概説
ヒューストン・スミス(Huston Cummings Smith、 1919年5月31日 -2016年12月30日) はアメリカ合衆国の宗教学者、哲学者である。中国江蘇省の蘇州市で生まれ育ち、1945年にシカゴ大学で哲学の博士号を取得している。マサチューセッツ工科大学やカリフォルニア大学バークレー校などの教授を務めた。近代において科学的真理以外の真理はないものとする科学主義を批判し、世界に存在する宗教の共通項である忘れられた真理を再提示している。
科学の対象領域と科学主義
ヒューストン・スミスによれば現代人の心は科学に支配されているという。また、自然科学の対象領域とその限界について、以下のように述べている。
近代科学はただ一つの存在論的レベルしか必要としない。つまり物質レベルである。このレベルの中において、科学は知覚可能な物質から始め、そして最後にはまた知覚可能な物質へと戻る。というのも、その仮説をいかに拡張していったところで、ついには、それを証明するためには、測定値を読みとることへ戻って行かざるをえないからである。その始まりと終わりの間に、仮説は見知らぬ世界へと入っていくかもしれない。その最もミクロの世界、マクロの世界においては、物質は奇妙な動き方をするからである。だが、そうだとしても、その仮説が扱っている物質(あるいはむしろ、物質=エネルギー)は、最初から最後まで、時間と空間という構図の中に存在するものだ、という事実は変わらない。たとえ、その時間と空間をいかに定義しなおそうと同じである。湾曲した空間なるものも、奇妙なものではあるが空間には違いないのである。宇宙のどんな片隅まで調べあげても、ある意味で科学の基本的な枠組みを守っていることになる。つまり、空間、時間、そして相互に転換可能な物質=エネルギーである。科学が完全にこうした枠組に収まってしまうという事実があるために、その中にあるものも、最終的にはそういう性質のものとされることになる。時空間的にあるという状態は、あくまで時空間的に存在する状態である。あるいは、もっと抽象度の高いレベルでいうなら、数は数である。そして、数は科学の言葉である。物体は、大きいか小さいかであり、力は、強いか弱いかであり、持続時間は、長いか短いかである。これはずべて数的に把握できることである。科学において、何かを異なった存在論的地位をもつものとして――つまり、より優れているもの、よりリアルなものとして――語るということは、ナンセンスとしか聞こえない。
科学によって研究される(科学が追究する)知識とは物質=エネルギーであるが、自然科学の対象領域は数学的に表現できる。しかし、その前提からして、他の存在論的地平が存在しているという考え方に挑戦していることになり、スミスはこの境界の外側にあるものとして、「その究極的、固有の意味における、価値」「目的」「人生の意味」「質」を挙げている。価値、意味、目的に力があるのは、そこに質という要素が含まれているからであり、ある種の質(たとえば、色など)は、計量可能な波長の光線と繋がっているものの直接知覚していない人に対して、その性質を伝える事は出来ないという。スミスは、クオリアという言葉を直接、用いていないが、クオリアの自然化が困難な理由はそこにあるであろう。
スミスは科学それ自体には文句をつける所はないが、科学的真理以外の真理はあり得ないとする科学主義は悪いものだという。科学がその固有の領域で成し遂げた成功は、科学の方法が立ち入る事のできない領域が本当に存在しているのかという疑問を生じさせたのであるという。そして、もし、科学のファインダーに映ったものをリアリティの全てであるとするなら、その結末は科学主義であり、それが主張する唯物論になるが、ファインダーがその本性として限定されているという事を既に決着済みの議論として話を始めるなら、科学に対して期待できる事は、その外側にあるものの性質について、何かヒントを齎してくれることであるという。
リアリティの諸レベル
三次元の十字(『忘れられた真理』p.54より)
科学の見方とは、
マクロ世界、
中間(メソ)世界、
ミクロ世界といった大きさ(サイズ)による階層性であるが、近代科学以前のリアリティの見方もまた階層的なものであった。階層的リアリティについて三次元十字というリアリティのモデルで表現している。そして、スミスによれば、十字の水平の腕より下にある領域について無視すれば、諸世界は以下のように三重になっているという。
リアリティの二つのものの見方(『忘れられた真理』p.21より)
リアリティの諸レベル(『忘れられた真理』p.116より)
地上界
粗大(グロス)界、物質界、感覚界、現象界、あるいは人間界などと呼ばれる。この地平は私たちが直接に接している領域であり、空間、時間、エネルギー=物質、数によって特徴付けられる。そして、先端の物理学にもデータという形で表れているように、現象が間違いなく物質的だとは言えなくなってきており、地上界がその上にある世界に基礎を持っている事を明らかにしている。また、リアリティの例外的領域(直接体験しない領域)を知るために必要な独特の方法が開発されねばならないと起こっている。
中間界
地上界の一つ上の領域であり、
微細領域、
アニミック、あるいは
サイキック領域と言われる。この領域では地上界に対応するものがないような非物質的存在に出会う事が良くあると言え、非物質的存在にはチベット人が言うところのバルドを横断している魂や心霊主義者や霊媒がコンタクトしているという支配霊等が挙げられる。また、眠りなどのように物質的な鞘から離れたものとして、微細身体が挙げられ、アストラル・プロジェクションやシャーマンの夢の旅が当てはまる。また、微細次元における情報選択として
ESP(超感覚的知覚)をモデルとすることもできる。
天上界
微細次元の状態は、存在のレベルが上がって、プロティノスの言う「普遍的、全体的な魂」において、全体性の状態に統合される。ヒンドゥー教の宇宙観では、ブラフマンが眠りにつく宇宙的な夜において、地上界と中間界は消滅すると言われるが、神秘家は「こころの眼」を備えており、天上界を直観する事ができるという。
無限
究極の状態における神があり、無限なるものである。ヒンドゥー教では、無限なるものとは「ニルグナ」(特徴がない事)であり、仏教では「ニルヴァーナ」(炎が消える事、燃料が尽きた炎が、燃える事をやめるように)、シュニヤータ(空っぽの事、空)、道教では名付ける事の出来ない「タオ」、ユダヤ教では「エン・ソフ」、限定されないものである。肯定的表現は無限をアナロジーとして表すだけであり、どの程度当てはまるかは場合によって異なる。
自己性の諸レベル
人間の外なる宇宙にも階層的リアリティがあるが、人間自身の内部にも現れるリアリティのレベルがあるという。そして、心理学という言葉は、本来含むべき領域のせいぜい半分程度しか意味していない事を考えれば、むしろ、魂あるいは霊の学という意味で
「霊理学」とでも呼ぶのがふさわしいという。
スミスによれば、私たちを作っているものうち最も見えやすい部分である
身体、
心(マインド)、
魂、
霊(スピリット)という階層があるという。スミスは、心は体の一部であるとする考えが神経生理学的にも誤りであると見ている。また、魂は心よりも深いところにあり個体性の最終的な場所であるという。そして、霊は神と同一である部分であるという。
グロフの経験的発見との対応(『忘れられた真理』p.297より)
また、リアリティの例外的領域を知るために必要な独特の方法が開発されねばならないという。そして、スミスは
スタニスラフ・グロフが経験的に発見した
意識の作図学における意識の諸領域にも注目しているが、スミスの言うリアリティの諸レベルは、
スタニスラフ・グロフや
ケン・ウィルバーが言う意識の諸領域にも重なると言える。
最終更新:2024年04月22日 14:41