臨死体験には、
人生回顧、
ライフレビューの体験が見られる。この体験は人生回顧、生涯の回顧、ライフレビュー、省察、人生再検査など様々な名前で表現される事があり、
臨死体験の内容として、死の間際、これまでの人生が走馬灯のように次々と浮かんできたという話は典型的なものとして挙げられる事が多い。
『かいまみた死後の世界』の中では、このような人生回顧の体験は
光の生命の出現と関連付けて紹介されていて、
光の生命は
臨死体験している人の全生涯をパノラマのように映し出して見せるというという事が述べられている。また、
光の生命の目的についても、多くの事例から判断して、死後の世界に踏み込みつつある人間をその全生涯に関する省察に誘う事に尽きているとまで述べられている。
臨死体験が時間的順序を伴う体験ではないという事はしばしば言われるが、この省察、人生回顧というものも、一般的な意味での回想とは異なっており、時間的順序は全く意識されず、心の中で一瞥するだけで、その全てを受け止める事ができるそうである。ちなみに、人生回顧は高次元の霊的存在に監督されている事を述べた人がいた一方、そのような事に全く触れず、
光の生命が現れないまま、省察を体験した人もおり、省察が鮮明であるということや、正確であるということなどは
光の生命の出現の有無には無関係なようである。
アメリカのデトロイト郊外に住む重役夫人のバーバラ・ハリスは2度目の
臨死体験の時に、特異な人生回顧の体験をしている。暗闇の中を漂っていくと何千何万何億という無数の泡が漂っているのが見え、その中に彼女の人生の全てがあったという。そして、泡の中の自分は動いていて、その中に入っていくとその時の自分が再体験できるといった事を述べている。そして、エネルギーやパワーのような形のない存在としての神が彼女の側にいることを感じ、神の助けによって人生を再体験していったという。
また、
臨死体験における人生回顧は時間を超えていて、人生のそれぞれのシーンが分節化されていないというだけではなく、空間の隔たりや、主体と客体の分離もないため、相手の立場から、自分の言動が相手にどのような影響を与えたかが分かるという報告もあり、これは起きた事を受け入れ、それが自分や他人に与えた結果を見るという自己による裁きであるととらえた体験者もいたそうである。このことについて、斎藤忠資「不可分な全体としての人生再検査」の中では、
臨死体験の光の完全な全体意識は、一つの全体として一体になっていると言われ、人生再検査は臨死体験者個人のレベルでの光の統合的全体意識のミニチュアに他ならないと結論付けている。なお、前出のバーバラ・ハリスも人生を再体験した際、自分の気持ちだけでなく、当時の親の気持ちも分かったという。
さらに、ケネス・リングは、自分の人生の全様相を殆ど瞬間的に目に見える映像の形で経験すると言い、印象の同時的な行列式のように現れてくるらしく、幾つかの事例では、閃光的回想、フラッシュ・バックだけでなく、閃光的未来視、フラッシュ・フォワード(未来の場面のフラッシュ)まで含まれていたことを指摘している。フラッシュ・フォワードの内容の中には軈て現実となるものも多いと言われる。そして、時に生涯の回顧と結びついて、ある存在と邂逅し、その存在は、臨死体験者が自分の生命を選択するときであるという事(肉体に戻るべきかを)決めなくてはならないことを言ったり仄めかしたりするようであり、生き還る事を渋るとフラッシュ・フォワードで自分が死んだままだと遺族がどのような人生を送る事になるか見せられる事もあるのだという。
人生回顧が起こる率について、
スーザン・ブラックモア『生と死の境界』の中では、それほど一般的ではないという事が述べられているが、ケネス・リングやブルース・グレイソンなどの研究者は4分の1程度の体験者にそれが起こる事を認めており、溺れかけた人が最も人生回顧を経験しやすいということも触れられている。ジェフリー・ロングもライフレビューの起こり方について26パーセント近くの人が回答しているといい、その多くがスクリーンに映し出される演劇や映画を観るようだったと表現しているという。なお、
臨死体験の要素には文化的に違いがあると言われ、アメリカにあってインドにない要素として人生回顧があると言われる。インドの
臨死体験はヤムラージ伝承に強く束縛されており、
サトワント・パスリチャはヤムラージが人生での出来事が全て記録されている帳簿を見るという行為が、人生回顧要素の代替になっているかもしれないと述べている。さらに、人生回顧は大人の
臨死体験にしか見られないという研究結果もある。
因みに、人がスポーツの最中や、事故や自然災害などに巻き込まれ、心身ともに死に近づいた(死の脅威にさらされた)時に生じる意識の変容は、生理学的に臨死ではない事から臨死体験とは区別され、
恐死体験と呼ばれる事があるようだが、その中にも
臨死体験の幾つかの過程が含まれる事があり人生回顧が含まれる事が多い。この事は
臨死体験が必ずしも瀕死の脳がもたらすものとは言えない事を示唆しているとも言え興味深い。
人生回顧に対する解釈として、
『生と死の境界』の中で、死の脅威に対する心理学的機能という説明に対し、人生回顧が自分の一生と折り合いをつけ、愛と許しを以って他者に与えた影響を心に知る事ができるようになったという事例から、単なる現実からの逃避という心理学的機能以上のものがありそうだと述べられている。さらに、人生回顧は恐死体験など実際に死にかけていない人にも起こり得るもので、人生をパノラマ風に回顧している人の側頭葉や辺縁系に発作や激しい活動が起きているという考えがあり、これらの活動はエンドルフィンによって促進されると考えられることもある。また、癲癇の前兆を示すアウラという閃光様発作の際に回想体験が発生する傾向がある事や、強力な幻覚剤を摂取するとパノラマ的記憶想起を体験する事があるという報告もある。しかし、ムーディは脳内部の焦燥の集中により生じた発作と臨死体験者が経験する人生回顧に類似点はあっても、臨死体験者が経験するものには教育的な目的が見てとれ、体験の後でも非常に明確に自分の生涯の出来事を思い出せるという点など差異もあるという事が述べられ、セイボムも大脳葉の一時的な発作と結びついて引き起こされる経験と類似性はあっても相違点がある事ははっきりしているという。
他の解釈として、ケネス・リングのホログラフィー的説明などがあり、これによれば
臨死体験の世界独自の現実では、自己はより大きな(高められた)自己という組織に目には見えない形で繋がれており、この存在は過去から未来まで何でも知っていて、回顧の先導役を務める事ができると説明している。このような人生回顧は情報蓄積能力という点でもホログラフィックなものであり、時間と空間における全ての点を内蔵しているといわれるが、世界の多くの宗教の聖典に記されている死後の場面にも通じる部分があるという意見もある。そして、このような人生回顧は全てのものが同時的に起こるという点でもカール・プリブラムのホログラフィー的意識についての主張と一致していると言える。また、量子物理学者のウィリアム・ブレイは、意識が全ての時空に同時に存在する無限の世界に戻った事で生前の出来事に関しても他人からの見方を含むその全体像を認知出来るようになったというだけで、特に反省を強いる目的はないと主張している。
最終更新:2023年04月24日 00:47