概説
死後生存は、死後存続ともいわれ、心霊研究などで用いられる用語であり、人間は肉体が滅んだ後も何らかの形で人格を保ち続けるという思想である。人間(の意識)が生物学的な死後も何らかの形で生存を続けるという考えは、古代エジプト・インダス文明を始め全ての古代及び非西欧文化の宗教や哲学の体系、宇宙論、儀式などにも見ることができ、19世紀、欧米を中心に流行したスピリチュアリズム(心霊主義)では死後も現世と交流することが出来るという思想の体系が作られた。なお、今日ではかなりの人々が「意識は脳の生理学的な働きの産物である」という唯物論的仮説の影響下にあると言え、意識の死後存続研究は唯物論的仮説へのアンチテーゼであり、意識が脳から独立している(または脳より優位である)事を前提としていると言える。
死後生存研究の分野
1984年に死後生存研究が世界的にどの程度、進んでいるかを知らせる事を目的に、世界の第一級の超心理学者による研究論文を信頼のおける医学、心理学、超心理学の雑誌から厳選して
『死後の生存の科学』 に収録している
笠原敏雄は、世界的に見ても、超常現象の研究者は非常に少ないといい、その中でも、死後生存問題の研究者は非常に限られている事を指摘しており、現在では、
臨死体験の研究者を除けば、アメリカのヴァージニア大学知覚研究室の研究グループが中心になっていると指摘している。また、笠原は、死後生存(存続)研究の分野として以下のようなものを挙げている。
臨死体験については、死後生存の裏付けになりそうなものと、死後生存を考えない方がうまく説明がつくものがあると考えられ、
臨死体験にしばしば見られる超常的知覚は文化的要因では説明できないと指摘され、前者に識別され得ると考えられる。
この他、
飯田史彦は「死後の生命」や
「生まれ変わり」に関する近年の科学的研究成果として、退行催眠によって蘇る過去生記憶を挙げている。また、大門正幸は、意識の死後存続研究は、大きく、意識が死後も存続する可能性に関する研究と、存続した意識が別の肉体に宿る可能性に関する研究に分けられるとしている。そして、それらはそれぞれ
臨死体験と
生まれ変わりの研究と結びついていると言える。
死後生存研究の歴史・新たな展開
「魂の不死性」はプラトンを始め、多くの哲学者たちが議論してきたテーマの1つであったが、人間の意識の死後存続の可能性を経験科学的に探究しようという試みは、19世紀後半にイギリスを中心として流行したスピリチュアリズム(心霊主義)を背景として盛んに行われた霊媒現象、1882年に設立された
心霊研究協会(Society for Psychical Research)や1884年のアメリカにおける
米国心霊研究協会(American Society for Psychical Research)に端を発する。そして、心霊科学研究は
ESP研究や
超心理学研究へと派生していくが、近年、新たな展開を見せている。
イアン・スティーヴンソンは、死後生存の研究史ははっきりとは分けられないとしながら、理論的な問題の扱い方及び、実証的な研究法の違いを基準に三期に区分している。まず、第一期は、心霊研究協会が設立された1880年代から1930年代までの50年ほどで、この時期の研究では、死者の霊姿体験や、死者からの通信のように思われるそれ以外の偶発的体験を収集、分類し、分析するという方法を主とし、死者からの通信を受けることが可能であるとする霊媒を対象とした科学的研究も開始された。しかし、霊媒を介する死者との交信については、人間がテレパシーや遠隔透視といったサイ能力をもっている事が明らかになるにつれ、本人が知らないはずの情報を入手できるのもサイ能力によって可能になるとも考えられた。そのような事から、第二期に当たる1930年代から1960年頃までの30年間は、殆どの超心理学者が死後生存の可能性を問題とはしなかった。しかし、新しいタイプの実証的研究や理論的な問題を明確にしようとする努力が重ねられ、ある程度の進展が見られた。第三期は、1960年頃から1980年頃までで、死者からの通信のように思われる体験の中から生者のサイ能力であるとする説を排除できるよう工夫された実験も行われた。また、
イアン・スティーヴンソンによる
生まれ変わりの研究や、長い間西洋の科学では禁忌同然の扱いを受けていた死と臨死という問題が脚光を浴びた。
21世紀に入った後も、霊媒を対象とした研究を行うようにもなっており、暗室に「霊」を呼んだ場合とそうでない場合との光子の量を比べ、「霊」を呼んだ場合に光子の量が大きく増加する事を実証した研究もある。また、
生まれ変わりについては、前記のアメリカのヴァージニア大学知覚研究室の研究グループが中心になっていると言え、近年では
イアン・スティーヴンソンの衣鉢を継いだ
ジム・タッカーが強い生まれ変わり信仰をもたないアメリカでの強力な
生まれ変わり事例を収録している。日本においては、大門正幸が過去生記憶をもつ子どもの存在を示し、また、過去生記憶だけでなく
中間生記憶や
胎内記憶をも考慮に入れた包括的な研究の必要性を訴えている。
この他、カリフォルニア大学リバーサイド校で進められている
不死プロジェクト(immortality project)や、超心理学と人類学を融合させようとする
超人類学(paranthropology)の試み、
臨死体験や
神秘体験などを
霊的変容体験(spiritually transformative experience)として包括的に捉えようとする試みなど、様々な形で研究がなされていると言える。
死後生仮説の優位性
飯田史彦は「死後の生命」や
「生まれ変わり」の研究はその科学的真偽とは別の次元で、それらを否定する論者に対する絶対的な優位性をもっていると指摘している。具体的には、「死後の生命が存在する」という命題については、データを蓄積する事が可能であると言えるが、「死後の世界が存在しない」という命題の場合、存在しないものを確認するのは不可能である。従って、論理的にみた場合、死後生というテーマについては、「認めるだけの決定的証拠がないが否定する方法もないない」か「認めようと判断できるだけの証拠が得られた」かという2つの状態しかない事になる。
反死後存続仮説論
サダスは、確認理論(confirmation theory)を用いてこれまでの哲学的議論を精査し、精緻な分析を通して、死後存続仮説を擁護する議論は破綻していると主張する。そして、デュエム・クワイン・テーゼが述べるように、観察される現象の説明には、主要な仮説に加え、様々な補助仮説が必要になるというが、死後存続論者達がこの点に関して非常に曖昧であると指摘している。そして、次のような補助仮説に目を向けると、死後存続仮説には大きな問題が存在している事が明らかになるという。
A1: 意識が死後も存続するとすれば、肉体を持たない状態になった時に意識を保持したままであろう、生者Pが存在する。
A2: 意識が死後も存続するとすれば、生前に関する詳細で高度に特定的な記憶を保持したままであろう、生者Pが存在する。
A3: 意識が死後も存在するとすれば、生前のPを特徴付けていた人格的特徴や技能の多く、または大部分を、あるいは少なくともその重要な部分を保持したままであろう、生者Pが存在する。
A4: 意識が死後も存続するとすれば、その死後、我々の世界で生じた出来事や生者の心の状態に関する知識を有するであろう、生者Pが存在する。
A5: 意識が死後も存続するとすれば、その死後、生者と交信しようとする欲求や意図を持つであろう、生者Pが存在する。
A6: 意識が死後も存続するとすれば、その死後、生者と交信する能力を有するであろう、生者Pが存在する。
A7: 意識が死後も存続するとすれば、超感覚知覚(透視とテレパシー)および念動力という形で効果的な心的機能を示すであろう、生者Pが存在する。
一方、このような補助仮説に関する議論として、補助仮説A1~A6で示されているような意識の強い連続性 (strong continuity of consciousness) が必要だという主張に対し、死後の意識状態が生者の意識状態と変わらない、とする仮定は、もっと広い意味に解釈でき、生者が睡眠状態や痴呆状態にあり正常な交信ができない場合があるのと同様に、死者も正常な交信ができない場合もあるとの仮定もある。そして、死者にも生者同様に様々な意識状態があるとすればサダスが詳細に設定したような補助仮説は不要となる。
また、死後の世界にアクセスする(体験する)方法は、退行催眠によるトランス状態であったり、
臨死体験であったりと、非日常的で特殊な状況においてであり、人間の内面にいて主観的に体験されているものであるため、体験を共有する者もおらず、物的証拠も何もないので、その体験がリアルなものだと訴えても、周囲の者からすれば当人の性格や状況からその発言に信憑性を判断せざるを得ないとも考えられる。このような考えに対し、坂井祐円は、死後存続研究の方法論が、相変わらず従来の近代科学主義の唯物論パラダイムに則っており、その範疇を出る事がないからこその必然的な齟齬なのであるとし、死後の世界や霊魂といった存在は、そもそも物質世界には還元できない領域の問題であり、物質科学の方法に準拠して何とかその存在を論証しようと躍起になる事は、論理矛盾でしかないという。
(以下は管理者の見解)
立花隆『臨死体験 下』の中では、ケネス・リングの話として、臨死状態の向こう側にある世界が永遠の世界だったら、存続というような時間を含む概念は意味を持たないことが指摘されているが、実際、
臨死体験は無時間的な永遠の世界を示しているケースが多い。また、死後生存、死後存続は、人格(個人としてのその人)の存続を想定していると言えるが、
トランスパーソナル心理学の地平から見れば、直接的に死後の世界を設定しないとはいえ、宇宙規模の壮大なスケールで人間の生死の意味を考え、敢えて言うなら個体を離れた個性とは違う意識への融合と捉えているように思えるし、
土井利忠が考える「あの世」の実態なども時間や生死を超越しているという点で死後という表現は妥当ではないと言える。更に、
臨死体験が本質的に語り得ないものであると言われる事からも窺えるが、死の彼方が文字通り何もなくなるという意味での無ではなかったとしても、私達の世界とは全く異なった法則に因って統制されている世界であるとしたら、そもそもそのような世界を「存続する」や「在る」として心に描き捉える事自体が困難であるかもしれない。それ故、
体外離脱体験など死後生存研究の分野において客観性、測定、実証などといった正統的な基準に当てはめる事で見出される人格(個人としてのその人)の存続という捉え方も(肉体と共に全てが消滅せず何かがあったとして)向こう側にある世界における意識の一側面に過ぎないという事であろう。このような事から、物的なものと心的なものといった風に二元論的に捉え、人格や霊魂の死後存続という形で話を一般化するには壁があると思われ、死後にも何かがあるとすれば「いったい何が存続するのか」や「いかなる種類の意識が存続するのか」、さらに哲学的に言えば、何かが「在る」とはどういう事態か、「現実」とは何か、「経験」とは何か、「存続する」とはどういう事かといったように掘り起こして考えるべき問いは多く出てくると言えるであろう。渡辺恒夫も死後の世界について直接探求するのではなく、まず「私とは何か」を探求すべきであり、「私とは何か」の答えは、「なぜ今、ここにいるのか」という≪今、ここ≫の謎に事に答えられなければならないため、私は脳であるという唯物論も私は肉体とは独立の霊魂であるという心身二元論もともに失格であるという立場である。また、渡辺は死後存続の科学は科学の方法がつくりあげた科学的世界像追放された心を科学の方法によって立証しようという企てであるから心身二元論と科学的方法の組み合わせは破産しているとも示唆しており、死後生存研究によって蓄積されたデータから心身二元論的に自己や意識の個別性や独立性を認める事が正しいという結論にはならないであろうが、死後生存研究によって蓄積されたデータや永遠の哲学、トランスパーソナルな意識の拡大、超心理学的事実を無意味だとみなすのではなく、それもまた一つの事実として、(渡辺が言うような)真の自己とは何かや「私」とは何かという形而上学的問いを考える際に、視野に入れる事で新たな視点をもたらす可能性があるというのが私(管理者)の考えである。
慎重な
超心理学者が指摘しているように、誰もが納得するという点で、死後生存を裏付ける決定的証拠、科学的証拠は得られていないし、それは将来も同じであろう。しかし、死後生存を否定する証拠は、肉体が消滅すれば何もなくなるという常識論以外には存在しないと言える。また、超心理学的には死後生存の可能性を持ち出さなくても本人が知らないはずの情報を入手できるのもサイ能力によって可能になるとも考えられるというが、そのような能力も脳がいわゆる意識の送受信器であるといった脳濾過装置理論的立場から考える事によって合理的に説明できると言える。そのため、サイ能力(ESP)の存在から直接的に死後生存を直接的に証明する事が困難であるとしても、死後生存を否定しているわけではなく、むしろサイ能力によって霊の世界、死後の世界と呼べるような世界へアクセスし情報を得ていると仮定する事もできる。それに加え、死後生存研究によって蓄積されたデータや、永遠の哲学、トランスパーソナルな意識の拡大など少なくとも、意識の全てが脳によって産み出される、または脳の特性に還元されるという唯物論的な見方を否定したり、(向こう側の世界が、臨死体験者が言うように本質的に語りえないものであっても)死んだら「無」であり全ては消滅し終わりであるといった素朴な死生観を否定したりする事に寄与すると考えて問題ないだろう。
最終更新:2024年02月26日 02:18