飛躍した。
後漢末の将。天性の忠義と才能を有すると評された。
董卓討伐に従事した後、兗州牧曹操に出仕。
張邈・陳宮らの造反に対し、棗祗は東阿の官民を統率して守備を固めた。
陳宮は直接東阿を攻撃するが、程昱が倉亭津を破壊したので行軍が遅れ、結局失敗した。
羽林監時代、韓浩らと共に曹操に屯田制の実行を進言した。
最初、曹操は採用を躊躇うが採用を熱弁した為、屯田都尉を拝命し実施に当たる。
屯田は顕著な成果を挙げ、後に任峻が大々的に展開し、曹操陣営の軍事力は飛躍した。
任峻(伯達)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
74 | 66 | 63 | 72 | 60 | 運搬 | B | B | A | C | C | C | ? | 204 |
【ジンシュン(ハクタツ)】
後漢末の将。司隷河南尹中牟県の人。
後漢末の混乱の中、中牟令楊原に河南尹の堅守を進言し、主簿に任命された。
曹操が中牟を支配すると、同郡の張奮と協議し、曹操に臣従。
曹操は大いに喜び、姻戚を結ぶなど彼を頗る信任した。
遠征時には、常に輜重補給のために留守役を担う。
棗祗・韓浩らが屯田制の実施を進言すると、典農中郎将に任命され、実際の運用を担当した。
任峻はこれに成功し、曹操陣営の軍事的・政治的強化に大きく貢献した。
官渡の戦いでは、補給部隊の守備を強化して袁紹軍の攻撃を阻止し、長水校尉になった。
後漢末の将。司隷河南尹中牟県の人。
後漢末の混乱の中、中牟令楊原に河南尹の堅守を進言し、主簿に任命された。
曹操が中牟を支配すると、同郡の張奮と協議し、曹操に臣従。
曹操は大いに喜び、姻戚を結ぶなど彼を頗る信任した。
遠征時には、常に輜重補給のために留守役を担う。
棗祗・韓浩らが屯田制の実施を進言すると、典農中郎将に任命され、実際の運用を担当した。
任峻はこれに成功し、曹操陣営の軍事的・政治的強化に大きく貢献した。
官渡の戦いでは、補給部隊の守備を強化して袁紹軍の攻撃を阻止し、長水校尉になった。
史渙(公劉)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
77 | 76 | 71 | 45 | 73 | 槍将 | A | B | A | C | B | C | ? | 209 |
【シカン(コウリュウ)】
後漢末の将。曹操の挙兵以来の臣下。徐州沛国の人。
若い頃は任侠の徒で、忠義と武勇によって著名であった。
行中軍校尉として、遠征時は常に諸将を監督し、曹操の信任も厚かった。
曹仁や楽進らと共に眭固を斬り、その軍勢を服属させた。
官渡の戦いでは、荀攸の計略に従い、徐晃と共に韓猛の輸送隊を撃破し、補給に打撃を与えた。
柳城遠征時は、その危険性を諌めようとしたが、韓浩に反駁されている。
最後には中領軍まで出世し、列侯に封じられた。
『演義』では、倉亭の戦いで袁尚との一騎打ちで討たれている。
後漢末の将。曹操の挙兵以来の臣下。徐州沛国の人。
若い頃は任侠の徒で、忠義と武勇によって著名であった。
行中軍校尉として、遠征時は常に諸将を監督し、曹操の信任も厚かった。
曹仁や楽進らと共に眭固を斬り、その軍勢を服属させた。
官渡の戦いでは、荀攸の計略に従い、徐晃と共に韓猛の輸送隊を撃破し、補給に打撃を与えた。
柳城遠征時は、その危険性を諌めようとしたが、韓浩に反駁されている。
最後には中領軍まで出世し、列侯に封じられた。
『演義』では、倉亭の戦いで袁尚との一騎打ちで討たれている。
常林(伯槐)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛武将 |
38 | 29 | 75 | 86 | 71 | 祈願 | C | C | C | C | B | C | ? | ? | 梁習 |
【ジョウリン(ハクカイ)】
後漢末から魏の政治家。河内郡温県の人。
寒門の出だが自力で太学に行き、経典を修めつつ農耕に従事した。
干害と蝗害に際しても自分の田畑だけは豊作で、周囲に施した。
河内太守の王匡に叔父が逮捕されると、王匡の同郷人の胡母彪に請願し、釈放させた。
後、并州刺史梁習に推挙され、南和で治績を挙げ、幽州刺史に昇進。
田銀と蘇伯が造反すると、自ら討伐を考える曹丕を諌めた。
曹丕の代には少府・大司農を歴任し、曹叡の代には盧毓の推挙で高陽郷侯になり、
司馬懿も同郷の先人として敬ったという。
後漢末から魏の政治家。河内郡温県の人。
寒門の出だが自力で太学に行き、経典を修めつつ農耕に従事した。
干害と蝗害に際しても自分の田畑だけは豊作で、周囲に施した。
河内太守の王匡に叔父が逮捕されると、王匡の同郷人の胡母彪に請願し、釈放させた。
後、并州刺史梁習に推挙され、南和で治績を挙げ、幽州刺史に昇進。
田銀と蘇伯が造反すると、自ら討伐を考える曹丕を諌めた。
曹丕の代には少府・大司農を歴任し、曹叡の代には盧毓の推挙で高陽郷侯になり、
司馬懿も同郷の先人として敬ったという。
薛悌(孝威)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛武将 |
44 | 19 | 74 | 87 | 76 | 仁政 | C | C | C | C | C | C | ? | ? | 陳矯・高堂隆 |
【セツテイ(コウイ)】
魏の政治家。
兗州牧時代の曹操に若くして仕官する。
呂布・張邈の反乱時は程昱らと共に3城を死守し、逃亡した応劭の後任で僅か22歳で泰山太守となる。
この時陳矯と親交を結び高堂隆を登用した。
孫権征討に従った後、 護軍として張遼・楽進・李典の目付け役となり合肥に駐屯、
曹操の命令書を保管する重責を担った。
陳矯の後任として魏郡太守となり、儒教の教えを守り寛容な政治を行ったため官吏の見本とされた。
陳矯の死後、後任として尚書令に昇進し、少なくとも明帝の代まで魏に仕えた。
魏の政治家。
兗州牧時代の曹操に若くして仕官する。
呂布・張邈の反乱時は程昱らと共に3城を死守し、逃亡した応劭の後任で僅か22歳で泰山太守となる。
この時陳矯と親交を結び高堂隆を登用した。
孫権征討に従った後、 護軍として張遼・楽進・李典の目付け役となり合肥に駐屯、
曹操の命令書を保管する重責を担った。
陳矯の後任として魏郡太守となり、儒教の教えを守り寛容な政治を行ったため官吏の見本とされた。
陳矯の死後、後任として尚書令に昇進し、少なくとも明帝の代まで魏に仕えた。
杜襲(子緒)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
74 | 64 | 78 | 72 | 68 | 看破 | A | B | B | C | A | C | ? | ? |
【トシュウ(シショ)】
後漢末から魏の将。潁川定陵の人。
戦乱を避け荊州に避難し劉表の保護を受けたが、曹操が献帝を許都に迎えると帰郷。
劉表領に隣接する西鄂の長に任ぜられ、恩愛ある政治を行い、高官に上った。
曹操が漢中を支配すると軍監となり、漢中の住人を洛陽・鄴に移している。
定軍山の戦いで夏侯淵が戦死すると、郭淮と共に後任に張郃を推薦した。
文帝や明帝の時代にも重用されたが、夏侯尚への批判を曹操に言上している。
対蜀戦では曹真や司馬懿の軍師として従軍したが、病のため中央に戻った。
後漢末から魏の将。潁川定陵の人。
戦乱を避け荊州に避難し劉表の保護を受けたが、曹操が献帝を許都に迎えると帰郷。
劉表領に隣接する西鄂の長に任ぜられ、恩愛ある政治を行い、高官に上った。
曹操が漢中を支配すると軍監となり、漢中の住人を洛陽・鄴に移している。
定軍山の戦いで夏侯淵が戦死すると、郭淮と共に後任に張郃を推薦した。
文帝や明帝の時代にも重用されたが、夏侯尚への批判を曹操に言上している。
対蜀戦では曹真や司馬懿の軍師として従軍したが、病のため中央に戻った。
邯鄲淳(子叔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
14 | 8 | 82 | 66 | 75 | 詩想 | C | C | C | C | C | C | 132 | 223? |
【カンタン・ジュン(シシュク)】
後漢末の儒学者・書家。別名・竺。穎川郡の人。
後漢末の混乱で荊州に疎開して劉表に仕え、後、劉琮に従い曹操に降った。
曹操は、彼の学識に敬意を払い、曹植が望んだのでその配下とした。
曹植は彼の博識ぶりに感嘆したされる。
曹丕もまた彼を重んじ、博士給事中に任命したが、既に90歳近くで、程なく病死したと見られる。
書家でもあり、『説文解字』以下古書体の知識に通じ、巧みであった。
篆書は当代随一、隷書も梁鵠に次ぐとされる。
著書に笑話集『笑林』・『芸経』が知られ、また漢詩作品に「投壺賦」がある。
後漢末の儒学者・書家。別名・竺。穎川郡の人。
後漢末の混乱で荊州に疎開して劉表に仕え、後、劉琮に従い曹操に降った。
曹操は、彼の学識に敬意を払い、曹植が望んだのでその配下とした。
曹植は彼の博識ぶりに感嘆したされる。
曹丕もまた彼を重んじ、博士給事中に任命したが、既に90歳近くで、程なく病死したと見られる。
書家でもあり、『説文解字』以下古書体の知識に通じ、巧みであった。
篆書は当代随一、隷書も梁鵠に次ぐとされる。
著書に笑話集『笑林』・『芸経』が知られ、また漢詩作品に「投壺賦」がある。
仲長統(公理)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
19 | 23 | 79 | 86 | 64 | 指導 | C | C | C | C | B | C | 181 | 220 |
【チュウチョウ・トウ(コウリ)】
後漢末の学者。山陽郡高平の人。
若くして博覧強記で文才に優れ、華北を遊学し、常林や繆襲らから絶賛された。
并州刺史高幹に招聘されたが、高幹への批判が受け入れられなかったため辞去した。
後、高幹は反乱を起こして敗死したため、その名は華北に響いた。
物事に拘泥せぬ直言家で、言葉の起伏が激しく、狂生呼ばわりされもしたが、
尚書令の荀彧に尚書郎に推挙されると、参丞相軍事として曹操に出仕。
故事や時勢を論じると、常に発憤し嘆息したため、『昌言』という34篇、十余万言の書を著した。
後漢末の学者。山陽郡高平の人。
若くして博覧強記で文才に優れ、華北を遊学し、常林や繆襲らから絶賛された。
并州刺史高幹に招聘されたが、高幹への批判が受け入れられなかったため辞去した。
後、高幹は反乱を起こして敗死したため、その名は華北に響いた。
物事に拘泥せぬ直言家で、言葉の起伏が激しく、狂生呼ばわりされもしたが、
尚書令の荀彧に尚書郎に推挙されると、参丞相軍事として曹操に出仕。
故事や時勢を論じると、常に発憤し嘆息したため、『昌言』という34篇、十余万言の書を著した。
司馬芝(子華)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
36 | 27 | 72 | 90 | 82 | 名声 | C | B | C | C | C | C | ? | ? |
【シバシ(シカ)】
後漢末から魏の政治家。河内郡温県の人。
司馬朗の族兄で、司馬朗に比べると無名であったが、楊俊だけは彼を評価していた。
戦乱を避け、母を連れて荊州へ避難していた。曹操の荊州平定後に出仕し、県長に取り立てられた。
広平県令時代は、法を厳格に適用し、公明正大な政治を行ったため信頼を得た。
黄初年間に河南尹になり、法を論じ、董昭や曹洪の縁者の不正も厳粛に処断をした。
彼の河南尹としての名声は、晋代まで語り草であったという。
後に大司農まで上り、農業政策の重要さを明帝に説き、信頼を得た。
後漢末から魏の政治家。河内郡温県の人。
司馬朗の族兄で、司馬朗に比べると無名であったが、楊俊だけは彼を評価していた。
戦乱を避け、母を連れて荊州へ避難していた。曹操の荊州平定後に出仕し、県長に取り立てられた。
広平県令時代は、法を厳格に適用し、公明正大な政治を行ったため信頼を得た。
黄初年間に河南尹になり、法を論じ、董昭や曹洪の縁者の不正も厳粛に処断をした。
彼の河南尹としての名声は、晋代まで語り草であったという。
後に大司農まで上り、農業政策の重要さを明帝に説き、信頼を得た。
張範(公儀)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
35 | 27 | 73 | 74 | 78 | 論客 | C | C | B | C | C | C | ? | 212 |
【チョウハン(コウギ)】
後漢末から魏の政治家。直隷河内郡脩武県の人。
董卓の専横時、弟の張承、張昭(呉の政治家とは別人)と共に揚州へ逃れた。
袁術が礼を尽くして張範を招聘したが、病気と称して応じず、
代理で仕えた張承も、不興を買い辞去している。
山東の賊が家族を捕えた際、自ら返還交渉をした。
曹操が荊州を平定して帰還する途中で対面し、議郎兼参丞相軍事に任命され、
以降、張範と邴原が曹丕と共に遠征時の留守役を担った。
『演義』には登場しない。
後漢末から魏の政治家。直隷河内郡脩武県の人。
董卓の専横時、弟の張承、張昭(呉の政治家とは別人)と共に揚州へ逃れた。
袁術が礼を尽くして張範を招聘したが、病気と称して応じず、
代理で仕えた張承も、不興を買い辞去している。
山東の賊が家族を捕えた際、自ら返還交渉をした。
曹操が荊州を平定して帰還する途中で対面し、議郎兼参丞相軍事に任命され、
以降、張範と邴原が曹丕と共に遠征時の留守役を担った。
『演義』には登場しない。
劉放(子棄)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
28 | 17 | 85 | 82 | 59 | 妙計 | C | C | B | C | C | C | ? | 250 |
【リュウホウ(シキ)】
後漢末から魏の政治家。魏の四代に仕えた重臣。涿郡の人。
前漢の武帝の第三子である燕刺王・劉旦の末裔。
官渡の戦いの後の曹操の河北進出に際し、漁陽郡の王松の帰順交渉が評価され、主簿として登用される。
曹丕・曹叡の代には孫資と共に魏の機密を担い、遼東を巡る魏呉対立では、離間策を講じた。
曹叡の危篤時には、後見人争いで曹爽と司馬懿を支持し、曹宇らを免職とさせた。
曹芳の代には驃騎将軍に上り、特進の待遇を得た。
達筆で文書の構成の才覚で功績を挙げ、曹氏三代の公文書の多くは劉放の起草だという。
後漢末から魏の政治家。魏の四代に仕えた重臣。涿郡の人。
前漢の武帝の第三子である燕刺王・劉旦の末裔。
官渡の戦いの後の曹操の河北進出に際し、漁陽郡の王松の帰順交渉が評価され、主簿として登用される。
曹丕・曹叡の代には孫資と共に魏の機密を担い、遼東を巡る魏呉対立では、離間策を講じた。
曹叡の危篤時には、後見人争いで曹爽と司馬懿を支持し、曹宇らを免職とさせた。
曹芳の代には驃騎将軍に上り、特進の待遇を得た。
達筆で文書の構成の才覚で功績を挙げ、曹氏三代の公文書の多くは劉放の起草だという。
孫資(彦龍)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
24 | 11 | 84 | 82 | 68 | 機略 | C | C | B | C | C | C | ? | 251 |
【ソンシ(ゲンリュウ)】
後漢末から三国魏の政治家。太原郡の人。
太学で学び、王允から只者ではないと評され、曹操が司空になると招聘されたが、
仇討ちの直後だったので、家族を連れ河東郡へ逃げた。
後、友人の賈逵に勧められて仕官し、荀彧からも高く評価された。
曹丕・曹叡の代には孫資と共に魏の機密を担い、遼東を巡る魏呉対立では、離間策を講じた。
曹叡の危篤時には、後見人争いで曹爽と司馬懿を支持し、曹宇らを免職とさせた。
曹芳の代には右光禄大夫・儀同三司となり、更には衛将軍まで上り、
一度は引退するが、司馬懿の反乱後復帰した。
後漢末から三国魏の政治家。太原郡の人。
太学で学び、王允から只者ではないと評され、曹操が司空になると招聘されたが、
仇討ちの直後だったので、家族を連れ河東郡へ逃げた。
後、友人の賈逵に勧められて仕官し、荀彧からも高く評価された。
曹丕・曹叡の代には孫資と共に魏の機密を担い、遼東を巡る魏呉対立では、離間策を講じた。
曹叡の危篤時には、後見人争いで曹爽と司馬懿を支持し、曹宇らを免職とさせた。
曹芳の代には右光禄大夫・儀同三司となり、更には衛将軍まで上り、
一度は引退するが、司馬懿の反乱後復帰した。
閻温(伯倹)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 |
62 | 75 | 58 | 65 | 66 | 不屈 | B | C | A | B | B | C | ? | 211 | 馬超 |
【エンオン(ハクケン)】
後漢末の将。天水郡西城の人。
曹操に仕え、上邽の令を務める涼州の別駕を務めた。
馬超の反乱によって城が包囲されると、脱出を計って夏侯淵に伝えようとしたが、
反乱軍に生け捕りにされた。
馬超から、城に残る部下たちを降伏させる様に説得されたが、
閻温は城の部下に逆に士気上げを行った為、再び捕えられた時に処刑された。
後漢末の将。天水郡西城の人。
曹操に仕え、上邽の令を務める涼州の別駕を務めた。
馬超の反乱によって城が包囲されると、脱出を計って夏侯淵に伝えようとしたが、
反乱軍に生け捕りにされた。
馬超から、城に残る部下たちを降伏させる様に説得されたが、
閻温は城の部下に逆に士気上げを行った為、再び捕えられた時に処刑された。
趙昂(偉章)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 配偶者 | 嫌悪 |
68 | 77 | 56 | 57 | 61 | 繁殖 | A | B | C | A | C | C | ? | ? | 王異 | 馬超 |
【チョウコウ(イショウ)】
魏の将。涼州刺史の韋康の参軍。
韋康が再起のために挙兵した馬超に殺害されたため、楊阜らと共に復仇の戦に身を投じる。
馬超が張魯と結び、息子の趙月を人質とした際も、あくまで抵抗を続けた。
妻は賢夫人として名高い王異。
魏の将。涼州刺史の韋康の参軍。
韋康が再起のために挙兵した馬超に殺害されたため、楊阜らと共に復仇の戦に身を投じる。
馬超が張魯と結び、息子の趙月を人質とした際も、あくまで抵抗を続けた。
妻は賢夫人として名高い王異。
趙儼(伯然)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 57 | 76 | 81 | 74 | 補佐 | B | C | A | C | A | B | 171 | 245 |
【チョウゲン(ハクゼン)】
魏の将。曹魏四代に仕える。潁川郡陽翟県の人。
荊州に疎開し杜襲・繁欽と共に暮らしていたが、曹操が許に献帝を迎えた報せを聞き、中央に帰還。
地方官時代は刑罰と恩愛を上手く使い民心を安んじる政治を行い、参軍としては魏の諸将を良く支えた。
その後も馬超・韓遂の反乱鎮圧後の処理や関羽討伐でも諸将の統制に功を挙げている。
曹丕の即位後は、曹休の軍師として対呉戦線の軍師役を務め、
曹叡の時代には監荊州諸軍事・監豫州諸軍事・大司農といった高官を歴任。
曹芳の時代に征西将軍・驃騎将軍・司空にまで昇進し、死去した。
魏の将。曹魏四代に仕える。潁川郡陽翟県の人。
荊州に疎開し杜襲・繁欽と共に暮らしていたが、曹操が許に献帝を迎えた報せを聞き、中央に帰還。
地方官時代は刑罰と恩愛を上手く使い民心を安んじる政治を行い、参軍としては魏の諸将を良く支えた。
その後も馬超・韓遂の反乱鎮圧後の処理や関羽討伐でも諸将の統制に功を挙げている。
曹丕の即位後は、曹休の軍師として対呉戦線の軍師役を務め、
曹叡の時代には監荊州諸軍事・監豫州諸軍事・大司農といった高官を歴任。
曹芳の時代に征西将軍・驃騎将軍・司空にまで昇進し、死去した。
鮑勛(叔業)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
68 | 51 | 77 | 71 | 74 | 明鏡 | B | C | B | B | A | C | ? | 226 | 鮑信 |
【ホウクン(シュクギョウ)】
後漢末から魏の政治家。鮑信の子。
父の功績によって召されて丞相掾となり、曹丕の立太子後、太子中庶子に任じられた。
万人に公正な態度で接し、曹丕の要求を排したた為に恨みを買った。
曹操の没後は、駙馬都尉・侍中を兼任し、内政の重要性を上奏したが、
曹丕から煙たがられ、上奏文を即座に破棄するに至った。
呉遠征に際しても諫言を続けたため、曹丕の不興を買い左遷。
後、陳留太守の孫邕を巡る諍いから逮捕され、
鍾繇・華歆・陳羣・司馬懿らの助命嘆願も空しく処刑された。
後漢末から魏の政治家。鮑信の子。
父の功績によって召されて丞相掾となり、曹丕の立太子後、太子中庶子に任じられた。
万人に公正な態度で接し、曹丕の要求を排したた為に恨みを買った。
曹操の没後は、駙馬都尉・侍中を兼任し、内政の重要性を上奏したが、
曹丕から煙たがられ、上奏文を即座に破棄するに至った。
呉遠征に際しても諫言を続けたため、曹丕の不興を買い左遷。
後、陳留太守の孫邕を巡る諍いから逮捕され、
鍾繇・華歆・陳羣・司馬懿らの助命嘆願も空しく処刑された。
和洽(陽士)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
41 | 44 | 82 | 86 | 71 | 能吏 | C | C | B | C | C | C | ? | ? |
【カコウ(ヨウシ)】
後漢末から魏の政治家。汝南郡西平の人。
荊州の劉表の元に疎開し、礼遇されたが、暗愚と判断して武陵に居住した。
曹操が荊州を平定後、招聘された。
人事担当の崔琰と毛玠を批判したが、後に毛玠が讒言にあった際、
曹操に事実関係の調査を強く依頼し、毛玠は免職で済まされた。
魏の建国後、王粲、杜襲と共に侍中となった。
漢中征伐時は漢中放棄策を提言したが、結局は進言通りとなった。
曹操没後も文帝・明帝の下で高官に上ったが、生活は質素だったという。
後漢末から魏の政治家。汝南郡西平の人。
荊州の劉表の元に疎開し、礼遇されたが、暗愚と判断して武陵に居住した。
曹操が荊州を平定後、招聘された。
人事担当の崔琰と毛玠を批判したが、後に毛玠が讒言にあった際、
曹操に事実関係の調査を強く依頼し、毛玠は免職で済まされた。
魏の建国後、王粲、杜襲と共に侍中となった。
漢中征伐時は漢中放棄策を提言したが、結局は進言通りとなった。
曹操没後も文帝・明帝の下で高官に上ったが、生活は質素だったという。
盧毓(子家)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
48 | 21 | 78 | 83 | 75 | 眼力 | B | C | C | B | C | C | 183 | 257 | 盧植 |
【ロイク(シカ)】
魏の政治家。盧植の末子で4男。涿郡涿県の人。
幼くして肉親を戦乱で失ったが、学問・品行によって称えられた。
曹丕が五官中郎将となると招聘され、崔琰の推挙で冀州主簿となり、曹丕の即位後は各地の太守を歴任した。
曹叡の代になると、諸葛誕や鄧颺ら名声ある人物が「絵餅」として批判されたため、人材登用に当たる。
管寧・韓曁・常林らの起用を勧め、人格・品行ある人物を特に推薦した。
司馬懿の政変後、曹爽の裁判を担当し、曹爽らは皆死刑にされた。
最後には司空まで昇進している。
魏の政治家。盧植の末子で4男。涿郡涿県の人。
幼くして肉親を戦乱で失ったが、学問・品行によって称えられた。
曹丕が五官中郎将となると招聘され、崔琰の推挙で冀州主簿となり、曹丕の即位後は各地の太守を歴任した。
曹叡の代になると、諸葛誕や鄧颺ら名声ある人物が「絵餅」として批判されたため、人材登用に当たる。
管寧・韓曁・常林らの起用を勧め、人格・品行ある人物を特に推薦した。
司馬懿の政変後、曹爽の裁判を担当し、曹爽らは皆死刑にされた。
最後には司空まで昇進している。
衛臻(公振)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
43 | 30 | 83 | 76 | 73 | 看破 | C | C | B | C | B | C | ? | ? |
【エイシン(コウシン)】
後漢、魏の政治家。父は曹操の挙兵を支援した衛茲。
夏侯惇に計吏として登用された。
その後、後漢の黄門侍郎となり、曹丕が即位すると魏の散騎常侍となる。
群臣が魏の徳を讃える中で後漢を賛美したことを曹丕に賞賛され、吏部尚書となった。
諸葛亮の第2次北伐では糧道を断つよう進言している。
第5次北伐では、呼応した呉の朱然の進軍が陽動であることを見抜き、
孫権の合肥攻めを蜀への見せかけの行動であるとして曹叡の親征を諌めた。
毌丘倹の公孫淵攻めも無謀として批判し、言葉通り討伐は失敗した。
晩年は司空、司徒を歴任した。
後漢、魏の政治家。父は曹操の挙兵を支援した衛茲。
夏侯惇に計吏として登用された。
その後、後漢の黄門侍郎となり、曹丕が即位すると魏の散騎常侍となる。
群臣が魏の徳を讃える中で後漢を賛美したことを曹丕に賞賛され、吏部尚書となった。
諸葛亮の第2次北伐では糧道を断つよう進言している。
第5次北伐では、呼応した呉の朱然の進軍が陽動であることを見抜き、
孫権の合肥攻めを蜀への見せかけの行動であるとして曹叡の親征を諌めた。
毌丘倹の公孫淵攻めも無謀として批判し、言葉通り討伐は失敗した。
晩年は司空、司徒を歴任した。
※生年は180年前後、没年は245年頃に設定。
衛茲の戦死が190年、登用されたのが198年、正始年間(240~249)に列侯に封じられたことからの推定。
衛茲の戦死が190年、登用されたのが198年、正始年間(240~249)に列侯に封じられたことからの推定。
韓曁(公至)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
70 | 56 | 76 | 83 | 87 | 発明 | B | C | B | C | A | C | ? | 238 |
【カンキ(コウシ)】
後漢末から魏の政治家。前漢の韓王信の子孫。
父と兄を陥れられた際、決死の士を雇い敵討ちを行ったことで有名となった。
袁術、劉表の招聘を拒否したが、却って恨まれたため、
身の危険を感じて劉表の招聘に応じ出仕した。
当時は冶金業で馬力鞴を用いていたが、人力・水力鞴を発明し、従来の三倍の利益を挙げた。
これにより、大臣に次ぐ司金校尉の官号を与えられた。
曹丕の時代に大鴻臚と太常を務め、曹叡の時代に司徒まで昇進し、死去。
晩年は質素倹約を重んじ、淫祀邪教の矯正に努める政治を推し進めた。
後漢末から魏の政治家。前漢の韓王信の子孫。
父と兄を陥れられた際、決死の士を雇い敵討ちを行ったことで有名となった。
袁術、劉表の招聘を拒否したが、却って恨まれたため、
身の危険を感じて劉表の招聘に応じ出仕した。
当時は冶金業で馬力鞴を用いていたが、人力・水力鞴を発明し、従来の三倍の利益を挙げた。
これにより、大臣に次ぐ司金校尉の官号を与えられた。
曹丕の時代に大鴻臚と太常を務め、曹叡の時代に司徒まで昇進し、死去。
晩年は質素倹約を重んじ、淫祀邪教の矯正に努める政治を推し進めた。
徐宣(宝堅)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛武将 | 嫌悪武将 |
68 | 55 | 79 | 81 | 80 | 指導 | B | C | B | C | C | B | 176? | 236 | 陳登 | 陳矯 |
【ジョセン(ホウケン)】
後漢末から三国時代の政治家。広陵海西の人。
江東に移住していたが、孫策の任用を断り帰郷し、陳矯と共に綱紀に挙げられ、
陳登に信任され、やがて曹操に臣従した。
馬超の反乱の際、曹操から清廉公正さを認められ左護軍となり、留守を任された。
曹丕からは国家の柱石と評価され、御史中丞となる。
広陵で曹丕の船が横転すると駆けつけ、勇気を評価された。
曹叡の代には、桓範の推挙で左僕射となり、同じく信任された。
高齢で引退を考えたが明帝に慰留され、葬儀は質素にするよう遺言し没した。
後漢末から三国時代の政治家。広陵海西の人。
江東に移住していたが、孫策の任用を断り帰郷し、陳矯と共に綱紀に挙げられ、
陳登に信任され、やがて曹操に臣従した。
馬超の反乱の際、曹操から清廉公正さを認められ左護軍となり、留守を任された。
曹丕からは国家の柱石と評価され、御史中丞となる。
広陵で曹丕の船が横転すると駆けつけ、勇気を評価された。
曹叡の代には、桓範の推挙で左僕射となり、同じく信任された。
高齢で引退を考えたが明帝に慰留され、葬儀は質素にするよう遺言し没した。
毌丘興
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 子 |
54 | 47 | 54 | 70 | 60 | 181? | 毌丘倹 |
阮籍(嗣宗)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
26 | 21 | 83 | 68 | 86 | 詩想 | C | C | C | C | B | C | 210 | 263 |
【ゲンセキ(シソウ)】
魏の政治家。父は「建安七子」の一人である阮瑀。
俗世間を嫌い、老荘思想を追求し、清談を行った集団である竹林の七賢の中心人物。
堂々たる容貌で、学識教養共に広く深かった。
大将軍司馬昭は実子の炎のため、阮籍の娘との婚姻を求めたが、60日酔い続け、縁談は沙汰止みになった。
後に従事中郎となり、歩兵の厨に美酒が多いと聞き、求めて歩兵校尉となった。
音楽、特に琴を愛し、人の欠点を言わず、気に入りの人物には青眼で迎え、礼俗の士を白眼で見た。
これが故事成語の「白眼視」の由来である。
魏の政治家。父は「建安七子」の一人である阮瑀。
俗世間を嫌い、老荘思想を追求し、清談を行った集団である竹林の七賢の中心人物。
堂々たる容貌で、学識教養共に広く深かった。
大将軍司馬昭は実子の炎のため、阮籍の娘との婚姻を求めたが、60日酔い続け、縁談は沙汰止みになった。
後に従事中郎となり、歩兵の厨に美酒が多いと聞き、求めて歩兵校尉となった。
音楽、特に琴を愛し、人の欠点を言わず、気に入りの人物には青眼で迎え、礼俗の士を白眼で見た。
これが故事成語の「白眼視」の由来である。
山濤(巨源)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
29 | 32 | 77 | 79 | 81 | 詩想 | C | C | B | C | B | C | 205 | 283 |
【サントウ(キョゲン)】
魏から西晋の文人。 河内郡懐県の人。
幼時に父を亡くし、貧窮していたが、老荘思想に耽り嵆康、阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。
40代で出仕し司馬氏に属したため、嵆康を推挙した際、「山巨源に与える絶交書」を突きつけられた。
曹爽の台頭で隠棲するが、司馬懿の決起の後再び出仕し、
司馬昭が鍾会の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、鄴の警護に当たり、皇族を監視した。
西晋代には栄達し、司徒にまで登った。
また、鍾会の讒言で殺された、嵆康の遺児の嵆紹らを推挙している。
魏から西晋の文人。 河内郡懐県の人。
幼時に父を亡くし、貧窮していたが、老荘思想に耽り嵆康、阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。
40代で出仕し司馬氏に属したため、嵆康を推挙した際、「山巨源に与える絶交書」を突きつけられた。
曹爽の台頭で隠棲するが、司馬懿の決起の後再び出仕し、
司馬昭が鍾会の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、鄴の警護に当たり、皇族を監視した。
西晋代には栄達し、司徒にまで登った。
また、鍾会の讒言で殺された、嵆康の遺児の嵆紹らを推挙している。
韓綜
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
73 | 70 | 37 | 25 | 12 | 強奪 | A | B | C | B | C | A | ? | 252 | 韓当 |
【カンソウ】
魏の将。呉の功臣韓当の子。
父の死後、爵位と軍勢を継承したが、無法を働き孫権からの罰を恐れ、
父の棺を持って、一族や部曲と共に魏に降伏した。
韓綜は当初から呉に叛く腹算で故意に配下に無法を働かせて自らと同罪にした後、
父の葬儀に託けて一族を集め皆で出奔したとの説もある。
魏に仕えてからは度々呉の辺境で略奪を繰り返し、孫権に恨まれた。
東興の戦いでは前軍督として魏の先鋒となるが、諸葛恪に敗死した。
魏の将。呉の功臣韓当の子。
父の死後、爵位と軍勢を継承したが、無法を働き孫権からの罰を恐れ、
父の棺を持って、一族や部曲と共に魏に降伏した。
韓綜は当初から呉に叛く腹算で故意に配下に無法を働かせて自らと同罪にした後、
父の葬儀に託けて一族を集め皆で出奔したとの説もある。
魏に仕えてからは度々呉の辺境で略奪を繰り返し、孫権に恨まれた。
東興の戦いでは前軍督として魏の先鋒となるが、諸葛恪に敗死した。
丁氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛武将 |
39 | 9 | 62 | 59 | 81 | 祈願 | C | C | B | C | C | C | ? | ? | 曹昂・卞氏 |
【テイシ】
曹操の初代正室。子に恵まれず、生母を亡くした曹昂を代わりに愛育した。
しかし、張繍による宛奇襲の際に曹昂は曹操の身代わりとなって戦死。
愛する子を失った悲嘆で、彼女と曹操の仲は冷え込んでしまう。
曹操は気持ちが修復するのを待つため一旦は彼女を実家に帰らせるが、
心の溝は終生埋まらず、そのまま離縁。
その後、側室の一人である卞氏が後継の正室として迎えられた。
卞氏は丁氏への時候の挨拶、贈り物などを欠かさなかったため、
彼女は以前の自身の非を反省し、深く感謝したという。
曹操の初代正室。子に恵まれず、生母を亡くした曹昂を代わりに愛育した。
しかし、張繍による宛奇襲の際に曹昂は曹操の身代わりとなって戦死。
愛する子を失った悲嘆で、彼女と曹操の仲は冷え込んでしまう。
曹操は気持ちが修復するのを待つため一旦は彼女を実家に帰らせるが、
心の溝は終生埋まらず、そのまま離縁。
その後、側室の一人である卞氏が後継の正室として迎えられた。
卞氏は丁氏への時候の挨拶、贈り物などを欠かさなかったため、
彼女は以前の自身の非を反省し、深く感謝したという。
王元姫
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 | 配偶者 | 親愛武将 |
48 | 17 | 85 | 78 | 92 | 内助 | C | C | B | C | C | C | 217 | 268 | 王粛 | 司馬昭 | 王朗・王粛・司馬師 |
【オウゲンキ】
魏晋南北朝時代の女性。王粛の娘で司馬昭の正室。
司馬炎・司馬定国・司馬攸・司馬兆・司馬広徳・京兆長公主らの母。
幼少より優れた詩論と徳行を父から敬異され、
祖父の王朗から女に産まれたことを惜しまれた程の才媛。
婦道と礼節を弁えて司馬昭へ嫁ぎ、夫の元に鍾会が仕官した際、鍾会の野心を危惧し諌めた。
果たして、後に鍾会は蜀の地で造反した。
夫の司馬昭が死去し、
息子の司馬炎の皇帝即位後には皇太后となる。
尊位であっても日頃の仕事を忘れず、倹約に励み、道理と礼儀を重んじた言動であったという。
魏晋南北朝時代の女性。王粛の娘で司馬昭の正室。
司馬炎・司馬定国・司馬攸・司馬兆・司馬広徳・京兆長公主らの母。
幼少より優れた詩論と徳行を父から敬異され、
祖父の王朗から女に産まれたことを惜しまれた程の才媛。
婦道と礼節を弁えて司馬昭へ嫁ぎ、夫の元に鍾会が仕官した際、鍾会の野心を危惧し諌めた。
果たして、後に鍾会は蜀の地で造反した。
夫の司馬昭が死去し、
息子の司馬炎の皇帝即位後には皇太后となる。
尊位であっても日頃の仕事を忘れず、倹約に励み、道理と礼儀を重んじた言動であったという。
夏侯徽(媛容)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
10 | 3 | 74 | 65 | 80 | 看破 | C | C | C | C | C | C | 211 | 234 | 夏侯尚 |
【カコウキ(エンヨウ)】
司馬師の最初の正室。夏侯尚の娘、夏侯玄の妹。
見識のある女性で、司馬師は事有るごとに先ず彼女に計画を語って助言を受けていた。
しかし司馬師が魏の純臣でないと気付いたため、司馬師に忌まれ24歳の時に毒殺された。
晋が成立すると司馬師の後妻である羊徽瑜の働きかけにより、皇后位が追贈された。
司馬師との間に五女を設けたが、男子は生まれなかった。
司馬師の最初の正室。夏侯尚の娘、夏侯玄の妹。
見識のある女性で、司馬師は事有るごとに先ず彼女に計画を語って助言を受けていた。
しかし司馬師が魏の純臣でないと気付いたため、司馬師に忌まれ24歳の時に毒殺された。
晋が成立すると司馬師の後妻である羊徽瑜の働きかけにより、皇后位が追贈された。
司馬師との間に五女を設けたが、男子は生まれなかった。
羊徽瑜
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 配偶者 | 親族 |
12 | 5 | 75 | 68 | 84 | 内助 | C | C | C | C | C | C | 214 | 278 | 司馬師 | 蔡邕 |
【ヨウキユ】
司馬師の正室。羊祜の姉。
司馬師が夏侯徽を毒殺、呉氏(呉質の娘)を離縁したため、3人目の正室となる。
晋書ではその為人について「聡明で才能があった」とのみ記されている。
司馬炎が即位すると司馬一族への追号が行われたが、司馬一族で疎まれていた夏侯徽のみ除かれていた。
そのため夫の前妻であった夏侯徽の名誉回復を武帝司馬炎に働きかけた。
司馬師の正室。羊祜の姉。
司馬師が夏侯徽を毒殺、呉氏(呉質の娘)を離縁したため、3人目の正室となる。
晋書ではその為人について「聡明で才能があった」とのみ記されている。
司馬炎が即位すると司馬一族への追号が行われたが、司馬一族で疎まれていた夏侯徽のみ除かれていた。
そのため夫の前妻であった夏侯徽の名誉回復を武帝司馬炎に働きかけた。
楊俊(季才)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
48 | 41 | 78 | 70 | 73 | 眼力 | C | C | C | C | C | C | ? | 222 | 司馬懿、曹植 |
【ヨウシュン(キサイ)】
魏の政治家。
戦乱の世になると、郷里の河内が交通の要衝であることから戦場となることを予測し、
郷里の人々を避難させた。
司馬一族では司馬朗の名声が高かったが、司馬懿や司馬芝の才能を早くから認めた。
また、孤児で奴隷だった王象を見出した。
安陵令、南陽太守を務めるが、魏諷の反乱を察知できず責任を取って辞職した。
後継者争いで曹植についたため曹丕に恨まれた。
曹丕が帝位に就くと自殺を命じられ、賜死した。
曹丕に司馬懿と王象が顔から血を流すほど叩頭して助命を嘆願したが聞き入れられず、人々には冤罪として痛惜された。
魏の政治家。
戦乱の世になると、郷里の河内が交通の要衝であることから戦場となることを予測し、
郷里の人々を避難させた。
司馬一族では司馬朗の名声が高かったが、司馬懿や司馬芝の才能を早くから認めた。
また、孤児で奴隷だった王象を見出した。
安陵令、南陽太守を務めるが、魏諷の反乱を察知できず責任を取って辞職した。
後継者争いで曹植についたため曹丕に恨まれた。
曹丕が帝位に就くと自殺を命じられ、賜死した。
曹丕に司馬懿と王象が顔から血を流すほど叩頭して助命を嘆願したが聞き入れられず、人々には冤罪として痛惜された。
王象(羲伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
39 | 47 | 74 | 73 | 70 | C | C | C | C | C | C | ? | 222頃 |
【オウショウ(ギハク)】
魏の政治家。
孤児で奴隷の身分にあったが、楊俊に才能を見出され、楊俊は主家から彼の身を買い取った。
曹丕に重用され、王粲・陳琳らの亡き後は一番の才能とされた。
散騎侍郎、常侍、秘書監を歴任し、曹丕撰の類書「皇覧」の編纂を行った。
曹丕の巡行に随行するが、宛の県令が曹丕の詔を誤解し城門を閉ざしていた。
これに怒った曹丕が南陽太守の楊俊の責任として捕縛したため、顔から流血するまで叩頭し助命を嘆願した。
しかし楊俊は死を賜り、救えなかった自責の念から王象も後を追うように病死した。
魏の政治家。
孤児で奴隷の身分にあったが、楊俊に才能を見出され、楊俊は主家から彼の身を買い取った。
曹丕に重用され、王粲・陳琳らの亡き後は一番の才能とされた。
散騎侍郎、常侍、秘書監を歴任し、曹丕撰の類書「皇覧」の編纂を行った。
曹丕の巡行に随行するが、宛の県令が曹丕の詔を誤解し城門を閉ざしていた。
これに怒った曹丕が南陽太守の楊俊の責任として捕縛したため、顔から流血するまで叩頭し助命を嘆願した。
しかし楊俊は死を賜り、救えなかった自責の念から王象も後を追うように病死した。
裴潜(文行)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
60 | 54 | 75 | 78 | 68 | 踏破 | B | B | A | C | C | B | ? | 244 |
【ハイセン(ブンコウ)】
魏の政治家。裴秀の父。
戦乱を避けて荊州の劉表のもとに身を寄せ、その後長沙に移った。
曹操が荊州に入ると、参丞相軍事に任じられる。
曹操に劉備について尋ねられると、「天下統一は出来ないが、地方の領主は務まる」と答えた。
代郡太守に任じられると、兵を連れず単身で赴き、郡を荒らしていた烏丸を心服させた。
孫権の合肥侵攻に際して援軍を率いるが、揚州の温恢から孫権より関羽に備えるよう助言され、
関羽侵攻の報せを受けると軽装兵を率いて荊州の救援に向かった。
曹丕、曹叡の治世で要職を歴任し、人事改革で功績を上げた。
魏の政治家。裴秀の父。
戦乱を避けて荊州の劉表のもとに身を寄せ、その後長沙に移った。
曹操が荊州に入ると、参丞相軍事に任じられる。
曹操に劉備について尋ねられると、「天下統一は出来ないが、地方の領主は務まる」と答えた。
代郡太守に任じられると、兵を連れず単身で赴き、郡を荒らしていた烏丸を心服させた。
孫権の合肥侵攻に際して援軍を率いるが、揚州の温恢から孫権より関羽に備えるよう助言され、
関羽侵攻の報せを受けると軽装兵を率いて荊州の救援に向かった。
曹丕、曹叡の治世で要職を歴任し、人事改革で功績を上げた。
劉靖
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
74 | 55 | 76 | 76 | 78 | 築城 | B | B | A | C | A | C | ? | 254 | 劉馥 |
【リュウセイ】
魏の武将、政治家。劉馥の子、晋の劉弘の父。
黄門侍郎、廬江太守を歴任する。
河南尹となると民に農蚕の指導を行い、犯罪(窃盗)を減らし、災害の被害を減らし、
官吏の綱紀を引き締める仁政を敷き、劉馥の遺風を継いだと賞賛された。
その後、大司農、衛尉を務め、広陸侯に封じられた。
鎮北将軍・仮節都督・河北諸軍事に任じられると、侵犯する異民族ごとに防衛策を策定し、北辺の守備に功績を上げた。
薊で堤防を築いて戻陵堰を修復し、灌漑を整備し稲作を奨励して民を利した。
魏の武将、政治家。劉馥の子、晋の劉弘の父。
黄門侍郎、廬江太守を歴任する。
河南尹となると民に農蚕の指導を行い、犯罪(窃盗)を減らし、災害の被害を減らし、
官吏の綱紀を引き締める仁政を敷き、劉馥の遺風を継いだと賞賛された。
その後、大司農、衛尉を務め、広陸侯に封じられた。
鎮北将軍・仮節都督・河北諸軍事に任じられると、侵犯する異民族ごとに防衛策を策定し、北辺の守備に功績を上げた。
薊で堤防を築いて戻陵堰を修復し、灌漑を整備し稲作を奨励して民を利した。
蘇則(文師)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
77 | 64 | 72 | 78 | 73 | 親羌 | A | C | B | A | C | C | ? | 224 |
【ソソク(ブンシ)】
魏の政治家、武将。
酒泉、安定、武都の太守を歴任し、その統治に威名があった。
曹操の張魯討伐の際に見出され、曹操の軍を先導した。
張魯が投降すると、下弁の氐族、金城の羌族を慰撫する。
涼州の民心を安定させ、農耕技術を教えたため、数千家が帰順した。
麹演が涼州で大規模な乱を起こすと郝昭らと平定に従事し、偽降してきた麹演を斬った。
曹丕が禅譲を受けて後漢が滅ぶと慟哭した。
曹丕の狩猟に随行した際に、過失を侵した官を斬ろうとした曹丕を諌める。
これを曹丕に疎まれて左遷され、任地の東平に向かう途上で没した。
魏の政治家、武将。
酒泉、安定、武都の太守を歴任し、その統治に威名があった。
曹操の張魯討伐の際に見出され、曹操の軍を先導した。
張魯が投降すると、下弁の氐族、金城の羌族を慰撫する。
涼州の民心を安定させ、農耕技術を教えたため、数千家が帰順した。
麹演が涼州で大規模な乱を起こすと郝昭らと平定に従事し、偽降してきた麹演を斬った。
曹丕が禅譲を受けて後漢が滅ぶと慟哭した。
曹丕の狩猟に随行した際に、過失を侵した官を斬ろうとした曹丕を諌める。
これを曹丕に疎まれて左遷され、任地の東平に向かう途上で没した。
鄭渾(文公)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
73 | 57 | 73 | 80 | 78 | 屯田 | C | C | B | C | B | C | ? | ? |
【テイコン(ブンコウ)】
魏の政治家。
淮南に避難し袁術に厚遇されたが、袁術の下に来たことを失敗と悟り、
予章太守の華歆の下に投じ、曹操に召された。
任地で桑畑や稲田を奨励して豊かにさせ、人々に喜ばれ「鄭」を字にする男女が増加するほどだった。
その後、関中に赴任して梁興に対抗して民心を安定させ、夏侯淵の梁興討伐を支援した。
京兆尹でも農業を推進し、曹操の漢中侵攻の兵站を担い賞賛される。
曹丕の代にも痩せた土地で灌漑を行って民を利し、曹叡によって治績が全国に公布された。
公務において清素だったため、家族は貧しく暮らしていた。
魏の政治家。
淮南に避難し袁術に厚遇されたが、袁術の下に来たことを失敗と悟り、
予章太守の華歆の下に投じ、曹操に召された。
任地で桑畑や稲田を奨励して豊かにさせ、人々に喜ばれ「鄭」を字にする男女が増加するほどだった。
その後、関中に赴任して梁興に対抗して民心を安定させ、夏侯淵の梁興討伐を支援した。
京兆尹でも農業を推進し、曹操の漢中侵攻の兵站を担い賞賛される。
曹丕の代にも痩せた土地で灌漑を行って民を利し、曹叡によって治績が全国に公布された。
公務において清素だったため、家族は貧しく暮らしていた。
倉慈(孝仁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
69 | 58 | 80 | 86 | 78 | 仁政 | C | B | C | B | C | C | ? | ? |
【ソウジ(コウジン)】
魏の政治家。
曹操の淮南での屯田で綏集都尉を務める。
曹丕の代に長安令となり、清明簡約な政治を行い民に敬愛された。
曹叡が即位すると敦煌太守となる。
敦煌は戦乱の中で隔絶され統治されていない状態だったが、
倉慈が赴任すると、土地の権力者を押さえ、貧しい民を救済した。
土地を民に振り分け、法治のもとに裁決を下した。
西域との貿易で公平な利益が出るよう取り計らい、異民族はその徳を讃えて服した。
数年この職を務めて在官のまま没し、官民は悲しみながら倉慈の遺像や祠を立てて慕い祀ったという。
魏の政治家。
曹操の淮南での屯田で綏集都尉を務める。
曹丕の代に長安令となり、清明簡約な政治を行い民に敬愛された。
曹叡が即位すると敦煌太守となる。
敦煌は戦乱の中で隔絶され統治されていない状態だったが、
倉慈が赴任すると、土地の権力者を押さえ、貧しい民を救済した。
土地を民に振り分け、法治のもとに裁決を下した。
西域との貿易で公平な利益が出るよう取り計らい、異民族はその徳を讃えて服した。
数年この職を務めて在官のまま没し、官民は悲しみながら倉慈の遺像や祠を立てて慕い祀ったという。
朱鑠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
75 | 72 | 42 | 50 | 63 | B | B | B | C | C | C | ? | ? | 曹丕 | 呉質 |
【シュシャク】
魏の将軍。
司馬懿・陳羣・呉質と共に、曹丕の四友の一人として数えられている。
呉質の邸宅で宴会が催された際、肥満体だった曹真とともに
痩身であることを呉質に嘲笑され、激昂した朱鑠は剣を放擲して帰ってしまった。
魏の将軍。
司馬懿・陳羣・呉質と共に、曹丕の四友の一人として数えられている。
呉質の邸宅で宴会が催された際、肥満体だった曹真とともに
痩身であることを呉質に嘲笑され、激昂した朱鑠は剣を放擲して帰ってしまった。
邴原(根矩)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
14 | 9 | 80 | 64 | 78 | 指導 | C | C | C | C | C | C | ? | ? | 曹丕 |
【ヘイゲン(コンク)】
後漢末の学者。魏の政治家。北海出身。
若い頃に州府から招聘されるが拒み、黄巾の乱が起きると遼東へ避難した。
遼東では同郷の劉政と勇略雄気を有する人物として名を上げる。
劉政が公孫度に殺されそうになると匿い、青州へ帰還する太史慈に劉政を託した。
管寧の勧めにより帰郷すると、教えを請う遊学の士が絶えなかったという。
その後、曹操に召し出され仕える。
曹沖の死と同時期に娘を亡くしており、曹操は合葬を望んだが断っている。
曹操の出征時には張範とともに留守を預かり、曹丕を補佐した。
曹操の呉征伐に従軍し、陣没した。
後漢末の学者。魏の政治家。北海出身。
若い頃に州府から招聘されるが拒み、黄巾の乱が起きると遼東へ避難した。
遼東では同郷の劉政と勇略雄気を有する人物として名を上げる。
劉政が公孫度に殺されそうになると匿い、青州へ帰還する太史慈に劉政を託した。
管寧の勧めにより帰郷すると、教えを請う遊学の士が絶えなかったという。
その後、曹操に召し出され仕える。
曹沖の死と同時期に娘を亡くしており、曹操は合葬を望んだが断っている。
曹操の出征時には張範とともに留守を預かり、曹丕を補佐した。
曹操の呉征伐に従軍し、陣没した。
※「邴」の字は認識されないので、登録する場合は「丙」を代わりに用いる。
管寧(幼安)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
10 | 7 | 82 | 51 | 84 | 名声 | C | C | C | C | C | C | 158 | 241 |
【カンネイ(ヨウアン)】
後漢末の学者。北海出身。
容姿は八尺の長身で、髭と眉が美しかったという。
友人の華歆、邴原と共に遊学し、3人で「一龍」と称された。
公孫度が治める遼東に避難する。
曹操が招聘しようとしたが、公孫康はその命令を握り潰した。
曹丕が即位すると華歆の推挙により招聘される。
遼東から帰還すると、太中大夫に任じられたが受けなかった。
曹叡の代には、華歆が自らの官位(太尉)を譲ろうとしたがこれも固辞した。
陳寿には「高尚で落ち着きがあり、確固として動かなかった」と評されている。
後漢末の学者。北海出身。
容姿は八尺の長身で、髭と眉が美しかったという。
友人の華歆、邴原と共に遊学し、3人で「一龍」と称された。
公孫度が治める遼東に避難する。
曹操が招聘しようとしたが、公孫康はその命令を握り潰した。
曹丕が即位すると華歆の推挙により招聘される。
遼東から帰還すると、太中大夫に任じられたが受けなかった。
曹叡の代には、華歆が自らの官位(太尉)を譲ろうとしたがこれも固辞した。
陳寿には「高尚で落ち着きがあり、確固として動かなかった」と評されている。
※嫌悪武将に華歆を設定するのも有り(演義では華歆と絶交している)。
涼茂(伯方)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
61 | 54 | 75 | 83 | 72 | C | C | B | B | C | C | ? | ? | 曹丕 |
【リョウボウ(ハクホウ)】
後漢末の政治家。曹操に仕えた。
盗賊が蔓延っていた泰山の太守に任じられると、
1ヶ月で千余りの家が涼茂を頼ってくるほどの治績を上げる。
楽浪太守に任じられると、公孫度に抑留され帰順するよう求められたが屈しなかった。
公孫度が曹操の北征で留守になっている鄴を攻めようとしたが、これを諌めた。
曹丕が五官将となるとその下で長史、左軍師を歴任する。
曹操が魏公なると尚書僕射、中尉奉常を務めた。
曹丕が立太子されると太子太傅となり非常に敬われたが、在官のまま没した。
後漢末の政治家。曹操に仕えた。
盗賊が蔓延っていた泰山の太守に任じられると、
1ヶ月で千余りの家が涼茂を頼ってくるほどの治績を上げる。
楽浪太守に任じられると、公孫度に抑留され帰順するよう求められたが屈しなかった。
公孫度が曹操の北征で留守になっている鄴を攻めようとしたが、これを諌めた。
曹丕が五官将となるとその下で長史、左軍師を歴任する。
曹操が魏公なると尚書僕射、中尉奉常を務めた。
曹丕が立太子されると太子太傅となり非常に敬われたが、在官のまま没した。
補足:公孫度を止めたエピソードは、曹操の柳城への北征(207年)と公孫度の没年(204年)から整合しないと裴松之は注釈している。
衛覬(伯儒)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
30 | 29 | 76 | 81 | 68 | 祈願 | C | C | C | C | C | C | ? | 229 |
【エイキ(ハクジュ)】
魏の政治家。衛瓘の父。
曹操により、袁紹と結んだ劉表を掣肘するため、劉璋への出兵要請に派遣される。
しかし、益州への道が不通だったため長安に留まり、長安の復興に尽力した。
関中の荒廃状況を荀彧に上奏したが、曹操は鍾繇の建議で張魯征伐を優先したため
馬超・韓遂の関中侵攻を招き、衛覬の上奏に従わなかったことを後悔した。
尚書、侍中を歴任し、王粲と魏国の制度を定める。
後漢の侍郎となって曹丕への禅譲に協力し、後に魏の尚書に復位した。
曹叡の代には法の整備や、宮殿造営を減らして民の苦役を軽くするよう忠言を行った。
魏の政治家。衛瓘の父。
曹操により、袁紹と結んだ劉表を掣肘するため、劉璋への出兵要請に派遣される。
しかし、益州への道が不通だったため長安に留まり、長安の復興に尽力した。
関中の荒廃状況を荀彧に上奏したが、曹操は鍾繇の建議で張魯征伐を優先したため
馬超・韓遂の関中侵攻を招き、衛覬の上奏に従わなかったことを後悔した。
尚書、侍中を歴任し、王粲と魏国の制度を定める。
後漢の侍郎となって曹丕への禅譲に協力し、後に魏の尚書に復位した。
曹叡の代には法の整備や、宮殿造営を減らして民の苦役を軽くするよう忠言を行った。
※演義では「衛凱(エイガイ)」の名で登場する。
劉廙(恭嗣)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 |
26 | 14 | 77 | 73 | 67 | 論客 | C | C | C | C | C | C | 180 | 221 | 劉表 |
【リュウヨク(キョウシ)】
魏の政治家。
兄の劉望之が劉表の従事で身を寄せていたが、
劉望之の諫言が劉表に疎まれ殺害されたため、揚州に逃げ、その後曹操に投じた。
丞相掾となり、後に曹丕のもとに転任して曹丕の信任を得る。
曹操が蜀へ親征しようとすると、徳行を重ね農桑と節約に務めて民心を安定させるほうが先であると諌めた。
魏諷の反乱に弟の劉偉が加わったため連座の罪に問われたが、曹操に不問に付された。
曹丕が即位すると侍中となり関内侯を賜ったが、間もなく没した。
数十篇の著書があり、丁儀と刑や礼について論じ合ったと記録されている。
魏の政治家。
兄の劉望之が劉表の従事で身を寄せていたが、
劉望之の諫言が劉表に疎まれ殺害されたため、揚州に逃げ、その後曹操に投じた。
丞相掾となり、後に曹丕のもとに転任して曹丕の信任を得る。
曹操が蜀へ親征しようとすると、徳行を重ね農桑と節約に務めて民心を安定させるほうが先であると諌めた。
魏諷の反乱に弟の劉偉が加わったため連座の罪に問われたが、曹操に不問に付された。
曹丕が即位すると侍中となり関内侯を賜ったが、間もなく没した。
数十篇の著書があり、丁儀と刑や礼について論じ合ったと記録されている。
※「廙」の字は、PC版ではTe-Person Editorの外字機能で入力可能。
王観(偉台)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 |
58 | 38 | 79 | 83 | 81 | 仁政 | C | C | B | C | A | C | ? | 260 | 曹爽 |
【オウカン(イタイ)】
魏の政治家。
曹操に召し出され、各地の県令や太守を務め、その治績を称賛された。
鮮卑の掠奪に遭っていた涿郡では、官民を督励して防備工事を施し、鮮卑の侵犯から防御した。
郡の状況を公平に報告して息子を人質として鄴へ送り、
自ら手本となって清素な態度を示したため、部下もそれに倣って励んだ。
中央に戻ると、曹爽の専横には法を厳守して抵抗し、司馬懿が曹爽を廃すると中領軍の指揮を任される。
曹髦、曹奐の代にも要職を歴任し、司空にまで上った。
陳寿は王観の政治の清廉さを「清勁貞白」と称賛している。
魏の政治家。
曹操に召し出され、各地の県令や太守を務め、その治績を称賛された。
鮮卑の掠奪に遭っていた涿郡では、官民を督励して防備工事を施し、鮮卑の侵犯から防御した。
郡の状況を公平に報告して息子を人質として鄴へ送り、
自ら手本となって清素な態度を示したため、部下もそれに倣って励んだ。
中央に戻ると、曹爽の専横には法を厳守して抵抗し、司馬懿が曹爽を廃すると中領軍の指揮を任される。
曹髦、曹奐の代にも要職を歴任し、司空にまで上った。
陳寿は王観の政治の清廉さを「清勁貞白」と称賛している。
補足:曹叡の代に郡の治政は「劇・中・平」の三段階評価で、「中・平」の場合に太守は人質を鄴に送る必要があった。
王観の子は病弱だったが、民の利益をとって「中・平」と報告して息子を人質に出した。
王観の子は病弱だったが、民の利益をとって「中・平」と報告して息子を人質に出した。
曹袞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 | 母 | 親愛 |
24 | 21 | 75 | 79 | 83 | 詩想 | C | C | C | C | C | C | ? | 235 | 曹操 | 杜氏 | 曹植、曹叡 |
【ソウコン】
曹操の子。中山恭王。
幼い時から学問を好み十余歳で文章を著したが、
熱中し過ぎて体調を心配され諌められるほどだった。
他の兄弟達が遊興に耽る中、一人経典に打ち込み称賛されるが、
これを聞くと更に自らを戒めた。
封地では倹約に努め、妃妾達にも紡績や機織りを行わせた。
来朝した際に京の交通の禁を犯して訴えられたが、曹叡は平素の恩行から配慮を示した。
病に倒れると、曹叡は勅命で侍医を派遣し、太妃や曹林(同母弟)も遣わしたが、病没した。
生涯で2万余言の文章を著し、文才は曹植に及ばなかったがよく交流を持った。
曹操の子。中山恭王。
幼い時から学問を好み十余歳で文章を著したが、
熱中し過ぎて体調を心配され諌められるほどだった。
他の兄弟達が遊興に耽る中、一人経典に打ち込み称賛されるが、
これを聞くと更に自らを戒めた。
封地では倹約に努め、妃妾達にも紡績や機織りを行わせた。
来朝した際に京の交通の禁を犯して訴えられたが、曹叡は平素の恩行から配慮を示した。
病に倒れると、曹叡は勅命で侍医を派遣し、太妃や曹林(同母弟)も遣わしたが、病没した。
生涯で2万余言の文章を著し、文才は曹植に及ばなかったがよく交流を持った。
曹彪(朱虎)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 | 親愛 |
54 | 57 | 39 | 37 | 42 | C | C | C | B | C | C | 195 | 251 | 曹操 | 曹植、王凌 |
【ソウヒョウ(シュコ)】
曹操の子。楚王。
太子だった曹丕の宴会に参加した際、朱建平から57歳の時に刀兵の災いに遭うと予見される。
曹丕が即位すると白馬王に移封され、
任地に向かう際に親交を持っていた曹植から「贈白馬王彪」の名文が贈られた。
令狐愚と王淩が司馬懿の専横を除くために曹芳の廃位と曹彪の擁立を計画すると、
曹彪も令狐愚や王淩と連絡を取り合っていたが、計画を察知した司馬懿により計画は失敗する。
司馬懿により死を賜り、57歳で死んだ。
曹操の子。楚王。
太子だった曹丕の宴会に参加した際、朱建平から57歳の時に刀兵の災いに遭うと予見される。
曹丕が即位すると白馬王に移封され、
任地に向かう際に親交を持っていた曹植から「贈白馬王彪」の名文が贈られた。
令狐愚と王淩が司馬懿の専横を除くために曹芳の廃位と曹彪の擁立を計画すると、
曹彪も令狐愚や王淩と連絡を取り合っていたが、計画を察知した司馬懿により計画は失敗する。
司馬懿により死を賜り、57歳で死んだ。
游楚(仲允)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
73 | 67 | 84 | 76 | 70 | 楽奏 | C | A | B | C | C | C | ? | ? | 張既 | 胡軫 |
【ユウソ(チュウイン)】
魏の武将。
張既に推挙されて漢興太守となり、後に隴西太守に転任し、刑殺を好まず恩徳のある統治を敷く。
諸葛亮の北伐を受け、天水と南安は太守を追放して蜀に付くが、
游楚は民と結束し、堅守の方針を立てて隴西に籠城する。
蜀兵が迫ると長史の馬顒を城外に布陣させ、鼓を鳴らして蜀兵を去らせた。
街亭の敗戦で諸葛亮が撤退すると、功績で列侯に封じられる。
明帝の代に昇殿し、儀式の作法を知らなかったが功労を励まされた。
音楽を好んで歌手や奏者を随行させ、樗蒲や投壺の遊戯を楽しみ、
北地太守となって七十余歳で亡くなった。
魏の武将。
張既に推挙されて漢興太守となり、後に隴西太守に転任し、刑殺を好まず恩徳のある統治を敷く。
諸葛亮の北伐を受け、天水と南安は太守を追放して蜀に付くが、
游楚は民と結束し、堅守の方針を立てて隴西に籠城する。
蜀兵が迫ると長史の馬顒を城外に布陣させ、鼓を鳴らして蜀兵を去らせた。
街亭の敗戦で諸葛亮が撤退すると、功績で列侯に封じられる。
明帝の代に昇殿し、儀式の作法を知らなかったが功労を励まされた。
音楽を好んで歌手や奏者を随行させ、樗蒲や投壺の遊戯を楽しみ、
北地太守となって七十余歳で亡くなった。
※父の游殷を無実の罪を着せて殺した司隷校尉の胡軫は、董卓配下の胡軫と同一人物と思われる。
東里袞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 相性 |
59 | 56 | 73 | 14 | 47 | 徴収 | B | B | C | B | C | C | ? | 221以降 | 于禁 |
【トウリ・コン】
曹操の将、南陽太守。軍務のために重役を課したため、侯音らの反乱を招く。
関羽の討伐に従軍するも、上官の于禁ともども捕虜となってしまい、孫権によって曹丕の元へ送還される。
孫権の面従腹背を見抜いていたが、主張が受け入れられることはなかった。
曹操の将、南陽太守。軍務のために重役を課したため、侯音らの反乱を招く。
関羽の討伐に従軍するも、上官の于禁ともども捕虜となってしまい、孫権によって曹丕の元へ送還される。
孫権の面従腹背を見抜いていたが、主張が受け入れられることはなかった。
呂常
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 相性 |
74 | 73 | 69 | 76 | 78 | 鉄壁 | B | B | A | C | B | B | 161 | 221 | 満寵 |
【リョジョウ】
魏の将軍。南陽の人。武勇に優れ将軍として活躍する一方、領地では善政を敷いた。
北上する関羽に襄陽を包囲されるも、関羽が敗退するまで城を守り通した。
221年に逝去すると、上下の別なく彼の死を悼み、功績を称える石碑が立てられた。
魏の将軍。南陽の人。武勇に優れ将軍として活躍する一方、領地では善政を敷いた。
北上する関羽に襄陽を包囲されるも、関羽が敗退するまで城を守り通した。
221年に逝去すると、上下の別なく彼の死を悼み、功績を称える石碑が立てられた。
※襄陽を固守した呂常と、実名不詳の章陵太守呂某を同一化。
曹安民
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
70 | 69 | 67 | 65 | 72 | 不屈 | A | B | B | B | C | C | ? | 197 | 曹昂・典韋 |
【ソウ・アンミン】
曹操の弟の子。
宛の張繍が曹操に降伏した際、曹操の長男である曹昂と共に従軍した。
曹操が張繍の叔母の鄒氏に骨抜きにされているところに張繍が強襲し、
曹昂、典韋らと同じく曹操を宛より脱出させるために戦い、討死した。
曹操の弟の子。
宛の張繍が曹操に降伏した際、曹操の長男である曹昂と共に従軍した。
曹操が張繍の叔母の鄒氏に骨抜きにされているところに張繍が強襲し、
曹昂、典韋らと同じく曹操を宛より脱出させるために戦い、討死した。
※名の安民は字とする説がある。
何夔(叔龍)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
72 | 58 | 76 | 78 | 70 | C | B | B | C | B | B | ? | ? | 毛玠 | 丁儀 |
【カキ(シュクリュウ)】
後漢末から魏の政治家。何曾の父。
戦乱を避け揚州へ避難していたが、袁術が揚州へ進出すると曹操の下へ逃れて登用された。
曹操の属官となった時、毒薬を飲む覚悟で職務に当たったという。
その後、群太守をいくつか経験し、海賊の管承を説得し降伏させ、郭祖、従銭ら賊軍を平定した。
東牟の王営が反乱を起こした時、計略を用いて10ヶ月の内に鎮圧した。
曹丕が立太子されると太子少傅となり、涼茂と共に仕えた。
後漢末から魏の政治家。何曾の父。
戦乱を避け揚州へ避難していたが、袁術が揚州へ進出すると曹操の下へ逃れて登用された。
曹操の属官となった時、毒薬を飲む覚悟で職務に当たったという。
その後、群太守をいくつか経験し、海賊の管承を説得し降伏させ、郭祖、従銭ら賊軍を平定した。
東牟の王営が反乱を起こした時、計略を用いて10ヶ月の内に鎮圧した。
曹丕が立太子されると太子少傅となり、涼茂と共に仕えた。
顔斐(文林)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
39 | 24 | 72 | 86 | 84 | 仁政 | C | C | C | B | C | C | ? | ? |
【ガンピ(ブンリン)】
後漢末から魏の政治家。済北の人。
才能・学識があり、曹操に登用されて太子洗馬となった。その後、黄門侍郎となり、転じて京兆太守となった。
京兆では根気よく農業殖産・学問の奨励につとめ、京兆の豊かさは常に雍州一であったという。
諸葛亮の北伐に備えて長安付近に滞陣していた司馬懿の兵が略奪を行っていることを司馬懿に直言し、厳しく兵を統率させた。
平原太守へ転任する時、顔斐を慕う民衆が彼の車を遮って進めないほどであった。
顔斐が病没すると京兆の民は皆涙を流し、彼を讃える碑を建てた。
後漢末から魏の政治家。済北の人。
才能・学識があり、曹操に登用されて太子洗馬となった。その後、黄門侍郎となり、転じて京兆太守となった。
京兆では根気よく農業殖産・学問の奨励につとめ、京兆の豊かさは常に雍州一であったという。
諸葛亮の北伐に備えて長安付近に滞陣していた司馬懿の兵が略奪を行っていることを司馬懿に直言し、厳しく兵を統率させた。
平原太守へ転任する時、顔斐を慕う民衆が彼の車を遮って進めないほどであった。
顔斐が病没すると京兆の民は皆涙を流し、彼を讃える碑を建てた。
韋康(元将)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
70 | 64 | 71 | 74 | 79 | 鉄壁 | C | A | B | B | B | C | ? | 212 | 楊阜 |
【イコウ(ゲンショウ)】
曹操の涼州刺史。韋誕の兄。
孔融に弟の韋誕と共に「双殊」と称され、意志が強く度量が大きい人物であったという。
荀彧の推挙で曹操に仕え、父の韋端が太僕として召されると、代わりに涼州刺史を務め、
楊阜を重用し自らの輔佐をさせた。
のちに馬超が攻めてくると、冀城に籠もり長期間もちこたえたが、夏侯淵の援軍が到着する前に敗死した。
しかし、意志を継いだ楊阜らの活躍により馬超の撃退に成功した。
『楊阜伝』と『演義』では楊阜の諫言を無視して馬超に投降し、馬超を支援していた張魯配下の楊昂に殺されている。
曹操の涼州刺史。韋誕の兄。
孔融に弟の韋誕と共に「双殊」と称され、意志が強く度量が大きい人物であったという。
荀彧の推挙で曹操に仕え、父の韋端が太僕として召されると、代わりに涼州刺史を務め、
楊阜を重用し自らの輔佐をさせた。
のちに馬超が攻めてくると、冀城に籠もり長期間もちこたえたが、夏侯淵の援軍が到着する前に敗死した。
しかし、意志を継いだ楊阜らの活躍により馬超の撃退に成功した。
『楊阜伝』と『演義』では楊阜の諫言を無視して馬超に投降し、馬超を支援していた張魯配下の楊昂に殺されている。
晏明
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
55 | 80 | 30 | 19 | 23 | 急襲 | A | A | C | C | C | C | ? | 208 |
夏侯傑
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
36 | 51 | 42 | 40 | 33 | C | C | C | B | C | C | ? | 208? |
淳于導
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
66 | 71 | 55 | 30 | 28 | 捕縛 | C | B | C | C | C | C | ? | 208 |
鍾縉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
59 | 76 | 31 | 10 | 27 | B | C | C | C | C | C | ? | 208 |
鍾紳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
57 | 77 | 28 | 13 | 25 | C | B | C | C | C | C | ? | 208 |
高祚
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 77 | 68 | 53 | 56 | 踏破 | B | B | B | C | B | C | ? | ? |
【コウソ】
曹操配下の将。
陽平関攻略において曹操は軍を引き揚げて張衛、楊任、楊昂らの油断を誘い、
高祚、解[忄剽]らに山を越えて奇襲をかけさせ、楊任を斬り、陽平関を陥落させた。
その後も張衛は抵抗を続けたが、鹿に陣を荒らされたところに高祚と遭遇し、
高祚が軍鼓を打ち鳴らしたため、張衛は戦意喪失し降伏した。
『演義』には登場しない。
曹操配下の将。
陽平関攻略において曹操は軍を引き揚げて張衛、楊任、楊昂らの油断を誘い、
高祚、解[忄剽]らに山を越えて奇襲をかけさせ、楊任を斬り、陽平関を陥落させた。
その後も張衛は抵抗を続けたが、鹿に陣を荒らされたところに高祚と遭遇し、
高祚が軍鼓を打ち鳴らしたため、張衛は戦意喪失し降伏した。
『演義』には登場しない。
令狐邵 (孔叔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 54 | 71 | 80 | 75 | 指導 | C | A | C | A | B | C | ? | 237? |
【レイコショウ (コウシュク)】
魏の虎賁中郎将。令狐愚の族父。父は漢の烏丸校尉。
曹操が袁紹から鄴を攻略し、そのまま令狐邵がいた武安の毛城を制圧すると、
令狐邵は死罪とされたが、令狐邵の父と曹操に面識があったため許されて司空軍謀掾に任じられた。
のちに各地の太守を歴任し、どの任地でも氷雪のように清廉で思いやりのある政治を行い学問を奨励した。
特に弘農では役人に楽詳の下へ遊学させ、学官を置いたので学問が盛んになった。
曹丕の代に羽林郎を経て虎賁中郎将に昇進し、3年後病死した。
族子の令狐愚が一族を滅ぼすことを予見していたという。
『演義』には登場しない。
魏の虎賁中郎将。令狐愚の族父。父は漢の烏丸校尉。
曹操が袁紹から鄴を攻略し、そのまま令狐邵がいた武安の毛城を制圧すると、
令狐邵は死罪とされたが、令狐邵の父と曹操に面識があったため許されて司空軍謀掾に任じられた。
のちに各地の太守を歴任し、どの任地でも氷雪のように清廉で思いやりのある政治を行い学問を奨励した。
特に弘農では役人に楽詳の下へ遊学させ、学官を置いたので学問が盛んになった。
曹丕の代に羽林郎を経て虎賁中郎将に昇進し、3年後病死した。
族子の令狐愚が一族を滅ぼすことを予見していたという。
『演義』には登場しない。
劉雄嗚
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
60 | 70 | 44 | 51 | 88 | 鬼門 or 名声 | C | C | A | C | A | C | ? | ? |
【リュウユウメイ】
魏の将軍。京兆の人。
一日中霧の中を歩いても道に迷わなかったため、人々に雲霧を起こす力があると噂された。
李傕、郭汜らが長安で反乱を起こすと多くの人々に頼られた。
のちに馬超が反乱を起こすが、従わなかったため攻撃され、曹操の下へ赴いた。
曹操に「神のような人を得た」と喜んで将軍に任命されるが、部下に脅迫されて反旗を翻し、
夏侯淵により鎮圧されて張魯の下へ落ち延び、張魯が曹操へ降伏すると共に曹操に帰順した。
曹操に「老賊。またおまえを手に入れたぞ」と言われて元の将軍のまま渤海へ移された。
魏の将軍。京兆の人。
一日中霧の中を歩いても道に迷わなかったため、人々に雲霧を起こす力があると噂された。
李傕、郭汜らが長安で反乱を起こすと多くの人々に頼られた。
のちに馬超が反乱を起こすが、従わなかったため攻撃され、曹操の下へ赴いた。
曹操に「神のような人を得た」と喜んで将軍に任命されるが、部下に脅迫されて反旗を翻し、
夏侯淵により鎮圧されて張魯の下へ落ち延び、張魯が曹操へ降伏すると共に曹操に帰順した。
曹操に「老賊。またおまえを手に入れたぞ」と言われて元の将軍のまま渤海へ移された。
楊沛 (孔渠)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 64 | 70 | 82 | 77 | 風水 | B | C | C | C | B | A | ? | ? |
【ヨウハイ(コウキョ)】
後漢末から魏の政治家。
新鄭県長の頃、曹操が献帝を奉戴する途中で食糧が尽きたが、新鄭の備蓄の食糧を献上して窮地を救った。
長社県令に昇進して法律を無視した曹洪の食客の脚を叩き折って殺してしまうが、
曹操に一目置かれて九江・東平・楽安の太守を歴任し、のちに鄴県令に任命された。
馬超の反乱に対し、征伐軍に従軍して孟津の渡河を指揮した。
その後張既の後任として京兆尹を任じられるが、曹丕の代から儒学重視の起用になり、冷遇された。
引退後、家には余財は無く、死後は同郷者や友人、以前の部下や民が葬儀を執り行ったという。
後漢末から魏の政治家。
新鄭県長の頃、曹操が献帝を奉戴する途中で食糧が尽きたが、新鄭の備蓄の食糧を献上して窮地を救った。
長社県令に昇進して法律を無視した曹洪の食客の脚を叩き折って殺してしまうが、
曹操に一目置かれて九江・東平・楽安の太守を歴任し、のちに鄴県令に任命された。
馬超の反乱に対し、征伐軍に従軍して孟津の渡河を指揮した。
その後張既の後任として京兆尹を任じられるが、曹丕の代から儒学重視の起用になり、冷遇された。
引退後、家には余財は無く、死後は同郷者や友人、以前の部下や民が葬儀を執り行ったという。
王思
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 |
55 | 50 | 70 | 85 | 60 | 能吏 | C | C | B | B | B | C | ? | ? | 梁習 | 猪突 |
【オウシ】
魏の予州刺史。寒門の出。法律に明るかった。
梁習と共に西曹令史を務めた時、曹操に政治に関する意見書を提出し怒りを買ってしまい、
不在時で代わりに梁習が逮捕されたが、梁習は王思をかばい、また王思も自首して死刑になることを望んだため、
曹操は「わが軍に二人の義士がいるとは思わなかった」と感心して許した。
のちに王思は予州刺史、梁習は并州刺史として同時に抜擢された。
その後、曹丕に「純粋な官吏」と称されて関内侯に封ぜられた。
曹芳の代に大司農に昇進するが、高齢によりハエに筆を投げつけるなど短気な性格が目立った。
魏の予州刺史。寒門の出。法律に明るかった。
梁習と共に西曹令史を務めた時、曹操に政治に関する意見書を提出し怒りを買ってしまい、
不在時で代わりに梁習が逮捕されたが、梁習は王思をかばい、また王思も自首して死刑になることを望んだため、
曹操は「わが軍に二人の義士がいるとは思わなかった」と感心して許した。
のちに王思は予州刺史、梁習は并州刺史として同時に抜擢された。
その後、曹丕に「純粋な官吏」と称されて関内侯に封ぜられた。
曹芳の代に大司農に昇進するが、高齢によりハエに筆を投げつけるなど短気な性格が目立った。
馬康 (仲常)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 |
83 | 79 | 51 | 64 | 70 | 妙計 | B | A | A | C | C | A | ? | ? | 曹仁 |
【バコウ (チュウジョウ)】
馬玄の弟。馬津・馬良・馬謖の兄。『荊南諸雄記』のみ登場する。馬統とも。
学問は苦手で武芸や狩猟、音楽を好んだので馬氏の五常の異端児として評価は低かったという。
曹操の招聘に応じて江夏太守となり、侵攻してきた甘寧や徐盛をたびたび撃退した。
剛毅果断な性格で呉を侵攻する機会を常に窺っていたが、上司である曹仁の家人が略奪を行い、
これを厳しく罰したため不仲になり、若くして隠遁した。
馬玄の弟。馬津・馬良・馬謖の兄。『荊南諸雄記』のみ登場する。馬統とも。
学問は苦手で武芸や狩猟、音楽を好んだので馬氏の五常の異端児として評価は低かったという。
曹操の招聘に応じて江夏太守となり、侵攻してきた甘寧や徐盛をたびたび撃退した。
剛毅果断な性格で呉を侵攻する機会を常に窺っていたが、上司である曹仁の家人が略奪を行い、
これを厳しく罰したため不仲になり、若くして隠遁した。
陳勰(太和)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 素質 |
92 | 72 | 91 | 84 | 78 | ※ | B | B | S | C | S | A | 208以前 | 286以降 | 諸葛亮・羊祜 | 晩成・長 |
【チンキョウ (タイワ)】
創意工夫に溢れた人物で、曹丕の代より仕えたとされる。曹髦の代には九龍堰の治水を完遂。
征蜀に従軍し平定後、諸葛亮の用兵術を暗記・完全会得した上で、
鍾会の謀叛未遂事件もあり、危険性を考慮し兵書を破棄した模様。
会得した兵法は羊祜が創設した晋の宿衛軍の中核と成った。
又、彼から対騎兵陣形を伝授された馬隆は271年の会戦で、その用兵術に因り禿髪樹機能の投降に成功した。
※特技は統率・知力系の物を。虚実・妙計・規律・・・辺りを検討?
創意工夫に溢れた人物で、曹丕の代より仕えたとされる。曹髦の代には九龍堰の治水を完遂。
征蜀に従軍し平定後、諸葛亮の用兵術を暗記・完全会得した上で、
鍾会の謀叛未遂事件もあり、危険性を考慮し兵書を破棄した模様。
会得した兵法は羊祜が創設した晋の宿衛軍の中核と成った。
又、彼から対騎兵陣形を伝授された馬隆は271年の会戦で、その用兵術に因り禿髪樹機能の投降に成功した。
※特技は統率・知力系の物を。虚実・妙計・規律・・・辺りを検討?
その他『正史』に名前が登場する、シリーズ未登場の人物
韋誕、衛洪、応璩(オウキョ)、応貞、王弼(オウヒツ)、王瑒(オウチョウ)、王烈、桓威、管辰、邢顒(ケイギョウ)、阮瑀(ゲンウ)、阮咸、胡威、胡昭、桟潜、司馬岐、謝斉、周南、荀緯、荀悦、荀甝(ジュンカン)、荀閎(ジュンコウ)、荀粲、荀彪、荀霬(ジュンヨク)、向秀、徐奕、徐幹、沈遠、宋韓、蘇林、孫該、孫崧(ソンスウ)、張緯、張恭、張就、張臶(チョウセン)、陳暁(チンギョウ)、程暁、丁斐(テイヒ)、丁廙(テイヨク)、杜摯、杜恕、潘勗(ハンキョク)、繁欽、繆襲(ビュウシュウ)、龐淯、李衛、劉楨、劉玲、令狐愚(レイコ・グ)、楼韓、路粋
同様に特別技能者(医師、占師、音楽家等)に関して
呉晋、周宣、朱建平(シュ・ケンペイ)、杜夔(トキ)、樊阿(ハンア)
- 能力変更はNG -- (名無しさん) 2015-03-22 22:12:54
- 曹安民復活してくれ -- (名無しさん) 2015-12-20 08:33:49
- 華表は出て来ないかな。何か父親と相性が合わなさそうだけど。 -- (名無しさん) 2016-02-23 00:48:36
- 傅幹は三国志1に出てたのにここにはいないのか… -- (名無しさん) 2016-03-06 00:55:19
- ホウ徳の将・成何は流石にマイナーすぎるかな…?(´・ω・`) -- (名無しさん) 2016-08-09 18:27:36
- 試しに王元姫を作ってみたら列伝が付いていたのですが
こういう隠し要素はほかの武将にもあるのでしょうか? -- (名無しさん) 2016-09-14 21:17:55 - 史渙が13PKで追加されるそうです -- (名無しさん) 2016-10-04 11:32:16
- あと、ここの中では王必、趙儼、曹安民が追加されてる -- (名無しさん) 2017-03-13 02:16:06
- ここにコメントすることではないかもしれませんが
呉と蜀のページの内容がほとんどが消されてバックアップから復元しようとすると
"コメントプラグインで指定されているログページの編集権限がありません。"
と出て編集できませんでした
初めての編集でよく分からなかったのですが、だれか元に戻してほしいです。 -- (名無しさん) 2019-09-29 03:04:13 - 傅幹は正史だと元々馬騰の配下。 -- (名無しさん) 2021-01-02 18:45:20