大沼郡高田組根岸中田村

陸奥国 大沼郡 高田組 根岸中田(ねきしなかた)
大日本地誌大系第33巻 23コマ目

府城の西に当り行程2里18町。
家数37軒、東西1町34間・南北2町27間。
西は山に()ひ三方田圃(たんぼ)なり。

東6町沖中田村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り6町。
西11町逆瀬川村の山界に至る。その村は戌(西北西)に当り17町。
南1町46間米沢村の界に至る。その村まで3町。
北8町25間立行事村の界に至る。その村まで13町40間余。
また巳(南南東)の方4町檜目村の界に至る。その村まで7町。

山川

長尾山(なかおやま)

村西にあり。
平山にて松樹多し。
上に壇あり。金滓壇という。江川常俊という者、弘安寺の観音の像を鑄させし時、金滓を埋めし壇なりそぞ。

水利

牛沢堰

米沢村の方より来り沖中田村の方に注ぐ。

村より2町申(西南西)の方にあり。
東西1町10間・南北28間。
元禄10年(1697年)に築く。

寺院

観音堂

村中にあり。
5間5尺四面。
十一面観音を安ず。長6尺2分。
文永10年(1273年)6月17日佐布川村の住江川常俊1人の女子を喪い、悲哀に堪えず菩提のため観音の像を鑄させ、4間四面の堂を創立して安置し不動地蔵を脇士とす。各長4尺。
また弥陀竃焼黒地蔵(名の起る所を伝えず)伊勢八幡春日の堂社及び二王門鐘楼等を造立して供養し、末代修補のため田畠百畝ならびに山林若干を寄付すという。今は堂舎廃してただ観音堂と二王門のみなり。然れども星霜久しく破壊せし故、この堂は寶暦7年(1757年)当寺9世無明再造し、二王門は享和2年(1802年)修補す。

二王門

3間2尺に2間。

弁天堂

二王門を入て右にあり。

別当 弘安寺

本堂の北にあり。
縁起を按ずるに、文應元年(1260年)下野国那須郡雲岩寺より巖知という洞家の僧この地に来り1宇を結び中田庵と號す。弘安2年(1279年)本村の住富塚盛勝(村より6町申(西南西)の方に富塚屋敷という字残れり)臨済宗に帰依し巖智をして済家たらしめ、境内の観音堂とその時の年号とに取り普門山弘安寺と號し田圃及び山林を寄付しければ、左計の大利たりしという。
正安2年(1300年)盛勝死して当寺に葬り弘安寺殿玄翁宗頓と號す。明年2月20日巖知遷化してより諸宗の僧侶住し、師檀の寄進等漸衰え院宇破壊す。寛永19年(1642年)会津郡南青木組天寧村天寧寺會下通巖来て再興し天寧寺の末山曹洞宗となる。
客殿に竈焼黒地蔵・弥陀の2像を安ず。古物なり。
共に長1尺2寸5分。




最終更新:2020年04月09日 21:21