巻八十 列伝第五

唐書巻八十

列伝第五

太宗諸子

常山王承乾 鬱林王恪 成王千里 呉王琨 信安王禕 趙国公峘 嗣呉王祗 嗣呉王巘 濮王泰 庶人祐 蜀王愔 蒋王惲 之芳 越王貞 琅邪王沖 紀王慎 義陽王琮 曹王明 嗣曹王皋 象古 道古



  太宗に十四子があった。文徳皇后李承乾を生み、また第四子の李泰高宗皇帝を生み、後宮は李寛を生み、楊妃李恪を生み、また第六子の李愔を生み、陰妃李祐を生み、王氏は李惲を生み、燕妃は李貞を生み、また第十一子の李囂を生み、韋妃李慎を生み、後宮は李簡を生み、楊妃は李福を生み、楊氏は李明を生んだ。

  常山愍王李承乾は、字を高明といい、承乾殿に生まれたので、そこで命名された。武徳三年(620)、始め常山郡王となり、長沙王宜都王の二王と同じく封ぜられた。にわかに中山王に移封された。太宗が即位すると、立って皇太子となった。
  当時わずか八歳で、特に聡明で、に愛された。諒闇にあっては、一般の政務を裁決し、大いに礼にかない、後に太宗が行幸するごとに、監国に任じられた。成長すると、女色を好んで放蕩したが、しかし帝を恐れ、自らの行状を秘匿した。朝廷にあっては、言上はとくとくと繰り返して忠孝を必ずにしたが、退くと不逞の輩とともに軽薄な交わりをした。側近がある時諌めると、地面に膝をつけて厳粛な顔もちで、自らを責め、自己弁護して少しは弁がたち、諌めた者は返答する暇がなく、そのため人々は賢人であるとみなしてこれを察することがなかった。後に悪行が次第に聞こえてくると、宮臣の孔穎達令狐徳棻于志寧張玄素趙弘智王仁表崔知機らは皆天下の選人で、ことあるごとに李承乾を諌め、帝は必ずあつく金帛を賜い、これによってその心を励まそうと思った。李承乾は行状を改悛せず、時折人を派遣して密かに害しようと謀った。当時、魏王李泰は名声があり、帝は愛して重んじた。しかし李承乾は足を病んでいて、歩くのに困難があり、また廃嫡を恐れ、李泰との関係は悪化した。李泰もまた嫡長の座を奪おうと謀り、それぞれが党派をたてた。
  東宮に俳児なる者がいて、姿は美しく、李承乾に寵愛を受けたが、帝は聞いて激怒し、俳児を捕らえて殺し、連座して死ぬ者が数人いた。李承乾は李泰の密告のせいだと思い、非常に怨んだ。心の中で俳児への思いはやまず、堂を造ってその肖像を描き、官位を追贈して碑文をたて、苑中に墓をたて、朝に夕にと祭った。李承乾はそのところに行っては徘徊し、涙が数滴下り、いよいよ怨みに思い、病気と称して参内しないことは数カ月に及んだ。
  また家奴数十百人に音声を習わせ、胡人の髪型の椎髻を学ばせ、綾絹を切って舞衣をつくり、ついで剣舞し、音楽は昼夜絶えなかった。大きな銅の炉や六個の鼎をつくり、逃亡奴婢を招いて他人の牛馬を盗ませ、自ら煮て、お気に入りの者たちを呼んで共に食べた。また突厥の言葉や服装を好み、容貌が突厥に似ている者を選んで、羊の裘(かわごろも)を着せて弁髪にし、五人一組で、天幕を張り、五狼頭の旗指し物をつくり、戟をわけて陣とし、幡旗をつなぎ、穹廬(テント)を設けて自ら居り、諸部に羊を納めさせて煮て、佩刀を抜いて肉を切りわけて一緒に食べた。李承乾は自ら可汗となって死んだふりをし、皆に号哭して顔を覆わせ、馬に周囲を回らせた。たちまち起きては「天下が私のものになったら、数万騎を率いて金城に行き、その後髪をといて、身を突厥の思摩可汗に委ね、一設をもらうなら、これほど喜ばしくないことがあろうか」と言い、左右は密かに互いに語り、妖しいと思った。また布で鎧をつくり、赤い幟をならべ、率いて陣を分け、漢王李元昌と分けてそれぞれを指揮し、大声で叫んで撃剣して楽しんだ。命令をきかない者は、樹をひらいて叩き、ある者は死に、軽い者でもたちまち化膿した。かつて「私が天子となったら、我が欲のまま勝手気ままにしよう。諌める者がいても、私はそいつを殺す。五百人も殺せば、何も言うものがいなくなるだろう」と言った。
  また勇士で左衛副率の封師進・刺客の張師政紇干承基らを呼び寄せて魏王李泰を殺そうと謀ったが、失敗し、遂に李元昌侯君集李安儼趙節杜荷と肘に錐で突き刺して血を流して啜りあい、兵で西宮に突入しようと謀った。貞観十七年(643)、斉王李祐が斉州で叛くと、李承乾は紇干承基らに向かって「我が宮殿の西の壁は、大内から二十歩ばかり離れているだけだ。どうして斉州などと比べられようか」と言い、ちょうどその時、紇干承基は斉王の事件に連座して獄に繋がれ死刑に相当したから、そこで変事を告発した。長孫无忌房玄齢蕭瑀李勣孫伏伽岑文本馬周褚遂良に審理させ、廃嫡して庶人とし、黔州に移した。貞観十九年(645)死に、帝は彼のために廃朝し、国公の礼で葬った。
  子の李象は、懐州別駕に、李厥は鄂州別駕となった。開元年間(713-741)、李象の子の李適之が宰相となると、李承乾を始め封ぜられた常山郡王に復し、李象に越州都督・郇国公を追贈した。

  楚王李寛は、武徳三年(620)、出されて楚哀王の後嗣となったが、早くに薨去し、貞観年間(623-649)初頭に追封された。

  鬱林王李恪は、始め長沙王となり、にわかに漢王に進封された。貞観二年(624)蜀王に移封され、越王燕王の二王と同時に封ぜられた。実際に国に赴任せず、しばらくして斉州都督となった。は側近に「私は恪とは常に一緒にいたいものだ。ただ早く自分の立場をわきまえ、外で藩屏となり、私が死んだ後も、兄弟間で争い事が起こらないようにしてほしいものだ」と言った。貞観十年(636)、呉王に改められ、魏王斉王蜀王蒋王越王紀王の六王と同時に移封された。安州都督に任じられた。帝は書を賜って、「お前はただ宗室であり、勉めて藩王室たる理由を考え、義によって物事を制御し、礼によって心を制御しなさい。外にあっては君臣となり、内にあっては父子となる。今私の膝もとから去り、お前の鑑賞すべきを残さない。お前にこの言葉を残すから、考えて教訓としなさい」と言った。乳母の子の賭博に連座して、都督を罷免され、封戸三百を削られた。高宗が即位すると、司空・梁州都督を拝命した。
  李恪は騎射をよくし、文武の才能があった。そのは隋の煬帝の娘で、名声はすでに高く、内にも外にも慕われていた。帝ははじめ晋王を太子としたが、また李恪を太子に立てたいとも思っていた。長孫无忌は厳しく諌め、帝は「公は自分の甥でないから反対しているのか。この子は英断果敢なことは私に似ている。叔父のように保護するなら、まだわからないではないか」と言うと、長孫无忌は、「晋王は真心あつく、守文の良主です。また囲碁でも打ち方がふらふらしていては負けます。ましてや儲君の位ではどうでしょうか」と言ったから、そこで沙汰止みとした。そのため長孫无忌は常に李恪を嫌った。永徽年間(650-655)、房遺愛が謀反し、それによって遂に李恪は誅殺され、天下の望みを絶った。刑に臨んで「社稷に霊あり。長孫无忌もまた族滅せん」と叫んだ。四子あり、李仁李瑋李琨李璄があり、全員嶺表に流された。顕慶五年(660)、鬱林王に追封され、彼のために廟が建立され、河間王李孝恭の孫の李栄を鬱林県侯として祭祀を嗣がせた。神龍年間(707-710)初頭、司空を贈られ、礼を備えて改葬された。
  光宅年間(684)、李仁は赦免によって帰還し、たまたま李栄が罪によって排斥され、そのため鬱林県男を襲封でき、岳州別駕を経て、鬱林郡公に陞爵した。かつて江左に使者として派遣されると、州の人は金を贈ったが、拒否して懐に入れなかった。武后は使者を派遣して労って、「この児は、我が家の千里の駒だな」と言い、名を李千里と改めた。天授年間(690-692)より後、宗室の賢者の多くは根こそぎ殺され、ただ李千里だけが心ならずも偽りを述べ、しばしば符瑞や諸異物を奉って免れることができた。中宗が復位すると、成紀王に改められた。しばらくもしないうちに成王に進封した。
  節愍太子武三思を殺すと、李千里もその子の天水王李禧とともに数十人を率いて右延明門を突破して侵入した。太子が敗れると、誅殺され、その家は没籍され、氏を「蝮」氏に改められた。睿宗が即位すると、詔して氏および官爵を戻した。

  李瑋は早死し、中宗は朗陵王に追封した。子の李袨は、出されて蜀王李愔の祭祀を継いだ。開元年間(713-741)、傍系から国を継いだから広漢郡王に改封され、太僕卿同正員に遷り、薨去した。

  李琨は、武后の時に六州の刺史を歴任し、すべてで名声を得た。聖暦年間(698-700)、嶺南招慰使となり、安慰して反抗する獠をまとめ、非常に時宜にかなった。卒すると、司衛卿を追贈された。神龍年間(707-710)初頭、張掖郡王を追贈された。開元年間(713-741)、子の李禕が貴くなったため、呉王に追封された。

  李禕は若いころから志があり、継母に仕えて恭しく、異母弟の李祗を可愛がり、友人から称えられた。襲封にあたって、固辞して李祗に譲り、中宗はその思いをよしとし、特別に嗣江王に封じ、李囂の祭祀を継がせた。開元年間(713-741)、また傍系から継承したため信安郡王に移封された。為州刺史となり、統治は厳格かつ簡便であった。礼部尚書・朔方節度使に遷った。
  それより以前、吐蕃は石堡城を根拠地とし、しばしば辺塞に侵略したから、李禕に詔して河西・隴右議とともに攻略させた。陣地に到着すると、吉日を選んで軍を進発させた。ある者が「城は堅固で、賊が大事にしているところなので、必ず固守してきます。今兵が深く侵入すれば、勝てないようなことがあれば、我が軍は必ず敗走します。持久して賊の形勢を伺うのにこしたことがありません」と言ったが、李禕は「人臣の節は、どうして堅固なのをはばかって進撃しないようなことがあろうか。必ず勝ち目がなかったとしても、私は死をもって継続するだけである」と言い、ここに兵を分けて賊の路に差し迫り、諸将を督戦して道を進ませること通常の二倍の速度で、遂に陥落させた。これより河・隴諸軍の巡邏は、地を開くこと千里に至った。玄宗は喜び、その城の号を改めて振武軍とした。
  契丹の牙官の可突于が叛き、詔して忠王を河北道行軍元帥として討伐させ、勅して李禕を副元帥とした。忠王は行かなかったから、そのため李禕は裴耀卿を率いて諸将に道を分けて范陽の北に出撃させ、契丹・奚の二蕃を攻撃して破り、酋長を捕らえて帰還し、その他の部は逃げ隠れた。開府儀同三司に任じられ、関内支度営田採訪処置使となり、二子に官を授けられた。
  李禕の功績は多かったが、宰相は妨害し、賞で報いなかったから、世間は恨みに思った。しばらくして兵部尚書に抜擢され、朔方節度大使となった。事件に連座して衢州刺史に左遷された。滑州・懐州の二州の刺史を歴任した。天宝年間(742-756)初頭、太子少師となって致仕した。翌年、太師に遷されたが、拝命する前に薨去した。
  李禕は家を治めるのに厳粛で、子を教えるのに規則があった。そのため李峘李嶧李峴は全員有名となった。

  李峘は、性格は温厚質朴で、官位を経るたびに名声があり、王孫であるから趙国公に封ぜられた。楊国忠が政治を乱すと、自分につかない者を尽く排斥した。李峘は考功郎中として睢陽太守を拝命し、清廉倹約によって太守の中では最優秀とされた。帳簿を持って報告に上京したとき、玄宗が蜀に入ったから、そこで行在に駆けつけた。武部侍郎、兼御史大夫に任じられた。にわかに蜀郡太守・剣南節度採訪使を拝命した。郭千仞が叛乱をおこすと、陳玄礼とともに討伐して平定した。上皇が京師に帰還すると、戸部尚書となり、越国公に改められた。
  乾元元年(758)、持節都統江淮節度宣慰観察使となる。都統の号は李峘より始まった。翌年、宋州刺史の劉展に二心があり、詔して劉展を淮南節度使としたが、密かに李峘に詔して揚州長史の鄧景山とともに対応させた。当時、劉展は強勢跋扈し、既に詔を受け、そこで全軍で淮水を渡り、李峘・鄧景山は防ぎ、寿春で戦ったが敗北し、李峘は丹楊郡に逃走した。詔して袁州司馬に貶され、在官中に卒した。揚州大都督を追贈された。弟の李峴別伝がある。

  李祗は嗣呉王に封ぜられ、京師から出されて東平太守となった。安禄山が叛くと、河南・陳留・滎陽・霊昌が相継いで陥落し、李祗は兵を募集して賊を防いだから、玄宗は勇壮であるとした。陳留太守、持節河南道節度採訪使に累進した。太僕・宗正卿となった。代宗の大暦年間(766-779)、李祗はすでに宗室の長老であり、太子賓客の地位によって集賢院待制となった。この当時、勲功・名望ある大臣で職事がない者は全員集賢院に待詔となり、食事・銭・庁舎を給付して厚く礼遇し、左僕射の裴冕ら十三人から始まった。
  子の李巘は、蔭位によって五品官に補任された。李祗が薨去すると、兄の李岵は罪を得ていたため、そこで李巘を嗣王とした。累進して宗正卿、検校刑部尚書となった。薨去し、太子少保を贈られた。性格は俗世間に交わらずに正直で、面と向かって人に短所を言った。官は清廉潔白で、居室は風雨を防ぐことができなかった。甥や姪を救済し、慈愛は人を超越し、家に貯蓄がなく、公卿が贈り物をしたから葬礼ができたほどであった。

  李璄は、神龍年間(707-710)初頭に帰政郡王に封ぜられ、宗正卿を歴て、李千里の事件に連座して、南州司馬に左遷された。

  濮恭王李泰は、字を恵褒といった。始め宜都郡王となり、衛王に移封され、懐王の後を継いだ。また越王に移封され、揚州大都督となった。再び雍州牧・左武候大将軍に遷った。魏王に改められた。は李泰が士を好み、文章をよくするから、詔して府に文学館を設置し、これによって自ら学士を引き入れることができた。また李泰は非常に太っていたから、小輿に乗って朝廷に参内することを聴した。司馬の蘇勗は李泰に、賓客を招いて書籍を著し、古えの賢王のようにするよう勧めた。李泰はそこで『括地志』を撰するよう奏上し、ここに著作郎の蕭徳言・秘書郎の顧胤・記室参軍の蒋亜卿・功曹参軍の謝偃らを引き連れて撰上した。衛尉が李泰のもとを警備し、光禄寺が食を給付したから、士で文学がある者に多く与えて、子弟と遊ぶのを尊び、さらに互いに頼り、門は市のように賑わった。李泰はそれがやり過ぎであると悟り、速やかに完成させたいと思い、そこで道を分けて州を数え、編集は簡略化し、およそ五百五十篇、四年を歴て完成した。詔して秘閣に納め、絹一万段を賜った。後に帝は李泰の延康坊の邸宅に行幸し、長安の死罪を許し、延康坊の人の一年間免税とし、府の幕僚に帛を賜うことは等品別によった。
  また李泰の毎月の給付は皇太子よりもかなり多く、諌議大夫の褚遂良が諌めて、「国は嫡子を尊び庶子はそれより卑しいとして、嫡子を儲君といいました。だから用いる物品はいちいち勘定せず、天子と共有するもので、庶子は低い立場なので、同様には扱われません。嫌疑が起こるのを防ぎ、諍いの源を断つためです。先王が法を定めると、人の人情をわきまえ、国家を保つためには天子の嫡子と庶子とに差を設けることを知っていたので、どんなに庶子を愛したとしても、嫡子を超えるべきではありません。親しむべきものを疎遠にし、尊ぶべき者を卑しくすれば、私的な恩情が公を阻害しい、国を乱すことにつながります。今の魏王への給付は東宮よりも多く、議する者はこれをいけないことだと思っています。昔、漢の竇太后が梁王を愛し、四十以上の城を封地として与え、梁王は宮殿を三百里も築き、宮殿をつくって二層の廊下が連なり、費用は巨万で、出入には先払いさせていましたが、一たび思い通りにならないと、遂に病となって死んでしまいました。宣帝もまた淮陽王を好き勝手にやらせたため、危うく罰せられるところで、身を挺して諭した臣下のお陰で、なんとか免れたのです。今魏王は新たに宮中から出られたので、これによって節倹を示し、自ら節倹を示せば、後日に年俸の増加が行われるでしょう。また指導係を厳選し、倹約を勧め、文学に励ませ、成徳で導いて人格を整えるようにすれば、これは聖人の教えは厳粛にしなくても成就するということです」と述べた。
  は勅して李泰を武徳殿を入居させたが、侍中の魏徴がまた諌言して、「魏王のことを陛下が愛されていて、安全を望まれているのなら、嫌疑の地に入居させるべきではありません。今、武徳殿は東宮の西にあって、昔、海陵王が住んでいたときでさえ、論ずる者はあんなところに住まわせるべきではないと言っていました。当時と事情が変わったとはいえ、人々は多言し、なおある者は恐れるでしょう。また魏王の心もまた安まらず、このことを罷めて下さりましたら、王は寵によって恐れるという規範となるでしょう」と述べたから、帝は悟って、そこで沙汰止みとした。
  当時、皇太子李承乾は足を病み、李泰はこれによって皇太子を失脚させようと謀り、そこで駙馬都尉の柴令武房遺愛らを腹心として、韋挺杜楚客は相継いで魏王府の政務をとった。二人は、李泰のために朝臣と結びつこうと、賄賂を贈り、群臣は改めて李泰に従って朋党をつくった。李承乾は恐れ、密かに人を派遣して李泰の府の典籤と称して玄武門に至って封事を奉り、が見てみると、李泰の罪が書き立てられていたから、帝は怒り、そこで人を派遣して捕えて詰問しようとしたが、捕らえられなかった。太子が失脚してからは、帝は密かに李泰を皇太子に立てることを許していたが、岑文本劉洎は遂に李泰を立てて皇太子とするよう願った。長孫无忌は頑なに晋王を立てようと願い、帝は太原の石に刻まれていた文に「治万吉」とあり、また長孫无忌に従おうと思った。李泰は密かにこのことを知って、そこで晋王に向かって、「お前は李元昌と親しかった。こうなった今、心配ではないのか」と言ったから、晋王は非常に心配し、帝は怪しんだから、その理由を答え、帝は失望して悟った。ちょうどその時、李承乾を呼び寄せて譴責していたが、李承乾は、「臣は皇太子というこれ以上ない高貴な身分になったのに、それ以上何を求めましょうか。ただ泰の奴が挑んできたから、朝臣と一緒に自分を守ろうと謀っただけなのです。何もしなかった人間を、遂に臣に教えて悪事へと引き込んだのです。もし泰の奴が皇太子となるなら、まさに奴の計画通りになったというだけなのです」と答えた。帝は、「そうなら、もし泰を皇太子に立てるとようなことがあれば、太子の位が謀略で得られることなってしまう。泰が立てば、承乾・は二人とも死ぬ。だが治が立てば、泰・承乾は何事もないだろうな」と言い、そこで李泰を幽閉して将作監とし、雍州牧・相州都督・左武候大将軍を解任して、東莱郡王に降封した。そこで詔して「今後は太子が不道の時、藩王が太子の座を窺おうとする者があれば、二人とも廃することとする。著して後世への令とせよ」と述べ、そうして帝は長孫无忌に向かって、「公が勧めたから、私は雉奴を立てたが、雉奴は柔弱で、社廟の憂いとなりかねないのではないか。どうであろうか」と言った。雉奴は高宗の小字である。
  李泰はついで順陽王に改められ、居所を均州の鄖郷とした。はかつて李泰の上表文を持って側近に向かって、「泰の文章はよろしい。どうして才能のある士ではないといえようか。私は泰への思いはやむことがないが、ただ社稷の計のために、地方に赴任させるが、互いに補完させられるのだ」と語った。貞観二十一年(647)濮王に進封した。高宗が即位すると、李泰に詔して濮王府を開設して幕僚を置き、車服や配膳の下賜は等級によった。鄖郷で薨去し、年は三十五で、太尉・雍州牧を追贈された。二子があった。李欣・李徽といった。

  李欣は王を嗣ぎ、武后のときに酷吏のためにおとしいれられて、昭州別駕に左遷され、薨去した。子の李嶠が、神龍年間(707-710)初頭に王を嗣ぐことができた。開元年間(713-741)に国子祭酒となり、罪のため鄧州別駕に左遷され、薨去した。李徽は新安郡王に封ぜられた。

  庶人李祐は、字を賛といった。武徳八年(625)、宜陽郡王に封ぜられ、楚王に進封し、また燕王となり、後に斉王に封ぜられ、斉州都督を領した。貞観十一年(637)初めて封国に赴いた。翌年入朝し、病によって京師に留まった。その叔父の尚乗直長の陰弘智は小人物であり、李祐に向かって「王の兄弟は多く、 お上が御万歳(崩御)あそばされた後、どうやって自らを守るのか。士を得て自らを守る必要がある」と説き、そこで客を引き連れて燕弘信を李祐に謁見させたから、李祐は喜び、金帛を賜い、剣客を募らせた。貞観十五年(641)斉州に帰還した。
  それより以前、は王府の長史・司馬を用いるのに、必ず気骨があって諌言する者を採用し、過失があればたちまち上聞させた。しかし李祐は小人物の群れのなかに没入し、狩猟を好み、長史の薛大鼎がしばしば諌めても聞かず、帝は王を輔弼するのに功績がないから、罷免し、改めて権万紀を用いた。権万紀の性格は剛直かつ性急で、法によって李祐を糺した。昝君謩・梁猛虎なる者がいて、騎射をよくしたから厚遇を得たが、権万紀が退けたから、李祐は密かに引き連れて昵懇となっていた。帝はしばしば書簡で李祐を譴責したが、権万紀は一緒に罪を着せられるのを恐れ、そこで李祐に向かって、「王はお上の愛する子で、お上は王に悔い改めてもらいたいと思っているので、だからこそ何度も王を責められるのです。本当に自分自身で自らの過ちを認めて反省できれば、この権万紀は入朝してこのことを申し上げ、お上の思いを解いてまいります」と説き、李祐はそこで上書して謝罪した。権万紀は帝に謁見し、李祐は自らの罪を悔いて心を改めたと申し上げると、帝は喜び、厚く権万紀に賜ったが、そこで李祐には咎めて戒めた。李祐は権万紀に労させたにも関わらず、自身が譴責されたから、おのれを売ったと思い、ますます不平を抱いた。ちょうどその時、権万紀もまた二心を疑ったから昝君謩を拘束し、李祐に制して国門から出させず、すべて李祐の罪を朝廷に暴き、李祐は怒りにたえなかった。詔があって刑部尚書の劉徳威に審問させ、事実であると認定され、帝は李祐・権万紀を京師に召還した。李祐は燕弘亮らとともに謀り、権万紀を射殺し、死体をバラバラにした。側近が李祐に挙兵を勧め、そこで城中の男子の年十五以上を募集してことごとくを徴発し、密かに側近を上柱国、光禄大夫、開府儀同三司に任じ、托東王・托西王などに封じ、庫の財宝を開いて賞を行い、人を使役して城壁を築いて堀を浚渫し、甲冑を補修した。人々はこれを憎んで、皆夜に相継いで逃亡した。
  兵部尚書の李勣劉徳威に詔して便道を発して兵で討伐させた。李祐は日夜燕弘亮ら五人とともにその妃と対して宴して楽しんだ。官軍について語ると、そこで燕弘亮は妄言して、「王は心配することはありません。右手に酒を持って飲み、左手に刀を持って払えばよいのです」と言い、李祐は燕弘亮を親愛していたから、これを聞いて喜んだ。は手づから李祐に勅して、「私は常にお前に小人物を近づけてはならないと戒めてきたが、本当にこうなってしまった。我が子をよかれてと思って行かせたが、今や国の仇をなってしまい、私は上は皇天に対して、下は国土に対して恥ずかしいと思う」と述べ、書き終わると涙して勅書を送った。李祐は諸県に檄文を送ったが、県はたちまち上聞した。李祐は困窮したから、上表して「臣は帝の子です。権万紀に讒言されて争うことになり、上天は霊を降ろされ、罪人はここに得られたのです。臣は狂って心を失い、失意に心を恐れ驚かせ、左右には兵がなく、そこで遁走しようとしたというのが、兵器を大量にして自らを護衛した理由なのです」と述べた。その時李勣はまだ到着しておらず、青州・淄州などの州兵はすでに集結していた。ある者が李祐に対して子女を捕らえて人質にして豆子岡(陽信県・無棣県の境界にある塩沢)に逃げて盗賊になるよう勧めたが、計略をまだ決する前に、兵曹の杜行敏が夜に兵を集めて垣に穴をあけて侵入し、李祐と燕弘亮らは門を閉ざして防いだが、日中になると、杜行敏は叫んで「私は国のために賊を討伐する。速やかに降伏しないと焼き払うぞ」と言い、兵士が薪を積むと、李祐は出てきたから、捕らえて京師に送致した。内侍省で死を賜り、庶人に貶され、国公の礼で葬られた。詔して斉州に一年間免税とし、杜行敏を抜擢して巴州刺史とし、南陽郡公に封じた。
  李祐が闘鴨を育てるのを好んだが、叛こうとする以前に、狸が鴨四十匹以上を齧って、鴨の頭をとって去った。李祐が敗れると、係累で誅殺された者がだいたい四十人以上であった。
  李祐が叛くと、斉州の人である羅石頭が李祐の罪を数え上げ、刀で李祐を刺す寸前までいったが、果たせず殺された。詔して亳州刺史を追贈された。
  かつて騎馬を引き連れて村落を布告して巡ると、野人の高君状が、「お上は自ら賊を平定され、土地の兵士は数え切れないほどです。今、王は数千人で叛乱していますが、一手で泰山を揺らすようなもので、また君父のようにでもなれるというのでしょうか」と言ったから、李祐は撃って捕らえたが、その発言を恥じて、殺すことができなかった。詔して楡社県令に抜擢された。

  蜀悼王李愔は、貞観五年(631)に初めて梁王に封ぜられ、郯王漢王申王江王代王の五王とともに同じく封ぜられた。蜀王に移封され、実封八百戸であった。京師から出されて岐州刺史となった。しばしば狩猟し、非法を行ったから、帝はしきりに譴責したが、改悛しなかった。「禽獣は人に迷惑をかけることがあるし、鉄石は武器とすることができる。だから狩猟するのにこしたことはない」と言ったから、そのため封戸および国の官吏の半分を削り、虢州に移した。しばらくして、封戸を戻し、千戸の増やした。また狩猟に出かけて、民間の生業を圧迫した。典軍の楊道整が馬を叩いて諌めると、李愔は楊道整を殴打した。御史大夫の李乾祐が李愔の罪を弾劾すると、高宗は怒り、黄州刺史に貶した。楊道整を抜擢して匡道府折衝都尉とした。
  呉王李恪が罪となると、李愔は同母弟であったから廃されて庶人となり、巴州に移された。にわかに涪陵王に封ぜられ、薨去した。咸亨年間(670-674)初頭、もとの王に封ぜられ、益州大都督を追贈され、昭陵に陪葬され、子の李璠を嗣王とした。李璠は、武后の時に流謫されて誠州で死んだ。神龍年間(707-710)初頭、朗陵王李瑋の子の李褕を後嗣とした。

  蒋王李惲は、初め郯王に封ぜられ、また蒋王に移封され、安州都督を拝命し、実封千戸を賜った。永徽三年(652)、梁州に遷った。李惲は器物の作成や服飾を楽しみ、車四百台にも及んだから、通過した州県は騒然として護送したが、役人によって弾劾奏上されたが、詔して許して不問とした。上元年間(760-761)、箕州刺史に遷った。録事参軍の張君徹が李惲の謀反を誣告し、詔して使者に取り調べさせると、李惲は恐れて自殺した。高宗はその冤罪を知って、張君徹を斬り、李惲に司空・荊州大都督を追贈し、昭陵に陪葬した。三子があった。李煒・李煌・李休道である。
  李煒は初め汝南郡王に封ぜられ、李惲が薨去すると、嗣蒋王となったが、武后に殺害された。神龍年間(707-710)初頭、嫡孫の李紹宗を嗣蒋王とし、薨去すると、子の李欽福を後嗣とし、率更令に任じた。
  李煌は蔡国公に封ぜられた。孫の李之芳は、令名があって、安禄山の奏上によって范陽司馬となった。安禄山が叛くと、自ら脱出して京師に帰った。工部侍郎・太子右庶子を歴任した。広徳年間(763-764)初頭、詔して御史大夫を兼任して吐蕃への使者となり、二年間抑留させて帰還できた。礼部尚書を拝命し、太子賓客に改められた。
  李休道の子の李琚は、神龍年間(707-710)初頭、嗣趙王に封ぜられ、開元年間(713-741)中山王に改められた。

  越王李貞は、初め漢王に、後に原王に封ぜられ、後に越王に封ぜられた。李貞は騎射をよくし、文章に優れ、官吏としての才能があり、宗室では王としての優れた人材であった。武后の執政当初、太子太傅・豫州刺史に遷った。中宗は廃位されて房陵におり、李貞はそこで韓王李元嘉および韓王子で黄公の李譔、魯王李霊夔・魯王子の范陽王李藹、霍王李元軌・霍王子の江都王李緒、および子の琅邪王李沖とともに復古の計略を謀った。
  垂拱四年(688)、明堂が完成すると、宗室を全員呼び寄せて祭礼を行うこととしたが、宗室は共に武后が遂に大誅殺を行って李家の貴種を残さないのではないかと疑い、また緊急事態であったから、李譔はそこでの璽書を偽って李沖に賜って、「朕は幽閉されている。諸王よ、ただちに兵を挙げよ」と述べ、ここに長史の蕭徳琮に命じて兵士を募集し、諸王に蜂起の時期を告げた。八月、李沖がまず蜂起したが、諸王で応じる者はなく、一人李貞が兵を率いて上蔡を攻めて、破ったが、李沖はすでに敗れていた。李貞はしばらくして属県に布告して、兵士七千を得て、五営に列し、李貞は中営とし、裴守徳を大将軍とし、中営を指揮させた。趙成美を左中郎将とし、左営を指揮させた。閭弘道を右中郎将とし、右営を指揮させた。安摩訶を郎将とし、後軍を指揮させた。王孝志を右将軍とし、前軍を指揮させた。韋慶礼を司馬とし、官五百人を任命させた。しかし脅かし誘っても闘志はなく、家童は皆符を帯びて兵火を避けようとした。九月、武后は左豹韜衛大将軍の麴崇裕・夏官尚書の岑長倩を派遣し、兵十万を率いて討伐させ、鳳閣侍郎の張光輔を諸軍節度とし、そこで詔を下して李貞父子の属籍を削り、氏を改めて「虺」とした。麴崇裕らは豫州に行き、李貞の幼子の李規および裴守徳は戦って防いだが、兵は潰滅し、李貞はそこで門を閉じて守った。裴守徳は、勇士であった。李貞が決起した当初、娘を裴守徳の妻とし、腹心とした。ここに至って、李貞を殺して自ら贖おうと思った。ちょうどその時、軍は城に迫り、家人は李貞に向かって、「今事はこうなってしまいました。王はどうして殺さる辱めを受けられるというのですか」と言い、そこで毒薬を仰いで死んだ。李規は自殺し、裴守徳は主とともに縊死した。決起してからだいたい二十日で敗れた。それより以前、李貞は水を覗き込んで鏡としてみると、自分の首が見えなかったから、このことを嫌ったが、しばらくもしないうちに禍いに遭った。
  李沖は、李貞の長子である。学を好んで、勇敢で才能があり、博州刺史となった。決起した当初、兵士五千あり、河を渡って武水県に赴き、武水県令は緊急時代を魏州に告げ、魏州は莘県令の馬玄素を派遣して兵を率いて先に城に入らせ、李沖はこれを攻撃したが、風に乗じて、薪を積んでその門を焼き払おうとしたが、火をつけると風向きが逆となり、軍の士気は瓦解し、その部下の董元寂は「王は国家と戦っている。それは叛乱だ」と批判すると、李沖は斬って晒したから、軍は恐れ、遂に潰滅し、ただ家奴数十人が従っているだけで、そこで博州に逃げたが、門を守る者に刺されて死んだ。武后丘神勣に命じて討伐させ、兵が到着する前に、李沖はすでに死んでおり、決起してから七日で敗れた。二人の弟がおり、李蒨・李温である。李蒨は、常山公で、連座して死んだ。李温は前もって密告していたから、嶺南に流された。
  それより以前、李貞は寿州刺史趙瓌に檄文を送って、兵を起こし、また道を通過させるよう諭した。趙瓌は檄文を得ると、許可して応じ、趙瓌の妻の常楽長公主もまた諸王のもとに赴いて早く功を立てるようにせかし、そのため趙瓌と常楽公主は二人とも死んだ。済州刺史の薛顗とその弟の薛紹は謀って李沖に応じ、領していたところの庸・調で、兵士を募集した。李沖が敗れると、獄に下されて死んだ。薛顗は、駙馬都尉の薛瓘の子で、母は城陽長公主であり、河東県侯に封ぜられた。薛紹は太平公主を娶り、右玉鈐衛員外将軍に抜擢され、太平公主の婿であったから殺害されず、河南の獄で餓死した。
  神龍年間(707-710)初頭、敬暉らが李沖父子が社稷のために死んだことを奏上し、封地の復活を願ったが、武三思らに阻まれて沙汰止みとなった。開元四年(716)、封爵が復活し、役人は、死して君を忘れないのを敬というから、敬と諡した。開元五年(717)、また詔して、「王嗣が絶えて国が除かれることは、朕は非常に悼んでいる。李貞の従孫の故許王の子で夔国公の李琳を嗣王とし、王の祭祀を奉れ」と述べた。李琳が薨去すると、爵位は伝わらなかった。
  李貞の最も幼さな子の李珍子は嶺表に流謫され、数世代たっても帰ることができなかった。開成年間(836-840)、女孫が四世代にたって喪して北に還り、王の墓を祀ることを求めた。詔して憐れんで許し、宗正寺・京兆府に勅してその墓を弔わせ、陵に陪葬しないも葬ることを許した。女の名は李元真で、道士となった。

  紀王李慎は、初め申王となり、後に紀王に移封し、食戸八百となった。貞観年間(623-649)、襄州刺史に遷り、治世が最も優れていたから、天子は璽書で励みを労い、人々は頌徳碑を立てた。貞観二十三年(649)、戸を増やして千戸となった。文明年間初頭(684)、累進して太子太師・貝州刺史に昇進した。李慎は若くして学を好み、星占いをよくし、越王と名声は等しく、当時の世間は「紀越」と号した。
  それより以前、李貞は諸王を連合して兵を挙げ、李慎は知ったがまだ時は熟していないと思い、一人拒絶して合流しなかった。誅殺されようとしたときに死を免れ、氏を改めて「虺」とし、檻車に載せられて、巴州に流謫されたが、道中で薨じた。七子があった。李続李琮・李叡・李秀・李献・李欽・李証である。李続と李秀が最も名が知られた。
  李続は東平郡王となり、和州刺史を歴て、薨去した。李琮は義陽王に、李叡は楚国公に、李秀は襄陽郡公に、李献は広化郡公に、李欽は建平郡公に封ぜられたが、五人一緒に武后に殺害された。神龍年間(707-710)初頭、李証を嗣王とし、左驍衛将軍に抜擢され、薨去した。子の李行同が継承した。
  李琮に三子があった。李行遠・李行芳・李行休である。それより以前、李琮は二人の弟と同じく桂林で死んだ。開元四年(716)、李行休は自ら柩を迎えることを願い、到着すると、墓に樹木による境界がなかったから、議する者は再び柩と見えることはできまいと言っていた。李行休が帰還すると、地に席を並べて祈った。この夜、夢に王が舟に乗っており、舟には「二」と判されていた。その後野外に行くと、東の中洲は分断されており、そこで目覚めた。また霊堂に一晩で莖が勝手に屈折して鎖となり、管の上に指跡があり、一度の珍事が二度並んでいた。占いする者に占わせたところ、「屈は、文字では「尸」と「出」になります。指は、示すことをいいます。一度の珍事が二度並んでいたのは、三人の殯(遺体)を示します。先王はこれを告げているのです」と述べたから、そこでその所に赴いて、墓を掘ってみると占いする者の言った通りであり、そして指の関節が一つ欠けていた。李行休は号泣して寝ると、夢に李琮が告げて、「洛南洲にあり」と言ったから、翌日、直ちに殯とともに南に行って残る殯を探し当てた。ここに三人の葬列が帰還し、昭陵に陪葬され、李琮を陳州刺史に追贈した。永昌年間(689)、李行遠・李行芳は巂州に流され、六道使が到着すると、李行遠はまず殺され、李行芳は幼いから赦されようとしていたが、抱きかかえて身代わりになるよう願い、遂に二人とも死んだから、西南の人はその死を悌だと称えたという。
  李慎の娘の東光県主は、八歳のときに、父李慎が病となったと聞くと、食事を摂らなかったから、父は悲しんで、偽ってもう治ったと言ったが、東光県主は顔色を察してまだ治っていないと思ったから、ついに食事することをよしとせず、内外の者は称賛した。成長すると太子司議郎の裴仲将に嫁いだ。当時、妃や公主の多くは富貴をたのみ、驕りのあまりそれぞれが自惚れていたが、東光県主だけは一人倹約質素で、姉弟から「人生の富貴は思い通りにできるのに、一人苦行に務めるのは、何を求めているのか」と謗られたから、「私は幼い頃から礼を好み、今礼を行って違うことはありませんが、どうして思い通りにできないというのですか。また古賢の妃や淑女より謹みや謙遜によって名があらわれているのに、奢って勝手気ままにすると徳を失うのです。ましてや栄達や寵遇や尊貴なんてものはたまたま来たものであって、これによって人を凌ぐにたのむことができましょうか」と答えた。父王が死ぬと、慟哭して、吐血すること数升に及んだ。服喪期間があけると、化粧や洗髪をやめること二十年であった。これより以前、諸王・妃・公主は垂拱年間(685-688)より以後に殺された者は全員藁で覆われるだけであった。神龍年間(707-710)初頭、州県に詔してあまねくその場所を訪れさせ、牲牢の犠牲で祭り、官爵を復活し、諸王は全員昭陵献陵の二陵に陪葬させた。東光県主はこのことを聞いて、感動し、感傷悲しみのあまり卒し、その子に命じて、「私のために亡き親戚たちに謝してほしい。惨たらしい怒りもすでの雪がれたから、地下で先王に見えても恨むことはない」と言い、中宗は東光県主のために章善門で挙哀し、詔を下して賞揚した。

  江殤王李囂は、封ぜられた翌年に薨去し、後嗣がなかった。
  代王李簡は、封ぜられて薨去し、後嗣がなかった。
  趙王李福は、貞観十三年(639)に始めて王となり、隠太子の祭祀を継いだ。梁州都督に遷り、実封八百戸となった。薨去し、司空・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬された。子がなく、神龍年間(707-710)初頭、蒋王李惲の孫の李思順に王を嗣がせた。

  曹王李明は、がもとは巣王(李元吉)の妃で、帝は寵愛し、皇后に立てようとしたが、魏徴が諌めて「陛下は辰嬴(晋の恵公・文公兄弟の妃)の旧例を自分自身に及ぼすべきではありません」と述べたから、そこで沙汰止みとした。貞観二十一年(647)、始めて曹王に封ぜられ、累進して都督・刺史となった。高宗は詔して巣王の祭祀を継がせた。永隆年間(680-681)、太子李賢の事件に連座して、零陵王に降封され、黔州に移された。都督の謝祐が迫って李明を殺し、帝は聞いて、悼むこと甚だしく、黔の官吏は全員連座を免れた。景雲年間(710-712)、昭陵に陪葬された。三子があった。李俊李傑李備である。
  李俊が王を嗣ぎ、南州別駕となり、李傑は黎国公となったが、垂拱年間(685-688)二人共誅殺された。神龍年間(707-710)初頭、李傑の子の李胤を嗣曹王とした。この当時、諸王の子孫は嶺外より帰還し、入朝して中宗に謁見し、全員が慟哭し、帝もまた涙を流した。それより以前、武后の時、壮年の者は誅殺されて死に、幼い者は全員没官されて官奴となるか、あるいは民間に匿われて日雇いとなっていた。ここに至って、相継いで出てきて、帝は宗族の遠近に従って封じていったという。後に李備が南より帰還し、詔して李胤の封を停めて李備を封じ、衛尉少卿同正員を経て、薨去した。開元十二年(724)、李胤の封を復した。薨去し、子の李戢が嗣ぎ、位は左衛率府中郎将に至った。子の李皋が嗣いだ。

  李皋は字を子蘭といい、若くして左司禦兵曹参軍に補任された。天宝十一載(752)嗣曹王に封ぜられた。母の太妃鄭氏に仕えて孝行によって有名であった。安禄山が叛くと、母をおもりして民間に逃げ、すきをみて蜀に逃げ、玄宗に謁見し、都水使者の地位によって左領軍将軍に遷った。上元年間(760-761)初頭に日照りとなり、李皋は禄では養うには足りないから、外任に補任されることを願ったが許されず、そのため些細な法に触れて、温州長史に貶され、にわかに温州の政務をとった。温州は大飢饉となり、官の倉庫数十万石の穀物を放出して飢えた者に施し、僚史が庭先で叩頭してまず上奏することを願ったが、李皋は「人々は道に食べられなければ死ぬんだ。命令を待ってから放出するというのか。いやしくも私が殺されて民が生きるのなら、その利益は大きいものがあろう」と言い、そうして助かると、そこで自ら弾劾したが、お褒めの詔があって放出を許され、少府監に昇進した。当時、殿中侍御史の李鈞はその弟の京兆法曹参軍の李鍔とともに官位の昇進をなしとげようと、故郷に帰ることをよしとせず、母は困窮して自給できなかった。李皋は県に行って面会すると、歎いて、「入れば孝、出れば悌、余力があって学ぶ。二子のような者が君主に仕えることができようか」と言って弾劾し、二人共獄中死した。召還されたが、まだ謁見される前に上書して治道を申し上げ、詔があって衡州刺史を授けられたが、観察使に過ちがあったと弾劾され、潮州刺史に貶された。たまたま楊炎が道州刺史から宰相となると、李皋の剛直さを知り、再び用いて衡州刺史となった。それより以前、御史による審議中、李皋はその母に心配をかけることを恐れ、出る時は囚人服を着て、家に入るときは衣冠をつけ、容貌・言動は普段の通りであった。潮州刺史となると、昇進したのだと母に告げた。再び衡州刺史に復帰すると、そこで母にその事実を申し上げたのだった。
  建中元年(780)、昇進して湖南観察使を拝命した。前任の観察使であった辛京杲は貪欲かつ暴虐で、部将の王国良に武岡を守らせたが、富を奪おうとし、そこで弾劾して殺そうとしたから、王国良は恐れ、県に拠って叛いた。荊州・黔州・洪州・桂州の兵をおさめて王国良を討伐したが、二年たっても降すことができなかった。李皋が到着すると、書簡を送って、「将軍を見てみるにあえて大逆する者ではない。特に讒言から逃れて死に抵抗しているだけだ。将軍は私にあったのだから降らなければならない。私はもとより辛京杲に誣告されたが、幸いにも冤罪を雪がれた。どうして兵で将軍を攻撃するのを忍ぶことができようか。思うにそうでなければ、私は陣の術で将軍の陣を破り、攻城法で将軍の城を屠るが、将軍の渡るところではない」と言い、王国良は書簡を得て、喜びかつ畏れ、そこで降伏を願い出たが、しかしぐずぐずとためらっていた。李皋は即日単騎で使者であると称し王国良が砦を築き、賊は使者を招いて入れ、李皋は大いにその軍に向かって「曹王を知っている者がいるか。それは私だ。やって来て降伏せよ。今どこにいるか」と言ったから、全軍は驚愕し、あえて動かず、王国良は出迎えて拝礼し、叩頭して罪を請うた。李皋は手をとって、義弟とする盟約を結び、そこですべての武具を焼き払い、兵を解散させた。詔があって王国良を赦し、名を王惟新と賜った。
  翌年、母の喪によって江陵に至った。その時梁崇義が叛き、奪喪(服喪が終わる前に強制的に官に呼び戻されること)によって左衛大将軍となり、再び湖南観察使となった。李希烈が叛くと、江西節度使に遷った。拝命の日、家に帰らず、そのまま予章に到着し、大いに将や吏員に命じて、「功績があってもまだ上申されていない者と、大器を抱いているのに表れていない者は、自ら名乗り出よ」というと、裨校の伊慎李伯潜劉旻を得て、ことごとく大将に任じた。王鍔を抜擢して中軍とし、馬彝許孟容を幕下に置いた。戦艦を修造し、兵二万を集め、兵士二千五百を伊慎らに委ねて教練させた。自らは五百人を率い、秦の兵団の力法を教練し、その賞罰は連帯責任とし、緩急も一つのようにし、そこで五百人で伊慎の兵二千五百を攻撃できると約束し、その先鋒にあたることができず、そこで尽く教練した。それより以前、伊慎はかつて陳希烈に従って襄州を平定したが、ここに李希烈は李皋が用いられるのを恐れ、そこで反間を行うと、徳宗は反間を信じ、伊慎を誅殺しようとしたが、李皋は伊慎の赦免を願い、自ら弁明した。当時、賊と江を挟んで陣を敷き、李皋は伊慎に功績を立てるよう励まし、自分の乗っていた馬および武器・甲冑を賜うと、先鋒を率いさせ、賊数百級を斬ったから伊慎が免れた。
  賊は蔡山に築城したから攻撃することができず、李皋は声を大にして西は蘄州を奪取すると宣言し、兵艦を率いて崖を迂回して江上を遡った。賊は聞くと、精兵を隠して陣地を防御して、全軍で江北に行き、李皋にあたった。西は蔡山を去ること三百里、李皋は歩兵を派遣して全員を舟に載せ、流れにしたがって下り、蔡山を攻撃して陥落させた。一日した後に、賊の救援がやって来たが、遂に大いに破り、蘄州を奪取し、その将軍の李良を降伏させ、黄州を平定し、兵はますます威勢があがった。
  当時、舒王が元帥となると、李皋に前軍兵馬使を授けた。にわかに天子が朱泚の乱のために奉天に巡狩すると、塩鉄使の包佶陳少游に苦しめられ、運艚が江を遡って蘄口に行くと、李希烈杜少誠に歩兵・騎兵三万を率いさせ、江のルートを遮断させようとしたから、李皋は伊慎の兵七千を派遣して永安を防御させ、敗走させた。功績によって工部尚書に昇進した。帝が梁州にとどまると、李皋は貢納によって連絡線の確保を助けた。天子が外地におられるから、そこであえて城府に居住せず、屯営を出て西は山や大洲をふさぎ、郡県にうつって軍市とした。戸部尚書に改められた。また伊慎・王鍔を派遣して安州を攻撃し、まだ降せずにいるうちに、李希烈は劉戒虚に歩兵・騎兵八千で救援させた。李皋は李伯潜に応山で迎撃させ、捕虜とし、遂に安州を降し、偽刺史の王嘉祥を斬った。李希烈は別に兵を派遣して隋州を救援し、李皋はこれを厲郷で破り、そこで平静・白雁関を降し、賊は遂にあえて南に侵略しなくなった。荊南節度使に遷り、実封三百戸を賜った。おおよそ戦うこと大小三十二、州を奪取すること五・県を奪取すること二十、斬首三万三千、捕虜一万六千で、いまだかつて敗れたことがなかった。軍が通過するところでは、あえて果物をとらず、田畑を踏まなかった。朝廷は食を江淮に頼っていたが、西のルートは九江に出て、そこから大きく分岐していたが、すべて賊と接していた。李皋は転戦すること数千里、糧道は遂に打通し、江漢は李皋に頼って防御したのであった。淮西が平定されると、そこで葬列を守って東都に帰ることを願い出て、帝は宦官を派遣して葬列とともに行って哀悼させた。葬が終わると来朝し、鎮に戻った。
  それより以前、江陵の東北の傍に漢代に古鄣があり、統治されず、毎年あぶれていた。李皋は治め、その麾下に良田五千頃を得た。江南を整備して中洲を家々とし、二つの橋を架橋して江を跨いだが、流人が二千家ほど占有してしまった。荊州から楽郷までの二百里、その間に村落がおよそ数十あったが、井戸の水は飲めなかった。李皋ははじめて井戸の掘削を命じて人の便とした。貞元年間(785-805)初頭、呉少誠が蔡で気まま勝手にしていたから、そのため李皋を写して山南東道節度使とし、隋州・汝州を割いて軍を増強し、兵を訓練して兵糧を貯え、回鶻と馬を交易して騎兵を増やし、毎年巻狩りをして兵士を訓練したから、呉少誠は恐れた。
  李皋の性格は倹約につとめ、よく人の病苦を知った。微かな隠し事にも耳を側立てたから、ことごとく部下の長所短所を知り、その賞罰は必ず信をおいていた。赴任地では常に物価は変動せず、税収が多くてもその利をほしいままにはしなかった。戦艦の建造を指導し、二輪を挟んで踏むことによって、水をたたいて速く進み、陣馬のように速かった。有所造作、すべて簡略化してよくなった。物を人に与えるときは、必ず自ら衡量(はかり)を見て、庫帛はすべて署名捺印したから、吏の怠慢をふさいだ。扶風郡の馬彝は名を知られていなかったが、李皋はその名を知ると、ついに正直によって称えられた。張柬之の菜園が襄陽にあり、李皋はかつて宴会の時に、売らせようとした。馬彝が「漢陽郡王には中興の功績があり、今遺業はまさに百世になっても保たれようとしています。どうしてその子孫に売らせようとするのでしょうか」と言うと、李皋は「田舎の役人どもがいわなかったことを、あなたは恥をした。あなたが示さなければ、どうしてこの発言を聞くことができただろうか」と謝した。卒したとき年六十歳。尚書右僕射を贈られ、謚を成といった。
  李皋はかつて自ら考案して欹器(いき)をつくり、木に漆を塗って上には五觚が飛び出て、下はまるく、鉢のような形であり、二豆を入れ、少しなら水は弱く、多ければ強く、中程度なら水器は均等となり、揺れ動かしてもひっくり返らなかったという。
  子に李象古李道古がいる。

  李象古は、元和年間(806-820)、衡州刺史より安南都護に抜擢されたが、貪欲かつ放縦で法を守らなかった。驩州刺史の楊清は、蛮酋であったが、李象古はその豪気さを嫌い、召して牙門将としたが、常に鬱々として叛乱しようと思っていた。たまたま黄氏の蛮を討伐することになり、李象古は兵を発して援軍とし、そこで楊清に兵三千を授けた。楊清は子の楊志烈ととともに戻って安南を襲撃し、李象古およびその一家を殺害した。詔して楊清を赦して瓊州刺史とし、桂仲武を安南都護とした。楊清は命令を拒否し、桂仲武は別々に渠酋を説諭し、兵はすべて付き従い、城を破って楊清を斬り、その一族を滅ぼした。

  李道古は、進士に推挙され、書を宮中に献上したから、校書郎・集賢院学士に抜擢された。累進して司門員外郎となり、利州・隋州・唐州・睦州の四州の刺史を歴任した。柳公綽が鄂岳節度使となると、讒言の上聞があり、憲宗は鄂岳節度使を代えようとした。裴度は、「嗣曹王李皋はかつて江漢の兵で李希烈を制し、武威や恩恵は人々にわたりました。今はその子を将とすれば、必ず功績があるでしょう」と述べ、たまたま李道古が黔中観察使から入朝しており、そこで柳公綽を交代し、半分の行程で急行してその軍に入り、柳公綽は恐れてにわかに出ていったが、財貨はすべて奪われた。元和十二年(817)、申州を攻撃し、その郭を破り、進撃して中城を包囲した。守兵が夜に女子を駆けて登らせて騒がせ、懸門を開けて出たから、李道古の軍は混乱し、多くが賊に殺された。李聴は安州を守備し、いまだ敗れていなかったから、李道古は誣告して追放した。自ら率いて木陵関に出撃したが、兵士は驕慢で制することができず、また度支銭を李道古はすべて権勢者に阿諛追従のために送ったから、そのため兵士に支給せず、その部下は怨み怒り、戦っても力を尽くさず、賊はまた組みやすかった。そのため再度申州に入ったが、降すことができず、ついに功績がなかった。淮西が平定されると、検校御史大夫を加えられ、召還されて宗正卿・左金吾将軍となった。
  は丹薬の服用を喜び、李道古は自らも媚びようとし、親しくしている柳泌が自ら金を不死薬に変えることができると言っていたから、そこで宰相の皇甫鎛を通じて上聞させたが、たまたま突然帝が崩じてしまった。穆宗は太子の頃からこれを憎んでいたが、即位すると柳泌を誅殺し、皇甫鎛を貶し、李道古を斥けて循州司馬とした。しかし穆宗も終に丹薬を服用して喀血死した。長慶年間(821-825)初頭、詔して元の官に戻した。李道古は宦官にへつらい、そこで阿諛追従して謙譲し、公卿の間で遊んでは、常に博奕を共にし、偽って負け、手厚く掛け金を支払い、利を嗜む者の多くの歓心を得て、そのためやや名声を失った。死ぬと邸宅を売って葬られた。


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最終更新:2025年08月17日 14:45
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