日本主義とは何か

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#left(){&italic(){&sizex(4){更に思ふ。我等は紛れもなき日本人として、桜咲く日本の国土の上に、幾千年の歴史の中より、生まれ出で、生ひ立ち来った。我等のあるは、日本あるによる。日本の歴史は、その幾千年養ひ来った力を以て今や我等を打出した。我等の人格は、日本の歴史の中に初めて可能である。同時に、日本の歴史は、我等日本の歴史より生れ出て、日本の歴史を相嗣せる日本人によって初めて成立する。・・・求むれば即ち之を得、捨つれば即ち之を失ふ。信ずれば影向し、疑へば消散する。日本の歴史を求め、信じ、復活せしむるものは即ち我等日本人でなければならない。}}} #RIGHT(){&SIZE(15){&BOLD(){平泉澄(文学博士)『國史学の骨髄』(1927年(昭和2年)8月)}}} ---- #center{&size(14.5){&bold(){日本主義とアジア主義、右翼・左翼の思想運動 ~ 戦前日本の思想研究の最前線}}} ---- <目次> #contents *■1.初めに 明治以降~戦前の日本は「天皇制ファシズム」と呼ばれる異常な専制国家であり、特に戦前は暗黒の軍部独裁国家だったとする自虐史観は、GHQの占領期に実施されたW.G.I.P.(War Guilt Information Program,戦争贖罪洗脳計画)によって日本人に刷り込まれたものであると多くのサイトが指摘しています。 確かに公職追放やGHQ焚書を通して米国の都合による一方的な情報工作が行われたことは事実でしょう。 しかし、GHQの占領期間終了から現在に至るまで、ジャーナリズム・思想・史学・法学を初めとする各分野でかくも強く自虐的論説が大勢を占め続けているという状況から、 |BGCOLOR(white):①|BGCOLOR(white):自虐的論説が蔓延している原因を、単にGHQの占領政策にだけ求めるのではなく、| |BGCOLOR(white):②|BGCOLOR(white):戦前期日本の思想状況の中にそれを受け入れる要因が内在していたのではないか、| と一度考えてみる必要があります。 このページでは「日本主義」という隠蔽されてきたキーワードを中心に戦前期日本の思想状況を概括し、GHQの占領政策・洗脳工作に呼応して戦後長く日本の言論界・思想界を汚染し続けているものの正体へと更に一歩深く迫ります。 *■2.日本主義とは何か **◆1.辞書による説明1:「日本主義」 現時点で、wikipedia・広辞苑・デジタル大辞泉では「日本主義」の定義は以下の通り。 |BGCOLOR(#CCCC99):[[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]|日本主義(にほんしゅぎ)|1.日本独自の伝統、文化、精神を基礎として国家の繁栄を目指すという主義。明治時代以降に急激に押し寄せてきた西洋化に対抗する事を目的として高山樗牛や井上哲次郎らによって主張された。&br()2.白陽社から出版されている雑誌。 | |BGCOLOR(#CCCC99):広辞苑(岩波書店)|にほんしゅぎ【日本主義】|国粋主義思想の流れの一。日清戦争後、高山樗牛や井上哲次郎らが提唱。高山が個人主義に転じて以降、衰退。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[デジタル大辞泉(小学館)>http://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]|日本主義【ニホンシュギ】|明治中期、政府の欧化政策に対する反動として起こった国家主義思想。高山樗牛(たかやまちょぎゅう)・井上哲次郎らが雑誌「日本主義」を刊行、日本古来の伝統的精神を重視しようとしたもの。| ブリタニカ国際百科事典(ブリタニカ・ジャパン社)には、もう少しまともな説明があります。 |BGCOLOR(#CCCC99):ブリタニカ国際百科事典|にほんしゅぎ【日本主義】|&color(crimson){&bold(){明治から第二次世界大戦敗戦まで}}における&color(crimson){&bold(){欧化主義・民主主義・社会主義などに反対}}し、&color(crimson){&bold(){日本古来の伝統や国粋を擁護しようとした思想や運動}}をいう。&br()一定の思想体系をなしていたとはいえず、論者により内容が相違する。&br()&color(crimson){&bold(){明治}}の支配層が推し進めた&color(crimson){&bold(){欧化主義への反発}}として三宅雪嶺や高山樗牛らによって唱えられ、政治的には&color(crimson){&bold(){欧米協調主義への反対、国権や対外的強硬策の強調}}となって現れた。&br()&color(crimson){&bold(){大正や昭和}}になって日本の資本主義の高度化が階級対立を激化させ、&color(crimson){&bold(){社会主義やマルクス主義が流入}}すると、これら諸思想の&color(crimson){&bold(){対抗イデオロギー}}として機能し、&color(crimson){&bold(){天皇を中心とする皇道や国体思想を強調}}した。(cf.神国思想)| つまり日本主義には歴史的に見て以下の二段階があるが、広辞苑などメジャーな辞書は①だけを記述している(意図的に②を隠蔽している)。 |BGCOLOR(#FFDB8E):①|BGCOLOR(#FFDB8E):明治期の日本主義|BGCOLOR(WHITE):政府の欧化主義に反発し、国粋主義/国権主義(特に政府の欧米協調路線に反対する攘夷主義)を主張した言論活動(政論的ジャーナリズム)|BGCOLOR(white):他国の侵略から自国・自民族を守る(&color(crimson){&bold(){解放的ナショナリズム}})⇒即ち「&color(crimson){&bold(){右翼}}」思想| |BGCOLOR(#FFDB8E):②|BGCOLOR(#FFDB8E):昭和期の日本主義|BGCOLOR(WHITE):皇道・国体思想を強調して、社会主義やマルクス主義の思想侵略の脅威への対抗イデオロギーとして機能した思想活動|BGCOLOR(white):全体主義の脅威から自国の歴史・伝統に根差した自由を守る(&color(crimson){&bold(){日本型保守主義}})⇒即ち「&color(crimson){&bold(){保守}}」思想| ※「保守」と「右翼」の違いは [[ナショナリズムとは何か]] 参照 **◆2.辞書による説明2:「明治期の日本主義」に関連する様々な人名/雑誌名等 以下ブリタニカ国際百科事典より「明治期の日本主義」に関連する人名等の説明を引用します。 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【高山樗牛】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B]]たかやま・ちょぎゅう&br()(1871-1902)|明治の評論家,思想家。本名は林次郎…(中略)…日清戦争後、井上哲次郎らとともに日本主義を唱え『日本主義』を『太陽』に掲載。ニーチェの死に際し大いに感化を受けニーチェ主義を主張した。1902年文学博士となり晩年は日蓮に傾倒。…(以下省略)| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【井上哲次郎】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%93%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E]]いのうえ・てつじろう&br()(1855-1944)|哲学者。号は巽軒(そんけん)。東京大学教授。ドイツ観念論の移入に努めるとともに現象即実在論を説き、東西思想を包括する体系の樹立に努力。『勅語衍義』『教育と宗教の衝突』を発表。国民道徳を唱導しキリスト教を国体に反するものとして攻撃するなど国家主義を鼓吹した。多年、哲学界の大御所として君臨した。…(以下省略)| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【三宅雪嶺】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E9%9B%AA%E5%B6%BA]]みやけ・せつれい&br()(1860-1945)|ジャーナリスト。哲学者。本名雄二郎。1883年東京大学哲学科卒業。1888年井上円了・杉浦重剛・志賀重昂らの支持を得て政教社を組織し、雑誌『日本人』を発行。徳富蘇峰らの欧化主義に反対して日本主義を提唱した。&br()1889年陸羯南が創刊した新聞『日本』にも主筆格で参加して国粋主義の立場から反政府的な評論活動を展開。&br()1906年『日本』を退社し『日本人』を『日本及日本人』に改題。1923年その他の編集者と対立して同誌を去り、個人雑誌『我観』を創刊。1943年文化勲章受章。…(以下省略)| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【陸羯南】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%BE%AF%E5%8D%97]]くが・かつなん&br()(1857-1907)|ジャーナリスト。本名は実。東奥義塾、司法省法学校を経て太政官の官吏となったが、伊藤博文らの皮相的な欧化主義に反対して辞任。&br()1888年から『東京電報』(それまでの『東京商業電報』を改題した新聞)を主宰した。&br()翌1889年2月11日帝国憲法発布の日に政論新聞『日本』を創刊。激しい弾圧を受けながらも日本主義と称した近代的ナショナリズムを勇敢に主張し続けた。&br()★注釈:後述のように陸羯南は丸山真男が自己の思想的源流の一人として高評価した人物のため、ブリタニカ百科事典でも異例に好意的な説明になっていると思われる。| |BGCOLOR(#CCCC99):【日本】にっぽん&br()(1889創刊-1914廃刊)|陸羯南が1889年2月11日の帝国憲法発布の日に東京で創刊した政論新聞。『日本新聞』ともいう。国家主義的な中立系といわれた。&br()谷干城・三浦悟桜らが資金的に援助し、記者には福本日南・三宅雪嶺・古島一雄・池辺三山・長谷川如是閑・[[丸山幹治>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%B9%B9%E6%B2%BB]]・正岡子規らを集め、近代的ナショナリズムの立場から政府の欧化政策を厳しく批判。創刊後の8年間に30回も発行停止処分を受けた。&br()日清戦争後は次第に経営困難となり、羯南も病に倒れ、1906年6月伊藤欽亮に譲渡された。やがて如是閑らの有力記者もこぞって退社し、政友会系の平凡な新聞に転落。14年末社屋の火災もあって廃刊。| |BGCOLOR(#CCCC99):【日本及日本人】にっぽんおよびにほんじん&br()(1907改題-1923休刊)|1907年1月『日本人』を改題して発行された政教社の総合雑誌。陸羯南時代の『日本』新聞で活躍していた三宅雪嶺ら政教社の有力メンバーは伊藤欽亮に譲渡されたあとの『日本』の編集方針に不満で、こぞって退社し、1888年の創刊以来、機関誌的役割を持っていた『日本人』に『日本』の伝統を担わせるという意味で『日本及日本人』と改題した。&br()1923年の関東大震災で政教社が焼失したことなどから休刊。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【池辺三山】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E8%BE%BA%E4%B8%89%E5%B1%B1]]いけべ・さんざん&br()(1864-1912)|ジャーナリスト。本名吉太郎。陸羯南の『日本』を経て、1896年『大阪朝日新聞』に入社。主筆となり、すぐ転じて『東京朝日新聞』の主筆。彼に私淑していた鳥居素川が『大阪朝日新聞』の主筆を務めており、相呼応して『朝日新聞』の声価を高めた。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【長谷川如是閑】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A6%82%E6%98%AF%E9%96%91]]はせがわ・にょぜかん&br()(1875-1969)|ジャーナリスト。文学者。思想家。幼名は万次郎。1898年東京法学院(中央大学の前身)を卒業し、1902年日本新聞社に入社。06年社長の陸羯南が隠退し、新社長が三宅雪嶺と古島一雄の退社を命じたので、如是閑ら十数人も抗議して退社。07年雪嶺のもとで『日本及日本人』の創刊に参加。08年鳥居素川のすすめで大阪朝日新聞社に入社。やがて小説や紀行文も発表しはじめた。14年社会部長になったが、18年の白虹事件で鳥居ら盟友とともに退社。19年大山郁夫らと雑誌『我等』を創刊した(軍国主義の波が強まった1930年に『批判』と改題し、34年廃刊)。第二次世界大戦中は沈黙がちであったが、戦後の46年貴族院議員、47年日本芸術院会員となり、48年文化勲章を受けた。『長谷川如是閑選集』(全7巻,69-70)に代表著作が収められている。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【大山郁夫】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%83%81%E5%A4%AB]]おおやま・いくお&br()(1880-1955)|社会運動家。早稲田大学卒業後、シカゴ大学に留学。早大教授。『朝日新聞』論説委員、労働農民党および労農党委員長を歴任。1932年より47年までアメリカに政治亡命。47年凱旋将軍のような歓迎を受けて帰国。50年参議院議員に当選。51年スターリン平和賞を受けた。主著『政治の社会的基礎』『現代日本の政治過程』。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【白虹事件】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6]]はっこうじけん&br()(1918年)|1918年『大阪朝日新聞』が政府権力と対立して存亡の危機に追い込まれた日本の新聞史上最大の筆禍事件。当時『大阪朝日』はシベリア出兵、米騒動などに関連して寺内内閣を弾劾する言論の一大拠点であった。8月26日付け夕刊の記事に兵乱の前兆をいう「白虹日を貫けり」の一句があったことが、新聞紙法第41条(安寧秩序紊乱)に違反するとして『大阪朝日』は告訴され、村山竜平社長は退陣、次いで鳥居素川、長谷川如是閑をはじめ大山郁夫、[[丸山幹治>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%B9%B9%E6%B2%BB]]、花田大五郎らも社を去った。同紙がこの事件で「不偏不党公平穏健」に反する傾向があったと自己批判したことは、その後の日本の新聞のあり方に象徴的な影を落としている。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【丸山真男】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9F%E7%94%B7]]まるやま・まさお&br()(1914-1996)|政治学者。日本思想史家。東京大学法学部卒業後、同大助教授を経て1950年教授に就任し、71年退官。46年発表の「超国家主義の論理と心理」で、軍国主義日本の指導者の没主体性を鋭く指摘し、天皇制国家の無責任構造を批判する新視点を提起して論壇に一大衝撃を与えた。&br()『日本政治思想史研究』(52)では、江戸期にさかのぼって日本の政治思想を検証し、政治思想史研究の方法論を確立した。&br()第二次世界大戦直後の代表的論文をまとめた『増補版・現代政治の思想と行動』(64)は、「丸山政治学」のバイブルと呼ばれ、英訳されて海外でも評価を得ている。&br()また、60年安保闘争(cf.安保改定問題)などを通じ、戦後民主主義運動の精神的支柱となったが、後年は日本思想の研究に専念した。&br()日本思想の根本的な構造を明らかにした『日本の思想』(57)は思想界に大きな影響を与えた。そのほか『丸山真男座談』9巻(96)がある。| ※要約すると「明治期の日本主義」には次の二系列があり、両者は余り関係がないと思われる。 |BGCOLOR(lightgrey):(1)|BGCOLOR(white):&color(crimson){&bold(){高山樗牛・井上哲次郎}}らの刊行した&color(crimson){&bold(){文芸雑誌『日本主義』}}(1897年創刊)|BGCOLOR(white):広辞苑・大辞泉・wikipediaは、こちらの「日本主義」のみ記載している。| |BGCOLOR(lightgrey):(2)|BGCOLOR(white):&color(crimson){&bold(){陸羯南}}が創刊し、三宅雪嶺・池辺三山・長谷川如是閑・丸山幹治らが執筆した&color(crimson){&bold(){政論新聞『日本』}}(1889-1906)→三宅が創刊した『日本人』を改題し、池辺・長谷川・丸山などが執筆した&color(crimson){&bold(){総合雑誌『日本及日本人』}}(1907-23)→更に、池辺・長谷川・丸山は白虹事件で退社するまで&color(crimson){&bold(){『大阪朝日新聞』}}に政論を執筆(1908-18)|BGCOLOR(white):&color(crimson){&bold(){近代的ナショナリズム}}の立場から&color(crimson){&bold(){政府}}の&color(crimson){&bold(){欧化政策}}を&color(crimson){&bold(){厳しく批判}}| ※戦後民主主義の代表的論者・&color(crimson){&bold(){丸山真男}}は丸山幹治の二男であり、長谷川如是閑を叔父同様に慕い、また戦後に陸羯南について次のような評価を書いていることに注目。 |BGCOLOR(white):&color(crimson){&bold(){羯南の日本主義}}は上述のように、&color(crimson){&bold(){ナショナリズムとデモクラシーの総合を意図}}した。それがいかに不徹底なものであったとはいえ、これは日本の近代化の方向に対する本質的に正しい見通しである。国際的な立遅れのために植民地ないし半植民地化の危機に曝されている民族の活路はいつもこの方向以外にない。不幸にして日本は過去においてその総合に失敗した。福沢諭吉から陸羯南へと連なる国民主義の最初からにひ弱い動向は、やがて国家主義の強力な支配の裡に吸いこまれていった。そのために下からの運動はむしろ国際主義いな世界市民的色彩をすら帯びざるをえなかった。長きにわたるウルトラ・ナショナリズムの支配を脱した&color(crimson){&bold(){現在こそ、正しい意味でのナショナリズム、正しい国民主義運動が民主主義革命と結合しなければならない}}。それは羯南の課題を継承しつつ、その中道にして止まった不徹底を排除することにほかならぬ。新聞『日本』は明治憲法発布の日に誕生した。…日本国民は羯南の警告にもかかわらず明治憲法に与えられた程度の貧弱な自由すら現実にまもり抜くことができなかった。改正憲法の公布にあたり、われわれは、国民に与えられた諸権利を現実に働くものたらしめ、進んでヨリ高度の自由を獲得するために、よほどの覚悟をもって、これまでに数倍する険峻をのりこえて進まなければならぬであろう。まさしく憲法祭に酔っているときではないのである。| |BGCOLOR(white):~丸山真男「陸羯南-人と思想」(1947年)| ⇒つまり戦後左翼の代表的思想家&color(crimson){&bold(){丸山真男}}は、実は政府の欧化主義に抗して&color(crimson){&bold(){近代ナショナリズム}}を唱えた&color(crimson){&bold(){「明治期の日本主義」の直系の継承者}}である。 その丸山が、戦後に&color(crimson){&bold(){「ウルトラ・ナショナリズム(超国家主義…後述の「革新右翼」)」}}と勝手に同一視して糾弾したのが下記の&color(crimson){&bold(){「昭和の日本主義」}}であり、そのために広辞苑・大辞泉・wikipediaなどでは無視されたままになっていると考えられる。 **◆3.辞書による説明3:「昭和期の日本主義」に関連する様々な人名/機関/出版物等 ブリタニカ国際百科事典より関連する項目の説明を引用します。 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【安岡正篤】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E7%AF%A4]]やすおか・まさひろ&br()(1898-1983)|陽明学者。思想家。幼少から漢籍に親しむ。東京大学法学部在学中に大正デモクラシーに抗して日本主義を唱え、早くから政・官・軍関係者にその名を知られる。&br()1927年私塾・金鶏学院を設立して東洋思想の普及に努め、31年財界首脳をスポンサーに日本農士学校を設立する。&br()第二次世界大戦中は小磯内閣の大東亜省顧問を務めたが終戦の詔勅の起草者の一人でもあった。49年全国師友協会を設立。指導者の教化に力を注ぐ。多くの政・財界人、文化人が師と仰ぎ、安岡の訓話を受けることが指導者の条件とまでいわれた。吉田茂・佐藤栄作・池田隼人ら官僚出身の歴代首相の求めに応じて指南役として助言したが、自らは生涯政治の表舞台に立つことはなかった。陽明学、東洋思想、人生論に関する多数の著書がある。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【紀平正美】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E7%BE%8E]]きひら・ただよし&br()(1874-1947)|哲学者。帝国大学文化大学卒業。国学院大学・東洋大学講師を経て、1919年学習院大学教授。37年精神文化研究所の設立とともに所員となったが、研究所が43年教学錬成所に併合されたのちまもなく退職した。&br()哲学思想としては、初めドイツ観念論を中心とした西欧哲学、特にヘーゲルの影響が強かったが、のち仏教思想を入れ、国民精神文化研究所時代は国家主義思想に傾斜していった。主著『行の哲学』(1931)、『知と行』(38)、『なるほどの哲学』(41)、『なるほどの論理学』(42)。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【国民精神文化研究所】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80]]こくみんせいしんぶんか・けんきゅうじょ&br()(1932年設置-1943年改組)|1932年「国民精神文化ニ関スル研究、指導及普及ヲ掌ル」(同官制1条)目的のもとに設置された文部大臣の直轄機関。前年に設けられた学生思想問題調査会の「我が国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする有力な研究機関」設置を求める答申を受けて設けられた。&br()研究部、事業部、編集部、調査部、庶務部から成り、33年品川区上大崎に庁舎を新築した。『国民精神文化』(隔月刊)『国民精神文化研究』(半年刊)『国民精神文化月報』などの刊行、各種講習会・講演会などの開催を通じて国民思想政策の推進に寄与した。43年国民錬成所(1942設置)と統合して教学錬成所に改組された。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【国体の本義】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93%E3%81%AE%E6%9C%AC%E7%BE%A9]]こくたいのほんぎ&br()(1937年刊)|文部省編。1937年5月刊行。35年頃から高まった「国体明徴」「教学刷新」の意義を明らかにし、その精神を国民に徹底させることを企図した。神話と古典に依拠して、国史の諸過程を「肇国の精神の顕現」としてとらえるとともに、西洋近代思想を激しく排撃している。45年占領軍により『臣民の道』とともに発売禁止となったが、49年にはアメリカでJ.ガントレットの英訳が刊行され、今日にいたるまで研究材料とされている。| ※広辞苑・大辞泉などよりマシとはいえ、ブリタニカ百科事典でも「昭和期の日本主義」に関しては未だに肝心なこと(例として[[原理日本社>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE]]、[[蓑田胸喜>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C]]、[[平泉澄>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E6%BE%84]]など)が記載されていません。 ※なお東欧民主化・ソ連邦解体(冷戦終結)後、既に20年が経過した現在では、戦後に左翼言論人によって激しく糾弾され、もしくは無視された蓑田胸喜など原理日本社同人や平泉澄など「昭和期の日本主義者」のマルクス主義批判・左翼容共思想批判は、論理的には、実に的を射た批判であったことが判明しています。 **◆4.「昭和期の日本主義」参考図書 #include_cache(日本主義パーツ1) **◆5.革新右翼(国家社会主義者)と観念右翼(伝統保守) 上記の[[日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜>http://www.amazon.co.jp/dp/4760133348/]]によれば、左翼が一掃された昭和10年代の日本には、①革新右翼と②観念右翼の二大勢力があり、国内・国外の政策を巡って激しく対立したことが実証されています。 ※ブリタニカ国際百科事典には「観念右翼」のみ項目があり、その中に「(国家社会主義者(組織右翼)」の説明があります(革新右翼を組織右翼とも呼んだ)。 |BGCOLOR(#CCCC99):【観念右翼】かんねん・うよく&br()|特定の右翼党派ではなく、純粋な日本精神主義を思想や行動の原理とする諸団体。上杉慎吉をその源流とする。第二次世界大戦前の右翼運動を思想形態から分類すると、&color(crimosn){国家社会主義派(組織右翼)}と&color(crimson){日本精神主義派(観念右翼)}に大別される。上杉の組織した桐花学園(1913創立)、蓑田胸喜、天野辰夫、菊池利房による興国同志会(19)、平沼騏一郎の国本社、興国同志会の流れをくむ七生社(25)などが観念右翼としてあげられる。| ※革新右翼と観念右翼の理念型([[日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜>http://www.amazon.co.jp/dp/4760133348/]]より引用) |BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:①革新右翼|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:②観念右翼| |BGCOLOR(white):国家改造|BGCOLOR(white):国体明徴| |BGCOLOR(white):高度国防国家|BGCOLOR(white):国民精神総動員| |BGCOLOR(white):解釈改憲|BGCOLOR(white):護憲(不磨の大典)| |BGCOLOR(white):指導者原理|BGCOLOR(white):臣道実践| |BGCOLOR(white):統制経済|BGCOLOR(white):資本制擁護| |BGCOLOR(white):親ソ・親独|BGCOLOR(white):反共・反独裁| |BGCOLOR(white):世界史的な使命|BGCOLOR(white):日本史的な道統| |BGCOLOR(white):陸軍統制派|BGCOLOR(white):陸軍皇道派| |BGCOLOR(white):革新官僚|BGCOLOR(white):財界| |BGCOLOR(white):無産政党|BGCOLOR(white):既成政党(現状維持派)| |BGCOLOR(white):国家社会主義者|BGCOLOR(white):自由主義者| 結論から言うと、この①革新右翼(国家社会主義+アジア主義)が日本を支那事変~大東亜戦争へと誘い込んだのであり、②観念右翼(伝統保守=昭和期の日本主義者)はそれに激しく抵抗したのだが、丸山真男を始めとする所謂「戦後民主主義者(戦後市民派)」は、①・②を故意に同一視して「超国家主義者」「右翼」として貶め続けてきた(さらに言えば、橘孝三郎の一族の立花隆に典型的に見られるように①革新右翼が敗戦後たちまち「戦後市民派」に転向して②観念右翼を糾弾する側に回っている例が多々ある)。 ※以上の経緯は [[右翼・左翼の歴史]] を参照。 ※以下に、①革新右翼すなわち国家社会主義者の項目をブリタニカ百科事典より引用します。 **◆6.辞書による説明4:「超国家主義」(国家社会主義=革新右翼)に関連する様々な人名/機関等 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【北一輝】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B8%80%E8%BC%9D]]きた・いっき&br()(1893-1937)|国家社会主義運動の理論的指導者。本名輝次郎。1919年に執筆した『日本改造法案大綱』は陸軍青年将校の革命のバイブルとされた。1937年刑死。その他の著作『支那革命外史』(1915)| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【大川周明】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E]]おおかわ・しゅうめい&br()(1886-1957)|日本国家主義運動の指導者。東京大学卒業後、満鉄入社。のち軍中央部と手を握り1931年の陸軍部内の一部青年将校が計画した三月事件、同年6月の満州事変を推進した。32年の五・一五事件に連座。第二次世界大戦後、極東国際裁判で連合軍によってA級戦犯として起訴されたが精神錯乱のため釈放された。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【橘孝三郎】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%AD%9D%E4%B8%89%E9%83%8E]]たちばな・こうさぶろう&br()(1893-1974)|農本主義的国家主義者。第一高等学校を中退。郷里に帰って農耕のかたわら思索の生活を続け、大地主義、兄弟主義、勤労主義を三位一体とする農本主義精神に到達した。また長兄、次兄をはじめ一家一族のほとんどがともに同じ農場で働くことになり、兄弟村農場として世間の注目を集めた。1929年愛郷会を創設、31年には私塾愛郷塾を開いて農本主義的な運動を進め、血盟団の井上日召らと関係を結んで極右的・暴力的傾向を強めた。32年の五・一五事件では、愛郷塾生の多数が農民決死隊として参加、橘もこれに連座して無期懲役に処せられた。40年に出獄後、第二次世界大戦の敗戦を経て愛郷塾は「報本農場」として復活し、橘は再び農場経営を営むかたわら農民運動に関係した。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【井上日召】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%97%A5%E5%8F%AC]]いのうえ・にっしょう&br()(1886-1967)|国家主義者。本名昭。血盟団を組織。一人一殺のテロを指導。血盟団事件により、1934年無期懲役確定。1940年恩赦で出獄。| //|BGCOLOR(#CCCC99):[[【】>]]&br()(-)|| ※以下に、①革新右翼すなわち国家社会主義者と親和的な「アジア主義」の関連項目をブリタニカ百科事典より引用します。 **◆7.辞書による説明5:「アジア主義」 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【大アジア主義】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]だい・アジア・しゅぎ&br()Pan-Asianism|欧米列強のアジア侵略に抵抗するため、アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるという考え方。明治初期以来、種々の視角から展開された。&br()植木枝盛は自由平等の原理に基づきアジア諸民族が全く平等な立場で連帯すべきことを説き、樽井藤吉や大井健太郎は、アジア諸国が欧米列強に対抗するために連合する必要があり、日本はアジア諸国の民主化を援助すべき使命があると説いた。&br()明治20年代になると、大アジア主義は明治政府の大陸侵略政策を隠蔽する役割をもつようになった。1901年に設立された黒龍会の綱領にもみられるように、その後の大アジア主義は天皇主義とともに、多くの右翼団体の主要なスローガンとされ、これに基づいて満蒙獲得を企図する政府・軍部の政策が推進された。&br()日本人の大アジア主義的発想は、第二次世界大戦前・戦中の「大東亜共栄圏」構想を支えた。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【大東亜共栄圏】>だいとうあ・きょうえいけん]]&br()|第二次世界大戦を背景に1940年第二次近衛内閣以降45年敗戦まで唱えられた日本の対アジア政策構想。その建設は「大東亜戦争」の目的とされた。&br()東条英機の表現によれば、大東亜共栄圏建設の根本方針は、「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」しようとすることにあった。&br()しかし実際は、東アジアにおける日本の軍事的・政治的・経済的支配の正当化を試みたものに他ならなかったといえる。&br()第一次近衛内閣当時の「東亜新秩序」は日本・満州・中国を含むものに過ぎなかったが、南進論が強まるにつれて、インド・オセアニアにいたる大東亜共栄圏構想に拡大された。大東亜省の設置と大東亜会議の開催は、このような方針の具体化に他ならない。| //|BGCOLOR(#CCCC99):[[【】>]]&br()(-)|| **◆8.まとめ |BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:運動の性格|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:| |BGCOLOR(#FFDB8E):①|BGCOLOR(#FFDB8E):明治期の日本主義|BGCOLOR(WHITE):政府の欧化主義に反発し、国粋主義/国権主義(特に政府の欧米協調路線に反対する攘夷主義)を主張した言論活動(政論的ジャーナリズム)|BGCOLOR(white):他国の侵略から自国・自民族を守る&br()(&color(crimson){&bold(){解放的ナショナリズム}})|BGCOLOR(pink):右翼思想|当初は国粋主義的だった在野言論人の活動は、明治末・大正期に日本が大国化したのちも反骨精神は全く変わらず、今度は次第に左翼思想に理解を示す者が出てきた(左右等価気分説(※1))。更に彼らは、戦後は進歩派・市民派左翼文化人として活発に活動した(長谷川如是閑・丸山真男etc.)。| |BGCOLOR(#FFDB8E):②|BGCOLOR(#FFDB8E):昭和期の日本主義|BGCOLOR(WHITE):皇道・国体思想を強調して、社会主義やマルクス主義の思想侵略の脅威への対抗イデオロギーとして機能した思想活動|BGCOLOR(white):全体主義の脅威から自国の歴史・伝統に根差した自由を守る&br()(&color(crimson){&bold(){日本型保守主義}})|BGCOLOR(pink):保守思想|日本精神主義派(観念右翼)。日本主義的教養を武器に学生・知識人の左傾化を防止し日本精神に目覚めさせると共に、革新右翼の狙う国家改造・解釈改憲・国家経済の社会主義化、更には戦争の長期化を「護憲」の立場から制止・抑制するために奔走。いざ戦争が激化すると国防のために生死を厭わず護国のために尽くした者が多い。| |BGCOLOR(#FFDB8E):③|BGCOLOR(#FFDB8E):アジア主義|BGCOLOR(WHITE):アジア諸民族を白人支配から解放するという大義を掲げ、実際にも明治期の孫文を初めインドのB.ボース、フィリピンのアギナルドらの独立運動と連動しつつ遂行された日本の勢力拡張運動。|BGCOLOR(white):アジア諸民族の独立を支援する(排白人主義)&br()(&color(crimson){&bold(){拡張的ナショナリズム}})|BGCOLOR(pink):極右思想|国家社会主義派(組織右翼=革新右翼)と重なる。代表的イデオローグとして5.15事件に関与した大川周明、2.26事件に連座した北一輝。革新右翼は2.26事件暴発後に勢力を急拡大し三木清など転向左翼の多数が近衛内閣のブレーン集団を形成して国策を左右した。&br()※詳しくは [[右翼・左翼の歴史]] 参照| ※「保守」「右翼」「極右」の違いは [[ナショナリズムとは何か]] 参照 ※1:左右等価気分説…右傾化も左傾化も既成勢力に対する反抗という意味で基本的に同じ心情に基づくものであり、状況が変化すれば左・右転換は容易とする説。 **◆9.辞書による説明6:「京都学派」と「近代の超克」 ※この他に、④として大東亜戦争開始後に「近代の超克」を唱えた西田幾多郎門下の「京都学派」があるのでブリタニカ百科事典から簡単に引用する。 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【京都学派】きょうと・がくは>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E6%B4%BE]]&br()|西田幾多郎および田辺元の哲学探究の伝統を引継いだ京都大学哲学科出身の哲学者たちのグループの総称。&br()1919年田辺が西田によって京大に招聘されて以来両者はともに自己の哲学を創造し、「固体存在の論理」としての西田哲学に対し「社会存在の論理」としての田辺哲学は決定的に対立するようになるが、その真摯な相互批判を通して京大哲学科には活気に満ちた独自の学風が形成され三木清・戸坂潤らをはじめとする多くの哲学徒が参集した。&br()三木・戸坂らはやがてマルクス主義に傾斜しこの学派から離れるが、次いで高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高らのグループが現れ、第二次世界大戦期において世界新秩序論としての「世界史の哲学」を提唱し同戦争の合理化を行いこの学派の旗幟を鮮明にした。普通この高坂・西谷・高山・鈴木らのグループを指して狭義の京都学派と呼ぶことが多い。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【近代の超克】きんだいの超克>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%B6%85%E5%85%8B]]&br()|太平洋戦争勃発直後の1942年、雑誌『中央公論』および『文学界』において論じられたテーマ。川上徹太郎、亀井勝一郎、小林秀雄、林房雄、吉満義彦らの文芸評論家が欧米文化の克服を論じたものである。&br()西欧近代からのアジアの解放を標榜した大東亜戦争を肯定的に受け止めようとする知識人がそこに根拠を求めようとした。&br()思想的には深められないまま終わったが、第二次世界大戦後竹内好がその意義をあらためて主張した。またソ連を頂点とした共産圏崩壊後、新しい国際関係が模索されるなかで、再びその意味を問う声もある。| ※以上で、「日本主義」および関連する「アジア主義」「近代の超克」など諸用語の辞書的な説明を終わります。 ※以下より、戦前日本の思想状況、特に左翼・右翼の両翼の思想運動についてまとめます。 *■3.近代日本の思想状況 **◆1.右翼・左翼学生運動関連年表([[日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜>http://www.amazon.co.jp/dp/4760133348/]]より引用) |BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:和暦|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:西暦|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:出来事|>|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:藤島利郎による区分|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:丸山真男による区分| |BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:右翼学生運動|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:左翼学生運動|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:日本ファシズム運動| |BGCOLOR(white):明治元~|BGCOLOR(white):1868~|BGCOLOR(white):明治維新|BGCOLOR(white):第1期:萌芽期|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):| |BGCOLOR(#FF7E59):大正7|BGCOLOR(#FF7E59):1918~|BGCOLOR(#FF7E59):第一次世界大戦終結|BGCOLOR(white):第2期:台頭期(後半)|BGCOLOR(#FF7E59):台頭期(前半)~全盛期(後半)|BGCOLOR(white):第1期:準備期| |BGCOLOR(white):昭和5|BGCOLOR(white):1930|BGCOLOR(white):ロンドン海軍軍縮条約|BGCOLOR(white):第3期(第1小期):勃興期|BGCOLOR(white):潜行期|BGCOLOR(white):(民間における右翼運動の時代)| |BGCOLOR(white):昭和6|BGCOLOR(white):1931|BGCOLOR(white):満州事変|BGCOLOR(white):第3期(第2小期):興隆期|BGCOLOR(white):凋落期|BGCOLOR(white):第2期:成熟期| |BGCOLOR(#5998FF):昭和7|BGCOLOR(#5998FF):1932|BGCOLOR(#5998FF):五・一五事件|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):(急進ファシズムの全盛時代)| |BGCOLOR(#5998FF):昭和8|BGCOLOR(#5998FF):1933|BGCOLOR(#5998FF):京大滝川事件|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(#5998FF):昭和9|BGCOLOR(#5998FF):1934|BGCOLOR(#5998FF):|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(white):昭和10|BGCOLOR(white):1935|BGCOLOR(white):天皇機関説事件|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(white):昭和11|BGCOLOR(white):1936|BGCOLOR(white):ニ・ニ六事件|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):第3期:完成期| |BGCOLOR(#5998FF):昭和12|BGCOLOR(#5998FF):1937|BGCOLOR(#5998FF):支那事変|BGCOLOR(#5998FF):第3期(第3小期):全盛期|BGCOLOR(white):準壊滅期|BGCOLOR(white):(日本ファシズムの完成時代)| |BGCOLOR(#5998FF):昭和13|BGCOLOR(#5998FF):1938|BGCOLOR(#5998FF):|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(#5998FF):昭和14|BGCOLOR(#5998FF):1939|BGCOLOR(#5998FF):|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(white):CENTER:¦|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(white):昭和20|BGCOLOR(white):1945|BGCOLOR(white):第二次世界大戦終結|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):| |BGCOLOR(#5998FF):右翼学生団体創立ブーム|BGCOLOR(#FF7E59):左翼学生運動台頭~全盛期| ※つまり戦前期の実証的な学生思想運動の研究によれば、大正期から昭和初期にかけて(1910年代の終わりから1920年代)の日本の大学は非常に自由な知的環境にあり、上の図の赤塗部分の通り左翼学生運動が隆盛していた(ロシア革命の影響)。それが当局により問題視され弾圧を受け始めるのは1928年の三・一五事件以降である。 ※満州事変が勃発する1930年代になると今度は、右翼学生運動が盛んになり、天皇機関説事件からニ・ニ六事件の頃に、一時的に下火になるものの支那事変勃発でブームが再開した(その後、第二次近衛内閣の新体制運動による統制の強化により、学生右翼運動も下火になる)。 |BGCOLOR(white):嘗て左翼学生運動の華やかなりし時代或人は謂った。学生には四種ある、①最も頭脳明晰な学生は社会科学を研究して結局左翼運動に奔り、②次に位する者は専心に学校の過程を勉強し、③次に位する者は映画演劇麻雀撞球等の享楽に奔り、④最も下級に在る者のみが右翼運動に参加するに至ると、然し是は今日の右翼運動に関する限りは当を得て居ない。| |BGCOLOR(white):~藤嶋利郎(司法官僚)『最近に於ける右翼学生運動について』(1940年(昭和15年)司法省刑事局刊)| ※上は、大正期に大学時代を過ごした元左翼学生の司法官僚の昭和15年の回想である。これはまるで最近の団塊世代の言いそうな感想であり、戦前の日本が思想的に暗黒時代だった、という戦後左翼の刷り込みは全く根拠がないことが、これだけでも分かると思う。 **◆2.近代日本の思想状況(まとめ) #include_cache(日本主義パーツ2) *■4.戦前日本の思想を考える様々な参考図書 |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1357&file=img5.jpg,with,height=250,)|[[歴史学 (ヒューマニティーズ)>http://www.amazon.co.jp/dp/4000283227]]&br()佐藤 卓己 (著) 2009.5刊&br()&br()内容(「BOOK」データベースより)&br()情報化、グローバル化が加速するメディア社会。公議輿論の足場として、歴史的教養の重要性はますます高まっている。しかし、こうした現実の課題に対して、「大きな物語」が失われたあと、これまでの歴史学は充分に応えてきただろうか。公共性の歴史学という視点から、理性的な討議を可能にする枠組みとして二一世紀歴史学を展望する。&br()&br()★評価&br()著者は[[日本主義的教養の時代―大学批判の古層>http://www.amazon.co.jp/dp/4760128638]]の中心的編集者で良くも悪くも現在の歴史学の水準を体現している人物。ヒューマニティ・シリーズの一冊として、敢えて従来の「(ゴリゴリの)自虐史観」からは距離を置くこのような著者の本が、あの(戦後一貫して自虐史観で真っ黒だった)岩波書店から出版されたこと(出版せざるを得なくなったこと?)は非常に意義深いことである。&br()但し現在の歴史学の限界をも露呈する一冊とも読める。果たして次の世代は、この限界をどれだけ乗り越えられるのかに注目したい。| |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1357&file=img6.jpg,with,height=250,)|[[日本の思想>http://www.amazon.co.jp/dp/400412039X]]&br()丸山真男 (著) 1961.11刊&br()&br()内容(「BOOK」データベースより)&br()現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追究していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。&br()&br()★評価&br()その思想の偏り、事実関係の歪曲・捏造ぶりが散々に指摘される丸山真男の代表的著作。&br()よく読むと丸山と同時代人である蓑田胸喜や平泉博士や京都学派の高山岩男といった今では世間一般では忘れられた思想家、さらには「日本主義」「近代の超克」からエドマンド・バークやカール・ポパーにまで言及している箇所があり、そうした意味でも興味深い。| |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1357&file=img7.jpg,with,height=250,)|[[日本とドイツ 二つの全体主義 「戦前思想」を書く>http://www.amazon.co.jp/dp/433403361X]]&br()仲正 昌樹 (著) 2006.7刊&br()&br()出版社/著者からの内容紹介&br()「戦後思想」があるとすれば、「戦前思想」もあっておかしくないような気がするが、あまり聞かない。しかし「日本とドイツ」に限って言えば、一八七〇年前後から、第二次大戦が本格化する一九四〇年前後までの約七十年間を取ると、結構、意味のある比較をすることができる。何故かというと、両国とも一八七〇年頃に、西欧的な意味での近代国家を形成し、(英国やフランスに比べて)遅ればせながら、[国民国家としての統合→帝国主義的拡張]のプロジェクトに乗り出し、最終的に「(西欧)近代の超克」を目指して全体主義体制を構築し、戦争へと突入していったからである。(「プロローグ」より) &br()&br()★評価&br()戦前日本の思想状況について通史的な図書が他に見当たらないため内容にはかなり問題があるもののこの本を薦めざるを得ない。&br()著者は元統一教会信者であり皇室に対する本質的敬意に欠けており、かつ安倍元首相に対する敵意を剥き出しにしている著作もある人物だが、これが現在の思想界の水準(および限界)と考えてよいと思う。次の世代がこれをどれだけ乗り越えられるか。| *■5.ご意見、情報提供 #comment #include_cache(政治理論・共通)
#left(){&italic(){&sizex(4){更に思ふ。我等は紛れもなき日本人として、桜咲く日本の国土の上に、幾千年の歴史の中より、生まれ出で、生ひ立ち来った。我等のあるは、日本あるによる。日本の歴史は、その幾千年養ひ来った力を以て今や我等を打出した。我等の人格は、日本の歴史の中に初めて可能である。同時に、日本の歴史は、我等日本の歴史より生れ出て、日本の歴史を相嗣せる日本人によって初めて成立する。・・・求むれば即ち之を得、捨つれば即ち之を失ふ。信ずれば影向し、疑へば消散する。日本の歴史を求め、信じ、復活せしむるものは即ち我等日本人でなければならない。}}} #RIGHT(){&SIZE(15){&BOLD(){平泉澄(文学博士)『國史学の骨髄』(1927年(昭和2年)8月)}}} ---- #center{&size(14.5){&bold(){日本主義とアジア主義、右翼・左翼の思想運動 ~ 戦前日本の思想研究の最前線}}} ---- <目次> #contents *■1.初めに 明治以降~戦前の日本は「天皇制ファシズム」と呼ばれる異常な専制国家であり、特に戦前は暗黒の軍部独裁国家だったとする自虐史観は、GHQの占領期に実施されたW.G.I.P.(War Guilt Information Program,戦争贖罪洗脳計画)によって日本人に刷り込まれたものであると多くのサイトが指摘しています。 確かに公職追放やGHQ焚書を通して米国の都合による一方的な情報工作が行われたことは事実でしょう。 しかし、GHQの占領期間終了から現在に至るまで、ジャーナリズム・思想・史学・法学を初めとする各分野でかくも強く自虐的論説が大勢を占め続けているという状況から、 |BGCOLOR(white):①|BGCOLOR(white):自虐的論説が蔓延している原因を、単にGHQの占領政策にだけ求めるのではなく、| |BGCOLOR(white):②|BGCOLOR(white):戦前期日本の思想状況の中にそれを受け入れる要因が内在していたのではないか、| と一度考えてみる必要があります。 このページでは「日本主義」という隠蔽されてきたキーワードを中心に戦前期日本の思想状況を概括し、GHQの占領政策・洗脳工作に呼応して戦後長く日本の言論界・思想界を汚染し続けているものの正体へと更に一歩深く迫ります。 *■2.日本主義とは何か **◆1.辞書による説明1:「日本主義」 現時点で、wikipedia・広辞苑・デジタル大辞泉では「日本主義」の定義は以下の通り。 |BGCOLOR(#CCCC99):[[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]|日本主義(にほんしゅぎ)|1.日本独自の伝統、文化、精神を基礎として国家の繁栄を目指すという主義。明治時代以降に急激に押し寄せてきた西洋化に対抗する事を目的として高山樗牛や井上哲次郎らによって主張された。&br()2.白陽社から出版されている雑誌。 | |BGCOLOR(#CCCC99):広辞苑(岩波書店)|にほんしゅぎ【日本主義】|国粋主義思想の流れの一。日清戦争後、高山樗牛や井上哲次郎らが提唱。高山が個人主義に転じて以降、衰退。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[デジタル大辞泉(小学館)>http://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]|日本主義【ニホンシュギ】|明治中期、政府の欧化政策に対する反動として起こった国家主義思想。高山樗牛(たかやまちょぎゅう)・井上哲次郎らが雑誌「日本主義」を刊行、日本古来の伝統的精神を重視しようとしたもの。| ブリタニカ国際百科事典(ブリタニカ・ジャパン社)には、もう少しまともな説明があります。 |BGCOLOR(#CCCC99):ブリタニカ国際百科事典|にほんしゅぎ【日本主義】|&color(crimson){&bold(){明治から第二次世界大戦敗戦まで}}における&color(crimson){&bold(){欧化主義・民主主義・社会主義などに反対}}し、&color(crimson){&bold(){日本古来の伝統や国粋を擁護しようとした思想や運動}}をいう。&br()一定の思想体系をなしていたとはいえず、論者により内容が相違する。&br()&color(crimson){&bold(){明治}}の支配層が推し進めた&color(crimson){&bold(){欧化主義への反発}}として三宅雪嶺や高山樗牛らによって唱えられ、政治的には&color(crimson){&bold(){欧米協調主義への反対、国権や対外的強硬策の強調}}となって現れた。&br()&color(crimson){&bold(){大正や昭和}}になって日本の資本主義の高度化が階級対立を激化させ、&color(crimson){&bold(){社会主義やマルクス主義が流入}}すると、これら諸思想の&color(crimson){&bold(){対抗イデオロギー}}として機能し、&color(crimson){&bold(){天皇を中心とする皇道や国体思想を強調}}した。(cf.神国思想)| つまり日本主義には歴史的に見て以下の二段階があるが、広辞苑などメジャーな辞書は①だけを記述している(意図的に②を隠蔽している)。 |BGCOLOR(#FFDB8E):①|BGCOLOR(#FFDB8E):明治期の日本主義|BGCOLOR(WHITE):政府の欧化主義に反発し、国粋主義/国権主義(特に政府の欧米協調路線に反対する攘夷主義)を主張した言論活動(政論的ジャーナリズム)|BGCOLOR(white):他国の侵略から自国・自民族を守る(&color(crimson){&bold(){解放的ナショナリズム}})⇒即ち「&color(crimson){&bold(){右翼}}」思想| |BGCOLOR(#FFDB8E):②|BGCOLOR(#FFDB8E):昭和期の日本主義|BGCOLOR(WHITE):皇道・国体思想を強調して、社会主義やマルクス主義の思想侵略の脅威への対抗イデオロギーとして機能した思想活動|BGCOLOR(white):全体主義の脅威から自国の歴史・伝統に根差した自由を守る(&color(crimson){&bold(){日本型保守主義}})⇒即ち「&color(crimson){&bold(){保守}}」思想| ※「保守」と「右翼」の違いは [[ナショナリズムとは何か]] 参照 **◆2.辞書による説明2:「明治期の日本主義」に関連する様々な人名/雑誌名等 以下ブリタニカ国際百科事典より「明治期の日本主義」に関連する人名等の説明を引用します。 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【高山樗牛】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B]]たかやま・ちょぎゅう&br()(1871-1902)|明治の評論家,思想家。本名は林次郎…(中略)…日清戦争後、井上哲次郎らとともに日本主義を唱え『日本主義』を『太陽』に掲載。ニーチェの死に際し大いに感化を受けニーチェ主義を主張した。1902年文学博士となり晩年は日蓮に傾倒。…(以下省略)| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【井上哲次郎】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%93%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E]]いのうえ・てつじろう&br()(1855-1944)|哲学者。号は巽軒(そんけん)。東京大学教授。ドイツ観念論の移入に努めるとともに現象即実在論を説き、東西思想を包括する体系の樹立に努力。『勅語衍義』『教育と宗教の衝突』を発表。国民道徳を唱導しキリスト教を国体に反するものとして攻撃するなど国家主義を鼓吹した。多年、哲学界の大御所として君臨した。…(以下省略)| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【三宅雪嶺】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E9%9B%AA%E5%B6%BA]]みやけ・せつれい&br()(1860-1945)|ジャーナリスト。哲学者。本名雄二郎。1883年東京大学哲学科卒業。1888年井上円了・杉浦重剛・志賀重昂らの支持を得て政教社を組織し、雑誌『日本人』を発行。徳富蘇峰らの欧化主義に反対して日本主義を提唱した。&br()1889年陸羯南が創刊した新聞『日本』にも主筆格で参加して国粋主義の立場から反政府的な評論活動を展開。&br()1906年『日本』を退社し『日本人』を『日本及日本人』に改題。1923年その他の編集者と対立して同誌を去り、個人雑誌『我観』を創刊。1943年文化勲章受章。…(以下省略)| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【陸羯南】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%BE%AF%E5%8D%97]]くが・かつなん&br()(1857-1907)|ジャーナリスト。本名は実。東奥義塾、司法省法学校を経て太政官の官吏となったが、伊藤博文らの皮相的な欧化主義に反対して辞任。&br()1888年から『東京電報』(それまでの『東京商業電報』を改題した新聞)を主宰した。&br()翌1889年2月11日帝国憲法発布の日に政論新聞『日本』を創刊。激しい弾圧を受けながらも日本主義と称した近代的ナショナリズムを勇敢に主張し続けた。&br()★注釈:後述のように陸羯南は丸山真男が自己の思想的源流の一人として高評価した人物のため、ブリタニカ百科事典でも異例に好意的な説明になっていると思われる。| |BGCOLOR(#CCCC99):【日本】にっぽん&br()(1889創刊-1914廃刊)|陸羯南が1889年2月11日の帝国憲法発布の日に東京で創刊した政論新聞。『日本新聞』ともいう。国家主義的な中立系といわれた。&br()谷干城・三浦悟桜らが資金的に援助し、記者には福本日南・三宅雪嶺・古島一雄・池辺三山・長谷川如是閑・[[丸山幹治>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%B9%B9%E6%B2%BB]]・正岡子規らを集め、近代的ナショナリズムの立場から政府の欧化政策を厳しく批判。創刊後の8年間に30回も発行停止処分を受けた。&br()日清戦争後は次第に経営困難となり、羯南も病に倒れ、1906年6月伊藤欽亮に譲渡された。やがて如是閑らの有力記者もこぞって退社し、政友会系の平凡な新聞に転落。14年末社屋の火災もあって廃刊。| |BGCOLOR(#CCCC99):【日本及日本人】にっぽんおよびにほんじん&br()(1907改題-1923休刊)|1907年1月『日本人』を改題して発行された政教社の総合雑誌。陸羯南時代の『日本』新聞で活躍していた三宅雪嶺ら政教社の有力メンバーは伊藤欽亮に譲渡されたあとの『日本』の編集方針に不満で、こぞって退社し、1888年の創刊以来、機関誌的役割を持っていた『日本人』に『日本』の伝統を担わせるという意味で『日本及日本人』と改題した。&br()1923年の関東大震災で政教社が焼失したことなどから休刊。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【池辺三山】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E8%BE%BA%E4%B8%89%E5%B1%B1]]いけべ・さんざん&br()(1864-1912)|ジャーナリスト。本名吉太郎。陸羯南の『日本』を経て、1896年『大阪朝日新聞』に入社。主筆となり、すぐ転じて『東京朝日新聞』の主筆。彼に私淑していた鳥居素川が『大阪朝日新聞』の主筆を務めており、相呼応して『朝日新聞』の声価を高めた。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【長谷川如是閑】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A6%82%E6%98%AF%E9%96%91]]はせがわ・にょぜかん&br()(1875-1969)|ジャーナリスト。文学者。思想家。幼名は万次郎。1898年東京法学院(中央大学の前身)を卒業し、1902年日本新聞社に入社。06年社長の陸羯南が隠退し、新社長が三宅雪嶺と古島一雄の退社を命じたので、如是閑ら十数人も抗議して退社。07年雪嶺のもとで『日本及日本人』の創刊に参加。08年鳥居素川のすすめで大阪朝日新聞社に入社。やがて小説や紀行文も発表しはじめた。14年社会部長になったが、18年の白虹事件で鳥居ら盟友とともに退社。19年大山郁夫らと雑誌『我等』を創刊した(軍国主義の波が強まった1930年に『批判』と改題し、34年廃刊)。第二次世界大戦中は沈黙がちであったが、戦後の46年貴族院議員、47年日本芸術院会員となり、48年文化勲章を受けた。『長谷川如是閑選集』(全7巻,69-70)に代表著作が収められている。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【大山郁夫】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%83%81%E5%A4%AB]]おおやま・いくお&br()(1880-1955)|社会運動家。早稲田大学卒業後、シカゴ大学に留学。早大教授。『朝日新聞』論説委員、労働農民党および労農党委員長を歴任。1932年より47年までアメリカに政治亡命。47年凱旋将軍のような歓迎を受けて帰国。50年参議院議員に当選。51年スターリン平和賞を受けた。主著『政治の社会的基礎』『現代日本の政治過程』。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【白虹事件】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6]]はっこうじけん&br()(1918年)|1918年『大阪朝日新聞』が政府権力と対立して存亡の危機に追い込まれた日本の新聞史上最大の筆禍事件。当時『大阪朝日』はシベリア出兵、米騒動などに関連して寺内内閣を弾劾する言論の一大拠点であった。8月26日付け夕刊の記事に兵乱の前兆をいう「白虹日を貫けり」の一句があったことが、新聞紙法第41条(安寧秩序紊乱)に違反するとして『大阪朝日』は告訴され、村山竜平社長は退陣、次いで鳥居素川、長谷川如是閑をはじめ大山郁夫、[[丸山幹治>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%B9%B9%E6%B2%BB]]、花田大五郎らも社を去った。同紙がこの事件で「不偏不党公平穏健」に反する傾向があったと自己批判したことは、その後の日本の新聞のあり方に象徴的な影を落としている。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【丸山真男】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9F%E7%94%B7]]まるやま・まさお&br()(1914-1996)|政治学者。日本思想史家。東京大学法学部卒業後、同大助教授を経て1950年教授に就任し、71年退官。46年発表の「超国家主義の論理と心理」で、軍国主義日本の指導者の没主体性を鋭く指摘し、天皇制国家の無責任構造を批判する新視点を提起して論壇に一大衝撃を与えた。&br()『日本政治思想史研究』(52)では、江戸期にさかのぼって日本の政治思想を検証し、政治思想史研究の方法論を確立した。&br()第二次世界大戦直後の代表的論文をまとめた『増補版・現代政治の思想と行動』(64)は、「丸山政治学」のバイブルと呼ばれ、英訳されて海外でも評価を得ている。&br()また、60年安保闘争(cf.安保改定問題)などを通じ、戦後民主主義運動の精神的支柱となったが、後年は日本思想の研究に専念した。&br()日本思想の根本的な構造を明らかにした『日本の思想』(57)は思想界に大きな影響を与えた。そのほか『丸山真男座談』9巻(96)がある。| ※要約すると「明治期の日本主義」には次の二系列があり、両者は余り関係がないと思われる。 |BGCOLOR(lightgrey):(1)|BGCOLOR(white):&color(crimson){&bold(){高山樗牛・井上哲次郎}}らの刊行した&color(crimson){&bold(){文芸雑誌『日本主義』}}(1897年創刊)|BGCOLOR(white):広辞苑・大辞泉・wikipediaは、こちらの「日本主義」のみ記載している。| |BGCOLOR(lightgrey):(2)|BGCOLOR(white):&color(crimson){&bold(){陸羯南}}が創刊し、三宅雪嶺・池辺三山・長谷川如是閑・丸山幹治らが執筆した&color(crimson){&bold(){政論新聞『日本』}}(1889-1906)→三宅が創刊した『日本人』を改題し、池辺・長谷川・丸山などが執筆した&color(crimson){&bold(){総合雑誌『日本及日本人』}}(1907-23)→更に、池辺・長谷川・丸山は白虹事件で退社するまで&color(crimson){&bold(){『大阪朝日新聞』}}に政論を執筆(1908-18)|BGCOLOR(white):&color(crimson){&bold(){近代的ナショナリズム}}の立場から&color(crimson){&bold(){政府}}の&color(crimson){&bold(){欧化政策}}を&color(crimson){&bold(){厳しく批判}}| ※戦後民主主義の代表的論者・&color(crimson){&bold(){丸山真男}}は丸山幹治の二男であり、長谷川如是閑を叔父同様に慕い、また戦後に陸羯南について次のような評価を書いていることに注目。 |BGCOLOR(white):&color(crimson){&bold(){羯南の日本主義}}は上述のように、&color(crimson){&bold(){ナショナリズムとデモクラシーの総合を意図}}した。それがいかに不徹底なものであったとはいえ、これは日本の近代化の方向に対する本質的に正しい見通しである。国際的な立遅れのために植民地ないし半植民地化の危機に曝されている民族の活路はいつもこの方向以外にない。不幸にして日本は過去においてその総合に失敗した。福沢諭吉から陸羯南へと連なる国民主義の最初からにひ弱い動向は、やがて国家主義の強力な支配の裡に吸いこまれていった。そのために下からの運動はむしろ国際主義いな世界市民的色彩をすら帯びざるをえなかった。長きにわたるウルトラ・ナショナリズムの支配を脱した&color(crimson){&bold(){現在こそ、正しい意味でのナショナリズム、正しい国民主義運動が民主主義革命と結合しなければならない}}。それは羯南の課題を継承しつつ、その中道にして止まった不徹底を排除することにほかならぬ。新聞『日本』は明治憲法発布の日に誕生した。…日本国民は羯南の警告にもかかわらず明治憲法に与えられた程度の貧弱な自由すら現実にまもり抜くことができなかった。改正憲法の公布にあたり、われわれは、国民に与えられた諸権利を現実に働くものたらしめ、進んでヨリ高度の自由を獲得するために、よほどの覚悟をもって、これまでに数倍する険峻をのりこえて進まなければならぬであろう。まさしく憲法祭に酔っているときではないのである。| |BGCOLOR(white):~丸山真男「陸羯南-人と思想」(1947年)| ⇒つまり戦後左翼の代表的思想家&color(crimson){&bold(){丸山真男}}は、実は政府の欧化主義に抗して&color(crimson){&bold(){近代ナショナリズム}}を唱えた&color(crimson){&bold(){「明治期の日本主義」の直系の継承者}}である。 その丸山が、戦後に&color(crimson){&bold(){「ウルトラ・ナショナリズム(超国家主義…後述の「革新右翼」)」}}と勝手に同一視して糾弾したのが下記の&color(crimson){&bold(){「昭和の日本主義」}}であり、そのために広辞苑・大辞泉・wikipediaなどでは無視されたままになっていると考えられる。 **◆3.辞書による説明3:「昭和期の日本主義」に関連する様々な人名/機関/出版物等 ブリタニカ国際百科事典より関連する項目の説明を引用します。 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【安岡正篤】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E7%AF%A4]]やすおか・まさひろ&br()(1898-1983)|陽明学者。思想家。幼少から漢籍に親しむ。東京大学法学部在学中に大正デモクラシーに抗して日本主義を唱え、早くから政・官・軍関係者にその名を知られる。&br()1927年私塾・金鶏学院を設立して東洋思想の普及に努め、31年財界首脳をスポンサーに日本農士学校を設立する。&br()第二次世界大戦中は小磯内閣の大東亜省顧問を務めたが終戦の詔勅の起草者の一人でもあった。49年全国師友協会を設立。指導者の教化に力を注ぐ。多くの政・財界人、文化人が師と仰ぎ、安岡の訓話を受けることが指導者の条件とまでいわれた。吉田茂・佐藤栄作・池田隼人ら官僚出身の歴代首相の求めに応じて指南役として助言したが、自らは生涯政治の表舞台に立つことはなかった。陽明学、東洋思想、人生論に関する多数の著書がある。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【紀平正美】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E7%BE%8E]]きひら・ただよし&br()(1874-1947)|哲学者。帝国大学文化大学卒業。国学院大学・東洋大学講師を経て、1919年学習院大学教授。37年精神文化研究所の設立とともに所員となったが、研究所が43年教学錬成所に併合されたのちまもなく退職した。&br()哲学思想としては、初めドイツ観念論を中心とした西欧哲学、特にヘーゲルの影響が強かったが、のち仏教思想を入れ、国民精神文化研究所時代は国家主義思想に傾斜していった。主著『行の哲学』(1931)、『知と行』(38)、『なるほどの哲学』(41)、『なるほどの論理学』(42)。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【国民精神文化研究所】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80]]こくみんせいしんぶんか・けんきゅうじょ&br()(1932年設置-1943年改組)|1932年「国民精神文化ニ関スル研究、指導及普及ヲ掌ル」(同官制1条)目的のもとに設置された文部大臣の直轄機関。前年に設けられた学生思想問題調査会の「我が国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする有力な研究機関」設置を求める答申を受けて設けられた。&br()研究部、事業部、編集部、調査部、庶務部から成り、33年品川区上大崎に庁舎を新築した。『国民精神文化』(隔月刊)『国民精神文化研究』(半年刊)『国民精神文化月報』などの刊行、各種講習会・講演会などの開催を通じて国民思想政策の推進に寄与した。43年国民錬成所(1942設置)と統合して教学錬成所に改組された。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【国体の本義】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93%E3%81%AE%E6%9C%AC%E7%BE%A9]]こくたいのほんぎ&br()(1937年刊)|文部省編。1937年5月刊行。35年頃から高まった「国体明徴」「教学刷新」の意義を明らかにし、その精神を国民に徹底させることを企図した。神話と古典に依拠して、国史の諸過程を「肇国の精神の顕現」としてとらえるとともに、西洋近代思想を激しく排撃している。45年占領軍により『臣民の道』とともに発売禁止となったが、49年にはアメリカでJ.ガントレットの英訳が刊行され、今日にいたるまで研究材料とされている。| ※広辞苑・大辞泉などよりマシとはいえ、ブリタニカ百科事典でも「昭和期の日本主義」に関しては未だに肝心なこと(例として[[原理日本社>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE]]、[[蓑田胸喜>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C]]、[[平泉澄>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E6%BE%84]]など)が記載されていません。 ※なお東欧民主化・ソ連邦解体(冷戦終結)後、既に20年が経過した現在では、戦後に左翼言論人によって激しく糾弾され、もしくは無視された蓑田胸喜など原理日本社同人や平泉澄など「昭和期の日本主義者」のマルクス主義批判・左翼容共思想批判は、論理的には、実に的を射た批判であったことが判明しています。 **◆4.「昭和期の日本主義」参考図書 #include_cache(日本主義パーツ1) **◆5.革新右翼(国家社会主義者)と観念右翼(伝統保守) 上記の[[日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜>http://www.amazon.co.jp/dp/4760133348/]]によれば、左翼が一掃された昭和10年代の日本には、①革新右翼と②観念右翼の二大勢力があり、国内・国外の政策を巡って激しく対立したことが実証されています。 ※ブリタニカ国際百科事典には「観念右翼」のみ項目があり、その中に「(国家社会主義者(組織右翼)」の説明があります(革新右翼を組織右翼とも呼んだ)。 |BGCOLOR(#CCCC99):【観念右翼】かんねん・うよく&br()|特定の右翼党派ではなく、純粋な日本精神主義を思想や行動の原理とする諸団体。上杉慎吉をその源流とする。第二次世界大戦前の右翼運動を思想形態から分類すると、&color(crimosn){国家社会主義派(組織右翼)}と&color(crimson){日本精神主義派(観念右翼)}に大別される。上杉の組織した桐花学園(1913創立)、蓑田胸喜、天野辰夫、菊池利房による興国同志会(19)、平沼騏一郎の国本社、興国同志会の流れをくむ七生社(25)などが観念右翼としてあげられる。| ※革新右翼と観念右翼の理念型([[日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜>http://www.amazon.co.jp/dp/4760133348/]]より引用) |BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:①革新右翼|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:②観念右翼| |BGCOLOR(white):国家改造|BGCOLOR(white):国体明徴| |BGCOLOR(white):高度国防国家|BGCOLOR(white):国民精神総動員| |BGCOLOR(white):解釈改憲|BGCOLOR(white):護憲(不磨の大典)| |BGCOLOR(white):指導者原理|BGCOLOR(white):臣道実践| |BGCOLOR(white):統制経済|BGCOLOR(white):資本制擁護| |BGCOLOR(white):親ソ・親独|BGCOLOR(white):反共・反独裁| |BGCOLOR(white):世界史的な使命|BGCOLOR(white):日本史的な道統| |BGCOLOR(white):陸軍統制派|BGCOLOR(white):陸軍皇道派| |BGCOLOR(white):革新官僚|BGCOLOR(white):財界| |BGCOLOR(white):無産政党|BGCOLOR(white):既成政党(現状維持派)| |BGCOLOR(white):国家社会主義者|BGCOLOR(white):自由主義者| 結論から言うと、この①革新右翼(国家社会主義+アジア主義)が日本を支那事変~大東亜戦争へと誘い込んだのであり、②観念右翼(伝統保守=昭和期の日本主義者)はそれに激しく抵抗したのだが、丸山真男を始めとする所謂「戦後民主主義者(戦後市民派)」は、①・②を故意に同一視して「超国家主義者」「右翼」として貶め続けてきた(さらに言えば、橘孝三郎の一族の立花隆に典型的に見られるように①革新右翼が敗戦後たちまち「戦後市民派」に転向して②観念右翼を糾弾する側に回っている例が多々ある)。 ※以上の経緯は [[右翼・左翼の歴史]] を参照。 ※以下に、①革新右翼すなわち国家社会主義者の項目をブリタニカ百科事典より引用します。 **◆6.辞書による説明4:「超国家主義」(国家社会主義=革新右翼)に関連する様々な人名/機関等 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【北一輝】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B8%80%E8%BC%9D]]きた・いっき&br()(1893-1937)|国家社会主義運動の理論的指導者。本名輝次郎。1919年に執筆した『日本改造法案大綱』は陸軍青年将校の革命のバイブルとされた。1937年刑死。その他の著作『支那革命外史』(1915)| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【大川周明】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E]]おおかわ・しゅうめい&br()(1886-1957)|日本国家主義運動の指導者。東京大学卒業後、満鉄入社。のち軍中央部と手を握り1931年の陸軍部内の一部青年将校が計画した三月事件、同年6月の満州事変を推進した。32年の五・一五事件に連座。第二次世界大戦後、極東国際裁判で連合軍によってA級戦犯として起訴されたが精神錯乱のため釈放された。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【橘孝三郎】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%AD%9D%E4%B8%89%E9%83%8E]]たちばな・こうさぶろう&br()(1893-1974)|農本主義的国家主義者。第一高等学校を中退。郷里に帰って農耕のかたわら思索の生活を続け、大地主義、兄弟主義、勤労主義を三位一体とする農本主義精神に到達した。また長兄、次兄をはじめ一家一族のほとんどがともに同じ農場で働くことになり、兄弟村農場として世間の注目を集めた。1929年愛郷会を創設、31年には私塾愛郷塾を開いて農本主義的な運動を進め、血盟団の井上日召らと関係を結んで極右的・暴力的傾向を強めた。32年の五・一五事件では、愛郷塾生の多数が農民決死隊として参加、橘もこれに連座して無期懲役に処せられた。40年に出獄後、第二次世界大戦の敗戦を経て愛郷塾は「報本農場」として復活し、橘は再び農場経営を営むかたわら農民運動に関係した。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【井上日召】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%97%A5%E5%8F%AC]]いのうえ・にっしょう&br()(1886-1967)|国家主義者。本名昭。血盟団を組織。一人一殺のテロを指導。血盟団事件により、1934年無期懲役確定。1940年恩赦で出獄。| //|BGCOLOR(#CCCC99):[[【】>]]&br()(-)|| ※以下に、①革新右翼すなわち国家社会主義者と親和的な「アジア主義」の関連項目をブリタニカ百科事典より引用します。 **◆7.辞書による説明5:「アジア主義」 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【大アジア主義】>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]だい・アジア・しゅぎ&br()Pan-Asianism|欧米列強のアジア侵略に抵抗するため、アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるという考え方。明治初期以来、種々の視角から展開された。&br()植木枝盛は自由平等の原理に基づきアジア諸民族が全く平等な立場で連帯すべきことを説き、樽井藤吉や大井健太郎は、アジア諸国が欧米列強に対抗するために連合する必要があり、日本はアジア諸国の民主化を援助すべき使命があると説いた。&br()明治20年代になると、大アジア主義は明治政府の大陸侵略政策を隠蔽する役割をもつようになった。1901年に設立された黒龍会の綱領にもみられるように、その後の大アジア主義は天皇主義とともに、多くの右翼団体の主要なスローガンとされ、これに基づいて満蒙獲得を企図する政府・軍部の政策が推進された。&br()日本人の大アジア主義的発想は、第二次世界大戦前・戦中の「大東亜共栄圏」構想を支えた。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【大東亜共栄圏】>だいとうあ・きょうえいけん]]&br()|第二次世界大戦を背景に1940年第二次近衛内閣以降45年敗戦まで唱えられた日本の対アジア政策構想。その建設は「大東亜戦争」の目的とされた。&br()東条英機の表現によれば、大東亜共栄圏建設の根本方針は、「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」しようとすることにあった。&br()しかし実際は、東アジアにおける日本の軍事的・政治的・経済的支配の正当化を試みたものに他ならなかったといえる。&br()第一次近衛内閣当時の「東亜新秩序」は日本・満州・中国を含むものに過ぎなかったが、南進論が強まるにつれて、インド・オセアニアにいたる大東亜共栄圏構想に拡大された。大東亜省の設置と大東亜会議の開催は、このような方針の具体化に他ならない。| //|BGCOLOR(#CCCC99):[[【】>]]&br()(-)|| **◆8.まとめ |BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:運動の性格|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:| |BGCOLOR(#FFDB8E):①|BGCOLOR(#FFDB8E):明治期の日本主義|BGCOLOR(WHITE):政府の欧化主義に反発し、国粋主義/国権主義(特に政府の欧米協調路線に反対する攘夷主義)を主張した言論活動(政論的ジャーナリズム)|BGCOLOR(white):他国の侵略から自国・自民族を守る&br()(&color(crimson){&bold(){解放的ナショナリズム}})|BGCOLOR(pink):右翼思想|当初は国粋主義的だった在野言論人の活動は、明治末・大正期に日本が大国化したのちも反骨精神は全く変わらず、今度は次第に左翼思想に理解を示す者が出てきた(左右等価気分説(※1))。更に彼らは、戦後は進歩派・市民派左翼文化人として活発に活動した(長谷川如是閑・丸山真男etc.)。| |BGCOLOR(#FFDB8E):②|BGCOLOR(#FFDB8E):昭和期の日本主義|BGCOLOR(WHITE):皇道・国体思想を強調して、社会主義やマルクス主義の思想侵略の脅威への対抗イデオロギーとして機能した思想活動|BGCOLOR(white):全体主義の脅威から自国の歴史・伝統に根差した自由を守る&br()(&color(crimson){&bold(){日本型保守主義}})|BGCOLOR(pink):保守思想|日本精神主義派(観念右翼)。日本主義的教養を武器に学生・知識人の左傾化を防止し日本精神に目覚めさせると共に、革新右翼の狙う国家改造・解釈改憲・国家経済の社会主義化、更には戦争の長期化を「護憲」の立場から制止・抑制するために奔走。いざ戦争が激化すると国防のために生死を厭わず護国のために尽くした者が多い。| |BGCOLOR(#FFDB8E):③|BGCOLOR(#FFDB8E):アジア主義|BGCOLOR(WHITE):アジア諸民族を白人支配から解放するという大義を掲げ、実際にも明治期の孫文を初めインドのB.ボース、フィリピンのアギナルドらの独立運動と連動しつつ遂行された日本の勢力拡張運動。|BGCOLOR(white):アジア諸民族の独立を支援する(排白人主義)&br()(&color(crimson){&bold(){拡張的ナショナリズム}})|BGCOLOR(pink):極右思想|国家社会主義派(組織右翼=革新右翼)と重なる。代表的イデオローグとして5.15事件に関与した大川周明、2.26事件に連座した北一輝。革新右翼は2.26事件暴発後に勢力を急拡大し三木清など転向左翼の多数が近衛内閣のブレーン集団を形成して国策を左右した。&br()※詳しくは [[右翼・左翼の歴史]] 参照| ※「保守」「右翼」「極右」の違いは [[ナショナリズムとは何か]] 参照 ※1:左右等価気分説…右傾化も左傾化も既成勢力に対する反抗という意味で基本的に同じ心情に基づくものであり、状況が変化すれば左・右転換は容易とする説。 **◆9.辞書による説明6:「京都学派」と「近代の超克」 ※この他に、④として大東亜戦争開始後に「近代の超克」を唱えた西田幾多郎門下の「京都学派」があるのでブリタニカ百科事典から簡単に引用する。 |BGCOLOR(#CCCC99):[[【京都学派】きょうと・がくは>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E6%B4%BE]]&br()|西田幾多郎および田辺元の哲学探究の伝統を引継いだ京都大学哲学科出身の哲学者たちのグループの総称。&br()1919年田辺が西田によって京大に招聘されて以来両者はともに自己の哲学を創造し、「固体存在の論理」としての西田哲学に対し「社会存在の論理」としての田辺哲学は決定的に対立するようになるが、その真摯な相互批判を通して京大哲学科には活気に満ちた独自の学風が形成され三木清・戸坂潤らをはじめとする多くの哲学徒が参集した。&br()三木・戸坂らはやがてマルクス主義に傾斜しこの学派から離れるが、次いで高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高らのグループが現れ、第二次世界大戦期において世界新秩序論としての「世界史の哲学」を提唱し同戦争の合理化を行いこの学派の旗幟を鮮明にした。普通この高坂・西谷・高山・鈴木らのグループを指して狭義の京都学派と呼ぶことが多い。| |BGCOLOR(#CCCC99):[[【近代の超克】きんだいの・ちょうこく>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%B6%85%E5%85%8B]]&br()|太平洋戦争勃発直後の1942年、雑誌『中央公論』および『文学界』において論じられたテーマ。川上徹太郎、亀井勝一郎、小林秀雄、林房雄、吉満義彦らの文芸評論家が欧米文化の克服を論じたものである。&br()西欧近代からのアジアの解放を標榜した大東亜戦争を肯定的に受け止めようとする知識人がそこに根拠を求めようとした。&br()思想的には深められないまま終わったが、第二次世界大戦後竹内好がその意義をあらためて主張した。またソ連を頂点とした共産圏崩壊後、新しい国際関係が模索されるなかで、再びその意味を問う声もある。| ※以上で、「日本主義」および関連する「アジア主義」「近代の超克」など諸用語の辞書的な説明を終わります。 ※以下より、戦前日本の思想状況、特に左翼・右翼の両翼の思想運動についてまとめます。 *■3.近代日本の思想状況 **◆1.右翼・左翼学生運動関連年表([[日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜>http://www.amazon.co.jp/dp/4760133348/]]より引用) |BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:和暦|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:西暦|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:出来事|>|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:藤島利郎による区分|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:丸山真男による区分| |BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:右翼学生運動|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:左翼学生運動|BGCOLOR(olive):COLOR(white):CENTER:日本ファシズム運動| |BGCOLOR(white):明治元~|BGCOLOR(white):1868~|BGCOLOR(white):明治維新|BGCOLOR(white):第1期:萌芽期|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):| |BGCOLOR(#FF7E59):大正7|BGCOLOR(#FF7E59):1918~|BGCOLOR(#FF7E59):第一次世界大戦終結|BGCOLOR(white):第2期:台頭期(後半)|BGCOLOR(#FF7E59):台頭期(前半)~全盛期(後半)|BGCOLOR(white):第1期:準備期| |BGCOLOR(white):昭和5|BGCOLOR(white):1930|BGCOLOR(white):ロンドン海軍軍縮条約|BGCOLOR(white):第3期(第1小期):勃興期|BGCOLOR(white):潜行期|BGCOLOR(white):(民間における右翼運動の時代)| |BGCOLOR(white):昭和6|BGCOLOR(white):1931|BGCOLOR(white):満州事変|BGCOLOR(white):第3期(第2小期):興隆期|BGCOLOR(white):凋落期|BGCOLOR(white):第2期:成熟期| |BGCOLOR(#5998FF):昭和7|BGCOLOR(#5998FF):1932|BGCOLOR(#5998FF):五・一五事件|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):(急進ファシズムの全盛時代)| |BGCOLOR(#5998FF):昭和8|BGCOLOR(#5998FF):1933|BGCOLOR(#5998FF):京大滝川事件|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(#5998FF):昭和9|BGCOLOR(#5998FF):1934|BGCOLOR(#5998FF):|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(white):昭和10|BGCOLOR(white):1935|BGCOLOR(white):天皇機関説事件|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(white):昭和11|BGCOLOR(white):1936|BGCOLOR(white):ニ・ニ六事件|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):第3期:完成期| |BGCOLOR(#5998FF):昭和12|BGCOLOR(#5998FF):1937|BGCOLOR(#5998FF):支那事変|BGCOLOR(#5998FF):第3期(第3小期):全盛期|BGCOLOR(white):準壊滅期|BGCOLOR(white):(日本ファシズムの完成時代)| |BGCOLOR(#5998FF):昭和13|BGCOLOR(#5998FF):1938|BGCOLOR(#5998FF):|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(#5998FF):昭和14|BGCOLOR(#5998FF):1939|BGCOLOR(#5998FF):|BGCOLOR(#5998FF):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(white):CENTER:¦|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓|BGCOLOR(white):CENTER:↓| |BGCOLOR(white):昭和20|BGCOLOR(white):1945|BGCOLOR(white):第二次世界大戦終結|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):|BGCOLOR(white):| |BGCOLOR(#5998FF):右翼学生団体創立ブーム|BGCOLOR(#FF7E59):左翼学生運動台頭~全盛期| ※つまり戦前期の実証的な学生思想運動の研究によれば、大正期から昭和初期にかけて(1910年代の終わりから1920年代)の日本の大学は非常に自由な知的環境にあり、上の図の赤塗部分の通り左翼学生運動が隆盛していた(ロシア革命の影響)。それが当局により問題視され弾圧を受け始めるのは1928年の三・一五事件以降である。 ※満州事変が勃発する1930年代になると今度は、右翼学生運動が盛んになり、天皇機関説事件からニ・ニ六事件の頃に、一時的に下火になるものの支那事変勃発でブームが再開した(その後、第二次近衛内閣の新体制運動による統制の強化により、学生右翼運動も下火になる)。 |BGCOLOR(white):嘗て左翼学生運動の華やかなりし時代或人は謂った。学生には四種ある、①最も頭脳明晰な学生は社会科学を研究して結局左翼運動に奔り、②次に位する者は専心に学校の過程を勉強し、③次に位する者は映画演劇麻雀撞球等の享楽に奔り、④最も下級に在る者のみが右翼運動に参加するに至ると、然し是は今日の右翼運動に関する限りは当を得て居ない。| |BGCOLOR(white):~藤嶋利郎(司法官僚)『最近に於ける右翼学生運動について』(1940年(昭和15年)司法省刑事局刊)| ※上は、大正期に大学時代を過ごした元左翼学生の司法官僚の昭和15年の回想である。これはまるで最近の団塊世代の言いそうな感想であり、戦前の日本が思想的に暗黒時代だった、という戦後左翼の刷り込みは全く根拠がないことが、これだけでも分かると思う。 **◆2.近代日本の思想状況(まとめ) #include_cache(日本主義パーツ2) *■4.戦前日本の思想を考える様々な参考図書 |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1357&file=img5.jpg,with,height=250,)|[[歴史学 (ヒューマニティーズ)>http://www.amazon.co.jp/dp/4000283227]]&br()佐藤 卓己 (著) 2009.5刊&br()&br()内容(「BOOK」データベースより)&br()情報化、グローバル化が加速するメディア社会。公議輿論の足場として、歴史的教養の重要性はますます高まっている。しかし、こうした現実の課題に対して、「大きな物語」が失われたあと、これまでの歴史学は充分に応えてきただろうか。公共性の歴史学という視点から、理性的な討議を可能にする枠組みとして二一世紀歴史学を展望する。&br()&br()★評価&br()著者は[[日本主義的教養の時代―大学批判の古層>http://www.amazon.co.jp/dp/4760128638]]の中心的編集者で良くも悪くも現在の歴史学の水準を体現している人物。ヒューマニティ・シリーズの一冊として、敢えて従来の「(ゴリゴリの)自虐史観」からは距離を置くこのような著者の本が、あの(戦後一貫して自虐史観で真っ黒だった)岩波書店から出版されたこと(出版せざるを得なくなったこと?)は非常に意義深いことである。&br()但し現在の歴史学の限界をも露呈する一冊とも読める。果たして次の世代は、この限界をどれだけ乗り越えられるのかに注目したい。| |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1357&file=img6.jpg,with,height=250,)|[[日本の思想>http://www.amazon.co.jp/dp/400412039X]]&br()丸山真男 (著) 1961.11刊&br()&br()内容(「BOOK」データベースより)&br()現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追究していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。&br()&br()★評価&br()その思想の偏り、事実関係の歪曲・捏造ぶりが散々に指摘される丸山真男の代表的著作。&br()よく読むと丸山と同時代人である蓑田胸喜や平泉博士や京都学派の高山岩男といった今では世間一般では忘れられた思想家、さらには「日本主義」「近代の超克」からエドマンド・バークやカール・ポパーにまで言及している箇所があり、そうした意味でも興味深い。| |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1357&file=img7.jpg,with,height=250,)|[[日本とドイツ 二つの全体主義 「戦前思想」を書く>http://www.amazon.co.jp/dp/433403361X]]&br()仲正 昌樹 (著) 2006.7刊&br()&br()出版社/著者からの内容紹介&br()「戦後思想」があるとすれば、「戦前思想」もあっておかしくないような気がするが、あまり聞かない。しかし「日本とドイツ」に限って言えば、一八七〇年前後から、第二次大戦が本格化する一九四〇年前後までの約七十年間を取ると、結構、意味のある比較をすることができる。何故かというと、両国とも一八七〇年頃に、西欧的な意味での近代国家を形成し、(英国やフランスに比べて)遅ればせながら、[国民国家としての統合→帝国主義的拡張]のプロジェクトに乗り出し、最終的に「(西欧)近代の超克」を目指して全体主義体制を構築し、戦争へと突入していったからである。(「プロローグ」より) &br()&br()★評価&br()戦前日本の思想状況について通史的な図書が他に見当たらないため内容にはかなり問題があるもののこの本を薦めざるを得ない。&br()著者は元統一教会信者であり皇室に対する本質的敬意に欠けており、かつ安倍元首相に対する敵意を剥き出しにしている著作もある人物だが、これが現在の思想界の水準(および限界)と考えてよいと思う。次の世代がこれをどれだけ乗り越えられるか。| *■5.ご意見、情報提供 #comment #include_cache(政治理論・共通)

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