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+ | 記憶 1746 |
男は死と虚無の腐敗の間でうつろう。
自分の名前も思い出せない。 全てが霧で霞んでいるかのようだ。 胃に痛みが走る。 腕に。 そして静脈の中にも。 男はあの一輪の花を探し求める…あの花蜜…力を与えてくれる…あの甘美な密を求めている。 その力は何のためにあるのか? 男は記憶をたぐる…あの殺人鬼が…奴らに実験を行っている。 その目的は? 何を目的とした実験だったのか? 何も思い出せない。 男は多くの苦しみを引き起こした。 たが後悔は感じない。 後悔という感情を抱くべきなのか、それすらも分からない。 男には何の感情もない。 胃に開いた穴の痛みが、力を与えてくれるのを感じるだけだ。 |
+ | 記憶 1747 |
医者の姿をした殺人鬼の幻影が頭をよぎる。
その叫び声。 苦しみ。 奴と立場を逆転させる。 奴がこれまで多くの人間にしてきたように、奴に実験を行う。 どこで? ここではない。 どこか別の場所で。 別世界で。 別世界から置き去りにされたこの生存者全員…奴は何故知っているのだろうか? 男は思い出せない…男は実験のことを思い出す。 男は何を理解しようとしていたのか? 花蜜? 漿液? 適正な服用量のことだろうか? 適正な服用量なら…自分に害を与えることはない。 もう遅すぎる。 |
+ | 記憶 1748 |
男は飢えを感じている。
食料や飲み物を求めているのではない。会話や楽しみを求めているのでもない。 一輪の花。 そして漿液。 エンティティが自分を監視していることに気付いている。 男には分かる。 骨の髄からそれを感じているのだ。 再びこんな試練を受けさせられたくはない。 苦しむのも、苦しみを引き起こすこともしたくない。 それに試練の目的とは? それが最も恐ろしい謎だ。 男はこの場所で一体何なのか理解しようとする。 だが、男は感じている。 真実を理解した時、おそらく正気を失うだろう。 狂気。 この場所にあるのは狂気だ。 狂気そのものを具現化したのがこの場所だ。 もう一度試練を受けたくはない。 家に戻りたい。 家に戻らなくてはならない。 男が漿液を研究していたのはそれが理由だった。 漿液を使うと洞察力が高まった。 何に対する洞察力なのか? 男には思い出せない。 |
+ | 記憶 1749 |
家…家が何処にあるのかさえ、思い出せない。
唯一、虚無だけが男の記憶に存在している。 数百、おそらくは数千のうち捨てられた生存者たち。 死んではいない。 だが、生きてもいない。 死者でも生者でもない。 生きながらにして、その内側は死んでいる。 真っ黒に焦げている。 エンティティにとっての価値もない。 男は覚えている…虚無から這い出て、一輪の花を見つけたことを…この花が男にとっての救済だったのだろうか? その花が逃げ道だったのだろうか? 男はひざまづいて、深淵に向かって叫ぶ。 深淵は沈黙をもってそれに答える。 耳が痛くなるほどの静けさが広がり、男を打ちのめす。 男はゆっくりと立ち上がる。 漿液が必要だ… |
+ | 記憶 1750 |
男は道を見失っている。 自分が何処にいるかさえ分からない。
霧から触手のようなものが伸びてくるのが見える。 分かってる。 これは現実じゃない。 決して現実のはずがない。 男はわずかに残っていた正気を失いかけている。 巨大な、形用しがたい怪物が迫ってくるのがその目に映る。 男は意に介さない。こんなものは現実にあり得ない。 あり得るはずがない。 渇望が男を混乱させ、抑えつける。 再びこの渇望を満たすためなら、男はどんなことでもするだろう。 どんなことでさえも。 試練に戻ることさえするだろう…生存者と殺人鬼を八つ裂きにして、渇望を満たす。 男は何かをつぶやき始める。 ある約束…一輪の花…一輪の花のためなら…私はどんなことでもする… |
+ | 記憶 1087 |
7歳のクローデットは孤独を感じている。 恐ろしいほどの孤独。
もちろん、両親はクローデットの愛し、娘のための世界を望んでいる。 だが、世界はクローデットを望んでいない。 少なくとも、クローデット自身はそう信じている。 ただ、学校で、仲間と、打ち解けたかった。 サッカーのピッチでチームメイトの輪に入りたい。 だが、人と打ち解けることは普通に生きるのと同じくらい難しい。 クローデットは自身が変わり者だと自覚している。 感じ方が人よりも緩慢としており、鈍感だ。 先生の言うことを理解したり、授業についていけるほどの機敏さがない。 図書館司書に言わせれば、クローデットは「心ここにあらず」だ。 話をするときは、吃音の症状が出る。 時には息切れして、声が大きすぎることに気付かないこともある。 だが、教師のほとんどは、クローデットに決まりの悪い思いをさせている。 教師いわく、いつもクローデットはうわの空だ。 クローデット、ぼんやりしないで集中して! それでもクローデットは我慢できずに広大な庭を探検し、色とりどりの虫や奇妙な新しい世界に心を奪われる。 |
+ | 記憶 1088 |
クローデットは普通の子供よりも物事を深く感じる傾向がある。
例えば、誰からも誕生日パーティーに招待されないという、恥のような感情さえも。 誰からも招待されなかった。 両親は毎日のように、ランチを誰と食べたのかと聞くが、そのたびにクローデットは「話したくない」と言いたげに目を伏せる。 両親は教師にも尋ねるが、「クローデットは1人で遊ぶのが好き」という答えが返ってくる。 遊ぶよりも、花や雑草、甲虫や虫に石といった物を集めたり、観察する方を好んだ。 時には孤独を好む子供もいる。 毎日、両親は友だちのことを聞いたが、クローデットは恥ずかしげにうつむく。 クローデットにも友達が出来たらいいのに。 両親はそう願っている。 それ以上に両親が望んでいるのは、クローデットの誕生日に来てくれる友達のリストだった。 だが、クローデットにはリストに載せる友達がいない。 ただの一人さえも。 |
+ | 記憶 1089 |
クラスの友達が校庭で追いかけっこをしている中、クローデットは甲虫を観察している。
クローテッドも一緒に遊びたいのだが、誰も近寄ろうとはしない。 クローテッド自身、その事は考えたくはない。考えても自分が傷つくだけだ。 友達がいないことで、また母親を失望させてしまうかもしれない。そのことが頭をよぎる。 母は、ただクローテッドに友達ができることを望んでいる。 クローテッドにとっては、友達作りは簡単ではない。 他の子が簡単に友達同士になっているように、自分も簡単に友達ができたらいいのに。クローテッドは何よりもそう望んでいる。 友だちがいれば両親を心配させずに済む。クローテッドはそう考えていた。友達がいれば、きっと両親は誇りにすら思うだろう。 虫や花への情熱は、諦めたほうがいいのかもしれない。そうすれば、自分も普通の子供になれるかもしれない。 だが、あくなき探究心と収集への情熱は尽きることがなく、常にクローテッドと共にある。 その情熱が、自分を自分たらしめている。 |
+ | 記憶 1090 |
クローテッドは物を収集するのが趣味だが、皆から変人と呼ばれるのはそれが理由だと自覚している。
ありのままの自分が一番素敵だと、父親は言う。父親はダーウィンという名前の人物をクローテッドに伝える。 ダーウィンも虫や植物を採集し、クローテッドと同様に、大きく想像を膨らませていた。 ダーウィンはいつも様々なアイデアや理論を考えていたが、ついに途方もない理論を考えついた! クローテッドにはダーウィンの説明する理論が分かる。 父親は複雑なアイデアを取り上げて、分かりやすく説明する方法を心得ていた。 ダーウィン。その名前が気に入ったクローテッドは微笑む。 青と緑色をしたお気に入りの甲虫を見つめると、その虫に名前を付ける。 ダーウィンという名前を… |
+ | 記憶 1091 |
クローテッドの母親が泣いている。
取り乱している理由は、クローテッドが学校で問題を抱えているからだ。 クローテッドの成績が、今までよりも下がっている。 母親は、親としての自分の行動が間違っていると気づいていない。 父いわく、クローテッドは何も間違っていない。クローテッドは他の子と違っているが、それでいいんだと主張する。 母親は、クローテッドの植物と虫の収集癖をやめさせたいと望んでいる。 父は、そこがクローテッドの一番の美点だと考えており、子供を型通りの人間にする必要はないと言う。 父親はこれまで以上にクローテッドを擁護している。 父親は言う。この世界で最も価値ある功績は、揺らぐことのない信念を持つ人々から生まれたのだ、と。 普通とは違う人々。トルストイ。テスラ。アインシュタイン。シェークスピア。 時代遅れの型にはまらなかった人々こそが偉業を成し遂げた。 母親にとってはそんなことはどうでもよく、突然、その唇から嗚咽が漏れる。 娘が留年するなど耐えられそうにない。 |
+ | 記憶 1092 |
クローテッドは眠いふりをして、寝具に潜り込んで身を隠す。叫び声が聞こえない風を装う。
母親は娘には特別支援が必要だと考えているが、父親はクローテッドを引き離すことには反対だ。 父親は正しい。クローテッドは周りの子供に、自分が特別支援を必要としているとは知られたくないと思っている。 周りの子供はクローテッドを笑うだろう。 いつかは状況が良くなる時が来る。きっとそうなると、クローテッドは自分に約束する。 新しい代行教師のケイヒル先生が、クローテッドの力になってくれる。 クローテッドがいつもうわの空だと言っていた他の教師よりは、ずっと助けになるだろう。 クローテッドの父は、子供の脳の発達にとって最も害を及ぼすのはストレスだと言う。 あるがままの娘でいてほしい!自分の歩幅でゆっくりと歩いてほしい! ストレスは脳を萎縮させ、自信を喪失させて想像力を台無しにしてしまう。 ランチタイムにまで勉強をさせたくはないと、父は考えている。 人はランチタイムに成長する。 試験のプレッシャーや、間違いを犯すという恐れによって妨げられない、本物の成長がそこにある。 |
+ | 記憶 1093 |
クローテッドの成績が上がり、母親は喜んでいる。
一人の教師の力によるものだ。たった一人の教師が全てを変えた。 ケイヒル先生のおかげだ。 他の子供たちはケイヒル先生のことを変人と呼ぶが、先生は変わり者ではない。 ケイヒル先生は全てを心得ている。 学生時代の勉強での苦労がケイヒル先生の他者への理解を深めているのだ。 先生がクローテッドを熱心に指導しているのは、これが理由だ。 この経験があるからこそ、クローテッドを置いていくことなく彼女に授業を理解させられるのだ。 |
+ | 記憶 1094 |
クローテッドは、新しい先生が手助けをしてくれて喜んでいる。
本当に自分の力となってくれている。毎日、新しいことを吸収している。 事実と語彙以上に、クローテッドは勉強のやり方自体を学んでいるのだ。 むしろ、勉強方法を学んでいることが重要であるとも言える。 だが、教師はなにか別のことを行っている。 クローテッドに話しかけている。 クローテッドの抱える「問題」について話しかけ、その「問題」が本当は神からの祝福なのだと語っている。 ある一つのタイプの「頭の良さ」を評価し、他のあらゆるタイプの人間を犠牲にするというシステムで成功する術を身に付ければ、その「問題」こそが成功の鍵となるのだと語る。 間違いを犯したり、リスクを取ることが本物の学習や成長には必要とされる時代なのに、リスクを取ることや間違うことを否定するシステムが存在している。 クローテッドは情熱の人であり、情熱こそが全てというのはクローテッドの先生の言葉だ。 |
+ | 記憶 1095 |
自分が他の子供とは違っているということも、他の子供のようになる必要もないこともクローテッドは分かっている。
「型にはまる」とか、「理想の生徒」になるのはクローテッドらしくないし、自分らしい方が良い。 理想的な型にはまるということは、独特な感覚を持つ人にとっては牢獄のように感じられる。 成績は少しずつ上がり、試験の日が近づいてくる。 クローテッドは覚える必要があることを文章に書き、視覚化し、想像する。その方法が良い結果につながる。 最高のタイミングで最高の教師に教われば、全く違った結果が出せる。
両親は非常に誇らしげだ。
だが、母親は今でもクローテッドに友達ができることを願っている。他の女の子のような趣味を持ってくれることを望んでいる。 別の部屋では、両親がクローテッドの誕生日に何を用意するか話し合っている。 新しい人形を買うというのが、母親の意見だ。父親は、虫や植物やバクテリアに関連する物の方が喜ぶだろうと考えている。 その提案に母親が難色を示すものの、父親はクローテッドを擁護する。 自分の理想を押し付けるんじゃなく、あるがままの娘を受け入れるんだ!
母親が口をつぐみ、突如としてすすり泣き始める。
クローテッドには、自分が学校でいじめを受けていたような経験をしてほしくない。 クローテッドが目を見開く。 母も人とはどこか違った人だったのだと、生まれて初めて気付く。 |
+ | 記憶 1096 |
クローテッドは明日で8歳になる。
興奮して待ちきれない。あと何時間、何分、何秒で8歳になるのだろう…普通の子ならそう思うはずだ。 だが、クローテッドはそうした感情とは無縁だ。 プレゼントを開けるその瞬間を恐れている。 プレゼントは毎年変わらない。人形。手芸品。アクセサリー。自分にとっては何の意味もない。 きっと今年はクローテッドは微笑んで、虫眼鏡や石のコレクション、植物学の本のセットなんて欲しくなかったというふりをするのだろう。 母親を失望させないために、クローテッドは作り笑顔を浮かべる。そうすれば母親を不安にさせることもない。 自分の成績を見て嬉しそうにしている母親の姿を見ると、心が落ち着いた。本当に気分が良かった。 |
+ | 記憶 1235 |
14歳のエヴァンは、父親が知らないことを知っている。
そう考えて悦びに震える一方で、恐ろしくもあった。 父親が知らないことが存在する。 シアトルで最も利益を生んでいる鉱山の一つ、それを所有する父が知らないことを自分は知っているのだ。 父親は労働者を鉄拳制裁で無慈悲に搾取している。 いや、鉄拳ではない。 メリケンサックだ。 父親は労働者をウジ虫と呼んでいる。 卑屈なウジ虫ども。 父親は、自分が間違っていることに気付き始めている。 労働者はウジ虫よりはずっと高価な存在だ。 労働者は人間だ。 そして人々が協働すれば、そこには変化が生まれることもある。 労働者の一人が仲間を焚き付けて、自分たちの生活を取り戻そうとしている。 もしも奴らが共に立ち上がったとしたら、労働組合を結成するかもしれない。 労働組合があれば、奴らは権利を得る。 奴らが得るのは権利に限らない。 尊厳。 自由。 時間。 友人と過ごす時間。 人間でいるための時間。 エヴァンが父親が知らないことを知っている…そして、自分に力がみなぎってきているのを感じている。 |
+ | 記憶 1236 |
父親はエヴァンを地面に押し付け、臆病者と呼ぶ。
ウジ虫どもに優しく接するのはやめろ。 父親は言う。 ウジ虫どもとは口をきくな。 力を貸すな。 奴らを見張り、屈服させろ。 誰が雇い主なのか叩き込め。 わずかでも妥協すれば、奴らはすぐにつけあがる。 ウジ虫どもはただお前を利用しているだけだ! エヴァンは口答えしても無駄だと分かっている。 昨年、弱みを見せたエヴァンは父親のパンチでアゴを打ち抜かれた。 今年はストローで夕食を取るのはご免だ。 今年は自分を抑え、口を閉ざすことにする。 父親に労働組合のことを教えたいと考えているが、エヴァンには何も伝えない。 良心の呵責を感じているのだ。 父親への忠誠心と友人たちへの感情。 それぞれとの関係の間でエヴァンは揺れ動く。 ボブ、トム、そしてジム。素晴らしい友人たち。 |
+ | 記憶 1237 |
エヴァンは趣味はゼロからのものつくりだ。
芸術家肌ではないが、スケッチを描くことを楽しんでおり、描いたスケッチは父親の目に触れないように隠している。 父親からはスケッチ禁止令が出ている。 スケッチは放浪者やジプシーなどの軟弱者がすることだ。 父はエヴァンにもっと価値あることをしてほしいと考えており、エヴァンを利益を生み出す鉱山へと連れていく。 父親はエヴァンにウジ虫のしつけ方を教える。 父は人任せにしない現場主義であり、熾烈な人間だ。 獣のような暴力性を秘めている。 重要なのは…ウジ虫どもを屈服させることだ。 奴らの意志を叩き折る。 魂を叩き潰す。 一度叩きのめせば、人間はどんなことにも使える道具となり果てる。 根底から叩きのめせ。 それはエヴァン自身や、母親を支配した時と全く同じやり方だった。 それでもエヴァンはスケッチを描き続ける。 スケッチを描くことで、抗っているのだ。 |
+ | 記憶 1238 |
エヴァンは父親が労働者の一人を怒鳴りつけるのを見つめている。
その労働者は病気に苦しんでおり、退職を望んでいる。 だが、それは認められない。 退職するということは…仕事を失うことだ。エヴァンはその男に同情する。 何かしてやりたかった。状況はきっと変わると、伝えようと考えている。 労働組合が間もなく結成され、賃金は改善し、労働時間も真っ当なものになる。 だが、男の肺は真っ黒に汚れ、胃は衰弱している。 過度のストレスと酸でやられたのだ。睡眠時間も不足している。 男が倒れ込む。父親は気にも留めずに男の腹に蹴りを入れると、鉱山から運び出すようにエヴァンに指示する。 エヴァンは男を引っ張り出す。 一瞬、エヴァンはその男の弱さに嫌悪感を抱き、このウジ虫の悲劇を終わらせてやりたいという考えが頭に浮かぶ。 エヴァンは父親のような人間になりつつある。 それが果たして悪い兆候なのか、自分では確信が持てないでいる。 |
+ | 記憶 1239 |
エヴァンは父親から、暗い森の中で熊の罠を仕掛けるように命じられている。
父親は熊を狩ることに憑りつかれている。これまでもずっとそうだった。 父が話を始める。いつもの物語を。 いつも同じ話だから、エヴァンはもうウンザリしている。 またか、と思いながらも聞いてやる。 父が弟である叔父と一緒に狩りをしていると、グリズリーが現れた。巨大なグリズリーだ。 グリズリーはエヴァンの叔父にあたる、弟の腕を引きちぎり、頭にかみついた。 父はグリズリーの背中に飛びつく。後ろから何度も熊を刺して、殺した。 胃袋を切り開いて、弟の頭を取り出した。 バラバラになった弟の亡骸を、10マイルもかけて持ち帰ったという。 今回は10マイルだ。前は5マイルだったのに。 父はこの話をすると、ニヤリと笑う。 話は毎回変わっていく。エヴァンはそもそもそんな熊が居なかったのではと、思うこともある。 |
+ | 記憶 1240 |
今までになかった表現がエヴァンの頭にひらめく。
熊の皮をかぶった父親が、叔父を殺しているスケッチを熱心に描いている。 叔父には一度も会ったことはないが、写真で見たことは会った。 叔父は慈善家で、感傷的になりすぎる傾向があった。 叔父が会社を経営していたら、まともな賃金と社会主義的な愚かな考えでビジネスを破産させていたかもしれない。 だから叔父は死ななくてはならなかった。 証拠はないが、エヴァンは知っている。 心のなかでは、父が叔父を殺したと分かっている。 叔父を縛り付け、熊の餌となるように放置した。 ナイフもない。戦いもない。名誉もない。 そこにあったのは、不誠実な虫にふさわしい、残虐な死だけだ。 エヴァンは父親が叔父を殺したのだと考えていたが、それでも嫌悪感や戸惑いの感情を抱くことはない。 エヴァンにはそれとは違う、何か別の感情が湧いている。 自分にそのような部分があるとは認めたくない、異様な感情だった。 |
+ | 記憶 1241 |
エヴァンは父親のベッドにゆっくりと近づき、眠っている父親を見つめている。
父親に対しては、憎悪と愛情を同時に抱いている。 この父親がいなかったら、どういう人生になっていただろうか。ふと、そうした考えが頭をよぎる。 父親からは多くの恩を受けたが、それでも自分は不幸で、孤独である。 エヴァンは灰色の大きな石を持ち上げると、その姿勢のままじっと動きを止める。 それは永遠とも思われるほど長く感じられる。 自由になれるかもしれない。真の自由が手に入るかもしれない。 だがエヴァンは思いとどまるしかない。 そうじゃない。自由になるには別の方法がある。 人生には不慮の事故がつきものだ。狩猟中の事故。鉱山での事故。 鉱山の奥深くに父親を誘い込み、ダイナマイトに点火することもできる。生き延びることはまず不可能だ。 だが、エヴァンには実行に移すことはできない。 父親を愛する気持ちは、憎しみよりも大きかった。 エヴァンは父親からあまりにも多くの恩を受けているのだ。 |
+ | 記憶 1242 |
エヴァンは熊の皮をかぶった父親が母親を溺死させているスケッチを描いている。
父親の話を信じたことなど一度もなかった。何かがおかしいと感じていた。 父の目。ニヤリと笑った顔。他者への共感の欠如。 母は流れに引き込まれると、二度と姿を表さなかった。 母は…美しかった。ブロンドの髪に、ブルーの瞳。明朗で、他者への慈悲に満ちていた。 父親とは正反対だ。 ある朝、母親は泳ぎに出かけていき、二度と戻らなかった。 母は父親の足手まといになっていた。そして、父親は誰であれ自分の邪魔はさせなかった。 家族でさえも、邪魔者は許さなかった。家族以外の者なら、尚更だった。
服従か死か。服従には嫌気がさしている。
確かに父親に対する忠誠心は存在したが、同時にエヴァンは友人に対しても忠実な人間である。 友人たちはエヴァンと話し、励ました。友人たちの目には、エヴァンは優れた芸術家に見えている。 エヴァンには友人がいる。 今まで、本当の友人はいなかった。父親が許さなかった。 時間の無駄だ。お前の友達は、お前のことを利用しているに過ぎない。 エヴァンは父親に忠実である一方、それは友人に対しても同じである。 称賛すべき、素晴らしい友人たち。 |
+ | 記憶 1243 |
父親がディナーテーブルの向こうからエヴァンを見つめている。
おそらくはエヴァンも無意識のうちに嫌な気分を感じている。 父親の目には不穏な雰囲気がある。痛い目にあわせてやる、という目つきだ。 エヴァンは脂肪分の多いウサギの肉を食べながら、父が何も言わないことを祈る。 父に隠し事をしても無駄だと覚えておくべきだった。 父は知っている。全てを知っている。 昨年、エヴァンは自制心を失い、母親を悪く言った男をツーバイフォーの角材で危うく殴り殺すところだった。 父は笑いながら見物していた。 エヴァンは当局に連行された。父親は満足げにエヴァンを見ていた。 認めたくはないが、自分にも父親の血が流れているのだ。父はそのことを知っていた。 エヴァンは暴行を楽しんでいた。 母親を侮辱されたからではない。恐怖を感じたからでもない。 自分の持つ力を…感じたからだ。 鬼の子は、どうあがいても鬼にしかなれない。 父は笑いながらそう言った。 |
+ | 記憶 1244 |
エヴァンはズタズタに引き裂かれたスケッチを見つける。
一枚のスケッチ以外は全て見つかった。溺れている母親の絵がない。 父親が部屋に入ってくる。 エヴァンの前に絶望と恐怖が広がる。 エヴァンは強烈な一撃が来るのをジッと待ったが、父の鉄拳は飛んでこない。その代わりに父親の口から出たのは、自分には直感があるという言葉だ。 直感が全てだと。 父親は、自分は父方の家系からそれを受け継いでいると言う。それと同じ直感によって、エヴァンが父親から何かを隠していることに気付いたのだった。 嘘をつくのはやめろ。私には分かる。ウジ虫のようなお前の友達がたった数ドルのためにお前を売ったのだ。 エヴァンは驚いたが、何も言わない。言葉が出ないのだ。 喉まで出かかった言葉を飲み込み、エヴァンは謝る。 何も言わずに歩き去っていく父親を追いかけて、寝室までついていくエヴァン。 そこで見たものは、ベッドの上に額に入って飾られている、溺死の母親の絵だった。 父は言う。明日はお前にしつけをしてやろう。エヴァンは父親を見つめる…そして、自分を裏切ったウジ虫への憎悪をたぎらせる。 父親に対して感じたのは…尊敬だった。違う。尊敬ではなく…もはやそれは崇拝の感情になっていた。 |
+ | アーカス 01 |
まずは、始まりの話をしよう。
あれがいつのことで、私がどれくらい投獄されているのかはわからない。 わかるのは、かつて…強迫観念として…存在したエンティティの精神活動を観察し、研究する羽目になったということだけ。 皮肉なものだ。壊してしまいたいと思っていた対象の内側で、余生を過ごさなければならないとはな。 かつて強迫観念だったものが、私を捕らえている…。 おそらく全ての強迫観念が、そうなのだろうな。 |
+ | アーカス 54 |
この領域の雰囲気は控えめに言っても暗く、暗澹としている…それでいて、常に変化を続けている。
私はすでに気づいたのだが、周囲は霧がかかることがあり、時にはさらに霧が濃さを増す。 まるで霧自体が生きているように感じられる。 記憶の渦や流れ、言い換えれば多元的な宇宙世界の存在の痕跡を内包しているかのようだ。 まるでエンティティは無限の宇宙を漂う道中で超自然的な全てのエネルギーや存在物の思念を吸収しているかのようである。 私はオーリスを使ってこの黒い霧を研究し、3つの観察結果にたどり着いた。 その結果は、ここから逃げ出す方法を探す過程で計り知れない価値を持つと分かるだろう。 まず第一に、この霧はオーリック粒子が豊富であるということ。 このことから、私はこの次元が物質的というよりも意識に近いものだと信じている。 第二に、霧に存在する亀裂から引き出せるものは何であれ、私の家系に伝わる技術を使い証明できるはずだということ。 第三に…エンティティは我々が想像していたよりも、遥かに古代に誕生した存在だということ。 そして、我々の理論や憶測のほとんどは間違っているということ。 オーリック粒子とオーリックセルの大量の存在が示唆するのは、エンティティは原初の存在のひとつ、古代から存在するということだ。 |
+ | アーカス 142 |
エンティティは、邪悪を具現化した宇宙的な存在だ。
我々は、自分の故郷でエンティティという存在が世界をひっくり返すのを目撃してきた。 地域社会の共感や同情という感情を排除し、消滅させ、人々を狂気の淵へと追いやり、突き落とすのを見てきた。 私には、エンティティがこうした行動を取る理由が分かった。 犠牲者を人生から引き剥がし、永遠に終わらない悪夢のような試練に参加させるのがエンティティの目的なのだ。 エンティティ自身の生存のために、試練が必要なのかもしれない。 そしておそらく、試練にこそエンティティを破壊するカギが存在している…そもそも、古代から存在する者の破壊が可能であるならばの話だが。 試練に終止符を打たなくてはならない。犠牲者から暗黒の蜜を搾り取るという、花から餌をもらう残酷な寄生虫のようなエンティティの能力を消滅させなくてはならない。 少なくとも、アーカイブのおかげでエンティティをより深く理解することができる…エンティティが宇宙から宇宙を移動し、犠牲者を選び出し、宇宙をビュッフェ形式に見立てた如く、世界を貪り食う、その理由を理解している。 だが、未だに結論づけられないことがある。 エンティティが暗闇と狂気で彩られた世界に引き付けられるのか、あるいはエンティティ自体が暗闇と狂気を引き起こしているのか。 それはまだ分からない。 |
+ | アーカス 557 |
全ての存在の次元界とは、意識的なオーリック粒子と物質粒子の独特な混合物である。
エンティティは間違いなく、ほぼ純粋な意識といえる…存在するという観察可能な事実は、物質界が意識に反応し、意識とともに変化するということだ… 集合意識こそがカギとなる…身体、故郷、試練…その全てがエンティティの無意識のうちの恐れと、恐怖への渇望を表している。 エンティティに選ばれた検体をよく観察すると、彼らが皆、自分たちの思想と、自分たちが住んでいる世界との形而上学的な関連性の理解に失敗した世界から来ていることが分かる。 これは偶然ではない。私の考えでは、それは自己保存だ。 この真実を知り、自分たちの能力を磨き上げて証明した犠牲者たちは、エンティティにとっては害をなす可能性があった。 そう考えると、エンティティは暗澹とした世界に引き付けられるという結論に導かれる。 何故なら、暗闇や混沌が存在するということは、そこに住む者が集合意識と自分たちの世界の健全さの間にある別々の事実から結論を導くことに失敗しているということの明確な証左であるからだ。 つまり結論として、エンティティは無知を食い物にしているという可能性がある。 |
+ | アーカス 731 |
いつか終わりが来て、新たな始まりがあるのだろうか。それを言うのは難しい。
塔とライブラリが私の戦いに力添えをしてくれる。 だが、自分が掴んだこと全てが嘘だと知りつつ、自分の置かれた状況という事実を一瞬でも忘れることは困難だ。 私は知りたいことは何でも知ることができるが、いまだに何も知り得ていない。 生存者は恐ろしく残虐な殺人鬼との試練を今でも続けている。 私は脱出の方法を発見した人々を記録するために、霧の調査を続ける。 時に、この調査は無駄なものにも感じられる。 だが、その反面…私には十分な時間がある… 十分すぎるほどの時間が… |
+ | アーカス 1513 |
私はオーリスを使い、身元の分からない、生存者の記憶を探っていた。
見る限りでは、エンティティを讃えるカルト教団が存在した世界から来たらしい。 これは特に驚くことでも、珍しいことでもない。 が、記憶によると彼女は刑事のようなことをしていて、カルト教団の生贄を守ろうとして、儀式に捧げられたらしい。 彼女に何があったのかは分からない。 "霧"を探って、真相を読み解かなければ。 |
+ | アーカス 1672 |
私はまだ観察が済んでいない、殺人鬼の痕跡をかき集めた。
もっともあり得そうなのは、犯罪の本質から理解し、この獣はテラ・ダークに由来するということだ。 この女は愛を餌に男を誘惑し、その預金を奪い、自分の豚たちに食わせた。 最高だ。効率的で、巧みに考えられている。 記憶に関する印象は、下記に記す…
…男は花を手に、戸口を背にして立っている。
馬鹿げたその薄ら笑いがその無謀な顔に浮かぶ。 男は自分の人生があとわずかであると、全く気付いてもいない。 孤独な人間が妻を求めて旅に出た。 男は指輪のためならどんなものでも手に入れてやると考えた。 妻のための土地。妻のための農場。妻のための預金。うまくいくはずもない。 何にしても、予想通りには行くはずもない。 その女の募集広告に応募した全ての孤独な人間は、物事は予定通りには運ばなかった。 女は男の目を覗き込み、男が何も知らないことにぞくぞくとする。 面白みのない、面長の顔に。自分が優れているという思い込みに。 男はその女に詩を書いていた。甘味な時だ。 女は男が床にのたうち回るその時に、男の喉の奥にその詩を押し込むつもりだ。 女は男から詩を受け取り、金について聞く。男は金を持ってきている。 バッグの中に男の預金を詰め込むと、新たなスタートのための旅を始めた。 男は、当てにしていたよりもずっと多くを得るだろう。ずっと多くのものを。 男の金と一緒に銀行へ、男と一緒に豚のところへ向かおう。 |
+ | アーカス 4902 |
人生とはこの牢獄の中の人生ではない。そして、死に救済はない。
それは単に新たな試練の始まりであり、ほとんどの生存者は気付いている。 自分たちが、決して理解できないものに捕らわれているということに。 何故こうしたことが起きているのか、もはや私には分からない。 真実は…私には何を信じるべきかは分からない…エンティティは…その正体は未だ不明であり…私たちが考えていたものとは違うということだ… |
+ | ... |
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+ | 記憶 5823 |
ジェーンは求職中だ。仕事はある。地元の食堂でウェイトレスをしている。
だが他の種類の仕事が必要だ。役割。演じる役。何か。正しい道を歩んでいると実感させてくれる何か。自分には学生のバラエティーショーを演じる以上の実力があると実感させてくれる何か。 演劇は愚か者のすることだ!成功する者は一億人に一人もいないだろう。父親は言う。祖父は同意するが、ついでに一言加える…夢を追う勇気があるものは、99%の確率でその億に一になれる。勇気を持て。勇気は運をこちらに引き寄せてくれる。 ジェーンは祖父を愛している。祖父に誇りに思って欲しい。彼が正しいことを示したい。億に一になってやる。 |
+ | 記憶 5824 |
メキシコ人ウェイトレスは、メキシコ語と、メキシコ訛りのある英語で喋る。
誰がこんな台本を書いた?メキシコ語なんて言語はない。それはどうでもいい。言いたいことはわかっただろう。彼女の顔は苛つきで火照る。訛りなんて必要ない。どうして?どうして訛り?なぜただのウェイトレスではだめなのか?英語をしゃべるウェイトレス。どうしてこの台本ではウェイトレスがメキシコ人でないといけないのか?どうしてこれがシーンに重要なのか? ジェーンは監督を見つめ、彼の意図を理解しようとする。趣を与えるためだってどういう意味?趣を与えるなんて思えない。固定概念を増長するだけ。 だが…ジェーンは何も言わない。何も言わないのは、社会正義の戦士としてブラックリストに載りたくないからだ。少数派不満分子なんて言われたくない。スペイン語の訛りを少し混ぜて、彼女はオーディションを終える。 |
+ | 記憶 5825 |
ジェーンは友人のドゥエインとビールを分かち合う。ドゥエインはジェーンに、なぜエグゼクティブクリエイターにひどい台本の共著者として雇われたのかを話す。彼の呆れた考えの代弁者として雇われたのだ。彼のアフリカ系アメリカ人の歴史に対する無神経な文化的認識を正当化するために。
このエグゼクティブクリエイターはマイノリティ映画を撮りたいと思っている。流行っているから。認められるのに手っ取り早いから。ヘボライターのためのお手軽出世街道。たくさんのライターがこのヘボに、あらゆる面で彼の台本が間違っていると指摘した。構成が悪い。侮辱的。退屈。無神経。 ドゥエインは、伝統文化に対して無理解な台本を否定した。このクリエイターが文化の盗用で非難されるのを避けられないように、彼の名前をプロジェクトに加えることを拒否した。マイノリティの物語の「栄えある」解釈を正当と認めるのを拒否した。クリエイターはドゥエインを社会正義の戦士と呼んで名誉を傷つけた。そして解雇した。 ジェーンは友人のために悲しげにため息をつく。少なくともその台本は映画化されない。ドゥエインはちらりと疑惑の眼差しをやる。このヘボには金持ちの友達がいる。大金持ちだ。彼はまた台本を書く。監督する。そして制作する。有力筋の友達がいるヘボは何でもできる。こうしてひどい映画が作られていく。彼らはひどい映画で乾杯する。 ジェーンは笑う。面白いからではない。それが事実だからだ。 |
+ | 記憶 5826 |
働かなくなってから何か月も経つ。電話もない。オーディションもない。何もない。ジェーンはからっぽのテレビ画面を見つめる。子供の頃は自分がテレビに出るのをよく想像していた。だが今は全く想像できない。
何かがおかしい。自分が成功する未来がもう見えない。機会があればいいのに。ただ一度だけの機会。億に一になるための、一度の機会。だが彼女向けの台本はほとんどない。固定概念が邪魔している。エージェントは気にしないでいいのに。年齢の範囲に当てはまる、すべての女性役に推薦してくれればいいのに。ジェーンはどんな女性役でもできる。主役でも脇役でも。 それなのにオーディションは、セクシーなラテン人だったり、滑稽な移民だったり、訛りのあるウェイトレスだったり。ただの女性…アメリカ人女性だったことはない。女性。アメリカ人。それだけなのに。 ジェーンは真っ白なテレビを見つめる。番組のスターである自分を想像しようとしたが、できない。電話が鳴る。エージェント。オーディション。部隊の大役で給料もいい。一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女は億に一になった気分になる。 |
+ | 記憶 5827 |
ジェーンの携帯が鳴る。彼女は歩道で立ち尽くす。これが最後なのに、電話に出たいのか出たくないのかわからない。もう落選はできない。この役だけは。この役はとても重要なのだ。ジェーンは携帯に耳を当てる。電話に出る。
聞き覚えのある声がする。エージェントだ。彼はジェーンにオーディションでどれだけ受けが良かったか伝える。どれだけ皆がジェーンを素晴らしいと思ったか。彼は他のことを話し始める。ジェーンは「でも」を待つ…お馴染みのあれ…どんなにたくさんの称賛も、たった一つの言葉で全部破壊される…でも…それは来ない。 ジェーンは細々とした連絡を聞き、礼儀正しい落選の知らせを待つ。けれどかわりに聞こえたのは…受かったよ…ジェーンは自分の耳が信じられなかった…役に受かったよ…ジェーンは独り言を呟く。受かった。信じられなくて顔が麻痺していく。ジェーンは叫ぶ。通りがかりの人がこちらを向く。ごめんなさいね。 |
+ | 記憶 5828 |
ドゥエインはカフェでジェーンのリハーサルの手伝いをする。休憩に入ると、ドゥエインはジェーンに、ヘボライターは今中国の物語を手掛けていて、彼の最新の中国嫌悪を正当化させるために、中国人ライターを必死に探していると伝える。
ジェーンは笑う。金はあるヘボ。そうやってひどい映画が作られる。ジェーンはドゥエインに、舞台はうまくいっているという。訛る必要はない。ミニスカートを履いたり、バカバカしい固定概念を増長する必要はない。昔やらされていた愚かな行為を、今はする必要がない。本物の仕事。意味のある仕事。家族にも伝えられる。 彼女は幸運を願いながらテーブルをコンコンと叩く。ドゥエインは笑って、その儀式は効果があるのかい?と聞く。ジェーンは肩をすくめる。 ドゥエインはジェーンの成功が嬉しいと言って、雑誌からの切り抜きをジェーンにわたす。「クイック・トーク」の公開オーディション。ドゥエインはジェーンを推薦しておいたと言う。ジェーンなら完璧な司会ができるだろうと。 ジェーンはドゥエインに感謝するが、今は舞台に全力を注いでいる。残念だ。君は僕が知っている中で一番リアルな人間だ。ショーに必要なのはそれなんだ。リアルであること。 |
+ | 記憶 5829 |
こけら落とし前の最終リハーサルで、滑り込みの台本変更にも関わらず、ジェーンは役を演じきった。ジェーンはアドレナリンと、今までに経験したことのないような大きな流れを感じる。最後の台詞を言い終えると、監督は拍手する。そしてジェーンに近づく。驚いたと。印象的だったと。感動したと。
でも…ジェーンの役はアクセントがあったほうがいいと思うと。何?その要求はジェーンを傷つけた。粉々にした。どうして?理解できない。 ウケ狙いだよ。そっちの方が面白いだろ、と。この役にアクセントはいらない。この役はアクセントなしで十分だ。 でもコミックリリーフになる。コミックリリーフ?それがこの監督にとっての彼女の価値。プロデューサーたちにとって。この業界にとって。コミックリリーフ。 ジェーンは監督を見つめる。監督が笑い出すのを待つ。監督が冗談だというのを待つ。決して言われない謝罪を待つ。ジェーンはため息をつき、先祖の力が血管を巡るのを感じる。裏切ることを許さない力。アメリカ人であることを表す痛々しいイメージが増長されるのを許さない力。 ジェーンは監督に向かって首を振る。バカなコメディアンでも探して。ジェーンは舞台から怒って降りる。己の道を辿る者は、可能性が億に一だとしても成功するだって?そんなの嘘だ。 |
+ | 記憶 339 |
キングは傷を負った拳をぎゅっと握る。
酔っ払いどもの歓声や怒鳴り声が路地にこだまする。 キングは倒れた相手を見つめる。血を流す顔。潰れた鼻。欠けた歯。 キングは最後の仕上げとして顔を蹴りつける。 キングはファイトで負けたことがない。今も、そして、これからも。 キングに賭ければ大丈夫。 キングは群衆を見渡す。ドニーを見つける。賭け事で問題のある古い友人だ。俺に賭け続ければ問題じゃなくなる。 キングは腕時計を見る。家族会議には遅刻だ。 |
+ | 記憶 340 |
キングの父は、自分が理解できないことで口答えされると、母を虐待する。いつも同じクソだ。
キングは歯を食いしばる。血と熱が顔に上る。 喧嘩でキングが負けることがないのは、対戦相手に父親の顔が投影されるからだ。襲いかかりたい。何か言いたい。何でもいい。だが何か言うといつもさえぎられる。 だが今回のキングは正気じゃない。もしくは正気なのかもしれない。 父親が母親を殴ろうと手を挙げる。理解するよりも速く動く。一瞬でキングは父親の腕を掴む。 次の瞬間キングは積年の恨みを込めて痣ができるまで殴る。キングは母が父を抱き起こしている間に立ち去る。 出ていけ!もう二度と顔を見せるな!この親不孝者が!出ていけ! |
+ | 記憶 341 |
キングには友達がいたことがなかった。本当の友達という意味だが。
腰巾着はいた。虎の威を借る狐のようなバカ共だ。 今は誰もいない。助けてくれるような友達は一人だっていない。 かつて学校にいた頃は友達がいた。だが昔の話だ。 キングには金が要る。だが金は木になるわけではないし、キングに挑む者もいない。 最後の相手をひどく痛めつけてしまったからだ。 キングには仕事が要る。口座の金は尽きかけているし、昔からの浪費癖は直すのが大変だ。 |
+ | 記憶 342 |
キングはトミーに会う。トミーのアパートにはキングが住める場所がない。住ませてあげたいが、無理だと言う。
ミックが助けようとするが、ミックの母親が許さない。ビルとハリーも同じだ。 元カノは新しい彼氏ができて、キングの顔を見るのも嫌らしい。くそったれにはよくある話だ。 永遠にホテルの部屋で暮らすなんてできない。貯金がなくなる。 キングは最近見かけた、最後の喧嘩での群衆の中の顔を思い出す。 その男とは幼い頃から友達だった。進む道は違えたが彼は本当の友達だった。 キングは彼の住所を探す。キャッスルドライブ通り。 キングはタクシーを捕まえる。 |
+ | 記憶 343 |
キングは長いこと生きている実感がなかった。
心の通った本当の友をどれだけ欲していたかを実感しながら、キングはドニーのアパートで古いエールを飲む。 ドニーは、キングが金持ちの生まれと知る前から友達だった。 金持ちは本当に豊かってわけじゃないのさ。キングはどうしてドニーがこう考えるのか、なにを意味するのか理解できない。 ただの思いつき。昔みたいな一杯やりながらの話。 ドニーはキングが身の振り方を決めるまでいていいと言う。キングはそれがいつになるかわからない。 問題ないさ。急にドアが叩かれてキングは驚く。 ドニーが立ち上がる。ドアを開けると、黒のレザージャケットを着た数人の男が現れる。筋肉。 キングはよく聞き取れない。キングが聞き取れたのは気に入らないことばかりだ。 ドニーは金を借りていて、返さなければ顔面に鉛弾がたっぷりと叩き込まれるのだと言う。 ドニーはキッチンテーブルに戻ると笑う。 お前のせいだ、キング。誰に賭けていいのかもうわからないんだよ。 |
+ | 記憶 344 |
キングは仕事を3回クビになり、一番うまくできる仕事に戻ることにする。
挑戦者が薄暗い裏小路で戦いの場に踏み込む。キングの二倍の大きさ。デカい。 キングは怖気づかない。他の奴と同じように沈むだろう。 群衆は相手をゲットー・マッシャーと呼ぶ。ゲットー・マッシャーはキングをにらみつける。 キングが飽きるほど聞いたルールをレフェリーがまくし立てる。 キングは相手を睨む…そして目にする…父親ではなく対戦相手を。 ゴングが鳴る。獣のような唸り声と共に、ゲットー・マッシャーが飛び出す。 キングは頭を吹き飛ばすような激しい一撃をかわす。 妙な感覚。反応しない。混乱している。 ドニーがキングに叫ぶ。キングがドニーをちらりと見ると同時に頭に巨大な拳が当たる。黒色が目の周りに渦巻く。 頭への衝撃は覚えていない。足が崩れたのを覚えていない。腐ったゴミの山に倒れ込んだのも覚えていない。 ただドニーのアパートのソファで目を覚ましたのだけは覚えている。 強みを失った。憤怒を。激怒を。憎悪を。それだけだったのか? ドニーが大丈夫か、と聞いてきたが、キングにはわからない。 俺は大丈夫なのか?強くなれるのか?わからない。 ただのまぐれ当たり?相手に運があったのか?最強の奴にはある。俺はだめな気がする。 俺はだめだ。ドニーは最後の金をキングに賭けたのだ。 |
+ | 記憶 345 |
キングはバーの仕事に慣れてきている。アルコールで気分を落ち着けながら。
ドニーはビールをすすると、キングは戦う他の理由を見つける必要があると言う。 キングはドニーに、今飲んでいるビールが小便になって出る前に家に帰れと言う。トラブルに巻き込まれる前に。 遅かった。キングは二人の男を見つける。彼らはドニーに近づく。ドニーを掴む。ドニーを地下室に押し込む。 まずい状況だ。キングはドニーを助けようとするが、マネージャーがバーの仕事を続けるように怒鳴る。 知るか。キングはバーを飛び越えると地下室に急ぐ。 ドニーがゲットー・マッシャーに殴られ、アンクル・ブラスが椅子に座ってそれを見ている。 キングは躊躇しない。ゲットー・マッシャーにタックルする。強烈な拳が交わされる。 ゲットー・マッシャーはついてこれない。アンクル・ブラスはキングにも相手を仕向ける。 問題ない。キングは破壊の突風だ。 キングはゲットーの膝を砕き、瞳孔に親指を叩き込む。神経でつながったままの目玉が飛び出す。恐怖の叫び声。 ゲットー・マッシャーは眼球を覆って医者を呼んでくれを叫びながら、よろめき壁にぶつかる。 もう何人かのごろつきが襲い掛かってくる。 そこまでだ!アンクル・ブラスが立ち上がりキングに近づく。 貴様のクソ頭を引きちぎるのなんて朝飯前だ。ワシの子分にしてくれたことの仕返しだ。 キングはふらつきながらも立ち上がる。俺だってまだまだイケるだろ? ワシのために働くなら、こいつの借金は帳消しにしてやろう。 キングは姿勢を正し、上着をはたく。笑みがこぼれる。 キングに賭ければ大丈夫。 |
+ | 記憶 5100 |
凛は学校の終わりを恐れて机に座っている。
中学校が楽しいからでも、先生のことを尊敬しているからでもなく、剣道を学ばされるのが嫌だから。 だが父がそれを要求する。父は凛に剣の道を実践するよう命令する。実践だけではない。卓越。 凛は山岡家の一員だ。山岡家には誇るべき遺産がある。 侍の遺産。父は凛にこれを毎日教え、そして子どもたちは毎日凛をからかい馬鹿にする。 道場に来るなと。竹刀ではなくほうきを持てと。 凛は彼らを無視し、最大限努力する。 彼女が剣の道で上達すれば、父の機嫌も良くなるかもしれない。最近父は彼らしくない。苛ついている。 短気。直情的。凛にも、母にも、どうすることもできない。 父はとても物静かになり、独り言が増えた。父に何が起きているのか凛にはわからない。だが父が苦しんでいるのは知っているし、父をさらに苦しませるのは嫌だ。 家族がすべて。いつか刀を持つのも嫌にはならないかもしれない。 むしろそれを楽しめるかもしれない。 |
+ | 記憶 5101 |
胴着の重さで凛の骨がきしみを上げ、崩れそうになる。凛は竹刀を対戦相手に向ける。
さっさと終わらせよう。早く終わらせてよ。相手は凛を侮辱する。 彼は、更衣室に割れた窓があって誰かが怪我をする前に凛が片付けろと命令する。 山岡清掃員。彼は笑う。彼は凛をネタに清掃員ジョークをもう一つ言う。 凛の顔が急に熱を帯びる。竹刀を彼の喉から体まで突き立てたい。竹と破片が腹を貫いた状態で、あいつがどう笑うのか見てやろう。 破片が喉を切り裂く?そんな考え、どこから来た?こんなことを考えるのは自分らしくない。 竹刀を構えると体の中に奇妙な感覚を覚える。こんな感覚は今まで感じたことがない。まるで…まるで心のなかで龍が目覚めたような。 凛はニヤニヤと笑う対戦相手を見つめる。考えるより速く、凛は飛び出し、相手の頭を打ち据える。 皆が彼を笑う。彼の頭は敗北と屈辱が混じり合い項垂れている。 少年は信じられないように、大きく見開かれた目で凛を見つめる。彼は瞬きする。 君も山岡一族なんだな。 凛は認めたくなかったが、だが…勝つのはいい気分だった。 違う。勝つのではない。相手を叩きのめす。他の人間を叩きのめす。 他の人間を叩きのめす?どうしてこんなことを考える?私はこんな風に考える人間ではない。 だが、確かに自分がそう考えたのだ。 |
+ | 記憶 5102 |
何が起きたのか凛は理解できない。目の前の少年と戦う力を凛にもたらしたのが何なのか。
彼はもう笑っていない。彼は凛を睨みつけている。 凛は彼を倒した。一度ではなく。二度ではなく。三度も。 少年たちは口を開けて凛を見続けている。山岡清掃員の中で、何かが変わり始めている。 少年たちは気づいている。凛は気づいている。 凛は、心のなかで目覚めつつある龍を感じている。 剣士として…兵士として…山岡一族として存在することに近い感覚… そしてその感覚は心地よい…尊敬を受けるのが…認められるのが。 凛は一瞬、自分が偉大な山岡練次郎とその息子華山の側に立っているのを想像する。 心の中で何かが動き、龍が蠢く… そして龍…彼女は気づく…滾る山岡家の血が目覚めているのだ。 |
+ | 記憶 5103 |
山岡清掃員!運が良かったな!その運がまだ尽きていないか、試してみようぜ!
少年たちが凛に近寄る。罵りながら。冷やかしながら。叫びながら。 凛は逃げたいが、隙がない。 凛は謝ろうと考えるが、心の中の目覚めた龍がそれを許さない。 凛は悪いことは何もしていない。凛には謝る理由がない。凛はするべきことをようやくしただけなのに。 少年たちは凛がズルをしたとして近寄る…まるで凛を助けた龍が見えたかのように。 凛は恐れた。龍はどこ?祖先の魂はどこ?凛は手を上げ、いじめっ子たちにやめるように懇願する。 仕返ししてやる!バカにしやがって! 一瞬二人の少年の間に隙間が見える。躊躇う暇はない。行動するのみ。 凛は間を駆け抜け、怒れる少年たちの一団に追われながら、校庭を横切る。 凛はゴミ箱の影に素早く身を潜めると、その横を駆け抜けていく少年たちを見る。 一人立ち止まる…ゴミ箱に向かう…目が細まる。 凛は身を潜める。心臓の音が頭の中で響く。 なぜ隠れる!?あの蛆虫どもよりずっと強いのに!立ち上がれ、そしてお前の姿をあいつらに見せつけろ! だが凛は隠れたまま。 凛は隠れ、目覚めた龍が眠りに戻るのを願う。 |
+ | 記憶 5104 |
凛は隠れ場所から出て、長い帰路につく。
心の中の龍は隠れたことを叱る。凛はいじめっ子たちよりも強いと。いじめや嫌がらせに萎縮してはならないと。 凛は何をすればよかったのか、どう考えればよいのかわからない。 向き合うべきだったのかもしれない。立ち向かうべきだったのかもしれない。奴らを打ちのめして、手足を引きちぎるべきだったのかもしれない。 手足を引きちぎる?何を考えているんだ?どこからこんな考えが来た? 引きちぎる?なんて残酷な考えなんだ。だが凛が自分の疑問に答える前に、声が聞こえてくる。 聞こえてきたのは…いじめっ子が冷やかしたり侮辱したりする声。 凛は振り返らない。凛は逃げない。 凛は逃げない、なぜなら次に起こることは予想しているし、気にしないから。 凛の中の龍が、何も問題はない、と告げる。 少年たちは凛にゴミを投げる。山岡清掃員!山岡清掃員!山岡清掃員! 次に何が来るかはわかっている。かつての侍のように、心の眼で見える。 少年たちは凛を押し倒すだろう。囲むだろう。殴り、蹴るだろう。 だが今回は、痛みに屈したりはしない。恐怖で麻痺したりなどしない。 恐怖と苦痛を龍の糧とするのだ。 今日、いじめっ子たちは爪と牙を味わうだろう…彼女の怒りを… そして心に刻むのだ…凛は山岡一族であると! |
+ | ... |
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+ | 記憶 3221 |
どん底、だから彼女は度々、森を訪れる。
不安を振り払うため、抱えている問題を投げ捨てるため。 新鮮な松の香りを吸い込み、意識を解放するため。 何もかも投げ捨て、彼女自身の音楽に耳を傾けるため。 もう長いこと彼女自身ではなかった。 自分以外を感心させるための演技。 彼女自身から出てくるものではなく、大衆を満足させるために演奏していた。 お金のために演奏していた。 "お金のために一曲でも演奏すれば、自分の音楽は殺される"という教えを無視して。 母親から初めてこれを聞いた時には笑ってしまった。馬鹿馬鹿しいことに感じたからだ。 彼女の音楽はどこにも行かないと思っていた。一生をかけても演奏しきれないほどの音楽が頭に溢れていた。 今は…今は…もう笑うことはできない。人生でこれほど偽りと退屈を感じたことはなかった。 これまでにないほど、また自分の音楽…音…彼女自身を取り戻したいと思った。 だから彼女は目を閉じる。意識が空になり、未知の世界への扉が開くまで、"皮"を剥き続けるのだ。 |
+ | 記憶 3222 |
耳障りなメロディが繰り返される。
どん底に落ちるといつもこうだ。彼女が一度も演奏したことのないような音色。 なぜそのような音が出るのかがわからない。 こんなに暗く…されどもキャッチーな曲は演奏したことがない。 不吉なメロディを頭から追い出そうとすればするほど、その存在感は強くなっていく。 この曲を書き上げろと迫ってくる。メロディを止めたいと思っても、聞こえてくるのはただそれだけ。 上からも、下からも、横からも聞こえてくる。彼女の中から聞こえてくる。 止むことのない不吉なメロディ。こんなメロディは彼女じゃない…いや、彼女なのかもしれない…商売のための演奏が彼女を変えてしまったのかもしれない。 堕落させてしまったのかもしれない…潰してしまったのかもしれない。 彼女自身でなければ…彼女の音楽を潰してしまったかもしれない。 ギターを弾くのをやめ、目を閉じる。 何もかも意識から押し出し、ゆっくりと、辛抱強くゼロへのカウントダウンを始める。 |
+ | 記憶 3223 |
彼女は決して浮かぶことのないインスピレーションを持つ。
あの孤独な、不吉なメロディ以外は何も思いつかない。 別のメロディを弾こうと足掻くほど…意識の中ではあのメロディが大きく響き渡る。 沈黙を求め、彼女は演奏を止める。しかし…あの曲は止まらない。 目を閉じて意識から追い出そうとするものの…彼女の意識ではない。 深い洞穴の中から来ているのだ。 彼女は頭を振る。無に帰ると、あの曲はフェードアウトする。 最後にもう一度、自身の音楽を取り戻そうとする。本当の彼女の音楽。 彼女から彼女自身を…本当の彼女を遠ざけてしまった演奏の一つ一つを公開しながら。 「ファイブ。」つま先から力を抜く。 「フォー。」脚から力を抜く。 「スリー。」胴から力を抜く。 「ツー。」両手の力を抜く。 「ワン。」唇、花、顔全体から力を抜く。 「ゼロ。」彼女の意識は静寂となった。 |
+ | 記憶 3224 |
3時間経つが、あの不吉なメロディ以外は何もない。
少し自分を取り戻す時間を取ればよかった。 偽りでなく、自分らしいことをするために人生の貴重な時間を費やしていればよかった。 それを何よりも強く後悔した。貴重な人生を…演技やルーチン、貯金のために費やしてしまった。 こうなるはずではなかった。少なくとも彼女は。偉大なウディ・ガスリーは、彼女に影響を与えたアーティストの一人だ。 彼が書いた曲は、すべて彼自身に偽りのないものだった。彼がしたことは、すべて彼の内から出たものだ。 偽りがなく、純粋な場所から生れ出たものだ。彼女もかつてはそうだった。 しかし今は…本物よりまやかしばかりを生み出してしまった罪悪感だけで彼女の音楽は潰されてしまったのかもしれない。 彼女の本物の音楽。 こんな今まで出したことのないような、奇妙で、孤独で、暗い曲ではない。 彼女はまたカウントダウンしようとするが、その時…地面のシンボルが目に飛び込む…曲に合わせて明減している…原初の、古代の何かの心臓のように鼓動している。 彼女が目を閉じ、目を開けるとそのシンボルは消えていた。 |
+ | 記憶 3225 |
ケイトは誰もいない森で独り叫ぶ!
あの曲を頭から追い出したい。歯がゆい。イライラする。彼女の邪魔をする。 ギターを弾くのをやめても、まるで生きているかのようだ。 あらゆる場所から、どこでもない場所から同時に迫ってくる。 意識を集中すると、メロディは深い洞穴の中から響いてきていることに気付く。 彼女は暗闇の音楽に降伏する。彼女は立ち尽くし、洞穴を覗き込むと…点滅する光が見える。 目を閉じて、彼女自身の意識が彼女を惑わせようとしているのではないかと考える。 だがそうではないことを知っている。いつだって彼女だけが感じ取れるものがあった。 誰かが言っていた。近年のシャーマンとは、芸術家、作家、そしてミュージシャンなのだと。 彼らは他の者たちとは違い、この現実の外側の思想、世界、発想を得ることができるのだと。 彼女はずっとその能力を持っていたのだ… しかしこれほど強くはなかった…これほど暗くはなかった… まるで才能を無駄にしていることを宇宙が罰しているかのようだ。 何者かが、あるいは何が彼女に呼び掛けているのかと考えながら、洞穴に近づく。 ぼんやりとした記憶が彼女を引き寄せていく…これは前にもやったことがあるのだと。 そこに何があるのかを知っているけれど、なぜか忘れてしまっている…彼女はそう感じ取った。 |
+ | 記憶 2432 |
夜明けの光がクレーターや塹壕を散らし、その光は見るも無残な姿の森へと差し込んだ。
爆発が地面を裂く。泥が吹き上がり、アナに降り注いだ。 人々は腐敗した死体で埋め尽くされたクレーターへ、頭から転がり込む。 細切れになった人間や馬の死体は、ネズミのご馳走だ。 他の者たちはバラバラに弾け飛んだ。泥や血で溺れる者もいる。 人間という生物の残虐性はアナを楽しませる。これほど快楽を感じたことはなかった。 死骸を巡って争う腹をすかせた狼より醜い生き物だ。 彼女の理解できる言葉を話す者もいる。聞きなれない言葉を話す者もいる。 聞いたこともない痛ましい叫び声が突然あがり、彼女を驚かせる。 その声の元へと目を辿らせると、破壊された森の中にロシア兵が捕虜を監禁している小さなテントが見えた。 彼女は夜通しそれを観察した。夕飯のために馬を1頭屠るのを見て、彼女は震えあがった。 捌くのが下手すぎて随分と肉を無駄にしてしまっている。 夕食後は、ロシア兵たちは暇つぶしに捕虜の1人の頭をシャベルで叩き出す。 ジョークに笑いながら。彼女は影からそれを観察し、声もなく笑う。 一緒に笑うのではない。そのような死は…汚いだけ。魚や精肉じゃあるまいし。 母からはもっと上手いやり方を教わっている。 |
+ | 記憶 2433 |
また別の人間の群れを探そうと思っていたところに、何かを目の端で捉えた。
父親のことを思い起こさせる何か。可愛いわが子にちょうどいいものだ。 お土産だ。アナは影の中に紛れ、お土産を見据える。 ロシア兵はボロボロのテントを見張り、捕虜に悪態をつきつつ、”お土産”を研いでいる。 お互いの言葉がわからないので痛みつけあい、殺しあっている。 彼女は母が読んでくれた本を思い出す。絵を指さし、これは”兵士”だと言っていた。 彼女の父親を切り刻んだのも兵士だ。兵士が殺しあう理由を、母は説明できなかった。 アナは彼らを観察するが、理解できない。彼ら自身、理由を説明できるのかも怪しい。 狩りの快楽、恐怖の香り、そして血を渇望にしているのかもしれない。 彼女は”お土産”を見つめ、彼らに忘れることのできない体験をさせてあげたいと考えた。 だが人数が多すぎる。 突然、母が目の前に現れる。可愛いアナや、まずは人数を減らさないとだめね。 そんなの簡単よ。見せてあげるわ。そして彼らは…ザリガニさんの寝床にご招待するわ。 |
+ | 記憶 2434 |
ロシア兵は捕虜に不可解なことをする。
節くれ立った木の枝に逆さに吊るし、その下に火をくべるのだ。 彼女は眉をひそめる。不可解だ。ローストにするならまずは獲物を絞めないと。 だが兵士たちは苦しむ捕虜を見て楽しんでいる。 泣きわめく捕虜には見覚えがあった。 数か月前には、別のテントでロシア人捕虜を痛めつけていた。 たった数か月前には、彼は痛めつける側だったのだ。 捕虜が豚のように泣きわめく中、ロシア兵は”お土産”を手に取った。 彼女はにやりと笑う。 あの泣き声はちょっと面白い。本当に。愉快だ。ロシア兵たちは泣き声を真似て笑っている。 アナは大声で笑ってしまうのを堪えた。今まで聞いたこともないような間抜けた声だった。 近寄る兵士の物音を聞きつけ、彼女ははっとした。 振り返ると突き出される銃剣がギラリと光るのが見えた。 それを避けると、間抜けな痩せこけた男の首元を掴む。 ごつごつとした指を喉仏に絡ませると、力を込めて一気に引き抜く。 喉を引き裂かれ、男はゴボゴボと喉を鳴らせて地面に崩れ落ちた。 彼女は呑気に笑うロシア兵たちと、ブヒブヒとなく捕虜へと注意を引き戻す。 彼女は微笑む。間もなく、誰もが同じような声で鳴くことだろう。 |
+ | 記憶 2435 |
4人の兵士が行方不明の仲間を探してテントの周辺をうろついていた。
アナはその1人の後からひっそりと、一歩、また一歩と近づいて行く。 可愛そうなネズミさん。死が迫っていることに気づいていないのだ。 彼女は兵士をしばらく観察すると、わざと小枝を踏みつけた。 枝の折れる音で兵士が振り返るが、アナと目が合うまでもなく、斧が顔のど真ん中に突き刺さる。歯は砕け、舌は切り落とされた。 アナは血が溢れかえる口を手でふさぎ、”お土産”を探してポケットをまさぐる。 ない。彼女は手を放し、喉の鳴る音で残りの3人をおびき寄せた。 彼らは銃剣を構え、そろそろと近寄ってくる。 アナは怒りと血の渇望で歯をギリギリと鳴らす。 切り落とされた兵士の頭を3人の方へ転がした。一瞬の動揺だが、それで十分だ。 斧の一振りで2人が倒れる。最後の一人が叫びながら突進するも、一振りで頭が胴体から離れた。 頭を失った胴体が血を吹き出しながら、その頭を探すかのようにぐらぐらと前後に揺れる。 最後につんのめったかと思うと、後ろに傾きそのまま倒れた。 別の何者かの攻撃が届く前に、アナがそれに反応する。 左右に斧を振るうと、その体はバラバラになって崩れた。 兵士は自身の体の破片をおののきの眼差しで見つめている。 彼女は笑い、母に聞かされた童話を思い出す。 ごめんね、イーツォ。もう元には戻せないのよ。 |
+ | 記憶 2436 |
兵士たちはアナの好奇心をそそる。
ロシア人と外国人はお互いを生きたまま丸焼きにしていたのに… それなのに今は…協力してアナの攻撃から身を守ろうとしている。 彼らは彼女を殺人鬼、森の化け物だと言う。狼人間だと言う。 兵士たちは懸命に穴を掘り、キャンプの周りに防衛網を敷く。 アナはそんな彼らをもてあそぶ。一度に相手にするには多すぎる。それを重々承知している。 彼女は睡眠を奪い、精神を消耗させる。毎晩キャンプに近づいては、子守唄を歌い、狼人間のように吠える。 兵士たちが狂乱の中に目覚め走り続ける間に、彼女は小屋に戻り我が子とともに眠る。 数時間眠ると、また兵士たちを恐怖に陥れる。 2日も眠れぬ日が続けば、錯乱して殺し合いを始める。 何の苦も無く我が子のために“お土産”を手にすることができるだろう。 |
+ | 記憶 2112 |
ラザールはドワイトへと近づき、彼の机を殴りつけた。
マックスはダメだった。叩き潰してやりたくなるだけの軟弱な男だった! 恐怖、不安、混乱ーードワイトはそのすべてを感じる。 なぜこんな奴が社長なのか?それ以前に…前任の男を叩き潰してやりたいと思った。 なぜなら…なぜなら…軟弱な男だからだ。ドワイトはそれの意味すら分からない。 “軟弱な男”?このご時世にそんなこと言うやつがまだいたのか? ドワイトの手がせわしなく動く。ごくりと喉を飲み込む。ラザールは再び机を殴りつけた。 あいつよりは上手くやれよ、ドウィッチ。うちが業界一だって評判を世間に知らしめる必要があるんだ。 今、ドウィッチと呼んだか?ドウィッチ?ドウィッチと呼ばれた。 ドワイトはまだピーク22社で何をすればいいのかわかっていない。 “ストーリーフック・スーパバイザ”らしい。 わけのわからないでっち上げられた役職に聞こえる。でたらめに感じる。 金が必要だし、もう誕生日パーティーでピエロができなくなってしまったから仕事を受けた。 子供は残酷だ。偽のプロフィールを使って、ラザールと会社の好意的なレビューを書かないといけないらしい。 ラザールが三度机を殴りつけた! 勇敢なライオンになれ、ドウィッチ!ネットに襲い掛かれ!やれ!ピークを広めるんだ! ピーク22社!我々は人間性を超越する広告のストーリーフックを提供いたします、だ。 ドワイトはそれがどういうことなのかさっぱりわからない。 ラザールは試験用紙を置いて去って行った。ドワイトは不安げに試験用紙を見つめる。 ドワイトを雇用したマネージャーのローズが歩み寄り、それは知能テストだと説明する。 ラザールは自分が社内で一番賢いということを確かめたいのだ。 一つだけアドバイス。良い成績は出さないこと。 ドワイトはにやりと笑う。了解。 |
+ | 記憶 2113 |
俺たちの強みはストーリーフック広告だ。
ドワイトは“ストーリーフック”という言葉を聞くたびに体が強張る。 ラザールはただ独特でありたいがために、独特であろうとする。 多くの広告はメッセージを感情で包むためにストーリーを使う。 ストーリーフックと名付けたからと言って新しい手法であるわけではない。独特であるわけではない。 そもそもストーリーフックなんて高校の英語教師が使うような用語だ。 ローズは笑う。 その通り、だけどラザールはおばかさんで、今度出版する本に自分で理論を作り上げたと書きたいのよ。 ドワイトは目を見開く。本?何の本?ローズは馬鹿笑いし、説明する。 自伝の本。ベストセラー間違いなしの、ラザールの独創性についての新理論が書かれた本。 けれど、ラザールはまだ何も成し遂げていない。ごまかしだらけ。 ローズは笑い、訂正する。 一つだけ得意なことがある…大金をドブに捨てること。 ローズは話題を変え、ドワイトにラザールのゴーストライターにインタビューするよう支持する。 私たちの“裸の王様”の自伝について、ちゃんとお世辞を言うようにね。 |
+ | 記憶 2114 |
ドワイトはローズに歩み寄る。
いつもの明るいローズではない。頬には涙の痕が残り、目は腫れている。 サウンドデザイナーの説明を遮るようなジョークに乗らなかったので、ミーティングでラザールに恥をかかされたと言うのだ。 舌足らずな話し方のものまねを笑わなかったからと。 ローズはため息をつき、ドワイトに“裸の王様”とのミーティングはすべて録音しておくようにと助言した。 法律的な用途だけではなく、“被害者の会”のためにもと。 “被害者の会”?それは何だ? 彼女は年に一度元従業員たちが集まり、ラザールの愚行について笑う会のことを教える。 ドワイトは首をかしげる。彼は実に混乱している。 ドワイトは、ピーク22社は設立したばかりだと思っていた。ピーク22社ができて何年経っているのか? ローズは指で数える。5年。 ドワイトは耳を疑う。5年もたっているのにピーク22社には何もない。 ローズはにやりと笑う。 訂正。5年目にして、もうすぐラザールの自伝と独創性についての理論が生まれようとしている。 |
+ | 記憶 2115 |
ドワイトは偽のプロフィールを操り、ラザールに称賛のシャワーを浴びせる。
こんな楽な仕事は今までになかった。 また偽のプロフィールをつくろうとしていると、ラザールの部屋から怒鳴り声が聞こえる。 ラザールがピーク22社の弁護士に向かって怒鳴り散らす中、ドワイトは縮みあがった。 弁護士は”ストーリーフック”の商標登録は無理だと主張している。 すでに多くの高校の教科書で説明されているコンセプトだ。 ラザールはその場で弁護士を解任した。 弁護士は必ず訴えてやると言うが、ラザールは気にしない。どうせ和解で終わるからだ。 いつだって和解で終わる。ラザールの金ではないし、後援者は彼の言いなりらしい。 これまでも多くの不当な解任を和解で済ませてきたのだ。 ローズがラザールをなだめようとするが、ラザールは口出しするな、と怒鳴り散らす。 ドワイトはローズを助けたい…しかし…これまでこんなに稼げる仕事はなかった。 ほとんど苦労もせずに稼げているのだ。 しかし…手はせわしなく動き、手のひらにじわりと汗がにじみ出てくる。 ラザールがローズに怒鳴り散らすのは耐えがたい。 ドワイトは机から飛び出し、ローズを助けることを想像する。 緊張のせいか尿意をもよおし、彼はトイレに向かって飛び出していくのであった。 |
+ | 記憶 2116 |
『知性の総合商社』。ラザールは社内に彼の自伝の題名を発表した。
冗談のようだ。それも悪い冗談だ。だが冗談ではなく、社員は裸の王様を笑わないように堪えている。 ”ストーリーフックの革命”で大勢の出資者を説得してから5年。ラザールは何も成し遂げていない。 広告キャンペーンの1件すら成功したことがないのだ。 最初はクライアントもいたが、ラザールは彼自身でコマーシャルの台本を書いて監督もやりたがり、すべてをめちゃくちゃにしてしまった。 ドワイトは笑うのを必死に我慢した。 ラザールがスピーチを終えると、ローズは拍手をする。 素晴らしい!革命的よ!成功の秘訣を公表するなんて、並の人間にはできないことだわ。 みんな彼女が皮肉を言っていることを理解している。ラザール以外は。 ナルシストとはそういうものだ。自分が本当に優秀であると信じ込んでいる。 ラザールはドワイトの方に目を向けると、こう聞く。ドウィッチ…君はどう思う? ドワイトは顔からさっと血の気が引くのを感じた。彼はローズの言ったことをオウムのように繰り返す。 素晴らしい!革命的だ!成功の秘訣を公表するなんて、並の人間ではない。 ラザールは微笑む。 大事なのはエゴではないのだよ、ドウィッチ。大事なのは社会性と無欲であることなんだ。 |
+ | 記憶 2117 |
ラザールはローズに当たり散らす。
『知性の合商社』の出版社が見つけられないからだ。 ピーク22社はこれといった功績もなく、ストーリーフックは革命的でもなんでもない。 出版社はラザールのことを馬窿にしている。 ただのストーリーを用いる手法のことをなぜ”ストーリーフック”なんて呼んでいるのだ? ストーリーのある広告。ストーリーフックのある広告。 口一ズはラザールをなだめ、自己出版を提案する。 ラザールはそれを聞いて怒鳴るのをやめた。 君の言うとおりだ!出版界は僕の先進的なアイデアについて来れないんだ。 ドワイトはため息をつく。ラザールの妄想は聞くに堪えない。ピーク社の業績は芳しくない。 ハラスメントの噂が絶えず、クライアントや社員の獲得に苦労している。 ラザールは雇用の問題の解決に策があると言う。 一流の社員を雇用するためにストーリーフックのキャンペーンを書き上げると言うのだ。何百人、何千人もの応募があるだろうというのだ。 ドワイトは理解できない。応募する理由なんてどこにあるんだ?ドワイトはこう思う。 ピーク22社は、ナルシストがやりたい放題をする場所を提供する以外に、いったい何を成し遂げられたのだろうか、と。 |
+ | 記憶 2118 |
ラザールはローズの噂を広めている。
ドワイトは彼女を慰めようとするが、それも無難だ。 彼女は言う。これはバターンなのだと。 いつものパターン。解雇する前に社員を非難し、破滅させるのだ。先に墫を広め、それを口実に社員を解雇する。 ドワイトはそれは大げさだ、と言ってみるがローズは首を振るばかりだ。 ラザールは困っている。1分間の広告キャンペーンにハリウッドの大作よりも大金をかけてしまった。 出資者たちは結果を求めている。彼にはスケープゴートが必要なのだ。会社の資金管理の不始末を押し付ける誰かが。 ドワイトには理解できない。ローズは説明する。 これはもう何度も繰り返されてきたことなのだと。 彼女の前任だった3名もラザールの行き過きた愚行のために昇進され、解雇されたのだと。 ラザールは間もなく出資者たちとのミーティングに臨む。 今年の生贊は彼女なのだと。 ドワイトは疑いの眼差しをローズに向けた。ローズは首を振る。 今にわかるわ。ラザールは浪費する。女性がその責任を負わされる。それがラザールの言う”雇用機会の均等”なのよ。 |
+ | 記憶 2119 |
全社ミーティングにて、ローズがラザールに命じられてストーリーフックの利点を説明する様子を、ドワイトは信じることができなかった。
ラザールはすべてのスライドでローズの説明を遮り、ついにはミーティングをキャンセルとしてしまった。 ローズの説明を始めて見るかのように演じている。ローズはストーリーフックを何も理解していないと言う。 誰もが彼女を気の毒に思いながらカフェテリアを後にした。 誰もストーリーフックがなんなのか理解できない、ただのストーリーなのに回りくどい言い方をするのは馬鹿らしい、と呟きながら。 ドワイトは理解できない。 ローズはラザールを打ち合わせをし、スライドの一枚一枚を確認していたからだ。ニ人が同意していたのも聞いていた。 ドワイトが声を掛けることができる前に、ローズはピーク22社から追い出されてしまった。 ドワイトは友人であり、シングルマザーである彼女が去って行くのを見送った。 ラザールの愚行のための、今年の生贄だ。 ラザールは資金を使い込み、友人がその責任を負わされた。 ミーティング自体が、彼女を全社員の前でこき下ろすために用意されたものだったのだ。 ラザールがドワイトに歩み寄る。 すまない、ドウィッチ。 ローズは君の上司だったことはわかるが、彼女には辞めてもらわないといけなかった。 我々の企業価値とは合わない人間だったんだ。 ドワイトはショックと恐怖のうちにラザールを見つめる。 耳を掴んでナルシストの頭から引きちぎってやりたかった。 しかし、ドワイトはただ頷き、世界に正義があってほしいと祈るだけだった。 |
+ | 記憶 2120 |
信じられないようなラザールのエピソードの数々にドワイトは耳を傾ける。
現実にあったホラーストーリーだ。時代錯誤な物語だ。 ラザールと共に働くという悲運に遭った者たちの毎年の”儀式”。 被害者たちはリークされたピーク22社の求人用ビデオを観るために集まっていた。 皆、ラザールの馬鹿げた言葉をマジックで書きなぐったピーク22社のシャツを着ている。 制作会社でラザールと一緒になった作家の女性は、ラザールが執筆した酷い物語をウェブ配信しようとしていた時のことを語る。 異星人のコンビューターが現実をシミュレートすることで、地球上の生物を配しようとする物語だ。 人気映画のテーマをそっくりそのまま使っていることは、誰もラザールに言わなかった。 彼女は熱弁するラザールを真似る。 今までなかったものだ。実にユニークだ。ホラーではない、SFでもない…これは恐怖そのものだ… これは…これは新たなジャンルだ…”シミュレーション・ホラー”だ。 ラザールは次に流行するジャンルを作り出したと信じていた。 作家はラザールが執筆した本を持ち出す。 『シミュレーション・ホラー』。彼の新たなジャンルを執筆する作家のためのガイドラインだ。 その場の全員が一斉に笶い出す。ドワイトは笑いすぎて腹が痛い。 ただのストーリーなのに”ストーリーフック"だなんて言い出す間抜けがいるだろうか? SFなのに”シミュレーション・ホラー”?裸の王様の工ビソードは夜通し語られる。 ドワイトは正義などないのだと確信した。 ピーク22社の元ストーリーフック・スーパバイザーはラザールが自分のことを”軟弱な男”と呼んだ時のことを語る。 「ストーリーフック」という言葉を使用したブロガーに嫌がらせをすることを拒んだからだ。 彼はまた、人をとても静かに、しかし馬鹿みたいに笑わせる無害な薬品のことを語った。 もしまだピーク22社で働いていたら、ラザールに飲ませてやるのに、と。 皆それに同調する。それは傑作だ。ドワイトもその作戦を気に入った。非常に。 正義というのは不思議な形で表れるものなのかもしれない。彼はマックスに問いかける。 その無害な薬品のこと、もっと詳しく教えてくれないか? |
+ | 記憶 2121 |
マックがドワイトに笑い薬を手渡す。
ラザールを小便が漏れるほど笑わせることができると。 ミーティング直前にコーヒーに混ぜてやれば、来年の”被害者の会”ではこれほどの”ストーリーフック”はないだろう。 ドワイトはにやりと笑う。心臓が跳ねているのを感じる。 ローズの仇は取ってやる。皆の仇だ。あの暴君に飼い犬に手を噛まれることもあるということを教えてやるのだ。 意を決し、同僚の一人にラザールの気を引くように頼む。 別の同僚が話を耳に挟み、懷疑的に首を振る。 上手くいくの?彼女はこの悪戯には同調せず、ドワイトに考え直すようにと忠告した。 私には子供が2人いるの。彼女は言う。ラザールがトリップして誰かに暴行した結果、出資者が手を引くなんてまっぴらよ。 ドワイトは笑う。 心配はない。最悪でもラザールがロバのような間抜け面を晒すだけだ、と。 ドワイトは顔を上げ、誰も怪我をするようなことにはならない、と彼女に約束する。 彼女の両肩に手を置き、理想のリーダーになったような気持ちになる。 何も悪いことなんて起きるはずはないさ。 |
+ | 記憶 471 |
大衆食堂のガヤガヤとした雑音の中からジュリ-に語りかける声が聞こえた。
君は画家なのかい?振り返ると、そこにはフランクがいた。 画家?まさか。つまらないオーモンドから逃れたくて落書きをしているだけ。 彼はスケッチを見つめる。ホットチョコレートの列に並んでいる自分を見つけたようだ。 これは僕かな?ジュリーは首元が急激に熱くなるのを感じる。 フランクがオーモンド出身でないことは、言われなくてもわかる。 彼は他の人とは違って見える。面白い。自由だ。”じゃじゃ馬”だ。 彼はジュリーの隣に座り、笑いながらモデルになることを提案する。 ニ人は長い聞、お互いを見つめ合った。 ジュリーは、解雇されたばかりの友人を元気づけるために自宅で開くパーティーに、この見知らぬ人を招待することにした。 ジョーイはなぜか定職に就けないのよ。笑いながら彼は言う。 ジョーイは…いたって普通なようだ。 人に1日8時間制のルーチンを受け入れさせるのに、どれほどの労力が費やされているかわかるかい?学校で受けているのは教育ではなく”洗脳”だ。 彼はそう続ける。もし本当に教育したいのなら…本当に教育したいのなら、主要な科目は哲学とクリティカル・シンキングであるはずだ。 ジョリーは笑いながら思う。友人たちもこの因習打破主義者を好きになるに違いない。 実際、彼女は好きになっている。 |
+ | 記憶 472 |
最初に会ってから、彼のことが頭から離れなかった。パーティーに来てほしいと願っている。
彼の主張が気になり、教育が腐敗して産業革命と釣り合っていないことについてのリサーチに数時間を費やした。 生産ラインのためのベルトコンベア式教育。 数百年もの間なにも変わっていないのだ。変わったのは製品たけ。 フランクがドラッグと酒を持参してやって来た。パーティーにはつきものだ。 ジュリーは彼を友のジョーイとスージーに紹介する。 夜通し好きな食べ物や、ホラー映画や、殺人鬼について語った。 ジュリーは連続殺人犯に関する豊冨な知識を披露し、フランクを驚かせる。 彼をベッドルームに招き入れると、有名な殺人鬼たちの写真や記事が貼られたスクラップブックを見せた。 ジュリーとフランクが殺人や暴力についての知を競う中、他の者たちは帰宅するか眠ってしまった。 勝負は”ソルジャー・オプ・メイへム”の逸話を被露したジュリーの勝利に終わった。 彼らは放棄された小屋を拠点とし、オーモンドの無防備な獲物に手をかけるのだ。 フランクはでたらめだ、と笑い飛はした。そんな事件は起きていないと断言できるほどにはオーモンドのことを知っている。 不景気で会社が倒産する程度のことしか起きていない。 ジュリーは笑う。このお話はね、フランキー。未来のお話なの。 マジックペンを手に取ると、彼の白いシャツに”ソルジャー・オプ・メイへム”と書く。 フランクはにやりと笑う。 アイデアは好きだ。でも名前がダサい。 ジュリーは肩をすくめる。まだ検討中よ。 |
+ | 記憶 473 |
ジュリーは、フランクといると生を実感する。それ以上だ。完全になったと感じる。
最初は因習打破主義者だと思ったが、すぐに彼はただ討論することを楽しんでいるだけだということに気付いた。 ジュリーと同じぐらい慣習に反論し、人を”解明”することを楽しんでいた。 ただの人ではない。彼は"醜い者"と呼んだ。 自分が正しくないと気が済まないような者たちをそう呼んだ。 いつだって自分が正しくないと気が済まない者たち。そういう人間こそ脆く崩れやすいものだ。 オーモンドはその類の人間に事欠けない。 醜い者。偉そうな成金や政治家たち。主張に反論すれば顔を真っ青にするような者たち。 ジュリーはフランクに目出し帽を手渡す。彼は怪訝な表情を彼女に向ける。 今夜はゲームをしましょう。車のエンブレムを多く盗んだ方が勝ち。 フランクはにやりと笑う。何かもらえるのかい? 彼女はフランクに近寄り囁く。勝者が望むもの、なんでも。 フランクは慌てて目出し帽を被り、雪の積もったオーモンドの街に飛び出していった。 |
+ | 記憶 474 |
愛情以上のもの。情熱以上のもの。ジュリーは、フランクのことを魂の繋がった片割れのように感じる。
彼女は一晩かけて、内に秘めた邪悪な欲望を打ち明けた。 街全体に火を放ったらどうなるかなんてことをしばしば考えていることを。 フランクは身を乗り出してこう言う。何でもしたいことをすればいいと。 本当に何を望んでいるかを知り、頭にそのイメージを浮かべる。 彼は世界を精神や感情で支配するなどと、麻薬中毒者のような理論を述べる。 願望が明確であるほど、そのイメージに集中するほど早く、世界を意のままに操ることができるのだと。 皆が長い間、フランクを見つめる。そして同時に吹き出した。皆で大金を手にするイメージを思い浮かべようと。 フランクは首を振る。金は、それだけでは死んでいる。金は世界を変えるここはできない。本物の情熱と感情が変えるのだと。 今の人生で、情熱を持って自分のやりたいことをやることを想像してみるんだ。明確な目標をもって集中すれば、世界が自分の意のままに動く。 皆はまた沈黙する。ジュリーはにやりと笑う。フランクは大まじめに頷く。 ジュリーは目を閉じ、友人たちとオーモンドを自分たちの遊び場にすることをイメージする。 そして彼女は目を開いた。 |
+ | 記憶 475 |
ジュリーとフランクは、古い放棄された小屋でジョーイとスージーを待っていた。
もちろん、この小屋でなければならない。オーモンドで唯一刺激的な場所だ。 ジュリーは小屋を見つめた。改修が必要ね。 ジョーイとスージーはいつも通りにオーモンドの獲物と戯れている。 間もなく2人は停止標識をいくつも抱えて来て、起こしてきた事故について笑った。 死者はいなかったが、何人かは重症だ。正確に言えば6人。いくつかその瞬間の写真も撮ってきた。 そしてジョーイは地元の工具店に就職したと話す。皆は、彼がまた辞めるまでどのぐらいかかるかを賭ける。 ジュリーは小屋を観察し、妙案を思いついた。壁にオーモンドの車から盗んだエンプレムを飾るのだ。 皆、それに賛成した。ジョーイは停止標識も飾りたいと言う。 ジョーイとスージーが起こした小さな交通事故から着想を得たジュリーは、チームに別の名前を思いつく。 ”マローダー・オプ・メイへム” フランクは首を振り、眉をひそめる。言いづらいよ。 ジョーイはそれに反論する。すごくいい名前だ。皆がスージーの意見を待つ。彼女は肩をくすめる。 フランクに同意よ…言いづらいわ。 |
+ | 記憶 476 |
ジュリーとスージーは工具店を訪れた。
ジョーイは急ぐように促す。10分もすれば店主が戻って来てしまう。 フランクは慌てるな、とジョーイをなだめる。彼らは小屋を改修するための用具をかき集める。 ペンキ。プラシ。マスク。 スノードームがフランクの目に留まる。 オーモンドがスノボードやスキー場への玄関ロとなって有名になった時の、初めて作られたものだ。 フランクは冷笑するが、そのスノードームも掴んだ。 ジュリーはジョーイを見つめ、肩をすくめた。お好きにどうぞ。 しかしそのスノードームでアイデアが浮かんだ。 個人的なプロジェクトのために、スノードームをいくつか手に取った。 |
+ | 記憶 477 |
小屋はもうすぐ完成する。最後の仕上げだ。フランクとスージーはそれを”調達”しに行っている。
トースター。フライパン。食器類。テレビ。PC。シーツ。秘密基地をもう少し居心地よくするためのものをなんでも。 ジュリーは残り、オーモンドのスノードームを暴力的なシーンに作り替えている。フランクが尋ねる。 一つもらってもいいかい? ジュリーは4人の棒人間が雪だるまに火をつけているドームを渡す。 彼は、本物の人間でやろう、と言う。ジュリーは憤慨する。 彼は細かいところまで見ていない。それは人間だ。 フランクはドームを注意深く観察すると、偽の雪に埋もれている棒人間を見つけた。ナイスだ。 |
+ | 記憶 478 |
ジュリーはとんでもない想像をする。
心の中の目で、友人と共に殺人を犯すことを想像する。 他のイメージは浮かばないし、確信めいたものがある。 初めての殺人のイメージとは違う…彼女自身が新聞の記事に登場しているイメージ。 連続殺人を起こし、オーモンドを再び活気のある街にするのだ。 電話が鳴り、はっとする。フランクからだ。 かれはオーモンド・マジェスティック・シアターに来てほしいと言う。 なぜ?何を上映しているの?彼は答えない。 彼女は中古のセダンに乗り込み、吹雪の中シアターに向かう。 フランクはうやうやしくドアを聞く。彼女をエスコートする。 ジョーイとスージーはシアターの傍らに立っている。空のガソリンの容器を持って。フランクはジュリーにマッチを手渡す。 さあ…名誉を果たすんだ。 彼女はマッチを擦る。力強く火が灯り、冷たい風に揺れる。火が消える前に、マッチをシアターに向けて放り投げる。 一瞬で視界を遮るような吹雪の中に巨大な炎が上がる。 彼女はフランクを見つめる。炎を見つめる。ジョーイとスージーを見つめる。 そして突拍子もない考えが頭を過ぎる。 フランクは正しいのだ。世界は彼女の意のままに動き出している。 |
+ | 記憶 479 |
ジョーイは小屋の中を歩き回り、チームの名前を提案している。
スージーはスーパーヒーローのようにコスチュームが必要だと思っている。 ジュリーは笑う。有名になりたいの? フランクは肩をすくめる。だめなのかい? ジュリーも肩をすくめる。つまらない窃盗と放火で有名になった人なんていないわ。もっと本格的なことをやらないと。 フランクは身を乗り出す。それはどういう意味だい?本格的なこと? ジュリーは押し黙る。何をイメージしているのか、何もイメージしていないのかがわからなくなる。 しかし…本で読むようなスリルを味わいたい。普通の人間以上のものでありたい。特別な存在。偉大な存在。 フランクは彼女に微笑みかけ、こう聞く。誰かを殺せると思うかい? ジュリーは少し考え、こう答える。できるわ。 フランクは懐疑的に眉を上げた。しばらくして、こう言う。僕はおそらく人を殺すことはできない。 ジュリーは彼をからかう。私のためだとしても? 彼は首を振る。君のためだとしてもだ。そして君は?僕のために誰かを殺せるのか? 彼女はフランクの嘘っぱちを繰り返す。できないわ。 フランクは笑い、ジュリーと同じように問う。 僕のためだとしても? あなたのためだとしてもだめよ。 |
+ | 記憶 480 |
賭けはフランクの勝ちだった。ジョーイは新しい職場で一月ももたなかったのだ。
店主は彼がチョコレートバーを盗んだと責め立て、ジョーイは苛立ちで小屋の中をせわしなく歩き回っている。 よりにもよって…チョコレートバーだと!盗んではいないと言う。なんという不名誉だ。 ジュリーは仕返しをすればいいと提案する。 店に侵入しよう!もっと品物を盗み出そう! 火を放ってオーモンドに"リージョン”の怒りを思い知らせるのよ。 ジョーイはその名を聞くとビタッと止まる。 フランクは興味ありげに眉を上げると、納得したように頷く。 いいね。すごくいいよ。 ジュリーはメンバーに一般的なマスクを投げ渡す。 普通。味気ない。退屈。後はちゃんとしたマスクがあれば、完璧ね。 |
+ | アーカス 2903 |
アーカイブで、リフトからとらえたいくつかの死に対して実験するために早起きをした。
テラ・728からの牛乳を少々飲んだ。 テラ・232のラジオ番組を視聴した。 ホラーストーリー、恐怖の物語。 ダンテの神曲、時獄篇の新説を読んだが… どこからか手に入れたかは忘れてしまった… 故郷のことを考え、ウィスキーを少し飲み、永遠とも思える時間の眠りについた。 |
+ | アーカス 437 |
テラ・917のウィスキーを2杯ほど飲み、いくつかの記憶で実験をして、それから眠りにつこう。
917からの魂の温もりは、いつも私を寝かしつけてくれる。 私は非常に残酷な状況に置かれてはいるが… オーリスがなければもっと悲惨な状況だっただろう。 ものを実体化、または作り出してそれを楽しむ能力なしでは。 これこそが”創造”のなのかもしれないと考えると不思議だ… 記憶の間を旅し、制限もなくその記憶からものを引き出すことができる。 暇つぶしになる。 それはもう、暇つぶしになるのだ。 |
+ | アーカス 8875 |
大腿動脈を切り製かれた生存者が逃げようとするのを見るのはいつだって興味深い。
ショックや心停止で死んでしまう前にかなりの距離を移動できる者もいる。 死んでしまったらお終いだとばかりに生命にしがみつくのだ。 あるいは、これこそがエンティティが生存者を蘇らせるたびに記憶を抹消する理由なのかもしれない。 死は現実であるという揺るがない信念こそが儀式に…経験に重みを与える。 そうでなければ生存者たちは死を簡単に受け入れてしまう。 逃げなくなる。感情がなくなる。 死への恐怖こそが生命の鼓動であり、死が現実であると言う信念こそがその経験に感情を与える。 別の言い方をすれば、エンティティはそれを餌としているのだ。 |
+ | アーカス 1118 |
沈熬ほど気が狂いそうになるものはない。
周りの黒い霧の果て無き海を見回すと、自分がどれだけちっぽけな存在で、 人間がどれほど取るに足らない存在なのかを思い知らされる。 すぐに恐怖と絶望に支配され、人間がなんと傲慢な生き物であるのかに気付かされる。 この宇宙に存在するものを定義し、説明しようとするなんて。 ほぼ解明できていると思っていた。 しかし現実は、上っ面をなでているだけだったのだ。 |
+ | アーカス 182 |
私はエンティティの世界で、故郷を思わせる構造物を見つけた。
テラ・ブリーマスからの他の者が、エンティティの中に置き去りにされたのかもしれない。 そのような生存者がいれは、この塔から、この地獄のような場所から抜け出す方法を知っているかもしれない。 私が知る限りでは…私たちの世界は、宇宙の神秘を解き明かし始めた多くの世界の内の一つだった。 惑星や太陽系は…そう…生きていると。 そのような発見は次元と次元の間の移動を可能とするパラダイムシフトへと繋がった。 我々はその時は究極の知識を手にしたと信じていた… だが実際にはどれだけその知識がちっぽけだったかを思い知らされただけだったのだ。 |
+ | アーカス 789 |
感情。情熱。好奇心。それらは火付け役だ。
創造を可能とする、言葉では言い表せない力。 それに対する感情がなければ何も実体化させることはできない。 議会はそれを理解できなかったためにオーリスを嘲笑ったのだ。 ウィスキーが回ってきたのかもしれないが… 芸術は思想だけで生み出されるものではない。 思想と感情の調和の結果生まれるのだ。 感情はすべてだ…感情こそが生命を生み出すために最も重要な要素 思想や意図を現実のものとするための燃料なのだ。 |
+ | アーカス 968 |
殺人鬼や生存者の儀式に残される奇妙な光る印は、リフトへの移動や調査を格段に容易にしてくれる。
誰かが私に呼び掛けているのだ。 工ンティティに干渉している。 トリックを用いて私の気を引いている。 私は独りではないことを教えてくれる。 エンティティで物を実体化させることができるのは、私だけではないと。 しかし、生ける次元と古の知識を手にしたのは、無限にあると思えるような数の世界の中でも少ないのだ。 |
+ | アーカス 571 |
霧の中に響く、胸をえぐられるような叫び声が眠りを妨ける。
寝床から出て、スラックスを履き、ウィスキーを持って屋上へ登り、 ゴルフボールをいくつか深淵の中へと打ち込んだ。 この虚無の中にアイアンやウッドでボールを打ち込むと、なぜか心が落ち着いてくる。 健康に良いとも言えよう。 数千はボールを打ち込んだだろうか。 ようやく叫び声がおさまり、その夜はお開きとすることができた。 |
+ | アーカス 572 |
誰かが玄関の前にゴルフボールいっぱいのバケツを置いて行った。
「史上最高のボール!」とメモが貼り付けてある。 じっくりと観寮すると、硬くなった眼球であることに気付いた。 化石化したような眼球だ。 失われた世界から集めて来たに違いない。 眼球が化石化するなんて知らなかった。 不謹慎ながらも、ゴルフボールにぴったりだなと思ってしまった。 もう一杯のゴルフボールをもらうのも悪くない。 これは謎めいた“友人”からの贈り物に違いないのだから。 |
+ | アーカス 7294 |
目が覚めると、血にまみれていた。
昨晩、何があったかは記憶にない。 鼻や顎から血が滴り落ちる。 額や頭皮に手を当てると、深く鋭く傷む傷があることに気付いた。 事故?自傷?霧の悪夢?深淵の化け物?わからなかった。 後になって、ベッドの傍に紫色の肉と内蔵の塊が落ちていることに気付いた。 それを片づけると、窓から深淵へと投げ捨てた。 元にいた場所へと帰してやったのだ。 |
+ | アーカス 129 |
ドアがノックされた音がした。
開けてみると、足元にウィスキーがあり、その瓶には招待状が貼り付けてあった。 私は跪き、招待状を確認した。 あなたはエンティティのバースデーバーティーに招待されました。 工ンティティに誕生日だって? 頭がおかしくなっているのか… 現実がわからなくなったのか… ここではそれすらも意味のないことではあるが… これは囚われた魂の悪戯なのだろうか? |
+ | アーカス 1256 |
エヴァンの新しい記憶をいくつか発見した。
それは彼の転落の理由を少しばかり解明するものだった。 自問していることは、儀式に連れて来られる前からエンティティが彼を蝕んでいたのか、 それとも彼の怨念と血の渇望は、その生い立ちから成ったものなのか、ということだ。 どちらにせよ、彼はもう権力者に従うようなことはないだろう。 その権力者が年老いていたとしても。 |
+ | アーカス 1723 |
ドワイトのことは気の毒に思う。
彼の行動は、必ず意図したこととはまったく逆の結果を生んでいるようにすら思える。 暴君から同僚たちを救おうとした結果、会社自体を潰して全員を以前より不幸にすることになった。 確かに、ナルシストの飲み物に薬を盛って、醜態を晒すのを見物する価値はあったのかもしれない。 ナルシストとの関りに苦悩する生存者たちの記情を覗いた結果、私はナルシストへの対処は3つの方法しかないと結論付けた。 放っておくこと。逃げ出すこと。それか…破滅させること。 だが気をつけなければならない。 ナルシストが破滅する時は、皆を道連れにするのだ。 |