府城の西北に当り行程4里27町余。
家数92軒(2軒は堀出新田村の端村重壇新田に雑居す)、東西4町36間・南北2町49間。
村中に官より令せらるる掟条目の制制札あり。
東南は田圃にて、西は山に連なり北は渓水に傍ひ松野村に並ぶ。
萬治中(1658年~1661年)村西の山足拆いて東に歩す。村老教て100歩の外に杙打せしかば止しという。
東8町20間
堀出新田村の界に至る。その村まで9町20間。
西15町20間
木曽組小布瀬原村の山界に至る。その村まで1里4町余。
南6町47間
新宮村の界に至る。その村まで10町50間余。
北43間
松野村に隣りその村際を界とす。
また
辰(東南東)の方10町56間
能力村の界に至る。その村まで15町10間余。
山川
最明峠
村西17町にあり。
小布瀬原の方に踰える峠なり。最明寺入道時頼諸国行脚のときこの所を通行ありし故名くという。
比丘尼平山
村南2町40間余にあり。
中に方20間計の平あり。昔八百比丘尼(
塩川組金川村の条下と併せ見るべし)とて長寿なる尼
爰に住し金を埋し故この名ありという。
野部坂
村西に続き最明峠の越える坂なり。
登こと7町計。
野部三十郎という者この村に住せしとき新に開きし道なりという。
濁川
村東12町30間余にあり。
松野村の方より来り、20間余南に流れ
堀出新田村・
綾金村両村の境内をすぎてまたこの村の境内に入り、6町20間余南に流れ堀出新田村の界に入る。
広8間計。
原野
川前原
村西17町、山中にあり。
5町四方計。
この村の秣場なり。
水利
堤3
一は村より戌(西北西)の方8町にあり。周2町、寺窪堤という。
一は村より申(西南西)の方17町余にあり。周2町20間余、茅沼堤という。
一は村より未(南南西)の方15町30間にあり。周3町50間余、北沢堤という。旧は沼なりしを何れの頃にか堤とす。
神社
稲荷神社
村南3町、山麓にあり。
相伝ふ。源翁慶徳寺に住せし時、ある夜何くともなく一女子あらわれ、師に謂ていう「某は和尚の濟度を蒙りし那須野の殺生石なり。自今佛法擁護の神となりて頓生成佛の恩を報せん」と。即白狐の形を成し須臾にまた十一面観音の像を現し南に飛て稲荷山の山中に入る。因て一社を造営しこの神に崇むという。(慶徳寺の条下を併せ見るべし)。
また奥院とて、本社の戌亥(北西)の方大杉という山の頂にあり。老杉2株あり。当社草創以来の古木なりという。
鳥居
両柱の間7尺。
制札
鳥居の前にあり。
本社
2間四面、東向き。
幣殿
3間に1間半。
拝殿
6間に2間半。
『正一位稲荷社』という額あり。
寶蔵
本社の南にあり。
2間に1間半。
別当 密蔵寺
本山派の修験なり。その先は鈴木某とて應徳中(1084年~1087年)紀伊国熊野山よりこの地に来て新宮村熊野宮の神職たりしが、その子孫移て当社の別当となる。
大永の頃(1521年~1528年)遠孫に元瑝という者あり。現住元隊まで16世なりとぞ。
寺院
慶徳寺
村南2町余、山足にあり。
曹洞宗巻尾山と號す。
縁起を按ずるに、應安元年(1368年)源翁この地に来て庵を結びしに、領主葦名詮盛猟に出てこの庵の辺に紫気の浮ぶを望み源翁の道骨あるを知り来り見て、その徳を崇敬し一宇を建立し
爰に住せしむ。因て紫雲山慶徳寺と號す。半年余にして
雲水200余集まれり。
その後永和元年(1375年~1379年)にまた示現寺(
五目組熱塩村を開基す。應永3年(1396年)の春再び来てこの寺に宿せしに、那須野殺生石の霊現れ白狐に変じ尾を巻て
蹲踞せしが十一面観音の相を現し前山に向て飛去れり。その残れる尾山なりしにより山號を改て巻尾山という。また彼霊を稲荷神と崇めし故、前の山を稲荷山と名くという。
それより弟子相継いで
嗣法し、僅かに5世一峯という僧の時故あって
法脉断絶す。
後に示現寺15世齢岩という僧来てこの山を再興す。これより示現寺の末山となれり。
客殿
8間に6間、東向き。
本尊釈迦。
庫裏
客殿の北にあり。
9間に5間。
衆寮
客殿の南にあり。
5間に3間。
清水
境内にあり。
源翁清水という。周1間余。
薬師堂
村より戌(西北西)の方2町、山上にあり。
草創の初を知らず。
密蔵寺これを司る。
不動堂
村南にあり。
不動座像、長3尺余。
二童子像、長2尺5寸余。
共に運慶作という。
この堂もと村南10町余瀧沢という山にあり。後山下に移し、また今の地に移すという。
密蔵寺司なり。
古蹟
館跡
村南にあり。
本丸跡、東西40間・南北46間。
その東に二丸跡あり。東西30間・南北38間。
その南に三丸迹あり。東西36間・南北30間。
今畠となれども壘塹の形依然として存せり。
天正中(1573年~1593年)葦名氏の臣慶徳善五郎ここに居る。
同13年(1585年)5月松本備中伊達政宗に内応せし時、黒川の諸将塩川村に集て軍議に及び、これ程の事如何て備中計思立べき、味方の内にも野心の者有ん、所詮この川を前に当て寄来る敵を支て軍せんこそ便宜ならめという。中目式部大輔1人は「敵の大勢北方中(この辺をなべて北方という)に乱入し所々に放火せば如何て慶徳1人にて久く怺ふべき、某は善五郎と無二の入魂なれば目前にていう甲斐なく打せんこと本意にあらず、1人なりとも慶徳が館に馳行て彼に力を合すべし」という。人々中目に向て「この軍面々の私に非ず、御辺慶徳へ行とも今のありさまなれば彼が心も計りがたし」という。中目さもあらば慶徳と差違て死すべしとて本名杢亟と共に運慶が館へ赴き善五郎に対面し、その勢合せて700余人小荒井村を経て寺窪に至り、政宗が郎等原田左馬助を打破しは即この館なり。
善五郎は葦名の宿老四天王といわれし1人平田是亦齋が子なり。初是亦齋子なかりしかば弟左京亮を養子とす。善五郎はその後に出生せりとぞ。
またこの村の境内、村南2町10間余に館跡あり。武藤和泉居という。
また村東1町40間余に館跡あり。野部三十郎居という。今畠となりその形は存せり。
村より未申(南西)の方12町30間余を隔て山上にも館跡あり。高館といい新宮氏の端城なりという。
最終更新:2020年08月18日 21:05