耶麻郡五目組上三宮村

陸奥国 耶麻郡 五目組 上三宮(かみさんのみや)
大日本地誌大系第32巻 108コマ目

この村、昔は今の地より西北の方所々に散居し加納村といい、八日町、三日町、棚木、三島前、願成寺などいう小名あり。後改て三宮村という。萬治・寛文の間(1658年~1673年)に至り(あつ)めてここに移す。その頃小荒井組下三宮村も分て別村となりしゆえ、「上」の字を(かぶ)らしめしという。

府城の西北に当り行程5里6町余。
家数75軒、東西52間・南北6町40間。
西は小山に続き北は赤崎林に近く四方田畠なり。

東3町28間小荒井組高畠村の界に至る。その村まで6町10間余。
西9町8間譲屋村の界に至る。その村まで13町40間余。
南8町47間小荒井組大荒井新田村の界に至る。その村まで13町20間余。
北2町20間赤崎新田村の界に至る。その村まで3町20間。
また
未(南南西)の方6町53間下三宮村の界に至る。その村まで12町。
申(西南西)の方8町20間慶徳組細屋村の界に至る。その村まで10町50間余。
戌(西北西)の方9町五分一村村の界に至る。その村まで18町。
戌亥(北西)の方5町43間鷲田村の界に至る。その村まで11町40間余。
寅(東北東)の方1町46間吉志田村の界に至る。その村まで6町10間余。

山川

御廟山

村より戌亥(北西)の方4町余にあり。
登ること1町計。
佐原氏の一族この山に葬りし故この名ありという。
もと願成寺の開山隆寛2世實成が墓もこの地にあり。元禄中(1688年~1704年)願成寺の境内に移す。

濁川

村西5町40間余にあり。
鷲田村の境内より来り、南に流るること8町余下三宮村の境内に入る。
広10間余。

若林(わかはやし)

村より未申(南西)の方40間余にあり。
東西43間・南北24間の松林なり。
佐原氏、罪人を誅戮(ちゅうりく)せし所にて、もとは餓鬼林ともいいしとぞ。

関梁

村西5町40間余にあり。
長7間、土橋なり。濁川に架す。
譲屋村に通る径路なり。

郡署

代官所

村中にあり。
役人を置き五目・慶徳両組を支配せしむ。
河沼郡笈川組浜崎郡役所に属す。

神社

三島神社

祭神 三島神?
相殿 伊勢宮
   稲荷神
   熊野宮
   諏訪神
   若宮八幡
勧請 不明
村西3町20間、山上にあり。
村中に北の方にて西に折れこの社に往く小路あり。長3町余。

制札

小路の入口、左の方にあり。

鳥居

制札より1町計を隔て小路の内にあり。
両柱の間1丈2尺。

神門

鳥居より2町計隔て本社の前にあり。

本社

1間四面、東向き。

幣殿

3間に1間半。

拝殿

5間半に2間半。

神供所

拝殿の北にあり。
3間に2間。

寶物

神剣 2振。一は来國作、一は宗近作という。
鉄鈴 1箇。
仮面 3枚。

神職 高村能登

先祖は大和国の者なりという。
慶長の比(1596年~1615年)権大夫喜景という者あり。今の能登尚養が6代の祖なり。
義景が時、吉田家より与えし免許状あり。左に載す(※略)。

熊野宮

祭神 熊野宮?
鎮座 不明
村より申(西南西)の方6町余にあり。
鳥居拝殿あり。高村能登が司なり。

山王神社

祭神 山王神?
鎮座 不明
村西3町30間、青山城の旧跡にあり。
鳥居あり。高村能登が司なり。

五郎神社

祭神 三浦介盛時
鎮座 不明
村西2町30間にあり。
青山城の外郭の跡なりという。
佐原氏その祖三浦介盛時を祭りし所なり(旧跡の条下に照らし見るべし)。
高村能登これを司る。

寺院

願成寺

村中にあり。
叶山と號す(この村もと加納村というにより初め加納山といいしを後人誤て今の名とするにや)。浄土宗京師智恩院の末寺なり。
浄土四流の一多念義の元祖隆寛が開基なりという。
縁起に拠るに、隆寛は粟田関白の後胤少納言資隆の3男なり。自ら無我と號しまた皆空と称す。幼にして台嶽*1に遊び慈鎮の法弟たり。後源空に謁し浄門に帰依す。源空深く奇愛し撰する所の選擇集を付属す。
嘉禄3年(1227年)並榎定照が讒言(ざんげん)により山門の訟起りしかば、同年7月毛利入道西阿に命じて隆寛を奥州に(なが)せらる。西阿帰敬(ききょう)浅からず、隆寛をば己が所領相模国飯山に移置き(加納荘は三浦介盛時が所領なれば隆寛を盛時に預けられしにや。また毛利西阿が室は三浦泰村が女にて盛時と内縁あれば、密談ありて暫く飯山に留しにやという)まつ弟子實成を配所に下す。
同年12月隆寛飯山にて遷化(せんげ)せり。實成遺命に(したが)いその骨を配所に葬り1宇を建立せり。即この寺これなり。
その後文禄中(1593年~1596年)蒲生氏の臣今福求之助・門屋左近右衛門という者この村を領しけるが、堂舎を(こぼ)て居宅を営み僅かに隆寛が真堂のみ残しければ、住持雄譽退院して越後国に行く。
慶長の始め(1596年~)上杉景勝に従い再び会津に来り、城東の地に1寺を建立して(即今府下徒町叶山願成就寺これなり)住しければ当寺は荒廃(こうはい)せしままにてありしが、寛文5年(1665年)小田付組入田付村光徳寺に行譽とて木食(もくじき)勤行(ごんぎょう)の僧あり府に請て堂宇を再興す。
同7年(1667年)と元禄7年(1694年)に田地15石余を寄付す。

制札

門外右にあり。

山門

3間に2間半。
楼上に三十三観音の像を安じ、叶山という額あり。

客殿

8間に7間、東向き。
本尊弥陀の座像、長1尺6寸。開山隆寛源空より相伝の佛にて春日作という。
また弥陀及び二十五菩薩の像を安ず。

庫裏

客殿の北にあり。
14間に4間半。

鐘楼門

庫裏と客殿の間にあり。
鐘1口を懸く。径2尺3寸、43世空譽が時に改鑄る。『延寶八年庚申九月十五日施主植木吉兵衛重次』と彫付けあり(延寶8年:1680年)。

大佛堂

客殿の西にあり。
6間に5間、東向き。
丈六弥陀の坐像、脇立観音勢至を安ず。
延寶中(1673年~1681年)中村阿弥陀堂より移す。堂は中興行譽が建立。
ここより南の法に開山隆寛2世實成、中興行譽及び良友・良浄が石塔5基あり。昔は御廟山にあり、元禄中(1688年~1704年)この地に移す。

衆寮

客殿の東南にあり。
4間半に2間半。

熊野宮

境内にあり。

寶物

琵琶      1面。古物なり。長2尺・幅8寸5分。
二十五菩薩仮面 2枚。昔この寺繁栄の時大会式に、二十五菩薩の面をかふむり音楽を奏じ来迎引接(らいごういんじょう)をなせしという。今僅かにこの2枚を存す。今も村の亥子(北北西~北の間)の方1町計に来迎壇の遺跡存せり。
佛像刻板    2枚。古佛なり(※略)

古蹟

青山城跡

東城・西城とて2あり。
東城は今民居となりその形さだかならず。
西城は村西30間にあり。東西36間・南北40間。
何れの年築きしということ詳ならざれども、佐原氏(俗に加納殿という)の子孫相続てここに住し本郡の内加納荘を領せりという。

佐原氏は遠江守盛連の5男三浦介盛時の子孫なり。盛時初め五郎左衛門尉という。事跡東鑑に詳なり。
康元元年(1256年)相模守時頼落飾(らくしょく)の時、兄光盛・弟時連と(とも)に出家せり(卒年詳ならず)。
應安の比(1368年~1375年)佐原十郎高明あり。盛時より7代、高連の子なりという(府下五之町實相寺にこの人の寄付状の写あり。併せ見るべし)。
何れの比絶たりということ詳ならず。





最終更新:2020年08月08日 17:07

*1 台嶽:比叡山の別称