概説
イギリスの医学者、精神科医のロナルド・デイヴィッド・レインが溯行貫通超越という意識現象を報告している事を河原道三は指摘している。レインは、人間は人間の過去の全てを、まるで人間の遺伝子に刻みつけられた記憶を巻き戻すかのように、手繰る事が出来ると主張しており、原初的人間の段階やそれをも超えた無機物の時代からの記憶をトレースできる能力があるに違いないという。
ジェシー・ワトキンズは、10日間ほど続く精神病的なエピソード(内面的空間と時間への旅)を体験しているという。彼は週7日、夜遅くまで働いていました。身体的にも、情緒的にも、精神的にも、疲れきっており、それから彼は犬に噛まれ、傷が治らず病院に行き、生まれて初めて普通の麻酔剤を与えられ、傷に繃帯をしてもらったという。それから、バスで帰宅し部屋に入り暫くすると、突然、時間が逆転するという感じ、ベルトコンベヤーに乗ってどこかへ動いていくような感じをもち始めたといい、その際の体験を以下のように記している。
それから私は、この――ほんとうに時間が逆転するという感じをもち始めました。私の感じは実に異様なもので――生きている、いやただ生きているだけでなく――そのう――感じている、そして――そのう――経験しているといったものです、私の感じでは或るものに関係があるすべてを経験しているといったもの――そうです、動物の生命とかそういったものに関係があるすべてのものです。あるときには、私は実際に一種の風景の中をさまよっているようでした――うーん――それは砂漠のような風景で――私は動物――それもかなり大きな動物のようでした。こんなことを言うとばかばかしいように思えるでしょうが、私は一種の犀みたいなものになった感じで、犀のような音を出し、同時に恐怖心ももち、同時に攻撃的でもあり警戒もしているといった具合でした。それから次に――うーん――ずっと昔の時代に退化し、脳が全然ない生物みたいにただ身をもがいているだけの時代にもどり、まるで自分に対立しているものと対抗して自分の生存のために闘争しているようでした。そして――ええと――それから、ときにはまるで赤ん坊になったような気持のこともありました――私は――私は、自分が子供のような泣き声を出しているのが耳に入ったのです……
トランスパーソナルな領域における物理的境界を超えた旅
ワトキンズの事例からは、人間が肉体的、精神的に過剰の負荷の状態にあるときに遡行貫通超越体験をする事が窺えるが、精神病理学者の、
スタニスラフ・グロフは幻覚剤であるLSDを服用した人がそれと同様の体験をすることを紹介しており、グロフの
意識の作図学におけるトランスパーソナルな領域で、物理的境界を超えた体験をする事や、時間の境界を超えて、受胎の瞬間の体験をしたり、祖先の記憶、世界に繋がったり、生命の進化を辿り生命の原点に辿り着くという体験をしたりする事が報告されている。グロフによれば、トランスパーソナルな領域において、岩だらけの狭谷で獲物の跡を追うアメリカライオンの感覚や、異性の群に出会った巨大な爬虫類の原始的な衝動、鷲の力強い飛翔といったものに対する体験的な洞察が可能になるという。グロフらのホロトロピック・ブレスワークのワークショップに参加したあるベルギーの女性は、事前に鯨についての知識はなかったが、妊娠している雌鯨としての意識を体験したといい、彼女にもたらされた鯨の行動に関する洞察が正確であることを海洋生物学者が裏付けたという。また、ジョン・ボーガンもLSDを服用した際の体験について以下のように述べている。
わたしは、主観的には、幻想の走馬灯のような光景に引き込まれていった。わたしは、アメーバーになったかと思うとレイヨウ(羚羊)になり、レイヨウを貪るライオンになり、草原にうずくまる猿人やエジプトの女王やアダムとイヴになり、ポーチの上で永遠の日没を見守る老夫婦になったりした。
ある時点で、わたしは、夢を見ていると知りつつ、夢を見ている人のような、一種の平静さに達した。力と興奮の高まりのなかで、わたしは、これは、わたしが創った、わたしの宇宙なのだから、わたしの思うがままにできると思った。
そして、永劫の超高速のエクスタシーと思われるものの後で、知識を欲しているのがはっきりしたと言い、時間に逆らって、過去を辿る旅をして、人間も、人間でないものも含んだ、かつて住んでいた全ての生き物の誕生と生存と死を観察したという。ボーガンは、その際、未来へも冒険して、地球や宇宙全体が大きな網目状の赤熱した「回路」に変わっていくのを見たと言い、過去へ向かっているか、未来へ進んでいるか分からなくなるに従って、自分が究極の生命の起源に向かっていると確信するようになったという。そして、ボーガンは、全ての部分を演じているのは、一つの存在、一つの意識であり、この創造的意識には終わりがなく、無限の変換が続くという、抗しがたい満足感を味わっていたという。同時に、そもそも何かが存在するという驚きが、耐えられないほど大きくなったと言い、次のように問い続けた。
問 なぜ創造なのか?なぜ、無ではなく、何かがあるのか?
答 多様性に富んだ世界の創造は、神自身の孤独や存在の不確定さや潜在的な死の運命との恐怖の対峙から生まれる。実存の苦しみを避けるため、神は、自分自身を「無数の自我」に分解した。分裂した自我(=わたしたち)は、真実の本質を追い求めるが、決して完全な真理に到達することはない。
さらに、他の種の意識に入り込む体験は動物に留まらず、植物の意識の体験も含まれ、細菌、海洋性プランクトン、きのこ、ハエトリ草、らん、セコイアの樹まで広い範囲に渡っているらしく、ホロトロピック・セッションでもセコイアの樹と同一化したというケースが以下のように報告されている。
私は植物の意識というようなものが存在する可能性などをまじめに考えたことは金輪際なかった。いくつかの実験の記事が「植物の秘密の生活」と題して、庭作りをするものの意識が収穫に影響することがあると主張しているのを目にしたことがあったが、そのようなことは実証されていない、いかがわしいニューエイジ的知識だと思っていた。ところが、私はこの場で完全に巨大なセコイアの樹に変容してしまったのだ。私が体験していることが実際に自然界で起こっていること、そして私が今、普段われわれの感覚や知性には覆い隠されている宇宙の次元を発見しつつあることは、火を見るよりも明らかだった。。
私の体験のもっとも表層的なレベルはとても物質的であるように思われ、西洋の科学者が、まったく新しい角度から見た場合だけ、有機的ないし無機的な物質の機械的な出来事としてではなく、宇宙的な知性によって動かされている意識のプロセスとして説明してきたものも含んでいた。私の身体は実際にセコイアの樹の形をしていた。それはセコイアだった。樹皮の下の入り組んだ毛細管の組織を通過する樹液の流れを感じることができた。私の意識はもっとも細い枝や針状の葉への流れを追い、太陽と生命の交感ーー光合成ーーの神秘を目撃した。私の自覚はずっと進んで根の組織の隅々まで到達した。地球との水と養分のやりとりでさえ機械的ではなく、意識的で知的なプロセスだった。
けれども、この体験は親和的で神秘的なさらに深いレベルを持っていた。これらの次元は自然の物質的側面と織り合わさっていた。このように、光合成はたんに驚くべき錬金術的なプロセスというだけでなく、太陽光線を介して顕現する神との直接的な接触でもあった。雨、風、火のような自然のプロセスには神話的な次元があって、ほとんどの原始的な文化でそう考えられていたように、それらを神々として認識するのは容易なことだった。
鉱物(琥珀/水晶/ダイヤモンド)との同一化体験
他者、全人類、植物、動物、生命全体惑星などへの意識の拡張に加え、グロフは、LSDセッションの被験者の話として琥珀、水晶、ダイヤモンドといった鉱物の意識と同一化したという体験についても紹介している。
セッションのこの時点で、時間は止まっているようだった。突然自分が琥珀の本質と思われるものを体験しているのだ、という考えがひらめいた。視界は均質な黄色っぽさで輝き、平安と静寂と永遠性を感じていた。その超越的な性質にもかかわらず、この状態は生命と関係しているようだった。描写し難いある種の有機的な性質を帯びていたのだ。このことは、一種の有機的なタイムカプセルである琥珀にも同じく当てはまることに気づいた。琥珀は、鉱物化した有機物質――しばしば昆虫や植物といった有機物を含み、何百万年もの間、それらを変化しない形で保存している樹脂――なのだ。
それから体験は変化しはじめ、私の視覚環境がどんどん透明になっていった。自分自身を琥珀として体験するかわりに、水晶に関連した意識状態につながっているという感じがした。それは大変力強い状態で、なぜか自然のいくつかの根源的な力を凝縮したような状態に思われた。一瞬にして私は、水晶がなぜシャーマニズムのパワー・オブジェクトとして土着的な文化で重要な役割を果たすのか、そしてシャーマンがなぜ水晶を凝固した光と考えるのか、理解した。
私の意識状態は別の浄化のプロセスを経、完全に汚れのない光輝となった。それがダイヤモンドの意識であることを私は認識した。ダイヤモンドは化学的に純粋な炭素であり、われわれが知るすべての生命がそれに基づいている元素であることに気づいた。ダイヤモンドがものすごい高温、高圧で作られることは、意味深長で注目に値することだと思われた。ダイヤモンドがどういうわけか最高の宇宙コンピュータのように、完全に純粋で、凝縮された、抽象的な形で、自然と生命に関する全情報を含み込んでいるという非常に抵抗しがたい感覚を覚えた。
ダイヤモンドの他のすべての物質的特性、たとえば、美しさ、透明性、光沢、永遠性、不変性、白光を驚くべき色彩のスペクトルに変える力などは、その形而上的な意味を指示しているように思われた。チベット仏教がヴァジュラヤーナ(金剛乗)と呼ばれる理由が分かったような気がした(ヴァジュラは「金剛」ないし「雷光」を意味し、ヤーナは「乗物」を意味する)。時間と空間を超越した純粋意識としての宇宙の創造的な知性とエネルギーのすべてがここに存在しているように思われた。これは完全に抽象的であったが、あらゆる創造の形態を包含していた。
このように無機的な世界を巻きこむ性質の体験となると、レインが人間は原初的人間の段階をも超えた無機物の時代からの記憶をトレースできる能力があるに違いないと述べていることにも通じてくる。なお、この体験はLSDセッションで起こっているが、レインが人間のもつ精神的な可能性の一つを経験したに過ぎないと述べているように、
神秘体験が特定の薬物が脳へと及ぼす幻覚作用によって生み出されるというよりはむしろ、薬物が我々を特定の意識状態へと道を拓く契機となっていると考えるべきかもしれない。このような考え方は古くからあり、宗教的経験の本質とは何かという課題について心理学的に掘り下げた
ウィリアム・ジェームズも私たちの目覚めている時の意識というものがむしろ意識の一特殊型に過ぎないと考えているわけである。
(以下、管理者の見解)
哲学者の重久俊夫は、私以外の他者の意識現象や物そのものとは何かということが不可知であるという事について以下のように述べている。
物理的存在者、たとえば目の前の「石」について、私が知っているのは、石についての視覚映像という、私自身の意識現象です。石をさわった時の感触というのも、やはり私の意識現象です。「モノは空間的な広がりを持つ」といわれますが、そういう「広がり」というのも、われわれの視覚や触覚という意識の中でイメージされたものに過ぎません。今ここで石の映像が見えているとしても、反対側から見た石の映像や石にさわった時の感触といった、今ここにはない意識現象が実在するという保証はありません。仮にそうした意識現象が矛盾なくそろっていたとしても、それはあくまでも意識現象であって、物理的な石そのものではないのです。石そのものというのは、強いていえば、私が石に生まれ変わった時に体験するであろう世界のことです。そして、それはまったく想像を絶した世界なのです。(赤い花にもしも生まれ変わったら、目の前が真っ赤になるのでしょうか。もしかしたらそうかも知れませんし、また、そうではないかも知れません。)。
重久は物そのものとは何かということの不可知性について指摘しているが、伝統的にはイマヌエル・カントの哲学においても物自体とは不可知であるとされるわけである。このように、日常経験される合理的意識で論理的に考える限り、石に生まれ変わった時に体験するであろう世界とは不可知なものに過ぎないし、心の哲学において世界のあらゆるものが心的性質を持つといった汎心論的な考えも単なる知的な概念構造に過ぎない。しかし、人間には合理的意識とは全く違った特定の意識状態において、それを直接体験し全く想像を絶する世界が開示され得る可能性がある。その一つとして、ダイヤモンドや水晶、琥珀、そして、鋼鉄、水銀、金といった鉱物、さらには分子や原子などの意識と同一化するといった体験を挙げることができ、それらがいくつかの原始的な文化におけるアニミズム的な世界観の源泉になっているのかもしれない。
最終更新:2025年03月06日 00:46