仮ページ3

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*(仮題)歴史認識とは何か

<目次>
#contents

*■はじめに
近現代史は政治そのものであり、古代史ですら現代政治を抜きにして語れない。現在、主流を占める歴史認識(あるいは現在の歴史教科書の記述)が正しくて、今後もその認識がそのまま続くとは誰も保証できないことは、戦前~戦後の日本の歴史教育の変転をみても、近隣諸国の歴史教育の有様を見ても明らかである。
以上を踏まえて、近代以降の日本における歴史認識の根本問題をここで一旦まとめておく。
なお、南京虐殺問題や慰安婦問題、満州事変・支那事変や大東亜戦争の性格といった個別の論点は、各々の専用ページを参照されたい。

*■歴史認識:見取り図
|BGCOLOR(OLIVE):|>|BGCOLOR(OLIVE):COLOR(white):CENTER:戦前~戦中 (『國史』教科書時代)|BGCOLOR(OLIVE):COLOR(white):CENTER:敗戦|>|>|BGCOLOR(OLIVE):COLOR(white):CENTER:戦後 (『日本史』教科書時代)|
|BGCOLOR(aqua):保守|>|BGCOLOR(aqua):&bold(){&size(17){皇国史観(皇国護持史観)}}&br() ・那珂通世(神武即位紀元に関する讖緯説を提唱)&br()・白鳥庫吉(東宮御学問御用掛として後の昭和天皇に進講)&br()・平泉澄(東大国史学科主任教授、皇国史観の中心人物と見做され戦後公職追放。最近もNHKがJAPANデビューの中で博士を糾弾した。)&br()・津田左右吉(戦後、唯物史観派からは「津田史学は唯物史観」として自派の源流のように言われたが、本人は猛反発し否定している)|&bold(){&size(20){⇒}}|BGCOLOR(aqua):保守|>|BGCOLOR(aqua):&bold(){&size(17){正統史観(正統史学)}}&br() ・平泉澄(平泉博士は昭和59(1984)年まで存命し、日本の正統史学の権威として精力的に活動を続けた)&BR()・田中卓(平泉澄博士の学問的後継者、建国記念日(紀元節)復活に貢献)&br()・大原康夫&br()・高森明勅|
|  |BGCOLOR(lightgrey):右翼|BGCOLOR(lightgrey):&bold(){&size(17){皇国美化史観}}&br() ・大川周明(国家社会主義と有色人種解放論のイデオローグ)&br()・田中智学(アジア解放のスローガン「八紘一宇」論の提唱者)&br()・加藤玄智(天皇絶対神論・国家神道論の提唱者)|消滅|  |BGCOLOR(lime):リベラル|BGCOLOR(lime):&bold(){&size(17){自由主義史観}}&br() ・藤岡信勝&br()・西尾幹二|
|  ||‡唯物史観の対抗イデオロギーとして出現||||‡過度の自虐史観への反動として出現|
|BGCOLOR(pink):左翼|>|BGCOLOR(pink):&bold(){&size(17){唯物史観(マルクス主義史観)}}&br() ・羽仁五郎(講座派、共産党系)&br()・井上清(講座派、共産党系)|&bold(){&size(20){⇒}}|BGCOLOR(pink):左翼|>|BGCOLOR(pink):&bold(){&size(17){東京裁判史観(自虐史観)}}&br() ・羽仁五郎&br()・井上清&br()・井上光貞&br()・家永三郎&br()・色川大吉|

*■皇国史観(正統史観)とは何か
・古事記/日本書紀以来の日本の正統な歴史伝承・歴史事実に基づく史観。
・当然ながら記紀を日本民族の大切な伝承として扱い、これを否定しない。
・神武天皇即位紀元が過大に引き伸ばされている件については、讖緯説に基づく年代設定と解釈している。(那珂通世の説)(参考1)。
・初代神武天皇から第九代崇神天皇までの間の所謂「欠史八代」については、戦後発見された稲荷山古墳鉄剣銘に第八代開元天皇の皇子大彦命と解釈できる人物が見えることから、唯物史観派のいうように頭から欠史八代の実在を否定するのは不当と主張している。(参考2)
・記紀成立後、六国史編纂を経て、神皇正統紀、大日本史さらに江戸時代後期の国学の成果を踏まえて、明治以降の国史学に至る。

**参考1:[[神武天皇即位紀元が紀元前660年とされた根拠>http://niwango.jp/mobile/search/niwango_wiki.php?wid=34143&b=02&f=hbv99b]](讖緯説)
|&size(12){干支は60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。そのため神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年から遡ると紀元前660年に相当することになる。&br()>明治時代に歴史学者那珂通世が、日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた(参考8:『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁)。これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に因む。&br()>辛酉年の春正月の朔(訓はつひたち、新月すなわち月齢0=太陰太陽暦では常に1日で、このときの干支は庚辰)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。}|
**参考2:[[欠史八代の実在性>http://niwango.jp/mobile/search/niwango_wiki.php?wid=8607&b=000101&f=hbv99b]](稲荷山古墳鉄剣銘)
|&size(12){稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である(参考1:稲荷山古墳鉄剣銘文は「意富比?(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図を記録している。銘文にある「意富比?(オホヒコ)」を『古事記』、『日本書紀』が記録する第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」であるとする説がある。「意富比?(オホヒコ)」と「大彦命」が同一人物を指すなら、『古事記』、『日本書紀』(四道将軍の一人)の大彦命の記事と稲荷山古墳鉄剣銘文の記録が結びつくことになる。川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比?(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする}|

*■皇国美化史観の登場~唯物史観への対抗イデオロギーとして
・明治末以降に、皇国史観(正統史観)に加上する形で民間に発生。
・1930年代の経済恐慌期に、マルクス主義史観の対抗イデオロギーとして急速に普及。
・「八紘一宇」などの造語は、大東亜戦争のスローガンとなった。
・大東亜戦争の敗戦により史観としての発展可能性は消滅したが、戦後もこのイデオロギーに影響された言説を唱える者は多い。

*■唯物史観(マルクス主義史観)とは何か
**(1)唯物史観とは:概説
・カール・マルクスが、普遍的な歴史発展法則として提唱したもので、下部構造(経済関係)が上部構造(歴史の展開)を規定すると見る歴史観である。
・人類の歴史の発展段階として、①古代奴隷制社会→②中世封建制社会(農奴(コロヌス)が生産に従事)→③近世重商主義社会(絶対王制)→④近代資本主義社会(ブルジョワ革命により絶対王制を打破=第一革命)→⑤プロレタリア革命(=第二革命)による社会主義社会の到来→⑥共産主義社会への移行、を想定した。
・最終的に、プロレタリア(労働者階級)がブルジョワ(資本家階級)を打倒する、という意味で「階級闘争史観」ともいう。
・明治維新以降の日本資本主義の性格規定と、日本に来るべき革命の形態(第一革命か第二革命か)を巡って、以下の論争が行われた。
**(2)日本資本主義論争
・講座派(日本共産党の思想的基盤)
・労農派(社会主義協会(日本社会党左派)の思想的基盤)

*■GHQの歴史教育干渉
・「国史」を廃止し、社会科の一分野として「歴史」(中学校)「日本史」(高校)を設定
・新たに「公民」教育を導入。「歴史」より優先的に教育

*■戦後の唯物史観の隆盛(東京裁判史観と一体化)
・反対派を公職追放し、有名大学の史学部・出版社を制圧した。
・反対派との正々堂々の議論は徹底的に回避し、マスコミの支援で一般国民に一方的に自らの史観を刷り込む活動に専念した。
・唯物史観派は、「実証主義」の名目で、古事記/日本書紀の上古の伝承を完全に否定し教科書への記載も廃止した。
・その結果、日本の歴史教科書の記述は古代の農村遺跡などの記述や、中国の史書からの引用で始まる諸外国と較べて特異な形態となった。
・また皇室の起源としては、応神天皇を最古の実在した天皇とする説、崇神天皇を最古の実在した天皇とする説、騎馬民族到来説、朝鮮王族侵入説など様々な新説が提唱された。
・明治維新以降の記述については、征韓論から以降、一貫して侵略史観に染まった内容となった。

*■日教組の歴史洗脳工作
・GHQ占領時代に階級闘争を運動方針とする教師の組合として発足。
・「階級闘争」「抵抗教育」「革命運動」を実践し、日本の国号と天皇・日の丸・君が代に反対。
・学童/学生に自虐史観を刷り込む。

*■建国記念日(紀元節)復活を巡る論争
・唯物史観派は、8月革命説を信奉し、戦後日本は戦前とは別の国家だとして、紀元節(2月11日の神武天皇即位日と伝承のある日)を祝日として復活することに総力で反対
・正統史観派および一般国民・政府は、戦前の紀元節を建国記念日として祝日に復活させることを要望(根底に、戦前~戦後を通じて国体は護持されたとの認識があった)

*■中韓の歴史教育干渉と史学界の劣化
・鈴木善幸内閣/宮沢喜一官房長官時代に歴史教科書問題が発生。教科書検定基準に「近隣諸国条項」を追加
・出鱈目な史観を学生に押し付け続けたツケとして、史学部進学者/新進歴史学者の劣化が進行
・近年において、注目すべき歴史論・国家論を著した人物に歴史学者は皆無であり、こうした異常な歴史認識に囚われていない英文学者・数学者・経済学者などから返って有力な歴史論・国家論が発表されている。

*■自由主義史観の登場~過度の自虐史観への反動として
・「新しい教科書をつくる会」の運動と影響。
・藤岡信勝氏など代表的メンバーは実は左派からの転向者が多く、人材の交流はあるものの正統史観(正統史学派)とは区別する必要がある。
・教育基本法改正。

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