臨死体験における無時間性・超時間性
臨死体験時に垣間見られるリアリティの性質として、「時間と空間が存在しない」ということがしばしば語られる。そして、そのような性質は重層的で、肉体を離れる感覚とともに時間の感覚が変化または消失する、一定で一方向への時間の流れがなくなるといった事から、静止した時間の中で全てが同時に起こっているように感じられるといった事や、
「光の世界」の中に入り、全知全能感や非局在性、全一性、永遠などを感じている臨死体験者もいる。いずれにしても、無時間性、超時間性は
臨死体験における
人生回顧や
光の世界といった要素で顕著にみられる性質であると言える。
ケネス・リングの調査によれば、
臨死体験の多くの事例に共通するコア体験をした人のうち、合計で73パーセントが時間が拡大するか、なくなるかしたと答え、65パーセントが時間の感覚がなくなったと答えており、空間についても、22パーセントがなかったと答えている
『かいまみた死後の世界』によると人の言語は時制を伴うものであるから、「多くの人が霊的肉体に宿っている間のできごとを説明するには、時制を伴うことばを用いるしかないが、霊的肉体に宿っているときは物理的肉体に収まっているときとは異り、時間的要素は決して重要ではないと言っている。」とあり、時制が意味をなさなくなったことが関係していると考えられる。以下では、肉体を離れる感覚とともに時間の感覚が変化または消失したという事例を挙げる。
ムーディが紹介した体験談の中で、時間の感覚の変化が窺える事例として以下のような証言がある。
車が道から飛び出した時、「事故を起こしてしまった」と心の中で言いました。その時点で、わたしは時間の感覚を失い、肉体の物理的実存感を失ったのです。この時、時間は停止しているようでした。自動車事故の間、最初から最後まで、あらゆるものがすごい速度で動いていたのに、事故の狭間とでもいうのでしょうか わたしの生命が頭上に浮いていて、車が土手を飛び越える その瞬間に限って、ずいぶん時間がかかったような感じがしました。
五分か十分くらいは肉体を離れていたように思いますが、時間的経過はこの体験には何の関係もありませんでした。事実、あの体験を実際の時間と結びつけて考えたかどうかさえも覚えていません。
ああいう状態では時間は正確にはわかりませんよ。もしかするとほんの一瞬だったのかもしれないし
時間を測るものさしがありませんでしたね。一分だったのか、五分だったのか、それとも一〇時間だったのか全く見当もつかないんです
立花隆『臨死体験 上』の中では、フィンランドの女性医師、ラウニ・リーナ・ルーカネン・キルデを取材したときの言葉が以下のように記されている。
―この体験は、時間的にはどのくらい持続していたんですか。体外離脱、トンネル、光、真珠の場面など、それぞれどれくらいつづいたんですか。
「体験中は時間の感覚というのが全然ありません。長時間でもなく、短時間でもない。要するに時間というものがないんです」
―すると、永遠の中にいるという感じ?
「永遠というか、永遠に今が続いているというか。とにかく時間という次元がないんです。時間という概念が消えてなくなってしまっている。ですから、時間というのは、人間が作ったものなのではないかという気がしました」
このようなキルデの発言について、高橋清隆は、この世から旅立ってみると、時間や空間がある世界の方が異質とされるようで、時間と空間は、学びのために用意された虚構と言えるのかもしれないといった事や私達が抱いているような物質の観念は幻想のようであると指摘している。さらに、橘は3度の
臨死体験をしているフィリス・アトウォーターが自殺による3度目の
臨死体験で現代宇宙論が教える星の誕生のプロセスとよく似たサイクロンのイメージを見た際に、「そこでは、空間とか時間の感覚が一切ありません。時空をはなれて無限と永遠の中にいるのです。そして、宇宙全体が大きく息を吸ったり吐いたりしているように感じました。」と述べている事も紹介している。
他にも、肉体の実存感を失うと、時間や空間というものがなくなるという証言は多く、斎藤忠資はそのような証言を多く紹介しているが、2006年に臨死体験をしたアニータ・ムアジャーニも自身の
臨死体験における無時間性について以下のように詳述している。
私たちは、〝時間が過ぎる〟と思っていますが、臨死体験をしている時には、時間はただ存在していて、自分が時間の中を移動しているように感じられました。時間のあらゆる点が同時に存在するだけでなく、向こう側の世界では、私たちは、速く進んだり、遅く進んだりすることができ、さらに、後ろにも、横にも動けるのです。
…(中略)…
時間も、空間も、物質も、私たちが通常考えているようには存在しないのだとわかったのです。臨死体験の中で、過去でも未来でも、意識を集中すればどこにでも行ける感じがしました。
臨死体験における無時間性は、
光の世界と関連付けて語られることも多く、鈴木秀子は「ここにはもう時は存在しない。すでに時はなく、永遠である。」と述べている。また、カウンセラーである
飯田史彦も2005年12月脳出血手術時に
臨死体験をしており、彼もまた光の世界に時間が存在しないという事を女性との対話の中で次のように語っている。
そう、死んで「光の世界」に戻ると、この世で言うような、直線的に進む時間の流れからは、解放されるんです。私自身、八年前に脳出血で臨死体験をした際に、「時間のない感覚」というのを、はっきりと経験したので、よくわかるんです。
…(中略)…
直線的に進む時間から解放されるということは、光の世界では、「過去」も「未来」も存在しない、ということです。
臨死体験に見られる全知全能感
前出のアニータ・ムアジャーニは、「肉体の五感の制約がなくなれば、私が直接かかわる時間と空間のすべての点が同時に分かる。」と述べているが、
『続 かいまみた死後の世界』でも、
臨死体験の際に、過去、現在、未来に及ぶあらゆる知識が時間に関わりなく同時に存在しているように思える存在領域に入ったと報告した人が居たことが触れられている。そして、
臨死体験における全知全能感について次にように触れられている。
突然、あらゆる全知識-この世の初めから未来永劫に続く全知識-を掌握したように思えました。一瞬にして、全時代のあらゆる秘密、宇宙、星や月、ありとあらゆるものの持つ意味を悟ったのです。…(中略)…うまく説明できませんが、「すべてが目の前に開かれるだろう」という聖書の一節のとおりでした。一瞬、あらゆることが解明されました。それがどのくらいの長さだったかは分かりません。いずれにしても、この世の時間ではないのですから。
臨死体験の際に、過去、現在、未来に及ぶあらゆる知識が時間に関わりなく同時に存在しているように思えるといった報告からは「神の無限の記録または図書館」という意味で用いられる近代神智学の概念であるアカシックレコード(阿迦奢年代記)というものに通じる部分があるようにも思える。それをある種の時空連続体の在り方として捉え、
臨死体験の際に、そのような構造領域にアクセスしたと捉えることも可能だと思われる。アカシックレコードという概念は、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識といった概念に通じる部分があり、ユングは、
『自伝』の「死後の生命」と題する随筆の中で、人間の精神の少なくとも一部は、空間と時間の法則から解き放たれていると書いている。ユングは、世界を理解するにはもう一つの別の次元を知る必要があるといい、「我々は、世界とその時間、空間、因果が、その背後または下にある別の秩序体系と関係している、という事実に直面する。そこでは『ここ、そこ』とか、『まだ、もう』といった事が何の重要性も持たない。」と指摘している。
ハンガリーの哲学者で一般進化理論の創始者である
アーヴィン・ラズロの考える宇宙には
ゼロ・ポイント・フィールドと呼ばれる無の世界があり、それは無であると同時に、宇宙の全ての情報を含むアカシックレコードであるという。ラズロは、臨死体験者が一瞬にして悟りを開けた、生命や宇宙の仕組みが理解できたと語っている事に注目し、臨死体験者の意識がそのような無の世界に行ったり、アカシックレコードにアクセスしたりしていたと捉えている。
臨死体験者における非局在性・全一性
木内鶴彦の臨死体験
臨死体験中に意識体の状態で、未来の場面を目撃したとする人物として、彗星探索家の木内鶴彦がいる。木内は1976年、22歳の時に背骨と動脈の間に十二指腸が挟まって腸閉塞を起こすという病気になり、
臨死体験をした。その際、洞穴やトンネル、既に亡くなっていた親類との出会い、光などの一般的な
臨死体験に見られる要素を経験した後、意識の状態で、過去や未来を自由に行き来し、宇宙の始まりや地球の歴史、歴史上の事件も見てきたと主張している。木内の話について、真偽がはっきりしない部分もあるが、時空を超越した意識状態については、以下のように述べられている。
私が意識だけの存在になってから感じていたものに、「私」という個の意識を取り込む膨大な意識の存在というものがありました。私がその存在に気づいたのは、時空を移動できるようになって間もなくのことです。
最初に感じた違和感は、急に頭がよくなってきているような感覚でした。自分が学んだり体験したこと以外の知識が自分の記憶として存在するようになってきたのです。人類の歴史やさまざまなことが自分の記憶として読みとることができるようになっていました。わからないことが何もない、とてつもなく天才になったような気分でした。
これまで自分が生まれ育ってきた間に経験した記憶を「個の意識」というならば、その膨大な意識は、宇宙のすべてが誕生してから今までに経験した記憶といえるのかもしれません。その膨大な意識が、個の意識を包み込み同化していくのです。
それは、すべてが自分であるという何とも不思議な感覚でした。その感覚にどっぷり浸かってしまうと、自分という個が見えなくなっていってしまいます。ですから私は、「意識」としてさまざまな世界を旅している間中、膨大な意識の中から「木内鶴彦」という個の意識をたどり、それをしっかりと保つよう努力しなければなりませんでした。
私は、このときの体験を人に話すとき、過去や未来を旅したという言い方をしますが、正確には旅をしたのではなく、個という意識をベースにして膨大な意識の記憶をなぞったということになるのかもしれません。
…(中略)…
私が想像していた「死」、つまり無の世界は、膨大な意識の世界でした。ここに取り込まれると、自分は宇宙そのものの一部になってしまい、個の意識を維持することが難しくなってしまうのです。
蘇生してから、私はこのときの感覚をどう説明したら、人にわかってもらえるだろうかといろいろ考えてきました。そしていちばん近いと思われるものが、スーパーコンピュータのシステムでした。
高木善之の臨死体験
木内と似た
臨死体験をした人物として、NGO「地球村」代表の高木善之がいる。1981年にオートバイ事故にあい
臨死体験をした高木も地球の未来を見たという。高木は暗黒の宇宙の中で美しく輝く地球を見た後、光の世界に入ったと言うが、その様子を
『転生と地球』の第3楽章 記憶を辿る/光の世界(108~112頁)中で、次のように表現している。
●あるのは意識だけ
ここには意識だけがある。
ちょうど暗闇の中で考えているような感じ。
自分の身体は無く、ただ意識だけがある。
自分の意識とは別にもう一つ巨大な意識がある。
その意識はすべての意識の集合体のようなもので、全体意識と呼んでもいい。
自分はこの全体意識の一部なのだ。
全体意識にはすべてがある。
全体意識には過去現在未来のすべての出来事、すべての記憶がある。
過去の記憶、現在の出来事だけでなく未来の記憶もある。
たとえるならば、私はスーパーコンピュータに接続されたパソコンのように、知りたいことは何でも知ることができる。
むしろ、全体意識の中に(自意識)があると言ってもいい。
●時間は存在しない
ここには過去現在未来という時間の流れも無い。
たとえるならば、すべて現在である。
時間は意識の中に認識としてだけ存在する。
光の世界はゼロ次元である。
ゼロ次元というのは空間も時間も無いという意味である。
光の世界には何も無い。あるのは意識だけである。
●この世とつながっている
光の世界はゼロ次元。ゼロ次元はすべての次元に含まれている。
光の世界はこの世のすべての場所、すべての時間に存在する。
光の世界はこの世とつながり、この世のすべてを含んでいる。
●過去現在未来は一つのもの。
過去現在未来はなく、すべてが現在である。
つまり、過去現在未来は一つにつながったものである。
たとえるならば、曼荼羅の絵のようなもの。
過去現在未来は同時にすべてを認識することができる。
●未来が見える
未来は同時にたくさん存在する。
可能性の高い未来ははっきりと見え、可能性の低い未来はぼんやりと見える。
最もはっきり見えるものが最も可能性が高いもの。
たとえるならば風景のようなもの。
真正面にははっきりした景色が見え、左右にはぼんやりした遠景が見える。
真正面に大きな道が続き、前方にいくつかの大きな分かれ道とたくさんの小さな脇道があり、このまま進めば真正面の未来が実現し、別れ道や脇道にそれれば左右の未来に到達することができる。
真正面に見える未来が最も実現可能性が高いもの。
現在過去未来はこの道とこの風景にすべて表されている。
前には未来が、後ろには過去が。
つまり、どの現在からも過去現在未来は一つの風景として見ることができる。
高木の
臨死体験は、宇宙の全一性という感覚、宇宙との一体感を伴っている点も興味深い。過去現在未来のすべての出来事、すべての記憶がある全体意識だけがある
光の世界において、地球の未来を見たという証言は、個という意識が膨大な意識の記憶をなぞったと表現する木内の体験と同質のものであると考えられる。なお、全ての記憶がある全体意識は、アカシックレコードを彷彿とさせるが、木内もそれがスーパーコンピュータのシステムに近いと表現している点で高木の証言と一致している。なお、
英紙「Express」でも似たような臨死体験者の体験談が紹介され、40代になる女性マッヘは5歳の頃、高熱を出し、
臨死体験をした際に、「宇宙との融合を果たした」と述べており、「そこには通常の意味での過去も現在も未来も無く、全ての出来事が現在に生起していました。宇宙とひとつになった感覚でした。その時は宇宙の全てを知っていました」と超時間性について述べている。
現代物理学から考える非局在性・全一性
上述のような臨死体験における全知全能感や非局在性、全一性は、時間と空間の隔たり(制約)を超えて、すべての事象が同時にいまここでおこるという「超意識状態」と言える。斎藤忠資は、そのような意識状態について、四次元空間ないし五次元界モデルや、現代量子物理学のからみあい(非局在性)と関連付けて捉えている。
四次元時空
まず、次元の問題について
臨死体験には、常識からは考えられない意識の変容状態による
超感覚(ESP)が見られるが、斎藤は四次元空間を想定すれば解明出来るものもあると主張している。また、橘隆志も相対性理論と四次元時空を持ち出して、未来予知があり得るとするケネス・リングの主張もある程度は正しいと言い、未来予知は常識としてはあり得ないが、あり得るとする物理理論も確かに存在する事は存在すると述べている。
現代物理学の時間・空間論はアインシュタインの相対性理論を基礎としており、時間と空間は単独の実在ではなく、統合された「時空連続体」を形成することをミンコフスキーは主張している。そして、この時空連続体では時間も空間と同様に見渡すことができるようになるという観点から
「ブロック宇宙(block universe)」という自然観が提唱された。この時空連続体では、過去・現在・未来と言う時間の区別は、意識によって作り出されたものであって、過去・現在・未来の全事象は、人間が知覚する以前から予め存在している事になる。確かに、「通常の意味での過去も現在も未来も無く、全ての出来事が現在に生起している」という臨死体験者の証言は、ブロック宇宙にも妥当する部分もあると言え、J.スラヴィンスキーは、
臨死体験の時には人間の意識が時間と空間の制約のない四次元連続体の中に移行していると推定している。そして、この点について、斎藤は、「未来予知」についても四次元空間から三次元空間を上から
鳥瞰するように見る (bird's eye view)という表現を用いて説明しようとしている。また、四次元空間から三次元空間を360度の全方位を見ることが可能であるという事から、
臨死体験時に360度の全方位を見ることができるという事を説明できるとしている。
五次元界モデル
さらに、斎藤忠資は、四次元時空連続体を超える仕方で五次元目の世界が存在するとすれば、臨死体験にみられる通常ではあり得ない現象も説明できることを考察している。
四次元時空連続体では時間は空間化されているので、時間には過去・現在・未来という区別は空間上の区別として存在するが、五次元界の知覚体の目から見ると過去と現在と未来の出来事がすべて同時に一望できるという点で、空間の制約(距離による分離)を超えており、
臨死体験者の証言により良く当てはまると言える。また、五次元界は四次元時空をも超越しているので、我々の側からは知覚できないという事も説明できるという。
量子の非局在性、光の非局在性
臨死体験の中には、時間の分離(過去・現在・未来)がなく、全てが現在となるといった事例がある事は前記の通りであるが、斎藤忠資は、このような特徴は量子と光の特徴とも共通していると考えている。
コペンハーゲン解釈によれば、宇宙の万物や宇宙で起こる様々な出来事は、全て潜在的に確率的な波として存在しており、観察すると突然、実質的な存在になるという。岸根卓郎は、(そのような
臨死体験を想定しているかは明らかではないが)エネルギーの最小単位としてクオークは、波動の形で宇宙に充満しており、そのクオークを意識と仮定し、
臨死体験には脳という制限から解かれた意識が、確率的な波動として全宇宙へ潜在的に瀰漫する存在になったとして、説明することができる側面があるかもしれない。
しかし、
臨死体験者によれば、死という明確な境界をもって、スイッチが切れたかのように、意識が脳の制限から解かれて時間的、空間的に無限定な存在になるというものではなく、物理的な目を介して見ていないはずの体外離脱体験者でさえ、天井の下やベッドの横などと言った特定の視点からの眺めを報告しているし、心の安らぎや死者との再会や光の存在との出会いなどについてはこのような枠組みから説明するのは困難である。それ故、
臨死体験における意識の非局在性という側面は良く説明できたとしても、
臨死体験の全てを説明する上では慎重にならねばならないだろう。
ホログラフィー的説明
ホログラフィーは、写真の1つの方法であり、対象から撒き散らされる光の波動が写真乾板に干渉パターンとして記録される。その後、干渉パターンはレーザー光線で照らされると特定の色の三次元の映像として再現され、それがホログラムである。神経外科医のカール・プリブラムは、脳自体は、干渉パターンを数学的に分析することによってホログラフィー的に機能するといい、そこから私たちが馴染んでいる近く世界に変換されるという。そのため、一次的な現実は周波数だけで構成されると言われ、
周波数領域では時間や空間は消失し、全ての事は同時に起こる事になる。この事から、ケネス・リングは、
臨死体験が、
時間や空間が通常持っているような意味を失って、新しい秩序に基づいた周波数領域に導く経験の1つであると仮定している。また、マイケル・タルボットも
臨死体験が人間の心の願望や思念が生み出すホログラフィックなものであると見ており、斎藤忠資も
臨死体験はホログラムの原理によって生み出された世界であると指摘している。
(以下は管理者の見解)
量子論はある面で、仏教や神秘主義に通じるという意見もあり、科学と神秘主義のつながりは、一般の人々の間でも議論されている。ブライアン・ジョセフソンも指摘しているように、科学の発見した財産と非常に上手く結びつくものがいくつかあるが、科学と神秘主義を結び付けようとする事は時として牽強付会をする事となりかねないので、慎重にならなければならない。この事は、
臨死体験についても言え、現代物理学と非常に上手く結びつくという可能性はあるが、
臨死体験には科学によって説明する事のできない奥深い部分もあると言え、それらを無理矢理、科学の範疇で説明する事はカテゴリー・エラーという事になるだろう。また、ホログラフィー的説明についても、
人生回顧などホログラフィーとの類似性から見出される事実がある事は否定できないが、それは飽くまで立体的な写真を撮ったり見たりするための技術の1つであり、たたみ込みを説明するための比喩に過ぎず、その原理がそのまま現実に当てはまるとは限らないことを忘れてはならない。
しかし、現代物理学の理論やモデルが東洋の神秘思想の観点と完全に調和した内的矛盾のない世界観に通じる事を指摘している
フリッチョフ・カプラは、
『タオ自然学』において、東洋の思想家の普通の意識とは違った意識状態の次元が、相対論でいう次元と同じとは限らないが、相対論でいう「空間」「時間」の概念と極めて良く似た概念に神秘思想家を導いたことは、まさに驚きだと述べている。さらに今日では永久主義的な静的宇宙論が正しいと主張する哲学者や物理学者もおり、
心の哲学まとめWikiの管理者であり静的宇宙論の確実性を主張するエレア・メビウスも無時間的、超時間的な世界を体験したと証言する臨死体験者が真理の一端を垣間見たという可能性は否定できないと述べている。実際、四次元時空や非局在性、ホログラフィー的説明は、臨死体験者が見た世界の無時間性・超時間性に良く当てはまる部分もあるため、それらがこの世界の真理を巡って互いにどのように関連しているのかといった事は今後、さらに究明されなければならない課題の1つである。
臨死体験者が見た未来の情景
臨死体験者に関係した人の死の予告や、未だ結婚していない
臨死体験者の将来の妻や生まれていない子どもについての情報がもたらされたという事例もある。ケネス・リングは、
臨死体験における
人生回顧には実例は少ないものの、フラッシュ・バックだけでなく、フラッシュ・フォワード(未来の場面のフラッシュ)まで含まれるものもある事を指摘しており、
レイモンド・ムーディは
『光の彼方に』の中で以下のような話を紹介している。
『かいまみた死後の世界』が出版される数箇月前のハロウィンの日に、妻のルイーズが子ども達を連れて、御菓子を貰って歩く行事に行ったという。そして、ある家を回った時、愛想の良い夫婦が出てきて、ムーディの子に名前を聞き、上の子が「レイモンド・アベリィ・ムーディ3世」と答えると女性は驚き「ぜひ御主人に御話したいんですが」とルイーズに言った。ムーディがその女性に会うと、女性は1971年に手術中に心不全と肺虚脱を起こし
臨死体験をしたことを話した。女性は臨死体験中に出会ったガイド(案内役、自分の守護天使という人もいる)に人生回顧に誘われた後、未来についても教えてもらった。その際、ムーディの写真を見せられ、「レイモンド・アベリィ・ムーディ2世」という名前を教えられ、この人物に個の体験を話すよう告げられたという。この時点ではムーディの本は出版される前で、彼の名前も写真も全く知られておらず、
臨死体験の研究をしている事も知られていなかったため、ムーディは未来が予知されていた事は疑いないという。そして、ケネス・リングは独自にこの女性とムーディの妻にインタビューし、事実がその通りであったと確かめている。
また、フラッシュ・フォワードで見せられるのは、自分や家族に関わる未来だけでなく、自分が暮らす地域社会や地球全体の未来、宇宙の未来であるという場合もあり、例えばアメリカのネッド・ドハティは
臨死体験中に「ニューヨーク市と首都ワシントンが大規模なテロリストの攻撃を受け、アメリカ人の生き方に大きな影響を与える」という未来のビジョンを見たことを2001年3月に著書『Fast Lane to Heaven』の中で公言し、その半年後に9.11の同時多発テロ事件が現実化している。
他にも数は少ないが、タイムリープのように、未来の何らかの場面を目撃し、その後、それが細部まで正確に実現したという報告もある。
前出の木内は、1976年を起点とした未来に行き、30畳くらいの大きさで、一幅の掛け軸の掛かった広い部屋で、中年の男性が30人ほどの若者を相手に話しているのを目撃したと言う。人々は、襖や壁を背にして、コの字型に座り、灰色のシャツを着た中年の男性の話を聞き入っていたそうである。その中年の男性は、1976年を起点として未来の木内で、これを見て生き延びられるかもしれないと思ったという。
そして、
臨死体験から蘇生し18年経った1994年に、講演をするために和歌山県の清浄心院(しょうじょうしんいん)という寺に初めて行った際、
臨死体験中に見たものと同じ掛け軸のかかった部屋を目にし、木内が
臨死体験で見た未来の場面はこの講演会の場面と一致していた事を述べている。また、木内は、
臨死体験時に1994年より先の未来も目にしており、それは鮮明なものではなく2つの情景が重なり合ったものにみえ、その情景とは、初老の木内が廃墟の石に腰をかけて星を見ている情景と、緑の多い場所で星を見ているというより不鮮明な情景だったそうである。
ダニオン・ブリンクリーの臨死体験
また、木内や高木の体験とは、少し毛色が違うが、
臨死体験中に未来を見たという事例として、ダニオン・ブリンクリーの事例がある。雷に打たれて
臨死体験をしたダニオン・ブリンクリーは、
トンネルや
光、
人生回顧などといった一般的な
臨死体験に見られる要素を経験し、子どもの頃、荒くれ者だった彼は、そのような人生を回顧し、自分に関わった第三者の視点で出来事を感じた時、とても辛かったそうである。そのような体験の後、
光の存在とともに、全て水晶のようなものからできており、内側から明かりに照らされ、光り輝いていた大聖堂が立ち並ぶ世界へと降り立ったという。そして、その後に知識の箱があり、それを開けると、1975年時点で、ソビエト連邦の崩壊や湾岸戦争、チェルノブイリ原発事故のヴィジョンを見せられたそうである。具体的には、一人の顔の見えない男とモスクワの街角に立ち、人々が食糧を求めて列をなしているのを見たというものがあり、1992年に
臨死体験研究の先駆者である
レイモンド・ムーディと共にモスクワを訪れた際に、それと一致したヴィジョンを見た。一方で、知識の箱を開けて、見せられたヴィジョンの中には第三次世界大戦など実現しなかった未来もある。実際、
光の存在は、「これまでの25年と同じように生き続ければ、これらの出来事は、実際にあなたの身に降り掛かります。でもあなたが変われば、将来の戦争は避けられるのです」とテレパシーで言い、未来の出来事は必ずしもこうなると決まっているわけではないという事を告げたそうで、「人間の行動の流れは変えることができます」とも言ったそうである。なお、
『続未来からの生還』の中では、
『未来からの生還』で扱った予言の一部が現実のものになった事を指摘している。
ダニオン・ブリンクリーの話についても真偽について意見が分かれるところもあるようだが、
臨死体験者が未来の何らかの場面を目にしたということが本当であるとして考えると、脳、肉体を超えた意識は時空の制約から解放されており、タイムリープによって未来を体験することができたと考えられるのではないかと思う。また、
臨死体験が過去・現在・未来といった時制を超えていても、2つの情景が重なり合っているという木内の体験や、実現しなかった未来もあったという高木やダニオン・ブリンクリーの話からは、未来が決定されているわけではないということが窺える。そして、木内が地球の自然環境を守り、次世代にそれを渡す責任を感じて生きていることや、ダニオン・ブリンクリーが、
臨死体験前から人生を改めたように、完全に確定されているわけではない未来へ、意志をもって人生を生きていくということの中に、私たちが生きることの意味が見出されるのかもしれない。
最終更新:2024年05月07日 10:34