反日に騙されないための思考法

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*始めに  哲学の目的の一つは、物事を正しく考えるための思考法を探ることである。本稿は、主に哲学の知見を用いて、反日勢力が垂れ流す情報に騙されないための思考法を示すものである。 *哲学  「日本軍は慰安婦を強制連行した」「日本政府は慰安婦に謝罪すべき」という主張がある。このうち、前者のような、「~だ・である/~でない」などという形の主張を、哲学では、''事実判断''という。そして、後者のような、「~べき/~べきでない」とか「~は善い(良い)・美しい/~は悪い・醜い」などという形の主張を、''価値判断''という。価値判断については、後述することにし、ここでは、事実判断について述べる。 **事実判断  「日本軍は慰安婦を強制連行した」という事実判断を主張する人に、「どうして『日本軍が慰安婦を強制連行した』と言えるの?」と聞くと、「慰安婦の証言がある」とか「強制連行したことを示す文書がある」などと答えるだろう。つまり、この証言や文書の存在を''理由''にして主張しているわけだ。理由なしの主張もあるが、一般的には、何らかの主張には、理由というものがある。理由がある主張のことを、哲学では''議論''という。議論と聞くと、誰かと誰かが互いに自分の意見を話し合うことだと思いがちだが、哲学でいう議論はそうではない。 ***トゥールミン・モデル  哲学者のスティーヴン=トゥールミン氏によると、議論は、最低限、以下の三つの要素で成り立っているという。 :根拠(データ)|結論を裏付けるための客観的な資料。 :論拠(ワラント)|その根拠が、なぜその結論を裏付けることになるのかという説明。 :結論(クレーム)|根拠と論拠から導き出された論。次の議論の根拠・論拠となる場合が多い。 このように議論を三つに分ける考え方を、''トゥールミン・モデル''という。  先ほどの慰安婦問題の主張を、トゥールミン・モデルを用いて分析すると、以下のようになる。 :根拠1|慰安婦が日本軍に強制連行されたことを証言している。 :根拠2|日本軍が慰安婦を強制連行したことを示す文書がある。 :論拠1|慰安婦の証言は信用できる。 :論拠2|文書は偽書ではない。 :結論|(したがって、)日本軍は慰安婦を強制連行した。  議論をトゥールミン・モデルで分析したら、次は、根拠と論拠を疑う。 ***根拠・論拠を疑う  先ほど、「議論の結論は、次の議論の根拠・論拠となる場合が多い」と書いた。ということは、「議論の根拠・論拠は、前の議論の結論であった場合が多い」ということでもある。「慰安婦が日本軍に強制連行されたことを証言している」という結論を前の議論の結論とした場合、その前の議論は、トゥールミン・モデルでは以下のように分析されるだろう。 :根拠|Aさんが慰安婦に強制連行されたかどうかを尋ねた。 :論拠|Aさんの知能は正常である。 :結論|慰安婦が日本軍に強制連行されたことを証言している。  この議論の根拠と論拠も疑ってみよう。本当にAさんの知能は正常なのだろうか。再び同じようにトゥールミン・モデルで分析すると以下のようになるだろう。 :根拠|Aさんは生きている人間である。 :論拠1|生きている人間には知能がある。 :論拠2|Aさんにはこれまでに知能が異常であることを示す症状は見当たらなかった。 :結論|(したがって、)Aさんの知能は正常である。  ここまで疑う人はいないだろうが、もっと疑ってみたらどうなるだろうか。例えば、「Aさんは生きている人間である」を疑ったらどうなるだろう。ひょっとしたら、Aさんが生きて動いているのは、自分の目にしか映っていないのかもしれない。自分の脳が、「Aさんは生きている」という幻を見ているのかもしれない。 ***疑いすぎるとどうなるか  このように、自分の五感で感じたものや考えていることが本当に実在するのかということを徹底的に疑った哲学者がいる。それはルネ=デカルト氏だ。デカルトは、物事を疑って疑って疑いまくった結果、一つの仮説にたどり着いた。それが''デーモン仮説''である。  デーモン仮説とは、「我々の五感で感じたものや考えていることは、不思議な力を持った悪霊(デーモン)が我々に見せている幻だ。」という仮説だ。極端にいえば、「1+1=2という単純な計算すら、悪霊が我々の脳を操って、我々の計算を常に間違えさせているのかもしれない」ということだ。  ここまで疑ってしまうと、慰安婦どころの騒ぎではない。どんな議論も成り立たなくなってしまうではないか。 ***疑いすぎないためには ****反証可能性  デーモン仮説に至るまでに疑いすぎないようにするために、哲学では様々な道具を使う。その一つが''反証可能性''である。反証可能性とは、「仮説を立てるときは、実験や観察によってその仮説が間違っていることを示すことが可能な状態で立てるべきだ」という考え方である。この考え方は、科学と非科学を分ける線引きにもなっている。つまり、反証可能性がない仮説は、科学的な仮説とはいえないということだ。デーモン仮説は、悪霊の存在を実験や観察で示すことができないため、反証可能性がない。 ****文脈主義  疑いすぎないためのもう一つの道具は''文脈主義''だ。文脈主義とは、「どこまで疑ってよいかどうかは文脈によって決まる」という考え方だ。例えば、ある男性が仕事を終えて家に帰ってきて、妻に「今日は疲れたなあ」という仮説を言ったとする。もしも、妻がデーモン仮説を用いて、「本当に疲れたの?」「悪霊に疲れたと思わされているんじゃないの?」などと対抗仮説を挙げて夫に答えたとしたら、どうだろう。文脈主義の立場から鑑みると、「たかが日常会話ぐらいでそこまで疑わなくてもいい」という見解になる。つまり、日常会話という文脈において、デーモン仮説を持ち出してまで疑う必要は無いから、妻の対抗仮説は無視してもよいということだ。 ****公理  文脈主義を用いれば、デーモン仮説にたどり着く前に、どこかで疑いを止めることができる。例えば、先ほどの「Aさんは生きている人間である」で疑いを止めたとしよう。このとき、「どうして『Aさんは生きている人間である』と言えるのですか?」と聞かれても、疑いを止めたのだから、答えなくていい。つまり、この時点で、「Aさんは生きている人間である」ということの根拠も論拠も反証可能性も無視して、勝手に決め付けてもよい。このような決め付けを''公理''という。そして、哲学・科学・数学・宗教なども含め、あらゆる理論体系は、公理なしでは成り立たない。 ****全ては分からない  デーモン仮説を用いれば、1+1=2という単純な議論も含め、どんな議論も成り立たなくなってしまうことは先ほども書いた。といういことは、つまり、人間にとって、あらゆることは何も分からないのである。これを''原理的に''分からないという。しかし、文脈主義と反証可能性を用いてどこかで疑いを止めれば、1+1=2であることは正しいと分かる。しかし、疑いを止めて分かったといっても、それが原理的に分かったということとは違うのだ。これを悪用すれば、慰安婦強制連行否定派の議論が原理的に成り立っていないことを指摘して、「慰安婦は強制連行されたんだ!」といつまでも反論できる。実際に政治家の河野洋平氏は、平成9年(1997)6月17日に開かれた講演で、「強制連行したという資料はなかったことは事実。しかし資料がなかったからと言って(強制連行も)なかったとは決められるかどうか」と言っている。たしかに、“原理的には”なかったとはいえないし、あったともいえないのであるが、歴史学の研究や外交の場において、そこまで疑う必要などないのである。 ***実際に疑ってみよう  始めに出てきた慰安婦の議論は、以下の通りである。 :根拠1|慰安婦が日本軍に強制連行されたことを証言している。 :根拠2|日本軍が慰安婦を強制連行したことを示す文書がある。 :論拠1|慰安婦の証言は信用できる。 :論拠2|文書は偽書ではない。 :結論|(したがって、)日本軍は慰安婦を強制連行した(といえる)。 ****根拠・論拠を疑う *****根拠1  これは、出典が示されていれば、とりあえずは妥当ということにしよう。 *****根拠2  この文書の一つとして、平成4年(1992)1月11日付けの『朝日新聞』の一面トップに載った史料「軍慰安所従業婦等募集に関する件」がある。この史料の本文は以下の通りだ。 >支那事変地における慰安所設置のため内地においてこれが(これの)従業婦等を募集するに当り >いたずらに軍部了解などの名儀を利用し ために軍の威信を傷つけ かつ一般民の誤解を招くおそれあるもの >あるいは従軍記者、慰問者などを介して不統制に募集し社会問題を惹起するおそれあるもの >あるいは募集に任ずる者の人選適切を欠き ために募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調を受けるものあるなど >注意を要するもの が少なからざるについては、 >将来 これらの募集などに当っては 派遣軍において統制し 募集に任ずる人物の選定を周到適切にして >その実施に当たっては 関係地方の憲兵および警察当局との連繋を密にし >軍の威信保持上ならびに社会問題上遺漏なきよう配慮相成たし命により通牒す。 (引用:アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/ 正漢字・仮名遣いを現代漢字・仮名遣いに変えた)  これのどこが軍人による強制連行だと読み取れるのか。この文書では、「慰安婦の募集に関して注意を要する者」として、「軍部了解の名義を利用する者」「従軍記者、慰問者などを介して不統制に募集する者」「募集に任ずる者の人選適切を欠いたために誘拐まがいの方法で募集をする者」を挙げており、これらの者たちを、「軍の威信保持」のためと、「社会問題上遺漏がない」ようにするために、「派遣軍において統制」し、「募集に任ずる人物の選定を周到適切」にするよう、「配慮」しろと書いてある。軍人による強制連行があったとは読み取れない。むしろ「強制連行が起こらないように注意しろ」と読み取れる。 *****論拠1を疑う  評論家の西村幸祐氏は、編著『中学生にも分かる 慰安婦・南京問題』の中で、慰安婦の証言が二転三転と変遷していることを指摘されている。たとえば、金学順氏の証言は以下のように変遷している。 :平成3年(1991)8月14日 ソウルでの記者会見|14歳のとき、家が貧しかったので妓生(キーセン)ハウス経営者の養女となった。そこから妓生巻番(妓生養成学校)に通う。17歳になったとき、義父に華北にある日本軍の慰安所に連れて行かれ、40円で売られた。 :平成3年(1991)12月25日 朝日新聞|私が生後百日位の時、父が死にその後、母と私は平壌に行きました。貧しくて学校は普通学校(小学校)四年で止めました。その後は子守りをしたりして暮らしていました。(中略)そこへ行けば金儲けができる、こんな話を地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身は言いませんでした。近くの友人と二人、誘いに乗りました。17歳の春でした。 :平成9年(1997)8月20日 平和資料館Webサイト|17歳の時、日本の軍人に『殺す』と脅されて連行され、最前線で一日何十人もの軍人の相手をさせられました。 :平成9年(1997)12月16日 京都新聞夕刊|金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、17歳の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言  最初の証言では「妓生養成学校に通った」「義父に連れて行かれた」と言っている。それなのに、最後の証言では、前者は消え、後者は「日本の軍人に強制的に連れて行かれた」と変わっている。  政治学者の足立幸男氏は、証言を根拠として用いる場合の基準を、以下のように挙げている。 >③目撃者(体験者)による証言がデータ(注:根拠)として用いられるとき > a事件当時、目撃者が、正確で客観的な観察の妨げとなりうるような肉体的、精神的欠陥をもっていなかったこと。欠陥があった場合には、その欠陥にもかかわらず目撃者の証言が信用に価いするものであることが立証されている。 > b観察が好都合な条件の下でなされたこと(たとえば、正確な観察をなしうるほど現場に近い位置にいたか、周囲は十分明るかったか、……)。 > c証言者が、バイアスによって歪められない客観的な観察をなしうる立場の人間であること。その出来事に強い利害関係をもつ人や、関係者に対して強い好悪の感情をもつ人の証言などは、一応疑ってみる必要があるだろう。 > d証言内容に内的不整合がないこと。 (引用:足立幸男 著 木鐸社 刊『議論の論理 民主主義と議論』133頁) この基準を本稿では便宜として「足立基準」と呼ぶ。金学順さんの証言は、足立基準のdに反する。したがって、金学順さんの証言は信用できないので、論拠1は妥当ではないといえる。西村氏の編著には、これ以外にも、文玉珠、金君子、李容洙、黄錦周、鄭書云の証言の矛盾を指摘している。これらも足立基準のdに反している。 *****論拠2を疑う  この文書はアジア歴史資料センターで公開されており、偽書だということを示す理由も見当たらないので、この論拠はとりあえず妥当である。 ****まとめ  根拠2と論拠1が妥当でないことが分かった。したがって、結論「日本軍は慰安婦を強制連行した」も妥当ではない。このようにして、事実判断の議論というものを疑うのである。お分かりになっただろうか。 *価値判断  さて、これまでは、「日本軍は慰安婦を強制連行した」という事実判断について述べてきた。次は、「日本政府は慰安婦に謝罪すべき」という価値判断について疑ってみよう。 **ヒュームの法則  例の価値判断をトゥールミン・モデルで分析すると、以下のようになるだろう。 :根拠|日本軍は慰安婦を強制連行した :論拠1|誰かを強制連行することは悪いことである :論拠2|軍人が悪いことをしたら国家は謝るべきである :結論|(したがって、)日本政府は慰安婦に謝罪すべき 根拠1・2は、価値判断である。結論が価値判断なら、根拠・論拠にも価値判断が少なくとも一つは必要であり、事実判断の根拠・論拠だけから価値判断の結論は導き出せない。これを''ヒュームの法則''という。ヒュームとは、哲学者のデイヴィッド・ヒュームのことだ。 **普遍化可能性テスト  根拠1に注目してみよう。「誰かを強制連行することは悪いことである」から「日本政府は慰安婦に謝罪すべき」といっている。でも、本当に「誰かを強制連行することは悪いこと」なのだろうか。例えば、慰安婦がなんらかの犯罪を犯したとして、その犯人を逮捕して身柄を拘置所などへ送るのは、一種の強制連行だと言える。しかし、これは悪いことではない。つまり、単に「誰かを強制連行することは悪いこと」とはいえないのであり、修正する必要がある。  このように、同じ理由を他のことにも当てはめて考えてみることを、倫理学では''普遍化可能性テスト''と呼ぶ。 **反照的均衡  「誰かを強制連行することは悪いこと」は修正すべきであると先ほど書いた。おそらく、単に「誰かを強制連行すること」ではなく、「慰安婦にするための強制連行」というふうに、強制連行の範囲を狭めれば、肯定派・否定派の両方が妥当だといえるだろう。このように、すでに一致できているところには、できるだけ手をつけず、それでも不整合が生じたら、できるだけ無理の少ない方向で修正を加えることを、倫理学では''反照的均衡''という。 **トゥールミン・モデルの全て  トゥールミン・モデルの基礎は「根拠」「論拠」「結論」だが、これはあくまで基礎である。他にも「限定詞」と「保留条件」がある。 この二つと、先ほどの普遍化可能性テスト・反照的均衡の結果とを鑑みて、トゥールミン・モデルを再構築すると、以下のようになるだろう。 :根拠|日本軍は慰安婦を強制連行した :論拠1|誰かを強制連行することは悪いことである :論拠2|軍人が悪いことをしたら国家は謝るべきである :保留条件|強制連行が犯罪者の身柄を拘置所などへ送るためのもの(ではない限り、) :限定詞|たぶん、 :結論|日本政府は慰安婦に謝罪すべき(だといえる)  先ほどの普遍化可能性テスト・反照的均衡の結果を保留条件に反映してみた。限定詞は、何のためにつけるかというと、物事の確かさには原理的に確かだということはあり得ないし、文脈主義の結果によっては、「必ず」とか「おそらく」などということもあり得るし、統計などの数学的な資料を根拠として用いた場合は、「90%の確率で」などということもあり得るからだ。 **実際に疑ってみよう ***根拠  これは事実判断の項で書いたように、妥当ではないといえる。 ***論拠1  保留条件と合わせて鑑みると、これは妥当だといえるだろう。 ***論拠2  これは妥当とはいえない。例えば、Aさんという人物が、Bという軍隊と、Cという財団と、Dという町内会に属していたとしよう。もしAさんが何か悪いことをしたがら、そのAさんが属する組織B・C・Dは、組織責任を認めて謝罪しなければならないのだろうか。Aさんがした行為の性質によってはあり得るが、少なくとも無条件に組織責任が認められるわけではないだろう。Aさんの悪意によって万引きが起こった場合、単に組織B・C・Dに属していたからといって、無条件に組織責任を認めて謝罪すべきとはいえないのである。  したがって、論拠2は妥当ではない。 *心理学  心理学の目的の一つは、人の認知が持つくせを見つけることだ。悪いくせを **ネガティヴィティ・バイアス  心理学者のジョン=スコーロンスキー氏とドナル=カールストン氏は、「人が判断を下す場合には、足し算のようにはうまくいかない」ということを唱えた。どういうことかというと、「よい点が一つ、悪い点が一つ、合わせてプラスマイナスゼロとはならない」、そして、「人はよい情報よりも悪い情報を重視する」ということだ。これを、''ネガティビティ・バイアス''という。  大日本帝国が東アジアに全く損害を与えなかったわけではない。しかし、日本が欧米列強の植民地主義に警鐘を鳴らしたことで、東アジアの国々の独立という利益がもたらされたのは事実だ。この損害と利益を比べたとき、ネガティヴィティ・バイアスがかかってしまい、損害ばかりに注目してしまう。これがいわゆる自虐史観の正体であろう。 **わら人形論法  ''わら人形論法''とは、「相手の言葉や立場を実際以上に弱いものに置き換えて打ちのめす」という論法のことをいう。  ネット左翼がよく使う「ネット右翼は無職で肥満で低収入だ」という論法は、まさにわら人形論法である。 **雪だるま式論法  ''雪だるま式論法''とは、「いったんある方向に転がり始めたら、とどまることなく転がり続けてしまう」という論法だ。  「日本が憲法9条を改正したら、また東アジアに侵攻してアメリカと戦争して、再び日本は焼け野原となる」などという論法は、まさに雪だるま式論法である。 **恐怖に訴える論法  心理学者のハワード=レーベンサール氏らは、禁煙キャンペーンに恐怖に訴える手法を用いようとした。レーベンサールは、まず被験者に、肺がんにかかった青年を描いた映画と、肺がんの手術がどのように行われるかの映画を見せた。その映画には、真っ黒ながん細胞や、血みどろの臓器が映っていた。レーベンサールは、映画を見せたあと、「あなたは禁煙したいと思いますか?」と聞いた。そしたら、恐怖を感じた被験者たちは、「煙草は絶対にやめる」と答えたのである。これが''恐怖に訴える論法''である。  「日本が憲法9条を改正したら、再び戦争が起こる」などという論法は、まさに恐怖に訴える論法だといえる。 **罪悪感に訴える論法  ロバート=J=グーラは、著書『論理で人をだます法』で、人を騙す論法として罪悪感に訴える論法を挙げている。「慰安婦は日本軍に強制連行された。あなたは被害者の訴えに心が痛みませんか?」などという論法は、''罪悪感に訴える論法''であり、人を騙すための論法だといえる。 *統計学  社会学者の谷岡一郎氏は、著書『「社会調査」のウソ』で、統計調査のウソを述べておられる。『朝日新聞』平成11年(1999)6月30日付けの記事「『君が代』法制化『必要』47%『不要』45%/『議論尽くせ』66%」には、国旗及び国歌に関する法律(以下、国旗国歌法)の是非について、国民に対して行った世論調査の結果が載せられている。この調査では、国旗国家法の是非については、賛成58%に達した。しかし、最後の質問で「今の国会で成立させるべきですか、それとも、今の国会での成立にこだわらず、議論を尽くすべきだと思いますか」と問い、結果として、「今の国会で成立させるのがよい」が23%、「議論を尽くすべきだ」が66%になった。「(法案には賛成だが)議論を尽くすべきだ」という、よほど確信のある法制化推進論者でなければ拒否しにくい回答を用意し、回答者を誘導したのである。  谷岡氏の著書には、これ以外にも社会調査のウソが何個も挙げられている。 *その他 >「正しそうに見える意見であっても、簡単に受け入れてしまってはいけない」とい説教はよく耳にするが、 >「誤まっているように見える意見であっても、簡単に拒絶してはいけない」という忠告はあまり聞いたことがない。 ――香西秀信(修辞学者) 著書『論より詭弁』より >デモクラシーの政治において、多数派の市民(=国民)は少数者に対して最も残酷な抑圧を与えることができる ――エドマンド=バーク(政治家)著書『フランス革命の省察』より >“大衆人”とはただ欲求しかなく、権利があると考えても義務があるとは考えない、自分に義務を課す高貴さを書いた人間のことである  ――ホセ=オルテガ=イ=ガセト(哲学者)著書『大衆の反逆』より >(政治指導者が無知な大衆の要求に屈するとき)“民の声”は悪魔の声となる ――ウォルター=バジョット(ジャーナリスト)著書『英国憲政論』より >進歩の理論は、過去と現在を犠牲にして未来を神化する……(進歩は)未来による過去の永遠の破壊、後続の世代による先行の世代の永遠の抹殺である。 ――ニコライ=ベルジャーエフ(哲学者)著書『歴史の意味』より >人間の堕落を防止するためには、人々を愚劣にする主権というものを、誰にも与えないことである ――アレクシス=ド=トクヴィル(哲学者)著書『アメリカの民主政治』より *参考文献 :ちくま新書『哲学思考トレーニング』|伊勢田哲治 著 筑摩書房 刊 :『「心理戦」で絶対に負けない本』|伊東明、内藤誼人 共著 アスペクト 刊 :『クリティカル進化論 「OL進化論」で学ぶ思考の技法』|道田泰司、宮本博章 共著 秋月りす 漫画 北大路書房 刊 :『中学生にも分かる慰安婦・南京問題』|西村幸祐 編 オークラ出版 刊 :『知的生産力が無限大にアップする超人脳の作り方』|苫米地英人 著 アスコム 刊 :『議論の論理 民主主義と議論』|足立幸男 著 木鐸社 刊 :『論理で人をだます法』|ロバート=J=グーラ 著 山形浩生 訳 千野工一 イラスト

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