林武の光体験
画家の林武は少年時代、家を支えるために3時間の睡眠を続け、凍傷で崩れた手足の痛みを我慢し、胃潰瘍で衰弱しきった身体で、雪の坂を歯を食いしばり泣きながら牛乳車を引いていたという。そして、世の中の辛さを心から実感し、悲しみで一杯になっていた時にした光体験を次のように記している。
不意に、僕のひたいのあたりがぱっと光り輝いた。それは何か遠くの高いところで輝いている感じであった。それは神秘の光明だった。あれは、一種の霊感のようなものであったろうか。そのとたんに、僕は、全身から力がわくのを感じた。
僕は自分が年もいかない子供であることも考えず、一家を支えるために、家族みんなのために、自分が先に立ってやらなければならないと思い、倒れそうなからだで根かぎりやった。そして、あのつらい雪のなかで天の啓示のように光り輝くものを見た。それはなにであったかはわからない。僕はそれをだれにも語らなかった。けれどもこのとき感じた不思議な輝きは、その後、苦境に立つたびによみがえって僕を元気づけた。
また、林はそれを一種の解脱として捉えているようで、それによって自身の絵に対する執着心が振り落とされたことも述べている。また、外界の全てが非常に素直になり、そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきた、ありのままの実在の木として見えてきたとも述べている。石井登は、「真の生きた木、ありのままの実在の木」という文章からアブラハム・マズローの言う
至高経験に見られる
D認識から
B認識への変化を見事に描写していると指摘している。
また、地上一切のものが、実在のすべてが、賛嘆と畏怖を伴って語りかけたと述べているが、この体験は五感を通して受け取った日常的な出来事の覚醒した意識の中での変容であると言えるため、ウォルター・ステイスが言う外向的
神秘体験に属すると言える。
林光彦の光体験
ところで、神秘体験というか、生命のふしぎな至高体験とでもいうべき、それを感じたのは、私が十六歳の頃、座禅を体験したあとのことだった。
私はなんとなく予感していたのである。
昨日までの、森の中の古い仏閣の禅堂で坐っていた自分とは、まるで違ったその日のまぶしいような光の乱舞。
城が島へ向う、石ころの多い田舎道をとびはねるように走るオンボロバス。ところが乗っている私は、それをユリ籠に揺られているような喜びで、ニコニコ笑っているのだ。車に乗っている人たちの顔が、なんとも懐しく感じられる。バスからおりて、小さい舟に揺られて、緑色のビロードのような海をわたってゆく。
ところが、この水の色のなつかしいような想いはどうしたことか。この波の上に横たわり、一緒に日の光の中でたゆたっていたいような、そんな思いだ。
林光彦は、天地を一つに光で結び合わせており、その奥なる無限なる名付けがたき聖なるものと、私はすぐ側にあり、温かく一つに結ばれている事を体験したのだという。そして、「実在」する世界の光と美と善とを啓示してくれると述べている。
橋本創造の光体験
このころ(1973年、27歳ころ)すでに私は瞑想を続けているうちに、たびたび光を感じるようになっていた。それは絵筆で表現することはまったく不可能だが、CGでならそれに近い表現ができるかもしれないと思った。ところがその光が生き生きとしていて、刻々と姿を変え静止していない。しかも瞑想を終えてからその光を思い出そうとすると、もうすでに個我が働いているので、そのときの気分や感情などで、さらにいろいろなイメージに変わってしまう。そのうちの一つのイメージですらも、CGで表現しようとすると、思いどおりのイメージに表現できず、何点ものバリエーションができてしまった。
それらを世に発表してみると、見る人の個性や好みに応じて、共感する作品が異なることがわかった。そこで作品の数が増えるほど、より多くの人に共感していただけるようになるのかもしれないと思い、いまも創作を続けている。
橋本は、瞑想の中で、「大宇宙が自分の外側に無限にひろがっている」「大宇宙によって、自分が生かされている」「大宇宙と調和していられれば、安楽である」といった事を実感し、この体験によって、日常生活は大きく変わったのだと言い、個我によって自分自身を束縛していた状態から、少しずつ自由になれたという。この光体験は、ヨーガや瞑想が
神秘体験を惹起した事例であると言える。
神谷美恵子の光体験
何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていたときでした。突然、ひとりうなだれている私の視野を、ななめ右上がらさっといなずまのようなまぶしい光が横切りました。と同時に私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でもふしぎな凱歌のことばを口走っているのでした。「いったい何が、だれが、私にこんなことを言わせるのだろう」という疑問が、すぐそのあとから頭に浮かびました。それほどこの出来事は自分にも唐突で、わけのわからないことでした。ただたしかなのは、その時はじめて私は長かった悩みの泥沼の中から、しゃんと頭をあげる力と希望を得たのでした。それが次第に新しい生へと立ち直って行く出発点となったのでした。
その他の光の体験と覚醒体験
人間がより大いなるあるものと融合することによって
神秘体験が生じるとしている
本山博も光との関連について、以下のように述べている。
長年の瞑想行を通じて、自分の身体の意識が消え、あれこれと想う想念、腹が立ったり喜んだりする感情も消えて、人間の次元での心身の働きが静まり、無念無想の何も思わない、しかし無意識になったのではなく、広い、明るい、輝く意識が目覚め、自分の存在が大洋の水のようにひたひたと拡がってゆく、上方に高く登ってゆく、その時太陽が千も同時に輝いたかと思われる強烈な白い光、金色の光と同時にすごく大きい力が、存在が大洋のように拡がり、空のように高くなった自分の中に流れ込んでくる。はっきりと神が、神と等しく大きくなった自分の中に流入し、自分と合一するのを感じる。これが、神との一致の神秘体験の一つの過程である。
石井登は、
神秘体験や、悟り、覚醒体験などに於いて、体験の中核的な「要素」であるとは言えなくとも、例外的な要素でもないことを指摘している。そして、ここまで挙げた以外でも不思議な「光」を体験した事例は多いと言え、中には世界全体が輝いて見えるという体験をしている人もいる。また、成毛信男も覚醒体験は、歴史上長く主に宗教の分野で論じられてきたと言えるが、覚醒体験(悟り)の特徴の一つに「光の体験」と「一体性(Oneness)」がある事を指摘している。そして、悟りを英語で言えば、Enlightenment であるが、この単語の中に light(光)という言葉が使われており、中西研二によれば「悟りでは、頭の前と後ろに穴が開いて、そこに光が通るような経験をします。そのような『光が通る』という体験が英語の悟り(Enlightenment)の原義なのです。」という。
最終更新:2024年04月28日 23:40