耶麻郡慶徳組岩沢村

陸奥国 耶麻郡 慶徳組 岩沢(いはさは)
大日本地誌大系第32巻 128コマ目

府城の西北に当り行程5里12町。
家数17軒、東西1町30間・南北1町42間。
西は山に()ひ東南北は田圃(たんぼ)なり。

東3町52間・南1町32間、共に見頃村の界に至る。その村は南に当り2町20間。
西7町五目組五分一村の山に界ふ。
北2町14町細屋村の界に至る。その村まで3町余。
また
寅(東北東)の方5町小荒井組下三宮村の界に至る。その村まで9町30間余。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
相殿 稲荷神  2座
   若宮八幡 2座
   山神   2座
   八幡宮
   伊豆神
   諏訪神
鎮座 不明
村西1町余、山足にあり。
義家朝臣の勧請という(舊事雑考應徳2年(1085年)の記に、始河沼郡代田組熊野堂村に熊野三社勧請ありしを、本宮をここに移し新宮を新宮村、那智を五目組宇津野村に移せしにやとあり)。
当時は結構巨宏にして神官・社僧も数員ありて社領もまた200町に余れり。天文の頃(1532年~1555年)までも永楽銭120貫文の地ありしとぞ(府下大和町金剛寺に大永2年(1522年)葦名盛舜の寄付状あり。併せ見るべし)。慶長16年(1611年)8月地震*1の為に殿宇・坊舎(ことごと)く破壊せり。後わつかに本社・拝殿造復しその余の殿舎は再興ならず今に礎石のみ存せり。寛文中(1661年~1673年)までは二王門に『奉造立金剛力士形像各一軀木佛工僧仁助木圖造果成大檀那僧琳覺建久六年大歳乙卯二月吉祥日始之』と書せる棟札ありしという(建久6年:1195年)。力士の像も風雨に蝕せられて形体全からず。
鳥居幣殿拝殿あり。

神職 鈴木大和

材木町に居住す。正徳4年(1714年)大和專雄始て当社の神職となる。今の大和專壽まで3代なり。




蛇足。
雄山閣版の新編会津風土記だと岩沢村の記に熊野宮図がありますが、この図は新宮村の所に置くべきでしょう。図内の文字は潰れて読みにくいですが右上の方に三社が鎮座しています。
最終更新:2020年08月20日 19:11