昔話のマイルド化現象

登録日:2018/09/07 Fri 05:09:35
更新日:2025/04/07 Mon 15:12:02
所要時間:約 37 分で読めます






子供の頃読んだ昔話を、懐かしく思って最新版で読み直した時、こんな風に思った事はないだろうか?

「あれ?この話、こんなストーリーだっけ??」

そう、昨今の昔話は、ストーリーが大幅に改変されている事例が少なくないのだ。
ここではそんなストーリーが変更され、マイルドなストーリーになった昔話について触れていく。




概要

特に伝統的な昔話は、暴力的だったりして「教育的によろしくない」と判断されることが多い。
そのため、「」に関わる演出については大きく変更されることがザラ。
また、下品・性的・差別的だったりする部分も変更される傾向にある。

これらの現象を「伝統的なストーリーを破壊している」と非難する意見は昔から根強い。
特にマイルド化されている説話は「因果応報」「勧善懲悪」「真面目に生きるといいことがある」を旨にした部分も非常に多く、それを子供に教えるための手段として好まれていたわけで、それが「どれだけ悪いことをしても謝れば許してもらえる」「怠けていても謝れば助けてもらえる」というストーリーに改変されていることに関しては昔から物議をかもしている部分である。

しかし逆に社会の流れの変革によって伝統的なストーリーが理解されなくなってきたので、生き残りを図るために変えることも行われている。
早い話が、赤ん坊や老人や別種族をぶっ殺したり、忍耐の末に陰惨な復讐を遂げたりするストーリーなんて、このご時世では売れないのだ。*1

例えば落語の話になるのだが、数多くの落語を復活・継承させた桂米朝や桂歌丸は、さも伝統ものらしく演じているが実際には原話にないエッセンスを加えていることを著書やインタビューで暴露している。*2
これはそもそも「オチ(サゲ)が馴染みのないものになって通じないので変えざるを得ない」というものも多いのだが、これに加えて落語には「差別的」「残酷」「やってることがえげつない」などであまり好まれないものも増えてきているのだ。
彼らも金をもらって人に芸を見せるエンターテインナーなのでウケないことはできず、いかに相手の求めている「伝統」と、相手の自覚していない「新興」を折衷するかを考える必要がある、という話。

有名なのが桂歌丸の「後生鰻*3」なのだが、これは原話では赤子である。
しかし桂歌丸はこれじゃ聞いていて気持ちよくないということで鰻屋の年齢を中年夫婦にし、奥さんを殺そうとしてその悶着で笑わせると改変している。
後述の「寿限無」にも通じるものだが、落語は結構そういう改作が多い。

桂米朝は非常に多くの上方落語の演目を復活させたが、わかりやすい例が「持参金」。
これは三遊亭円丈が著書で「女性蔑視的である」とかなり批判的に書いているように、聞く人が聞けばめちゃくちゃえげつない筋書きなのだが、実は米朝はあくまでもブサイクな女を笑えるレベルで揶揄している(ノリは「短命」に近い)だけであり、この後に続くさらにえげつない部分を完全に切り落としておかしな余韻だけが残るように研究されたものである。
そして米朝が好んだネタに「鬼の手は指の数が3本である」というものがあるのだが、これも最近のテレビなどでは「指は5本で描かないといけない」という規定のせいですっかり縁がなくなった。昔のプリキュアの敵役だったアカオーニも指5本だったし。
一見伝統的で古臭く見えるものでさえ、それを守っていくと宣言している伝統派の旗手でさえ、時代や世相に合わせて堂々と改作されているというのは割と多いのだ。

このように文化というのは実は気づかないところでかなり変わってきており、そういった改作ができない・されない話というのは演者がいないので忘れられていき、何が面白いのかさえ分からなくなってしまう。*4
今でこそ「目黒のさんま」が古典として残っているが、その下にはおびただしい数の忘れられた演目の屍が埋まっているのだ。

こういう改変はまだ分かりやすい方なのだが、そもそも大抵の昔話は伝承されていくうちに多かれ少なかれ改変されてしまうものである。
竹取物語のように「正典」が残っている物ならともかく、口伝えなら代を経るにつれ変わっていくのは当たり前だ。
さらにそれぞれの時代・地域*5に合わせた改変を受けるのは、決しておかしなことではないだろう。

「あくまで伝統的なストーリーにこだわる」タイプの昔話を掲載しているものも存在するのだが、それだって評価が必ずしも芳しいとは言えない。
たとえば1998年にベストセラーになった「本当は恐ろしいグリム童話」は当時たいへん話題になったものだが、その中身に関しては「なんかいっぱい下ネタあんなこいつ……」「改変は残念ではないし当然」という呆れた感想も多かった。
また、その2年くらい後に原話の際現にこだわった絵本が大々的に宣伝されたが、これも今は覚えている人がほとんどいないことからもお察しである。ぶっちゃけ原点回帰にこだわったところで、ウケが悪いので売れないのだ。
現在では「本当は怖い」「童話の真実」のように銘打ったYouTube動画やいかがでしたかサイトがオススメ動画欄や検索結果に出てきて、その中身は学術的な研究すらなされていない、Wikipediaどころか当Wikiの情報を適当につぎはぎして強い言葉や有名なネタにこじつけただけということも非常に多い。
忠臣蔵に関しては「忠臣蔵の本当の姿!」と銘打って実際はそこから派生した歌舞伎や講談の話を調べる手間を横着しているだけという書籍もたいへん増えており、「これで金取るのかよ!?仕事はどうなってんだ仕事は!?」とキレたくなるような品質のものもしばしば見受けられる。
「本当の姿」とやらに立ち返ると言っておきながら、その中身が単なる手抜きや再生数稼ぎでは仕方がない。

そして、このような粗悪で露悪的で間違いだらけなものが粗製乱造され、そんなものばかりが耳目を集めている現状を憂えてか、『子供向けの古典解説本』なども増えてきている。
専門家や研究家がマイルド化を極力抑えつつ子供向けに話を引き下げて説話を紹介する、あわよくば古典の入り口として使ってもらうというための本である。
図書館の児童書コーナーなどには大体置かれているので、時間があれば見に行ってはいかがだろうか。アニヲタwikiなんて読んでるってことはどうせ暇なんだろうし。

植物の品種改良のようなもので、バラやバナナのように原種が似ても似つかないことは非常に多い。
そして野バラならまだ美的センスで理解されるが、バナナの原種なんて単に食べにくいだけである。
本当にその「原話」が現代のものより優れている・面白いものかという判断、マイルド化とやらは本当に悪なのかという永遠のテーマを、受け手側が考えなければならない時代が来ているのだ。
品種改良は原種を破壊するのではなく、時代の求めに応じて作出されていくものである。一概に「これは善、これは悪!」と断じる前に、子供に何を与えるのかよく考えるのも親の責任ではないだろうか。
本項目がその手の疑問の解決、あるいは興味を抱く一助になれば幸いである。

さて、新しい接し方として、最近は原話と改作に触れるのが非常にたやすくなっている。
どのように変遷してきたか、その変遷にどのような意図があるのかを類推しながら読むという、性格の悪い楽しみ方もできるようになった。
昔話がマイルドになっていくのを紹介したり、それを見て笑ったり。つまり早い話がこの項目である。


日本編

かちかち山

この手の話になると、大抵真っ先に名前が上がる昔話。
というか、元のストーリーがとても子供に聞かせられるようなものではないので、改変を受けるのは仕方ないことだろう。

元々、狸はなんとお婆さんを殺して鍋にぶち込み、あまつさえお爺さんに騙して食わせるという、悪意100万パーセントのえげつない殺人行為を犯している。
このため、兎の「放火→ 傷口に唐辛子→ 泥船で海に沈める→ 櫂で殴打→ 溺死」という陰湿で残酷極まりない復讐劇に正当性があった。
一部伝承によれば「婆さんの皮をはいで成り代わった」という追い打ちまであるものも。
特に最後の「助けてやると言いながら櫂で滅多打ちにして殴り殺す」という復讐は、狸の残虐行為が前提にあるからこそ許されるのである。
早い話、「めちゃくちゃ悪いことをしたんだから、これくらい苦しんで死ぬのは当然だよね」という、いわば因果応報を下地にした復讐劇である。
.....というのが定説だが、実は上記の婆汁のエピソードは最古のかちかち山の物語には出てこなかったりする。
つまり、もともと因果応報の物語として描かれたのではなく、多彩な制裁描写が最初に成立し、狸の悪行を後付けすることで行為の正当化を図った可能性もあるのだ*6

だが、最近の絵本だと狸の行為は「怪我をさせて寝込ませた」程度にマイルド化されていることが多い。
最終的な兎の復讐も泥船に乗せて溺れさせ、ようやく狸がこれまでの所業を反省するところで終わり、最後はちゃんと助けてやるか、狸が自力で岸まで泳ぎ逃げていく……という筋である。

中盤のかちかち山の下りは、そんな簡単に着火できてたまるかバーローというマジレスはさておき*7知恵比べのようなものであまり残虐ではないためか、あまり改変はされない傾向にある。
まぁここ変えたらタイトルの意味わからなくなるし……。

ちなみに漫画『鬼灯の冷徹』では主人公の鬼灯がこの件に言及しており、こちらの世界では兎(芥子)は同様の復讐(=狸殺害)を完遂している。
ただ、その代わりに狸が無茶苦茶トラウマになっており、「狸」のワードだけでブチ切れ、通りすがりのぶんぶく茶釜にまで手をかけるほど。


猿蟹合戦

登場人物そのものが変更される。
蟹の仇討ちに同行するメンバーについて「栗、蜂、臼」まではほぼ共通するのだが、最後の一人が昔のバージョンだと「牛糞」、現行のバージョンだと「昆布」などになっていることが多い。
確かに牛糞よりはマイルドであるし、「そもそもなんで牛糞が仇討ちに協力するのか」という部分からして疑問なので、この改変は自然とも言える。
しかし今度はなんで山のど真ん中に昆布がいるのか*8という別の疑問が生じてしまっている気が……
また地域によっては、更に油だの包丁だのといった仲間が登場することも。
ちなみに芥川龍之介の「猿蟹合戦*9では、蟹に同行したのは「臼・蜂・」という設定になっている。

なお一般的な伝承としては「臼は屋根から落下し、猿は圧死。これにて復讐終了」だろうが、
実は本来の伝承では、子蟹が死にかけた猿の頸動脈を鋏で切り落として失血死させている。いわゆる「介錯」。
復讐譚の割には助太刀した臼がとどめを刺している不自然な流れなのも、このエピソードがカットされたのが原因か。

また、こちらも柿をぶつけられても蟹の母親は怪我をするだけで死ぬことはなく、猿も押し潰されても死なずに反省し、蟹と和解するする流れになっていることが多い。
ちなみにタイトルも「合戦」は穏やかではないので「さるかにばなし」になることも。
香川県では本当に猿蟹合戦と桃太郎が混ざったバージョンがあるが「猿蟹合戦のサル→桃太郎の鬼」になっており、犬・猿・雉に代わって蟹達が桃太郎の仲間になり、桃太郎が鬼のアジトにこいつらを設置して罠コンボをかけて最後に臼で鬼を撃破する展開。

余談だが、『鬼灯の冷徹』では、この猿と桃太郎の猿(柿助)は同一人物として扱われており、この時痛めつけられたことはトラウマになっている様子。


桃太郎

この日本一有名な昔話も改変されることが多い。
鬼退治のシーンは、なんと話し合いで解決したという筋になっている絵本もある。ここまでくると平和主義の弊害である。そもそも鬼ってなんだよ(哲学)。*10
また、原作では鬼のため込んだ宝を桃太郎はそのまま持って帰って一財を成すどころか「父母への恩返しに使うことで孝行の教訓とする」時期もあったのだが、最近の絵本ではちゃんと村人に返すパターンが多い。倫理観というのも時代で結構変わるのだ。
更に桃太郎も「犬・猿・雉と一緒に船を漕ぎ、戦いでは最前線を突っ切り、金銀財宝の荷車も自分で曳く」と、これでもかというほど聖人君子化されているケースがある。

少し前まで割と有名だったのが、「桃から生まれたわけではない」という説話。
「桃源郷」という言葉がある通り、桃というのは古来中国では神秘的な食べ物とされていた。
書物として伝わるタイプでは「この桃を食べると老夫婦が若返り、~超融合!時空を越えた絆~しちゃってできた子供が桃太郎」とする説話(回春型)が多く、「トリビアの泉」ではこれが原話として紹介された。
ただしそれ以前から口伝されてきたものでは「桃から生まれた不思議な男の子(果生型)」ということが多い。生まれが一般人と違うんだからそりゃ鬼だって倒せるだろ、という理屈をつけるのに便利なのだ。
戦闘力的にも桃太郎がエース、といい、明らかにこの回限りの悪ふざけだから「桃太郎」モチーフを使った某戦隊ライダーのモモちゃん*11って実はだいぶ古典的・原典主義的な解釈だったのか……?

この「果生型」と「回春型」の成立順序については、最近の研究が進んで、どうやら性描写をマイルド化したという単純な話というわけではないようだぞと成立順序に新たな疑問が生じてきた形である。


竹取物語

ご存知、日本初の長編小説。
昔話絵本等では、5人の貴公子&帝がかぐや姫に求婚しに来るくだりや、かぐや姫が月に帰った後の話、そしてかぐや姫が地球に来た理由(月で罪を犯した事による島流し)の説明などがカットされている事が多い。長ったらしいからね。*12
特に「帝が求婚するくだり」は、他の5人の貴族がけちょんけちょんにやられているのに対して、6人目の貴族がちょっと手心が加わりすぎているので子供がすんなり理解しづらいことなどから削られることは多く、さらに不死の薬の話などは削られることが多い。

そもそも求婚のシーンだって「色好み(プレイボーイ)が美女を見初めて「俺の側室になってよ!」と求婚しに来ている」わけで、かぐや姫もこれを「嫁いだ先で大事にされるかわかんない(自分を娶った後にまた別の女口説きにいくかも)ので、その本気度を私に示してもらいましょう」と試すというのが原話。
当時の貴族の結婚感覚は分からないが、今の倫理観だと「浮気しにきてるだけじゃねーか!」となる。*13
そのため最近の本では、求婚者の妻帯状況について描写しないことで、読者に「あ、求婚してるってことは独身なんだな」とミスリードするという手法が取られている。

早い話、子供向けに仕立てたものは「竹の中からかわいい女の子が出てきて近所でも評判になったけど、実は月から来た女の子で泣く泣く里帰りした」というだけの話にされてるってこと。
勧善懲悪とか孝行奨励みたいな要素がないからホントに難しいんだよなこの話……

めちゃくちゃマニアックになってしまうのだが、実は冒頭からしてすでに「マイルド化」が行われている。
おそらくこれを読んでいるアニヲタ諸兄は「光っている竹を切ったら女の子がいた」という解釈をすることがあるが、原典「竹取物語」では
その竹の中にもと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに筒の中光りたり。それを見れば三寸ばかりなる人いと美しうて居たり。翁言ふやう「われ朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になり給ふべき人なめり」とて手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。

訳例:その竹の中に根元が光る竹が1本あった。不思議に思って近づいたら、筒の中が光っている。それを見るとわずか三寸ほどの美しい人が中で座っていた。爺は『自分が毎朝毎晩見ている竹の中にいらっしゃるので分かった。自分の子になるべき人だ』と言って、手のひらの中に入れて家へ連れて帰った。
となっている。つまり竹を切っている描写自体すらない。近くに行ったら、たまたま竹の根元の中に小人がいたのだ。
もしかしたら竹が透けているのかもしれないし、その竹の中から翁がふしぎパワーで取り出したのかもしれないし、竹取物語自体宗教的な要素が強い話なので竹自体に実体がないかもしれないし、かぐや姫が勝手に這い出てきたのかもしれない。
だけどそう解釈すんのも不自然なのでたぶん竹を切ったら女の子がいたんだろうと解釈されて今に至っているわけで、これだってマイルド化の一環。
そして21世紀に入ってからの「原典至上主義」的な文化が勃興してからはそうでもなくなったが、それ以前の絵本ではたいてい光っている部分は根元ではなく竹の真ん中。これだってわかりやすい改変のひとつだ。

このように調べてみるとそりゃもう面白い世界が広がっているので、この先は地元の図書館などでぜひお調べください。1300年あれば人間の倫理観なんて面白いほど変わるぞ。



浦島太郎

こちらも原典のエピローグやエロティックなシーンが削られたパターン。
絵本等では竜宮城での乙姫との性生活の描写が無く、最後も浦島太郎が老人になった所で話が終わるが、元々は浦島太郎は老人になった後に続けてもしくはになる。

鶴パターンの場合、竜宮城へ自力で戻り、乙姫に故郷が様変わりしていた事と自分が鶴になってしまった事の説明を要求。
説明を受けた後、亀に変身した乙姫と結婚してめでたしめでたし……という何が何だかさっぱり意味不明なストーリーとなっている。
仏教研究家のひろさちや氏は「300年分年を取っても死なないように、残り700年 or 9700年分の寿命をやったら鶴や亀になった」と言う説を提唱している。
まあこの人は何でもかんでも童話を下ネタに結び付けるんで話半分に提唱してるんだろうが……

なお絵本では「浦島太郎はお爺さんになってしまいました」とだけしか語られない事がほとんどである。
しかし冷静に考えれば、これは数十年分の寿命を一気に削り取られたという事なのだが、その恐ろしさに触れられる事もあまりない。
この点も一種のマイルド化と言えるだろう。

ちなみに、開けてはいけないと言われた箱には2人が再会できるよう縁を結ぶパワーが込められていたが、約束を破って箱を開けてしまうと、箱から雲をともなう美しい姿のなにかが天に昇っていき、それを見て二度と再会できなくなったことを悟る……
という悲劇的結末を迎える、風土記に記されたバージョンもあり、これが源流なら老人化&鶴化で再会できるのもマイルド化と言える。

余談となるが、近年では「老人になって途方に暮れた浦島は同じく竜宮城被害者の方々と共に、ふと見つけた若返りの泉で子供に戻る。その後例の亀を見つけ出し復讐のためにいじめていた所を若者が『やめろ』と言うのでやめた」…という、どう見ても無限ループにしかならないコピペもあるとか。

また、かぐや姫が中盤の悪の親玉として出てくる漫画『YAIBA』では、ヒロインの峰さやかが龍神の娘=乙姫と浦島太郎の子の末裔とされている。
あ、やることはヤってたんですね浦島さん…。


金太郎

日本3大「登場人物は覚えているが話の大筋がよくわからない」昔話*14のひとつ、金太郎である。
仮面ライダー電王のスピンオフアニメ「イマジンあにめ」でもそのことをネタにされ、なんとその際はWikipediaのページのスクショを丸々持ってきた。
まんが日本昔ばなしでのあらすじ
足柄山に母と暮らす金太郎は幼少期より大層力持ちで、動物とも仲良しでまた母の手伝いをよくする良い子でした。
ある日山で熊と出会うも持ち前の怪力で熊との相撲に勝利、熊とも仲良くなりました。
これは将来、頼光四天王の一人となる坂田金時の子供のころの話です。どっとはらい
であるが…
これはものすごくマイルドな部分だけを合わせた「平和な金太郎」である。

なにせ
  • 金太郎の母は山姥だとか
  • その山姥を後の上司である頼光たちが成敗しに来たとか
  • 母を成敗した一行の一人を、幼子の金太郎が撲殺したとか
  • さらにその撲殺された相手は唯一山姥と対峙していなかったり
  • そのことを頼光に咎められ、詫びは身体で払って貰おう!(部下的な意味で)させられたり
…と、ぶっちゃけ熊にまたがり馬の稽古と頼光四天王の坂田金時です!以外は話の共通点が薄すぎる。
というかこれでは童話ではなく、単に坂田金時(と源頼光)の伝承か、でなければ悪役プロレスラーの嘘プロフィールである。

そりゃFate(厳密にはシリーズファン向けの「本来の」史実解説)では本人が「いうて『金太郎』のあらすじ使っていいから俺の史実説明しろって言われたらみんな困るだろ(大意)」って言いだすところから始めるわ。*15


舌切り雀

原作では、お婆さんの家事の邪魔をして舌を切られて追い出された雀だが、近年ではその行為が残酷とみなされて、舌を切られずにそのまま追い出されるというタイトルの意味を無くしかねない改変がされたりする。
こうなった場合タイトルが「雀の宿」「雀の恩返し」など、猿蟹合戦を超える改変を受けていることも。

さらに老人が雀の宿を探すために人に道を聞くたびに、条件として馬の血や牛の小便を飲まされる等の下品で残酷な要求をされているが、
絵本等では当然牛や馬の洗い汁を6〜8杯飲む(こちらもこちらで大概だが)とか、馬や牛の体洗いの手伝いとかに変更される他、場合によってはお爺さんが自力でお宿を見つけるなど丸々カットされたりする。
また大きなつづらを開けてお化け(蜂やマムシ、ムカデなどのパターンもある)を出してしまった老婆は、原作ではお化けに食い殺されるとされているが、たいていの絵本等では逃げ切って改心するか気絶するだけという改変をされる。*16
更に最近では、そもそもお婆さんもそこまで悪辣な人物ではなくなっている場合が多く、雀も追い出されたというより驚いて逃げてしまったという描写が増えている。
本によっては、雀が宿からお爺さんと一緒に帰ってくるなんてパターンも存在する。


一寸法師

一般には桃太郎のような英雄として扱われている一寸法師。
だが原作の一寸法師は、姫を手に入れるために「自分が貯えていた米を姫が盗んだ」という濡れ衣を着せ、姫が家から追放されるように仕向けるという卑劣な行為をしている。
また家を出た理由も、老夫婦から全く大きくならないが故に化け物ではないかと気味悪がられたためとされている。
絵本等では、前者のような英雄らしからぬ行為は当然カットされているし、家を出た理由は「武士になるために京へ行きたい」とされている。
ただ、ぶっちゃけこうでもしないと当時の貴賤婚なんて成り立たなかったって点はお忘れなく。それくらいのことをしなきゃ「異形の野良侍とお姫様が結ばれる」ということに説得力が出なかった時代もあるのだ。

先述した『鬼灯の冷徹』でもこの話が拾われ、鬼退治の功をもってしても天国に行けず*17地獄で働かされている設定になっている。
なお、打出の小槌は閻魔大王に破壊されたらしい。


花咲か爺さん

「枯れ木に花を咲かせましょう」のフレーズで有名なお話だが、これも近年様々な改変が目立つようになってきている。
基本的に優しい老夫婦と欲張りな老夫婦と犬(童謡では『ポチ』だが、本によっては『シロ』だったりすることもある)が出てくるのは変わらない。
しかし、欲張りな爺さんが優しいお爺さんから犬を借りるもゴミしか見つからずに癇癪を起こし犬を殴り殺してしまう点が、近年では罰として木に結び付けられたり犬を叱りつけてそのまま家に帰ったり出てきたゴミに爺さんが驚いてる隙に犬が逃げ出したりといった風に、犬が死なないことが多くなっている。

これに伴い、犬の亡骸を埋めたところから生えてきた木から臼を作る話がカットされたり、木の出所が変更されていたりする。
終盤の展開こそ大きく変わらないが、木に巻く灰が遺灰ではなく、なんの変哲も無い灰(出所は様々)になっており、犬が一晩灰の上で寝てたら不思議な灰になったとか灰に向かって吠えたら不思議な灰になったといった具合に、犬の不思議な力が強調されたような描写が多くなっている。

欲張りで意地悪な隣人の老夫婦も最後には主人公の老夫婦を真似て花を咲かせようとしたが、灰を撒いてお殿様(大名)に恥をかかせて投獄されたりと自業自得な結末に終わることが大半。
だが、主人公の老夫婦が褒美を辞退する代わりに隣の老夫婦を許す(もしくは罪を軽くする)ように懇願して、殿様は彼らの思いやりの心に感激して2人を放免することにする。
このことを聞いた隣の老夫婦は主人公の老夫婦と犬の墓前にこれまでのことを深く謝罪し、それからは他人に親切に接するようになるという救いようがある結末に描かれることもある。


寿限無

落語の演目だが、民話にも似たような話があるのでここで紹介する。
原話では
〈寿限無、寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝る処に住む処、やぶら小路の藪柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助〉が井戸(もしくは川)に落下、名前を呼びながら助けに向かうが長すぎて間に合わず〈寿限無、寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝る処に住む処、やぶら小路の藪柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助〉は溺死する
というオチ。
いわゆる「キラキラネームをはじめとした、名前の長いものの不便さを揶揄した色合いの強い話」「命の危機にさえいちいち律義に決まりをまもることのおかしさを揶揄した話」だったのだがあんまりにも救いがないため、後に改作されて
〈寿限無、寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝る処に住む処、やぶら小路の藪柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助〉が友達の金ちゃんを殴ってコブを作るが、名前を呼ぶ内にコブが引っ込んでしまう
という暴力的だがいくらか平和なオチになった。
林家たい平は「ドラ落語」において「新学期が来たので彼を呼んでるうちに夏休みが来た」という風に改作するなど、先述のように「マイルド化」というものが必ずしも悪いことばかりではない例として挙げやすい。
そりゃたい平師匠がレギュラー出演する番組では尺対策もあって「赤いの」だの「バカ茶瓶」だの短縮した呼び方は毎回のように行われるけども

かちかち山や桃太郎のパターンとは違った「マイルド化」というのが存在し、必ずしも「マイルド化は子供向けの味覚に合わせているだけの軟弱行為というわけではない」という理解の一助になれば幸いだ。
ただしもちろん「これは揶揄の要素を笑うブラックジョークなのに日和りすぎだ」という批判も存在する。


日本神話のほとんど

我が国に伝わる日本神話だが、原典の時点で性的な描写や残酷な描写が多い*18ため、マイルド化現象の煽りを受けていることで知られる。
イザナギイザナミの神生み・国生みの時点で性的な描写があるため、その話をカットして天沼鉾で混ぜ合わせて国を作るという描写だけにされていたり*19、明確に原典通りにする際でも「本番シーンなので現代語訳はつけない」と言い切ったり*20
イザナギが妻を死に追いやったカグツチに怒って殺す話は、原典ではカグツチを首チョンパして殺すのだが、子供向けの本等でその描写は流石にまずいからか単に斬り捨てたという描写になることが多い。
有名な「天岩戸」の話も、紹介する本によって単なるうるさい酒宴からストリップショーじみたものまで実にさまざまだ。

スサノオ関連の逸話も、例を挙げるだけで
  • 田んぼのあぜ道を踏み荒らし、社で糞を撒き散らす
  • 皮を剥いだ馬を投げ入れて、そのショックで機織り女が陰部を刺して死亡
  • オオゲツヒメ尻や口から食物を出す光景を見て怒ったスサノオがオオゲツヒメを斬殺
といった話があるのだが、これもカットされてしまうことが多い。


海外編

こちらは「本当は怖いグリム童話」という本が刊行されたことでも有名で、1998年にベストセラーとなってたいへん話題になった。
元々が海外の作品と言うこともあるため、日本で知られているものはすでにかなり改変されているというものも多い。

シンデレラ(フランス/シャルル・ペロー、グリム兄弟)

そもそも元になった話に「ガラスの靴」などというものは登場しない。これは「革の靴」の誤訳ではないかと考えられている。
考えてみりゃ、あんな重いわ硬いわ割れそうだわな素材で靴を作ること自体おかしいわな。*21
だったら斧や鞠を黄金で拵えるのはどうなんだ?え!?

有名なディズニーバージョンやその原作とも言えるペロー版『サンドリヨン』などでは、継母と義姉たちの運命はだいぶマイルドになっているが、
グリム版『灰かぶり』では義姉は無理矢理靴を履くために自分の足を切り落とすという凶行に走り(当然血でバレる)、オチではシンデレラを助けた鳩に目をつつかれ盲目となった。

また、グリム・ペローのさらに前に書かれたバジーレの『灰かぶり猫』ではストーリーに登場する継母は2人目であり、1人目はというと(後の2人目の継母となる家庭教師に唆された)シンデレラの手で衣装箱に挟まれて殺害されている。これは『トリビアの泉』でも紹介された。
この辺は改変されても仕方ない部分だろうが……。


白雪姫(ドイツ/グリム兄弟)

シンデレラと並ぶメジャーな海外童話の本作であるが、こちらも色々と改変が多いことでも有名。

詳しくは個別項目も参照してほしいが、
  • 王子が実は死体愛好家(ネクロフィリア)だったり
  • お妃が毒リンゴ以外にもリボンで絞殺だの、毒の櫛で刺殺だの、白雪姫を様々な方法で殺そうとしたり 流石に騙されすぎだろ白雪姫
  • お妃は最後に白雪姫の結婚式に招待されて、真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて踊りながら死んだり
とか……


ねむり姫(フランス/シャルル・ペロー、グリム兄弟)

有名なグリム版の『いばら姫』では「姫(&お城の人達)は王子様が来て目を覚ましました」でハッピーエンドなのだが、ディズニー版がヒロインの名前「オーロラ姫」のみ採用したペローの『眠れる森の美女』では後日談が存在。
王子様の母親は文字通りの人食い鬼婆で、オーロラ姫と王子との子供をも食べようとして王子を遠ざけるも、危機一髪の所で王子が間に合い妻子は無事救出、人食い鬼母も狂い死んでめでたしめでたしとなっている。
……元はマイルドだったのに、後に激辛の味付けしたものが、時代を下ってやっぱりマイルドの方がいいよねってなった……?


かえるの王様(ドイツ/グリム兄弟)

「お姫様が池に落としてしまった毬を取る代わりにお城に泊めてもらったカエルですが、寝室にまで上がりこもうとするカエルにお姫様がキレてぶん投げて壁に叩きつけると、魔法が解け王子様に戻りました」
という強烈なグリム版から、近年では
カエルにされていた王子はお姫様のキスによりもとに戻りました
と改変されている…

…と言いたいところだが、
2010年頃に有志が調査した結果によると、日本の絵本40種余りで「壁に叩きつける」例ばかりで、1冊だけ「シーツをかけると魔法が解ける」があったが、「お姫様のキス」は一つもなく、作品外でだけ「カエルにお姫様がキスすると魔法が解ける」のが主流という謎のような結果が出たらしい……。
一説によればスウェーデン版ではキスしているらしい。別の説では、「ディズニー版白雪姫」公開から日本において《メルヘン世界の状態異常は大体キスで治る》という認識が広まったせいだとも。

余談だが、これら絵本では原作のオチとして
「王子様が元に戻った後、王子様を迎えに来た家来ハインリヒの胸から、『心臓が絶望で裂けないように』と嵌めていた鉄の箍が喜びではじける音がしました」
という部分もよくカットされるが、こっちは本編とあまり関係ない部分なせいかあまり話題になっていない。


赤ずきん(フランス/シャルル・ペロー、グリム兄弟)

実は原作のペロー版では狩人は登場しない。なのでお婆さんと赤ずきんは狼に食われて終わり。
そもそもペロー版の教訓は「森の中で知らない人の言うことを聞いてしまったために悲惨な運命を迎える」・「優しさの裏に狼を宿した男にご注意を」という、「知らない人の言うことは聞いてはいけない」というものだったので、因果応報ではある。
そのため、グリム童話の狩人登場バージョン自体がマイルドに改変された結果であると言える。

最近の話では
  • お婆さんは食べられずにクローゼットに閉じ込められるだけ(後で祖母孫丼にでもするつもりだったのか?)
  • 狼の腹に石を詰め込まず、狩人の早朝バズーカならぬ早朝猟銃に驚いて即逃走
  • 面白い所では鳩時計を飲み込ませ、飛び出してくる鳩の音で狼の位置が分かるようになったため、森の生き物達も安心して過ごせるようになったというオチになる
などというストーリーもある。
そもそも、「腹を切ったままにしておけば失血死したんじゃないか?」「狼がそんなに食べるか?*22」とか突っ込むのは野暮である。


ラプンツェル(ドイツ/グリム兄弟)

詳細は単独項目を参照してほしいが、グリム童話初版時に性的描写に関するクレームが来たので、再版で性的描写が削除されている。


ヘンゼルとグレーテル(ドイツ/グリム童話)

お菓子の家に夢見た人も多いであろうこのお話も、所々変わって来ている。
まず、兄妹が森へ行く理由が貧困(1315年から1317年の大飢饉の隠喩と言われている)によって両親に捨てられたという悲惨な理由から、両親からお使いを頼まれて森へ行くとか、森へと2人で遊びに出かけたという平和的なものに変更されている。

これによってヘンゼルがパンをちぎって家への道標を作る話も、単に迷子になってしまったからという理由付けになっている。
肝心のお菓子の家も、本によっては美味しい匂いが漂う森の小屋程度にランクダウンをしており、
魔女を倒す方法も昔は鍋や釜、暖炉で焼き尽くす*23ところが、最近のものは杖や箒を焼いて魔法を使えなくする、縄で縛ってこらしめるなどやんわりとした解決方法になっている。

ラストの兄妹のお父さんが、兄妹を捨てるように言ったお義母さんを見限って探しに来てくれるオチも、両親の設定が変わっている場合お父さんが探しに来て、兄妹はお母さんが待っている家へと帰り着くというなんとも暖かい締めくくりとなっている。
お母さんがお父さんの再婚相手であった場合は、ヘンゼル達が不在時にお義母さんが急病をわずらって死んでしまい、お父さんが後悔していたところでヘンゼル達が帰宅し再会を喜んで幸せに暮らすというパターンが多い。


ハーメルンの笛吹き(ドイツ)

おそらく大半の人が知る話だと「とある町に大量発生した鼠を、1人の男が笛の音色だけで町から鼠を追い払う*24も、町長が男に報酬を出し渋ったせいで、仕返しに男が町中の子供達を笛を使って誘い出し、どこかの山奥へと隠してしまう」という、(一部では嘘を付かない大人になって帰ってくるというフォローが入るオチもあるとはいえ)なんとも後味が悪い結末の話だった。*25
しかし、近年ではこの行為が誘拐を連想させるため結末に手が加えられ、子供達の親達が嘆くのを聞いて男が子供達を返し、親達が代わりに報酬を払うとか、町長が男に謝罪をして報酬を払い、子供達を返してもらうといった具合の和解エンドに変更されている。

しかし、一部では町中の人達が怒り狂って男を見つけ出し、みんなで袋叩きにして子供達の居場所を聞き出すという、恩を仇で返すような続きが描写されていることも。
これでは男が完全な悪者にされてしまっており、マイルド化どころか余計に悪化しているような……
まあ、男が実は悪魔だったと解釈している神学者もいるしな…。

さて、実を言うと原話ではネズミのくだりが一切存在しない
つまり原話では、
ある時色とりどりの服を着た男が笛を吹きながら街に来た。子供たちが130人ついて行って、丘の近くの処刑場でいなくなった。
という、本当に単なる意味不明な集団失踪の話にすぎず、あまりにも不気味で暗喩だらけの話を後世の人が様々に解釈した。
そのうちの一つで「説得力」から人気になっていったのが、先述の「ネズミの話」だったってわけ。
マイルド化というのは何も残酷描写を減らすことばかりではない。意味不明なものにそれっぽい理屈をつけるのだって立派なマイルド化なのだ。


千匹皮(ドイツ/グリム童話)

「後妻は自分より美しい人でなければ認めない」と遺言を残してお妃が亡くなって数年、条件を満たす唯一の女性として実の娘(姫)が選ばれてしまい、姫は千種類の獣*26の毛皮でできたスーツなどの難題を課すが、王はそれらを全てクリアしてしまう。
姫は千匹皮を着て城を抜け出し、人語を解する珍獣として城の下働きに雇われ、毛皮を脱いでは舞踏会に出て千匹皮が美女であることをそれとなく王に知らせ、ついには王と結婚する。
…と、原作が現代の目で見ると率直に言って納得し難い話*27のため、「結婚した王は親とは別の王」などの辻褄合わせが為される。


人魚姫(デンマーク/アンデルセン)

泡になって消える……というよく知られた悲恋エンド自体が実は改変されたもの。
原作ではそこから「風の精として生まれ変わり、先輩に『そこで努めれば魂を得られますよ』と言われて人魚姫が希望を持つ」という、ハッピーはハッピーでもたいへん抹香臭い終わり方になっている。

最近のバージョンでは、『リトルマーメイド』などの影響もあり王子様と幸せに暮らしたハッピーエンドも多い。
しかし出版社やその時期によってもかなり異なっており、たとえば「天使に手を引かれて天国へ行った」という折衷案的なオチで語られているものもある*28
そのためこの絵本のオチの部分を調べるだけでもそりゃもう深淵。たびたび「こんなもん原典の終わり方じゃない!」と互いが互いに批判し合う、言葉の刃 無限マウント編が始まるのだが、原典は上述の通り非常に抹香臭くて分かりづらいわけで、それを分かりやすくしているという工夫の歴史でもあるのだ。

かつて沢庵和尚は、徳川家光に「なぜ日蓮宗と浄土宗は仲が悪いのか?」と尋ねられた際、「両宗とも仏法を分かりやすく引き下げてしまったため、引き下げた教えに食い違いが生じたからだ」と答えた、という話が残っている。
人魚姫のエンディングにはある意味、そういう「引き下げゆえに生じた食い違い」の要素が含まれているのだ。無論これについては様々な論があるが、こんなWikiに書かれたあらすじを聞きかじっただけで世の中の真理を語ることがバカげているのだって確かだろう。
もし興味があるなら、本屋やら図書館やらに行って現物を読んでみてはいかがだろうか。筆者のおすすめはもんむす・くえすと!終章……


三匹の子豚(イギリス)

元々は、藁の家と木の家を建てた兄豚は家を吹き飛ばされた段階で狼に食われていて、生き残るのは末っ子豚だけ。
狼が煙突からの侵入を試みる前に、蕪取りだのリンゴ取りだのに誘う等、あの手この手で末っ子豚を家の外に誘き出そうとするなんてくだりもあったり。
また、結末も末っ子豚は煙突から落ちてきた狼をそのまま鍋で煮て殺し、夕飯に食べてしまうというもの。
ある意味「兄を食った奴に子がまったく同じ復讐を果たす」というものであり、意趣返しの色が強いオチである。

これも最近のバージョンでは兄豚は吹き飛ばされた時点でレンガの家まで逃げてきて生き残り(ディズニー版ではこっち)、最後も狼はやけど程度で済み、トムとジェリーのオチのように逃げて行く……というパターンが多い。
間違っても鋼鉄要塞で抵抗するような真似はしていない。あれはなんで支柱だけ木製だったんだろ


ジャックと豆の木(イギリス

本来の伝承では、ジャックが空の巨人から琴やら燭台やら金の卵を産む鶏やら盗めるだけ盗んだ挙句、カンカンになって襲ってきた空の巨人から逃げ出し、降りてくる豆の木を切り落とし巨人は転落死、ジャック母子はウッハウハというただの犯罪自慢であった*29
さすがに教育上まずいからか、ジャックが母子家庭だった理由として空に住む人食い鬼(オーガ)に父を殺され、大事にしていた宝物も奪われたという設定が追加されるケースもある。
ジャックからしてみれば親父の相続権を全然知らない極悪人に分捕られた話になるため、自力救済やむなしといった、それなりに筋は通っている話になる。まあ倫理的に「人食い鬼」というワードもどうかというところはあるが

近年では巨人を倒した前後に、金の卵を産む鶏もハーブも消えてしまい、母親がジャックに「本当の幸せは、人からもらったものや奪ったものに頼らず毎日額に汗を流して、自分の力で手に入れるものだよ?」、「宝物が無くても、母さんはお前が元気でいてくれるだけで幸せよ」などと諭し、反省したジャックが再び真面目に働くようになるという結末が多い。


ピノキオ(イタリア/コッローディ)

正確には伝承ではなくれっきとした「小説」だが一応ここに。
ピノキオと言えばディズニー映画が有名であるが、原作であるカルロ・コーロッディの小説「ピノッキオの冒険」においてはこのピノキオは元々とんでもねぇクソガキ。
生まれて早々邪魔になったゼペット爺さんを冤罪で逮捕させ、映画では後々まで活躍するいたいけなコオロギを冒頭で木槌を投げつけ殺害した挙句、最後は狐と猫に騙されて首をくくられ木に吊るされて殺された。

本来ここで物語は終わっているのだが、好評により完結編が作られ、女神様により復活した際には嘘をつくと鼻が伸びる設定や、ロバの島での冒険などが書き足された。
ピノキオが人間になるという目標を持つのもこの完結編から。

ちなみにゼペットを飲み込んだのは、映画ではだが原作では
他にも駄々をこねるピノキオの躾に成功した唯一のキャラである「死神の使いの黒兎」に脅されて薬を飲んで回復するシーンや、腹の中で助けたマグロに乗って脱出するシーンもあったのだが、映画では省略されており、以降の絵本などでも兎やマグロの存在は抹消されていることが多い…。


西遊記(中国/呉承恩)

中国で最も有名な昔話であるが、こちらも絵本などにされると話がマイルド化する。
そもそも西遊記は全100章もある長編小説であり、話を簡略化すると「悟空が仙術を得て、天界で暴れる」「お釈迦様に負けて封印される」「三蔵法師、八戒、沙悟浄に出会う」くらいで物語の尺を殆ど使い切り、最後は金銀兄弟か牛魔王夫妻でも懲らしめて、さっさか天竺について仏になっておしまい、とならざるを得ない事情がある。
明治32年に出された最初期の児童向け翻訳、博文館の「世界お伽噺10 『孫悟空』」(訳:巌谷小波)なんぞ、「長いので孫悟空の生い立ちだけ」と断り、三蔵法師と出会ったところで、
残りを1ページにまとめて「元より強い悟空の事ですから」と道中の妖怪にあっさり勝ったことにして天竺に無事ついたと超ダイジェスト展開になっていたほど。
そのため絵本では牛魔王が悟空の兄貴分であることや、金銀兄弟など多くの妖怪変化が堕天した天界の神仙であることなどはカットされることが多い。
結果的に『DRAGON BALL』が一番牛魔王の扱いが原典に近い。あれさっさと西遊記やめたじゃん

また原作には
  • 三蔵の弟子と馬が唐を出発した直後、妖怪三兄弟のお腹にペロリンコ
  • 出家した直後の悟空が、襲いかかってきた盗賊たちを肉みぞれにしてしまう。三蔵に「あんまりだ」と嘆かれたら逆切れ(観音菩薩が悟空に金輪を嵌める切っ掛け)。
  • 悟空が猿山(花果山)に攻め込んできた人間たちに、仕返しとして天変地異をプレゼント
  • 三蔵一行の寝ているお堂に放火した妖怪に悟空が激怒し、風を起こして自分のいるお堂以外全部燃やして汚物を消毒
  • 妖怪に犯されて生まされた王子様を「大きくなっても邪魔だし」と言って、その妖怪の眼前で地面に叩き付け転落死させる}
  • 紅孩児(牛魔王の息子)が化けた赤ちゃんを妖怪だと見抜いた悟空が、三蔵法師を撒いた途端にタコ殴りにする(紅孩児は脱皮して脱出した)
  • 猿・豚・河童トリオが「変装するうえで邪魔だから」と言う理由だけで道教三聖の像をトイレに投げ捨て、ついでに聖水を小便と差し替え妖怪に飲ませる
  • 蜘蛛女の風呂に八戒が躊躇なく特攻し、逃げ惑う彼女たちの×××をナマズに変身してすり抜ける
といった非常にアレなシーンが数多く記されており、児童向け媒体などでもこれらは丸カットの憂き目に遭うこともある。


空飛ぶ絨毯(イスラエル/千夜一夜物語)

無礼に対する沸点の低いシャイパルに会った王と家臣一同が、その異様な風体に思わず無礼な態度をとってしまい全員撲殺されるという凄惨な場面がある。
だが子供向けの話では王様によからぬことを吹き込んでいた者だけが吹っ飛ばされる(金棒で起こした風で吹き飛ばされることも)、とマイルド化。


アリとキリギリス(ギリシャ/イソップ寓話)

そもそもキリギリスではなくセミである。
これはイソップさんの地元でメジャーなセミが、他国に伝わった際に馴染みがないためキリギリスに変更されたため。まず冬に凍える前に寿命で死ぬだろうし*30
そしておおかたの予想通りセミ/キリギリスは死ぬ。
ただし近年では、冬に凍えるキリギリスにアリが情けをかけて食べ物を恵むというオチに改変されている。
そのお礼にキリギリスが磨いた音楽の腕を披露するというおまけがつくことも。

教訓的には「怠け者は後で痛い目を見る」というものだが、実は「遊びに興味を持たず貯蓄を続ける守銭奴は、餓死しそうな人にビタ一文払うことはないだろう」という教訓を表している、という説もある。「もうすぐ餌(=死んだキリギリス)が手に入るので」という理由でキリギリスを突っぱねるネタもある


マッチ売りの少女

原作が余りにも悲劇的過ぎるのでさぞかしマイルドになっている……と思いきや、意外にも少女が天に召される結末だけは今になっても変わっていない。
少女の父親が実は娘の事を思っていた or 大事な存在と気付き探し回ったり、少女に同世代の友達がいたりするが、結局彼らにも不幸な彼女を救うことができず余計に悲劇となっている。
既に遺体となった彼女を神父が手厚く葬り「二度とこのような少女を生み出してはならない」と教訓のような言葉を言うオチもあるが、やはり死ぬことには変わりない。
一応アメリカの絵本では、主人公の少女は死ぬ直前に心優しい金持ちに出会って救われるというオチもあるが、ごく少数と言えるだろう。
それどころか、最後に連想するのがクリスマスの情景で、亡くなるのがその一週間後の大晦日である……が、それがわかりにくいということでクリスマスに亡くなると死期を早められている。


継子いじめ物の継母の実娘が出てくる話

特定の話ではないが、『シンデレラ』など「主人公が継母にいじめられる」という設定で継母の実娘(主人公から見て義理の姉妹)が出てくる場合、
シンデレラのように母親のいじめに加担するバージョンが多いが、まれに娘はいい奴で継子を助けてくれたり、下手するとこっちが主人公に思えるほど活躍する*31という、悪役令嬢ものでちょくちょく見られる「悪役令嬢が正規ヒロインと仲良くする」話の先祖のようなものがある。
だが、時々これで理不尽なことに義姉妹を一生懸命助けたのに「継母の手にかかって継子の代わりに死ぬ」「最後の最後でちょっとわがままや羨みを言ったら天罰的に死ぬ」という超展開があり、継母の娘も加害者型で同一の展開がしばしば見られることから、どうも本来継母の娘もいじめに加担し、因果応報的に実母に誤って殺されたり天罰で死ぬ話が改変されたものらしい。
日本でも東北地方の『粟福 米福』という系統の話が非常にわかりやすく、粟と米のどっちが継子なのか違うバージョンがあるほか、継母の実娘がいじめ加担バージョンと継子を助けるバージョンの2系統が双方確認されている。


三びきのやぎのがらがらどん(ノルウェー)

日本でだけ超絶バイオレンス民話として広まっている珍しい例。
直接読んで印象に残る、若しくは漫画「バーナード嬢曰く」で言及されていたことで知っている人も多いだろう。

牧草のある丘を目指すヤギたちが渓谷にかかる橋でトロールに出会い、「後からもっと大きな山羊が来る」と伝えて見逃してもらい、最後に現れた最も大きなヤギがその巨体でトロールを懲らしめる…というのが世界共通のあらすじである。
オリジナルの寓話では巨大な角でトロルの両目玉を突き刺し、巨大な蹄で脊椎および下半身を粉砕、亡骸を急流へと投げ捨てるという、『暴力にはより強い暴力で』という力強いメッセージの感じ取れる内容。流石に残虐すぎたのか、北米や欧州などではかなり昔から「トロルは突進で川へ落下した」といったよりマイルドな内容へと再話が行われていた。
しかし、1957年にアメリカの絵本作家マーシャ・ブラウンが「三びきのやぎのがらがらどん」を執筆する。突進と蹄によりトロルが爆発四散しバラバラの肉塊と化すという原典以上に残虐な内容の絵本は既にマイルド版が浸透したアメリカではウケが悪かった一方、同民話がさほど浸透していなかった日本では出版されるなり、その粗いタッチの画風と瀬田貞二*32の訳と共に高い評価を獲得。
これにより北米など海外地域では児童向けとして知られている民話が、日本でのみ原典同等の暴力表現のまま有名になるという珍しい現象が起こっている。
出版した福音書店も「がらがらどん」の人気を受けて、より原典に忠実な「三びきのこぶた」を日本で独自に製作するなどその後の絵本業界にも少なからず影響を与えた。
ちなみにマーシャ・ブラウン版ではない絵本の場合では「三匹のやぎ」「三匹の子やぎ」などの名前で出版されており、中身も上述の童話と同じくマイルド化されている。だいたい「がらがらどん」の名前が知られているせいで全然読んでもらえないやつ。



こうしてアニヲタは貴重な時間を費やして項目を追記・修正し、幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。


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最終更新:2025年04月07日 15:12

*1 「昭和四十年男」という雑誌で行われた平松伸二と樋口毅宏の対談において、「悪い奴は殺していい、は今の若い人には通じない」「いわゆる『哀しい過去』ものが好まれる」という趣旨の話題が出ており、忠臣蔵を例に「吉良上野介は地元では慕われたお殿様で、これを47人で寄ってたかって叩き斬ったと解釈する」という若者の感性が語られている。

*2 伝統を軽んじているわけではない点に注意。というより、落語に限らず伝統を重んじる人は、伝統の中に工夫をしつらえ、そこに独特の哲学が生じるのである(守破離)。

*3 信心深いある隠居が鰻屋の前を通りかかると、ちょうど鰻の首を切り落とそうとする瞬間を目撃する。「むごい殺生はやめなされ!」と説得するが向こうも暮らしのためなのでやめるはずもなく、仕方なく生きた鰻を法外な値段で買うことに。隠居は助けた鰻を川に逃がし「ああ、いい後生(=功徳)をした!」と満足する。これを何度も繰り返しているうちすっかり元の商いをする必要のなくなった鰻屋は、ある時鰻を切らした日にこの金づるの隠居が来てしまい、今日も金をせしめようと自分の赤ん坊をまな板に載せて殺そうとし、それを隠居が血相を変えて「むごい殺生はやめなされ!」と助けて、川に逃がして(=普通に考えたら赤子は溺れ死ぬ)「ああ、いい後生をした!」

*4 たとえば「たいこ持ち」「妓夫」なんてもう完全に死語である。特に「職務を全うしているだけのまじめな妓夫をだまして大損させ、だました奴はおとがめなしのトンズラ」という演目が3つほどあり、これらは現代人の観点だと「さすがに気の毒じゃないか」となってしまうのだが、そういうことが大いに笑われた時代もあるのだ。落語じゃピンとこないなら、旧ドラと新ドラの作品でも見比べてみるといいかもしれない。旧ドラだと「こっちが喧嘩を売って、怒った相手をドラえもんの道具で手懐ける」「相手は悪党なのだからとばかりに大暴れする」なんて描写があったりもするが、新ドラだとそういう描写はあまりない。

*5 たとえば後述する「アリとキリギリス」のキリギリスは元々、イソップの地元で多かったセミだったのを、セミになじみのない国の人々がキリギリスに変えて伝えたものである。セミなんて言われても寓話が通じないのだから改変せざるをえないのだ。

*6 似たような経緯を辿った物語としてはグリム童話の「コルベス様」が挙げられる

*7空想科学読本」のスピンオフ「空想科学昔話読本」では、「ウサギはけんけんで移動しながらかちかちと火打ち石を打った」という結論に至っている。

*8 昆布は当時も高級品である。

*9 ただしこの作品は所謂「昔話の猿蟹合戦」の後日談を描いた作品で、復讐なんて今日日(明治末期~大正期)流行らんよねぇという冷笑的な要素が強い。似たようなノリの話では太宰治の「お伽草子」なんてもんもある。

*10 そもそも日本語において「鬼」という言葉が示すのは人間に仇をなす暴力的な妖怪であり、だから「鬼退治」をされるのである。なんらかの事情で漂流してきた外国人、とする意見もあるが、これはあくまでアニメや小説のネタとして使われているものであり、少なくとも原典の桃太郎の解釈としてはあまり一般的ではない。

*11 設定上は「主人公の良太郎の『桃太郎』のあらすじ認識であの姿が決まっている」ので、そういうバージョンの絵本を読んでいたと解釈すればとりあえずおかしくはないが

*12 ただし罪状に関しては未だ議論が続いているらしい。「男女関係のもつれ」だとか「結婚詐欺で流刑にされたが地球でも懲りずにやった」だとか「月で禁忌とされたことを犯した」などの説がある。この辺はかぐや姫をモチーフとしたキャラが出る作品によって変更されることもしばしば。

*13 側室を持つことが倫理的に良いと判断された時代もあった(徳川10代将軍の徳川家治の側室の逸話などは、世相によって評価が変わってきている)ので、これについて論じると論点が逸れていく。ただこの項目で言われるマイルド化というのは、そもそも「現代の倫理観に合わせる」行為であることを念頭に置いてほしい。

*14 gooランキングが2018年に行った調査によれば、ベスト3は金太郎、ぶんぶく茶釜、座敷わらしだった。

*15 ちなみにここでも結局源頼光の伝承+酒呑童子討伐のお話の紹介が事実上のメインになってしまった。

*16 こういう「意地悪な婆は仕返しをされて悲惨な最期を遂げました」というもの自体は類話が多く、舌切り雀に限った話ではない。また、当時のおばあさんというのは、現代の鷹揚な弱者ではなくもっと力強い存在と認知されていたことが下地にないと誤解を招きやすい。たとえば落語「胴乱の幸助」でもネタにされている浄瑠璃「桂川連理柵」ではババアが息子の嫁さんをいびるし、もっとわかりやすい例だとサザエさんの磯野フネ。最近だと鷹揚なおばあちゃんだが、昔は波平の頭の毛をハサミでちょん切ろうと追いかけてくる描写もあったほどのクソババアである。

*17 理由は姫の米泥棒の件。落とされた地獄は「人を騙して貶めようとした罪」の人間が落ちる『大叫喚地獄』。

*18 これについてはどの神話もそうであり、日本神話どころか津々浦々の神話紹介なんて大体マイルド化されている。たとえばゼウスはやたら多彩なセックスで子供を産ませることが有名だが、星座の神話を紹介する本だとたいへんマイルド(意味深)にされていつの間にか子供が生まれてたりする。他にも「エジプト神話のオシリスは、セトに殺されてバラバラ死体にされた挙句ナイル川に投げられてしまい、これをイシスとアヌビスがミイラにして復活させた。しかしその際に体の一部が魚に食われていたので完全復活には至らず、現世に戻らずに冥界の神となった。その体の一部とはチンポであり、これによって(生殖ができなくなった)オシリスは冥府の神となった。」……なんていうのもある。

*19 この際も男から声をかけた時のみ子作りが成功、逆に女から声を掛けたら必ず失敗する描写があり、日本文化における女性蔑視の例として好んで取り上げられる。そのため実はあなたが読んでいる比較的学術的な本も、この「マイルド化」された後のものかもわからない点に注意すること。

*20 睦月影郎による解説書など。曰く「『ケンぺーくん』の作者の真面目な本でこんな描写があった」がガチで干されるのにつながるような表現はできない…とのことで、「これヤってますよね」「そうなるね」のやり取りのみで処理

*21 結構えげつない話になるのだが、昔の迷信に『足の小さい女は性器の締まりがいい』というものがあったと言われている。性器云々を除くとしても、この足のサイズの小ささというのが美人の条件と考えられていた時期があり、そのために「決して形の変わらない硬くて小さい靴を、すんなり履くことができる」というのはそれだけで美人の条件というか、性癖にグッとくる描写でもあったとする説がある。この『足の小さい女は美人』という迷信は、中国の『纏足』という風習にも表れている。アニヲタ諸兄も魯迅の「故郷」に出てくるヤンおばさんといえば思い出せるのではないだろうか。

*22 実際には赤ずきん1人食べれば満腹するだろう。空想科学読本で取り上げられた時には最初は「ヒグマ程度の大きさ」だったが、丸呑みできるほどの大きさとなると中型肉食恐竜並みに大きくなった。

*23 NHKで放送中の、仮面ライダーキバ似のヘンゼルが色々なお菓子を作るあの番組の「かまど」もコレ。

*24 池に沈めて溺死させるのが殆どだが、ディズニー版では巨大なチーズの幻を出し、一匹残らず飛び込んだ所でチーズを消滅させる、というものになっている。

*25 そもそもこの話は何らかの史実における悲劇を記したものと考えられているので、後味が悪いのも当然。ただどれくらい比喩が入っているかはまったく分かっていない。

*26 ちなみに現在見つかっている哺乳類は5000種であり、ほとんどはアフリカとか南北アメリカ、オーストラリアといった、中世ヨーロッパ社会からしてみりゃ魔界もいいとこに生息しているので、正確なカウントなど無理ゲーである。

*27 おそらく「前半と後半が別の話に由来」だとか「インセストタブーを形式的に避けるための儀式的なもの」とか言われている。

*28 アニメ『ぴちぴちピッチ』ではこの極端なマルチエンドをネタにしたのか「人魚の世界では幸せに暮らすのが改変後で、本来のエンディングは「泡になって消える」」→生まれも育ちも人魚の登場人物が驚く、というやり取りが挟まれたこともあった。一応この作品における人魚の設定説明でもあるが。

*29 空想科学読本でもネタにされた。

*30 ちなみに生物学的には「アリは冬に備えて食べられるものを蓄える」も誤りとなる種類が結構多い。例えば日本にいるいわゆる黒アリは実際には「春まで我慢する」の種類も珍しくない

*31 有名どころでは『クルミ割りのケート』というイギリスの話など、主人公のケートは母親の連れ子で彼女の母親が夫の連れ子のアンを妬んで呪いをかける出だし。

*32 指輪物語の翻訳者として有名な人。作中の固有名詞を「つらぬき丸」「風早彦」などの絶妙なネーミングセンスで訳出した。「がらがらどん」の名前も、英語のGruff(どら声)からの意訳である。