府城の西に当り行程1里18町。
家数39軒、東西1町30間・南北2町30間、四方田圃なり。
東1町33間
今和泉村の界に至る。その村まで4町。
西7町
宮袋新田村の界に至る。その村まで12町20間余。
南24間
寺堀村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り3町余。
北5町
下荒井村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り9町20間。
また
未(南南西)の方1町37間
宮袋村の界に至る。その村まで6町余。
戌(西北西)の方7町
十二所新田村の界に至る。その村まで10町30間余。
亥(北北西)の方7町
本多村の界に至る。その村まで10町余。
山川
蓼川
村より3町丑(北北東)の方にあり。
今和泉村の界より来り丑寅(北東)の方に流るること8町30間、
本多村の界に入る。
広7間計。
神社
八王子神社
村東40間にあり。
鳥居あり。下荒井村坂内備前これを司る。
寺院
西福寺
村中にあり。
延命山と號す。
何れの頃にかこの村の地頭荒川大炊助某という者草創し宥與という僧を請て住せしめ、慶長2年(1597年)宥寶という僧住せしという。
真言宗下荒井村蓮華寺の末寺なり。
本尊地蔵客殿に安ず。
古蹟
百騎沼
村北3町10間にあり。
昔石川氏(諱を伝えず)一盃館(本多村の境内に遺跡あり)に拠りしとき、月夜に兵を出せしに折しも蕎麦の花盛りにて路上一面に水色の見えしかば、百騎の兵一同にその沼に駆入り溺死す。因て名つけしという。
寛文の頃(1661年~1673年)までは周60間計ありしという。今は葭多く生じ形
僅かに残れり。この邊より往々鎧・
草摺のくちたるを堀出す事なりとぞ。
舊事雑考に或説を引きて、貞和5年(1349年)会津小松合戦と言うはこの時の事なるべしと云えり。
- 蓼川 - 流域に今和泉村の頭無清水がある?
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最終更新:2020年03月07日 10:30