概説
神秘体験(Mystical Experience)とは、一般的な理論・認識の範囲外に超越し、通常起こり得ない現象を自分の身をもって経験する事である。神秘体験として、神や普遍精神、
宇宙意識との接触または融合、ワンネスの感覚、通常の理解を超越した真理の獲得などが挙げられ、その範囲は広い。なお、神秘体験は(言語を超えたものであるが故に)語り得ない(言葉にできない)という事もしばしば指摘され、神秘体験を語る事はある意味で矛盾でもあると言える。
ウィリアム・ジェームズは宗教における本質的に重要な体験として神秘体験を分析し、その特徴・基準として、言葉で表現できない、物事の本質の把握、一時性、受動性を挙げていおり、その中には含まれていないが至福、万物との一体化の感覚にも言及している。ウォルター・ステイスは、神秘体験が必ずしも宗教とは結びつかない現象で、直接的かつ主観的な体験であり、その要素を全てを包み込む永遠の命、平穏と至福、喜びといった肯定的感情、本質的な真実に触れた感覚(神と表現されることもある)と纏めている。また、宗教学者の岸本英夫は神秘体験を「知をも情をも越えた、特異で純粋な体験」と記述し、柳澤桂子は岸本英夫の説に触れながら、神秘体験の共通の特徴として、「特異な直観性」「実体感、すなわち無限の大きさと力を持った何者かと、直接に触れたとでも形容すべき意識」「歓喜高揚感」「表現の困難」といった特徴がある事を挙げている。
ウォルター・ステイスは、神秘体験を外向的神秘体験と内向的神秘体験とに分類している。外向的神秘体験とはヤコブ・ベーメの神秘体験のように、五感を通して受け取った日常的な出来事や芸術、音楽、自然などが覚醒した意識の中で変容し、宇宙万物と融合していく体験である。一方、内向的神秘体験は、アラン・スミスの神秘体験のように、自我が瞬間的に消滅し、変容して戻ってくる体験である。その体験の中で、(ブラフマン、森羅万象、宇宙、ゾクチェン〈大究竟〉、道〈タオ〉、アラー、神など捉え方は様々だが)他者との区別は消失し、全ての存在と一つになる感覚が生まれるという。
また、河原道三は、神秘体験を健康な状態のときに突然発現する
神秘体験Aと、精神的肉体的に過度に疲労した状態、救いのない絶望的な心的状態を維持し続けた時に発現する悩み体験である
神秘体験Bとに分類している。
神秘体験の発生
1975年にローマカトリック教会の司祭であり、社会学者のアンドリュー・グリーリーは1460名を対象に神秘体験の発生に関する調査を行い、「霊的な大きい力に近づき自分から解き放たれるような感覚をあじわったことがあるか」という質問に対し、35パーセントの人々が肯定的に答えたといい、数年後の追跡調査の結果、全体の1パーセントの人々が神秘体験を得ていたことが判明している。
神秘体験の媒介
神秘体験がどのようにして起こるかは謎に包まれていると言え、それを惹起すると考えられるものも多様であるが、以下のようなものが知られる。
1 祈りや瞑想といった、スピリチュアルな修練
2
臨死体験
3 呪術的な儀式
4 断食
5 睡眠遮断
6 LSDなどの向精神薬
LSDやDMT、シロシビンといった物質が神秘体験のような体験を引き起こす事が知られるようになり、心理学者や精神医学者らにより様々な実験が行われている。アマゾンの先住民によって宗教儀礼の際に使われる御茶であるアヤワスカにはDMTが含まれ、蛭川立は、アマゾンで行われたアヤワスカの儀礼に参加している。そして、色とりどりの幾何学模様が明滅し回転し展開するのを見たり、人生の中で自分の傲慢さを象徴する行為がヴィジョンになって現れては消えたり、黄金色の眩い光に満たされた空間(天国)に連れていかれたりし、最後には抽象的な空間だけが残された徹底的に静かな闇の世界を体験したという。
宗教経験
歴史的には夥しい数の神秘体験が語られ、また論じられてきたといえるが、その主流はウィリアム・ジェームズを始め、宗教的経験の一環に神秘体験を位置づけるものであったといえる。宇宙の真理や世界の在り方の感得は宗教の基本であり、「絶対者」や「神的あるいは究極的実在」は無数の宗教の教義に共通してみられる中核的要素であり、そのような意味で神秘体験は宗教の始原または究極である。山折哲雄も、親鸞の最晩年の「自然法爾」という言葉を持ち出し、宗教的言語はそれぞれの宗教のそれぞれの自己主張を非常に際立たせるものの、そのような宗教的意識の深化という点で考えていくと、その奥の何者とも分からないものとの合一を求める体験を神秘体験としている。
また、個人的自己の放棄を宗教経験が成立する重要な条件と見ている
本山博は、宗教経験とは、「人間がより大いなるあるものと融合、合一する事であり、両者が絶対の一となるところにその究極がある。しこうして両者が合一融合するときに生ずる、あるいは現われる意識が宗教意識である」と定義している。また、宗教体験について、絶対者としての神と一致、あるいは繋がり、宇宙がどのようなものであるか、または人間がどういうものかという事や、霊の世界とこの世との繋がりを根本的に理解するといった事を指摘している。そして、宗教経験は多くの次元をもつとし、本山は宗教経験について、カルマの世界から抜け出ていない心霊(アストラル)次元やカラーナ次元、そして物の原理の支配を抜け出てカルマの世界を解脱した神々の世界(プルシャの世界)に分類している。
神秘体験の解釈
神秘体験の解釈、意味付けについてもそれを真正で現実の体験とみるか、一時的な幻覚や錯誤、精神疾患の一兆候とみなすかなど解釈は分かれる。実際、薬物投与により様々な神秘体験が起こる事が知られ、脳内で分泌されるエンドルフィンなどの化学物質などにより神秘体験を説明しようとする人もいる。しかし、森岡正博はそのような科学主義的立場では恋愛も感動も脳のプロセスという事になると述べ、その意味や価値は原因や背景の詮索ではなく体験の直接的な感得によって見出されると言えるかもしれない。
脳画像の専門家であるアンドリュー・ニューバーグは神経学の観点から、宗教体験を解き明かそうとし、深い祈りを込めた瞑想は上頭頂葉後部の活動を低下させ、血流を減少させていたと言い、瞑想時に前頭葉と側頭葉が活性化している事も明らかになったという。しかし、神と一つになったと主張するとき、そのことを客観的に立証したり否定したりする事はできないとも述べている。また、フィリス・アトウォーターは脳と心の集合体内部の相互関係として、左脳、右脳、辺縁系について纏めており、辺縁系は神秘的な理解(認知)や自己を越えた領域への収斂(より大きな知性の流れとの合一)に関わっていると指摘しているが、辺縁系が認識の超意識的、共感覚的な面への関門であり案内役であると指摘するに留めている。このように、
臨死体験や宗教体験に関与する脳の領域を特定できたとして、その体験が客観的な現実か否かが明らかになるわけではなく、この事は現実そのものについて科学的・客観的に論じる事の難しさに通じている。
また、電磁波が脳に与える影響の研究をしたカナダのマイケル・パーシンガーは、側頭葉に神秘体験の座があると主張している。この主張を元に、パーシンガーの同僚であるスタンリー・コレンは側頭葉に弱い電気刺激を与える事で人為的に霊的体験を引き起こすコレン・ヘルメット(ゴッド・ヘルメット)を開発した。また、古代ギリシャ人も癲癇発作を神からの啓示と信じ、癲癇は「聖なる病」と呼ばれてきた。このような事から、側頭葉と神秘体験の間に何らかの関係がある事は否定できない。しかし、シカゴ大学の神経学者で癲癇治療の権威であるジョン・ヒューズが側頭葉癲癇のもつ症状は、神秘体験のもつ様々な要素とはマッチしないとも述べていたり、ゴッド・ヘルメットが発する磁場と体験の間に関係はないとする報告もあったり、パーシンガーの被験者たちが経験したものは実際の霊的経験からは程遠いといった意見もあったりするため、現段階では、
臨死体験と同様に神秘体験を側頭葉への刺激に還元して説明できるわけでないと言える。
マリオ・ボーリガードは、少なくとも一度は「神との深い融合を経験した」という15名の修道女をケベック周辺から集め、彼女らに過去の神秘体験を追体験してもらったところ、側頭葉以外にも、知覚や肯定的感情、空間知覚、そして自己意識などに関与する幾つかの脳領域に活性化が見られたと言い、ボーリガードは側頭葉にぽつんと「神のスポット」や「神モジュール」が存在しているわけではない事を主張している。また、ボーリガードは、脳画像研究では高次の力を立証も反証もできないという立場であり、実験の意味についても神秘体験を脳の誤作動が生み出す幻想に過ぎないと断じるものではなく、神秘的意識状態における脳の働きを調べるものとして捉えているようである。
マリオ・ボーリガードは全ての存在と一つになる感覚が生まれる内向的神秘体験は、人は脳や肉体に閉じ込められた互いに別々の存在という唯物論的世界観では推し量る事の出来ない重要なものを教えてくれると述べている。また、神秘体験時の身体感覚の喪失感や
臨死体験との共通性などの点から、大門正幸も神秘体験を脳濾過装置理論によって説明されるべき現象であると指摘している。本山博も人間は物理的次元の身体や心で終わるものでなく、神にも到る魂の無限の可能性をもつ事を指摘している。神秘体験のもつ特徴として、肉体そして自我、時間や空間の概念といった日常的な境界を越えて起こる意識の拡張が含まれるため、脳の電気的活動や科学的活性と神秘体験の間に対応関係、相関関係がある事を示す研究成果も
臨死体験の脳内現象説に限界がある事と同様に、その因果関係の内実を説明しているものではない以上、脳還元論ではなく脳濾過装置理論によって合理的に説明され得る可能性はある。
量子力学モデル
河原道三は、人間の心の神秘的な挙動、神秘体験Aは、この量子力学モデルを使用すると、よりよく説明できるのではないかと考えている。そして、「内的エネルギーの高密度の蓄積状態」「魂の突然の跳躍」「諸能力の停止状態の下で見る光」「通常の精神状態にもどるときに湧き上がる喜悦の感情」「従前の状態」という神秘体験において5段階に分けられる一定のパターンは、ミクロの世界の原子内部の電子の挙動と極めて良く似ている事を指摘している。励起状態に飛び上がった電子が基底状態に戻るとき電磁波を放出するように、励起状態にいったん上がった心はその落下のときに喜悦の感情を放出するという神秘体験Aで類似パターンとして作成した量子力学モデルを拡大延長させ、
神秘体験Bの場合は、マイナスの励起状態に落ち込む時に甚だしい苦痛、魂が絞りあげられるような苦痛が生じ、心がマイナスの励起状態からマイナスの基底状態に戻る時には、苦痛を感じないといった事を指摘している。
臨死体験との関連
前述の身体感覚の喪失感や霊妙な快感、至福感等の点などにおいて神秘体験と臨死体験と共通点が多いと言え、心理学的に言えばアブラハム・マズローが言う
至高経験にも重なる所があると言える。橘隆志は、宗教の核になる要素は宇宙と自分、自然と自分という軸の中で出てくる宗教意識であり、現代における新たな宗教的意識体験として、宇宙飛行士の宇宙との合一体験や臨死体験の中で得た「ニルヴァーナ」体験を一種の神秘体験として位置付けている。河原道三も神秘体験だけが人間の心に生じる超常現象ではない事を示唆しており、
臨死体験も意識の上に生じる「常とは異なる」現象である事から超常現象と定義してもおかしくないとしている。
また、神秘体験を経験した人々は、人生との向き合い方や歩み方を変容させる事が非常に多い事が分かっており、世界観や信念、価値観、人間関係、自己意識などが変わるという。このような意識の変容もまた
臨死体験の事後効果として起こる意識の変容と重なると言える。また、神秘体験を経て人生に新たな目的や新たな意味を見出す人人々も多いと言え、神秘体験を経験した事のない人と比べ、健康な精神を持ち、より強い多幸感をもち、日々の問題についても全く新しい視点をもち、困難や苦難に対する被害者意識を感じる事もなくなるという。このような事から、サム・パーニアも
臨死体験とそれをめぐる論争や研究は、多くの点で、宗教体験についてのそれに似ているように思われると指摘しており、
臨死体験をよりよく理解するには、宗教体験を理解する必要があるとしている。
最終更新:2024年04月28日 23:38