河沼郡牛沢組牛沢村

陸奥国 河沼郡 牛沢組 牛沢(うしさは)
大日本地誌大系第33巻 129コマ目

相伝ふ。昔空也牛に乗てこの村に来る。その牛死して石に化す(この石今民家にあり。土中に埋して全体は見えず)(ゆえ)に牛沢村と名けしとぞ。

府城の西に当り行程3里5町。
家数107軒、東西5町6間・南北6町17間。西は山に近く四方田圃(たんぼ)なり。

村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東10町15間大江村の界に至る。その村まで10町20間。
西3町20間細越村の山に界ふ。
南2町15間勝方村の界に至る。その村は未申(南西)に当り10町30間。
北5町4間蛭川村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り9町余。
また
寅卯(東北東~東の間)の方7町16間坂下組中村新田村に隣りその村際を界とす。
申(西南西)の方2町大村の界に至る。その村まで7町。
戌(西北西)の方6町11間船窪村に隣りその村際を界とす。

端村

西牛沢(にしうしさは)

本村の西2町にあり。
家数20軒、東西1町・南北2町30間。
四方田畠なり。

山川

花立(はなたて)

村西20町計にあり。
高20丈余。空也ここに2花を立て佛を供養せしとぞ。
またこの山中に焼香清水という泉あり。水多く湧き出す。下に堤を築きその水を貯ふ。

木根(きのね)

花立山の戌亥(北西)の方10町にあり。
高30丈計。
柳津道に出る経路なり。

田沢川

村西にあり。
勝方村の方より来り、北に流るること10町計蛭川村の界に入る。
広5間より8間に至る。

土産

この村に産するもの白根長大にして味美なり。

煙草

薄葉白黄にして気味烈しからず。近村よりも多く産す。

関梁

無明(むみやうの)

村西大徳寺の門前にあり。
長8間・幅1間、田沢川に架す。
空也高寺山と開んとせし時高野山に擬して大徳坊の無明橋と名けしとぞ。
今も牛馬と渡さず。渡れば怪我ありという。

水利

牛沢堰

大江村の境内より来り田地に(そそ)ぎ2派となり、一は船窪村の田畝に漑ぎ、一は蛭川村の方に注ぐ。
明暦2年(1656年)この村の郷頭佐原吉左衛門という者家資を出し多くの人夫を雇い、大沼郡高田組境野村の境内より宮川を引き渠を()ること凡2里17町余、同3年(1657年)に功成る。これより数村の養水に乏しからず。

堤3

一は端村西牛沢の西5町山中にあり。
周160間。楢沢(ならさは)堤という。
慶安中(1648年~1652年)築く。
本村及び船窪村・蛭川村の養水とす。

また村西7町計山中に2あり。
共に周160間、本村と大村の養水とす。
一は寛永中(1624年~1645年)に築き、一は明暦中(1655年~1658年)に築く。

村より戌亥(北西)の方にあり。
長8間2尺余。田沢川に架す。
牛沢堰の下流を引きて田地に(そそ)ぐ。

倉廩

米倉3屋

村中にあり。
一屋は社倉なり。
二屋は本組の米を納む。

神社

若宮八幡宮

祭神 若宮八幡?
相殿 熊野宮 2座
稲荷神
幸神
御稷神
鎮座 不明
村西にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。勝方村尾崎左京これを司る。

寺院

大徳寺

村西にあり。
会津郡南青木組天寧村天寧寺の末山曹洞宗なり。
縁起によるに天文17年(1548年)9月正珊という僧ここに来り、如来堂に宿して静座せしに五智如来光明を放ち天半に現す。正珊旨を悟り禅座して年を踰。後また諸国を経歴し再びここに来り庵を結んで住す。天正9年(1581年)高岩という僧天寧寺9世仁庵を請て開山とし牛澤山と號す。後院宇傾頽(けいたい)せしを宗堯という僧再興せり。

総門
6間半に2間。
客殿
9間に7間、東向。本尊釈迦。
鐘楼
客殿の前にあり。
鐘径2尺『天和癸亥仲夏吉祥日太源一派之末流牛澤山大徳禅寺』と彫付けあり(天和3年癸亥:1683年)。
この村の郷頭佐原吉左衛門光忠一子早世しければ冥福の為に鋳造す。
衆寮
客殿の前にあり。6間に2間。
如来堂
客殿の北にあり。3間四面、東向。
五智如来の木像を安ず。

観音堂

村中にあり。
造立の年代詳ならず。
修験鳴鶏院これを司る。

古蹟

館跡

村中にあり。
東西30間・南北1町。
昔いつの頃にか佐原右馬允包盛という者住し、天正の頃(1573年~1593年)蒲生氏の臣佐瀬上総某という者住せしという。今民家となり土居空隍の形存す。

経塚

村東2町計にあり。
高5尺・周10間。
空也経文を埋めし所なり。今も時として火燃えることありという。この辺経壇原とて四方1町計の原野なり。

名馬塚

大徳寺の東北1町計にあり。
佐瀬上総が乗馬を埋めし所なりとぞ。村老の口碑(こうひ)に、天正の頃(1573年~1593年)黒川に失火ありと聞こえければ、近村の地頭急ぎ府に参らんとて鶴沼川の辺に駈集まる。折ふし洪水漲りて渡ることを得ず。徒に川岸を(にらみ)てひかえけり。然るに上総一人馬に打乗て難なく川を渡り黒川に至り氏郷に謁す。残りし者どもは水の落ちるを待て渡しければ、上総には遥かに後れたり。氏郷その遅参を咎めしに、各上総が馬の駿足なることを告く。氏郷(やが)てその馬見んとて召れしに、上総はこれより進らずべしと返答し「この馬究竟の逸物なり今氏郷に進らせんこと本意なし。さればとて命にそむかば罪蒙らんことを疑うべからず。詮する所この馬と死を共にせん」と馬牽よせて刺殺し、その身も大徳寺の如来堂にかけ入り腹掻切て死たりといい伝う。

地蔵免

村東田圃の字なり。
昔いつの頃にか地蔵堂ありし所なりという。
その地蔵とて今民家に安置す。長1尺計の木佛なり。
土人御孕(おはらみ)地蔵といい、その背後を()りて別に佛1体を軀中におさむ。故に名けしとぞ。


外部リンク等



村名について

牛沢には大同年間(806~809)徳一が高寺山を再興した頃、高寺三十六坊の一の大徳坊がおかれ、後に大徳寺になったと伝えられる。その後、空也(964年・八葉寺開基)が都から会津に下って、仏教を広くすすめるために牛に乗って赤沢まで来られた時この牛が石になったので牛沢と改められたという。
『若宮郷土誌』によると、それ以前は「赤沢」と詠んでいたと誌されている。これは大徳寺の門前を流れる川を田沢川、俗に川前の川と呼んでいるが、鉄分の含んだ水が流れているため川原石が赤銹色になっているので赤沢と呼んだものか。

明治8年(1875年)、牛沢村・蛭川村が合併し牛川村が起こる。
明治22年(1889年)、牛川村・勝大村・樋島村・大沖村・五ノ併村・白狐村・葉林村が合併し若宮村が発足。
昭和30年(1955年)、坂下町・若宮村・金上村・広瀬村・川西村・八幡村が合併して会津坂下町が発足。

木根坂(きのねさか)

※地理院地図(明治43年測図/昭和6年修正測図)

明治(~昭和初期)時代の地図を見ると花立山の南側から七折坂の大沢側に向かう山道(点線)の記載があります。これが木根坂だった道の跡ではないかと推測します。また、一部が「緑資源幹線林道 飯豊・檜枝岐線 会津坂下・新鶴区間」として整備されているかと。

牛川地区の社寺

法人番号公表サイトで検索すると下記の内容が登録されている
法人番号 商号又は名称 所在地 備考
5380005009011 大徳寺 河沼郡会津坂下町大字牛川字中島2596番地
2380005008800 若宮八幡神社 河沼郡会津坂下町大字牛川字館ノ越3241番地

池の稲荷

牛沢の南の字南原に、牛沢から勝大に通じる町道の傍らに、静閑な古木に囲まれた木造建ての、大きさ二間四方の新田がある。
御神体はたけ六・七寸ぐらいの白狐に法印様が乗っている、珍しいお姿である。
このお稲荷様は、正一位池稲荷(いけのとうか)大明神といわれ、通称「いけのとうか」と呼んでいる。
村人は五穀豊穣を祈願しており、神殿のすぐ前に清水がわき出ている。
産婦がその清水でかゆを煮て食べると、乳が出るといわれ、昔は遠くの村々からわざわざ清水を汲みに来たといわれている。
毎年十二月十四日は、この稲荷の歳とりで、隣近所数件が集まって祝うのが恒例になっている。
池の稲荷の由来は、安政元年(1854)に信仰心の厚い当村の嘉茂左ヱ門という人が、単身京都に拝受に出かけた。ところが途中大井川の洪水にあい、逗留(とうりゅう)しているうち路銀がなくなり、自分の腰の物(刀)を質屋に入れて、目的を果たさず帰って来た。
そしてその翌年、数百日を費やして京都の吉田殿より反物二百匹(四百反)で受納し、嘉茂左ヱ門の屋敷稲荷として祭ったが、その頃の時代は百姓は神社などもてるはずがなく、当時の法印様に奉納したそうである。
現在の所有者は明慶院の子孫佐原熊四郎氏で、東京に住んでいる。

坂下町の伝承を見ると、この稲荷様は安産祈願に御利益があるようです
最終更新:2025年10月23日 22:21
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