河沼郡野沢組野沢本町

陸奥国 大沼郡 野沢組 野沢本(のさはもと)
大日本地誌大系第33巻 154コマ目

この町は湖水決して後(組の条下を併せ見るべし)初て開きし(ゆえ)本町と名く。もと今の地より東にあり、いつの頃にかここに移し旧地を古町をいう。

府城の西北に当り行程7里17町。
家数79軒、東西5町36間・南北1町35間。
越後街道をはさみ両頬に連なり、中程にて少し北に折れまた西に廻り野沢原町の民家に続き、東南北は田圃(たんぼ)にて越後街道駅所なり(野沢原町の条下と照見るべし)。
また卯辰(東~東南東の間)の方4町に家数2軒あり。
東西8間・南北6間。
この西に一里塚あり。

東11町41間余縄沢村の界に至る。その村は卯辰(東~東南東の間)に当り19町10間。
南13町41間余山口村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り19町30間余。
北3町1間余森野村に界ひ大槻川を限りとす。その村は子丑(北~北北東の間)に当り6町20間余。

端村

大槻(おほつき)

本町の北2町にあり。
家数4軒、東西25間・南北1町20間。
北は大槻川に近く三方田圃なり。
この地もと大なる槻あり、故に名くという。

山川

諏訪峠

町より未(南南西)の方22町にあり。
頂まで3町。野沢原町・中野村と峯を界ふ。
往古信州の諏訪を若松に勧請せし時神輿を置きし所(ゆえ)名くという。

大槻川

端村大槻の北20間にあり。
山口村の境内より来り、丑(北北東)の方へ3町流れ町東にて縄沢村の不動川と合し大槻川となり、戌亥(北西)の方に流るること15町計野沢原町の界に入る。

浅岐川(あさまたかわ)

村南8町にあり。
源は大平(おほたひら)という山より出、戌亥(北西)の方に流るること24町野沢原町の界に入る。
広1間計。

関梁

橋2

一は町より卯辰(東~東南東の間)の方11町10間余、越後街道長谷川に架す。
長5間・幅1丈。徳藏橋という。
昔この町の徳藏という者始て架せし故名くという。
一は端村大槻の北20間余、隣村の通路大槻川に架す。
長12間・幅2間。大槻橋という。

水利

町より未(南南西)の方13町にあり。
周1町30間、茅苅場堤(かやかりはつつみ)という。
正徳中(1711年~1716年)築く。

神社

諏訪神社

祭神 諏訪神?
相殿 山神 4座
   腰王神
   伊豆神
鎮座 不明
町より卯辰(東~東南東の間)の方3町50間にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。

神職 伊藤対馬

寶暦13年(1763年)佐野伊賀由光という者当社の神職となる。その子対馬、故有て佐野を改めて伊藤氏とす。今の対馬由房が父なり。

稲荷神社

祭神 稲荷神?
勧請 不明
町の南7町にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。伊藤対馬が司なり。

寺院

遍照寺

町の北頬にあり。
真言宗野澤山と號す。開基詳ならず。野澤原町如法寺の門徒なり。
本尊大日客殿に安ず。

六地蔵

境内にあり。
形石燈籠の如くにて火ふくろのあるべき所を六角にけづり面ごとに地蔵1軀を彫れり。もと町より辰(東南東)の方11町越後街道古王原という所にありて夜々怪しき形に変し人を誑せしに、一丈夫に逢て疵を破りその妖止しとぞ。今竿石の中程に太刀創のごときもの見ゆ。

古蹟

館跡

今の遍照寺の地なり。
大槻館という。東西34間・南北24間。隍の形存す。
延徳の頃(1489年~1492年)伊藤長門守盛定という者住し大槻氏を称せしにや。野沢原町如法寺所蔵の大般若経に地頭大槻長門守藤原盛定と書付あしりしという。その後大庭太郎左衛門政道という者(ここ)に住し大庭を改めて大槻を称せり。
大槻は葦名家に功ありし者にてしばしばその功にほこり驕奢(きょうしゃ)の行ありければ、ややその禄を削りわずかに30貫文の地(本町・野沢原町・茅本村)を与えてこの館に蟄居せしむ。後野沢原町の館に移り住す居こと3年、大槻ことを憤り密に己が婿なる西方村(大沼郡滝谷組)の地頭山内右近という者と謀し合せ、上杉謙信に内応して怨を報せんとす。右近もまた河口村(大沼郡大石組)の地頭川口左衛門佐という者をかたらはんとて齋竹という盲人を使いとしてつかはしけるに、左靭(ひたりうつほ)(大沼郡大谷組宮下村の境内にあり)という嶮難の岪道を過るとてあやまって密書を落しす。近辺の者これを拾い得て早々黒川に送りければ、盛氏速に兵を発してこれを討んとす。大槻これを聞き山内等と商議し下野尻・小島・夏井等の地頭と示し合せ、天正6年(1578年)2月13日大槻氏は片門村の渡に出張し山内は柳津村(牛沢組)の渡に向いけり。平田是亦・佐瀬不及・富田美作・伊藤大膳の4人に命じて片門の渡に向わしめ、自らは金上兵庫・生江大膳・松本左衛門・新国上総等の部将を率いて柳津の渡に向えり。互いに嶮岨(けんそ)により只見川の岸に傍て備えを立て散々に戦い兎角して2日計は支えしかども、元来微勢なれば山内が勢潰んとす。大槻これを聞て手勢を分けて塩峯峠(藤村の境内にあり)を越えて援けんと欲す。15日援兵いまだ至らずに山内敗して西方村に退き自殺すと聞こえければ、大槻力なく一族郎党30世人と密に山道を越えて山内が領上條(地所詳ならず)のかたに趣んとせしに、その日雪いたくふりて道を埋めその上皆々食に飢しかば、種子池淵(たないけふち)(今大石組宮崎村の境内にありといえども土人その地を詳にせず)という所の巌窟の中にこもり居て雪の晴間を待けるに、このあたりの関根(せきね)(今大石組大石村の端村下井草の地なりといえども里人その事を伝えず)という所の猟人孫兵衛という者ふと行かかりしを大槻喜で招き寄せ飯と鞋とを乞う。彼者甲斐甲斐しく走りまわりて夫々(それぞれ)にまかないしかば、大槻その謝禮とて判金1枚を与えさてこれより上條の方へ案内せば重く恩賞を得さすべしと頼しかば、いと安く肯い(やが)て参るべしとて帰りぬ。時に彼者案内はせずして川口左衛門佐が許に馳行かくと告く。川口即時に衆を率いて進発し猟人を先に立て巌屋をさして馳向う。大槻は孫兵衛が来るを待所に思いもよらず巌屋の四方より閧の聲をつくりかけ、川口が勢はやひしひしと取圍み孫兵衛真先に進み来る。彼者何とかしたりけん、巌屋の前は転び落ければ大槻これを刺殺す。寄手これを見て競集まり(ことごと)くその郎等を殺しぬ。大槻も遂に川口が為に討る(舊事雑考に2月14日大槻太郎左衛門被戮と記し、また15日の条下に大槻討れしよしを記せしは解し難し)。
かくて川口その首を盛氏に献しければ、大槻は聞ゆる不敵者なれども藤戸の謡を知さりけるにこそとあさわらいしとぞ。初陰謀を企てし時只見川以西の地頭多くは大槻が催促に従いしに、天屋村の地頭満田主計盛胤という者その旨に応せざりしかば、事平て後盛氏これを賞して感状を与えしとぞ(下野尻村の条下を併せ見るべし)。

寺跡2

一は町より丑寅(北東)の方にあり。昔圓福寺(山號を伝えず)という太子守宗の寺ありしという。この寺端村大槻に近き故大槻圓福寺と称し大槻太郎左衛門殊に崇敬せいとぞ。大槻館落去の後この寺廃すという。往昔この寺の什物なりしにや、今郭内興徳寺に『奥州會津野澤大槻圓福寺常住應永第七天庚辰六月廿日右筆金資良鏡』と記せし大般若経あり。
一は町より未(南南西)の方8町にあり。昔光照寺という寺ありしに、何の頃にか中野村に移すという。

旧家

竹兵衛

この町の農民なり。家系を詳にせず。
先祖は弥次右衛門とて岡半兵衛が勘定役を勤しという。今なお古文書数通を蔵む。
左に出す(※略)。