大沼郡大石組水沼村

陸奥国 大沼郡 大石組 水沼(みつぬま)
大日本地誌大系第33巻 74コマ目

府城の西に当り行程12里9町余。
家数27軒、東西1町40間・南北1町7間。
小渓を挟んで東西に住す、三方は山に傍ひ北は只見川に近し。

東31町早戸村の界に至る。その村まで1里10町。
西30町板下村の山に界ふ。
南4町大栗山村の界に至る。その村は未(南南西)に当り7町40間。
北1里24町河沼郡野沢組安座村の山に界ふ。

端村

上田(うはた)

本村の西17町30間にあり。
家数8軒、東西50間・南北32間、北は只見川に傍ひ三方田畝なり。

上大牧(かみおほまき)

本村より丑(北北東)の方3町40間にあり。
家数7軒、東西43間・南北57間、北は山に倚り三方は菜圃(さいほ)にて南は只見川に近し。

下大牧(しもおほまき)

本村より寅(東北東)の方11町にあり。
家数11軒、東西43間・南北1町14間、山麓に住し南は只見川に傍ふ。

高倉(たかくら)

下大牧より寅(東北東)の方4町にあり。
家数15軒、東西1町21間・南北1町、山腰に散居し南は只見川に近し。

山川

高陽(かうやう)

村より亥子(北北西~北の間)の方1里18町余にあり。
東は河沼郡に属し西は越後国蒲原郡に属し峯を限りとす。

木冷沢

村西9町にあり。
大栗山村の境内より来り、4町北に流れ只見川に注ぐ。

只見川

村北40間にあり。
宮崎村の境内より来り、村北を過ぎ屈曲して東南に流るること1里余三更村の界に入る。

関梁

船渡場

村より寅(東北東)の方にて只見川を渡し早戸村に通す。

倉廩

米倉

村中にあり。本組の米を納む。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
相殿 宗像神
造立 不明
村南30間にあり。
鳥居拝殿あり。高林寺これを司る。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 稲荷神
造立 不明
端村下大牧の西北山足にあり。
村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
相殿 稲荷神
造立 不明
端村上大牧の東1町40間にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

高林寺

村中にあり。
赤岩山と號す。
真言宗府下大和町金剛寺の末寺なり。
開基の年代詳ならず。
文禄2年(1593年)宥盛という僧武州より来り住す。それより相継で今に至る。
本尊大日客殿に安ず。

外部リンク等



大山越道

※大山越略図 - 金山町史より

以上のほかに、大石組宮崎より沼越峠(747メートル)を越え、越後小川庄津川に出る津川道があった。一般には大山越と呼ばれ、尾根づたいの険阻な道があった(第10図参照)。おの道は、寛文年間(1661~1672)時の南山御蔵入奉行関藤右衛門によって開発されたといわれている。しかし、すでに加藤氏時代の寛永十九年(1614)あまりにきびしい収納のため大栗山・板下・沼沢村の農民が、越後に逃散(ちょうさん)した時、この道によっている(上巻参照)。よほど以前から開けていた道なのである。この道によれば、宮崎より沼越峠を越え、越後国蒲原郡柴倉村まで三里(12キロ)、柴倉より津川まで五里(20キロ)。越後への最短距離である。ただし、柴倉までは尾根づたいの急峻嶮岨な道である。そのため、文政十年(1828)三月、その改修方を役所に陳情したことがあるが、容れられなかった。ついでに天保十五年(1844、この年改元・弘化元年)八月、前年八十里超の大改修が完成したので、その勢に乗じてか、金山谷・伊南・伊北の各組が合同で、この道を牛馬の通る道に改修するよう陳情している。本書の口絵にある大山越の絵図はこの時に添えた絵図の控である。実に見事にこの大山越の実際を表現している。筆者は不明であるが、よほどの腕前の画家が描いたものであろう。この時の陳情も取上げられなかった。
大山越えの絵図 - 金山町史 下巻より
その後安政三年(1856)六月と慶応元年(1865)八月にも陳情しているが、いずれも取上げられなかった。安政三年の時のは、越後村松城下の坂田健之助なる人の一己の力で普請するというものであって、宮崎村から陳情した。このように、この地域の人たちの切実なる願いが容れられなかったのは、単に道が嶮岨であるという理由からばかりではなかった。この道が改修されて、越後から塩をはじめとする物資がこの道を通って南山にはいるとなると、津川以東の越後街道にそう宿駅が甚大な影響を受けることになる。そのような利害を政治的に代表する会津藩の政策がこの裏にかくされていたろ推察せざるをえないのである。
最終更新:2025年08月27日 23:30