中間生(中間世)記憶(Life-Between-Life Memories)は幕間記憶などとも言われ、前世、過去生での死から生まれ変わるまでの間のあの世での記憶を指す。古代チベット人は、生と生との間の中間状態を島と島とを隔てる空間を表すバルド(仏教用語では中有)という言葉で言い表している。
ジョエル・ホイットンによる中間生の発見
退行催眠を用いて、数多くの被験者から過去生を調査した
ジョエル・ホイットンが、偶然に中間生の存在を発見したのは、ポーラ・コンシディンという42歳の女性に退行催眠を行っている時であった。ポーラが、1822年にアメリカのメリーランド州の農場で生まれ、若くして農家の階段から転落死した「マーサ・ペイン」という名の娘であった過去生を回想している時、ホイットンは、「あなたがマーサになる前の人物に戻ってください」と指示するべきところを「あなたがマーサになる前に戻ってください」と指示した。間違った指示を受けたポーラとのやりとりを次のように記している。
「私は……生まれるのを……待っています。母のすることを……見ているところです……。」
「お母さんは、どこにいるのですか。」
「母は……ポンプの所で……バケツに水を入れています……とても大変そう……。」
「なぜ、大変なのですか。」
「私の身体の重みで……おなかに気をつけてと母に言ってあげたい……母体のためにも、私のためにも……。」
「あなたの名前は?」
「名は……まだ、ありません……。」
その後、ホイットンは、30人以上の被験者に付き添い、何年がかりかで時間と空間のない領域である中間生へ彼らを連れて行ったという。その体験は筆舌に尽くしがたい強烈なもので、至福な状態であると言われ、ホイットンはその存在状態を
超意識(Metaconsciousness)と名付けている。超意識の状態は、夢や
体外離脱体験、前世の再体験などの変性意識状態とも異なり、存在の本質と同化し、自分のアイデンティティーを放棄し、永遠のオーバーソウル(大霊)、宇宙と一体となり、果てしなく広がる雲の中の一片の雲になる事と表現している。生と生の狭間では自分が何者かを悟るためには考える事から始めなければならず、ルネ・デカルトの格言
「我思う、故に我あり(Cogito, ergo sum)」が一番当てはまるのは中間生の状態であるとも指摘している。
また、ホイットンの被験者は中間生において「裁判官たち」(指導役の魂)の存在を裏づけており、彼らに出会い来世のための「カルマの台本」を書く体験などが前世療法に於いて治療上有意義だと分かっているという。このような中間生、超意識の体験を通じ、被験者はなぜ現在このような環境にいるのかを広大無辺の背景から知るに至るようである。このように、この世の環境を選ぶのは私達自身であるといった考えは、子どもが家庭環境や社会といったものを自ら選ぶという点で一部の
胎内記憶などにも共通していると言えるが、ホイットンによれば、中間生から客観的に見れば、どのような体験も不条理でも偶然でもなく、宇宙という教室の授業の一齣に過ぎないという。
マイケル・ニュートンが考える中間生
催眠療法士のマイケル・ニュートンは、中間生をホームや
スピリットの世界などと呼んでおり、催眠下の被験者は「生」と「生」の間に起こる事、スピリットの世界について詳しく語っている。ニュートンによれば、スピリットの世界で、ガイドや
ソウルメイトの影響は大きく、まずそれらの存在に連れられ、その後、癒しの空間で霊的な環境に適応するための指導を自分のガイドから受けるという(なお、ここで中間生の構成要素を場所や空間に準えているが、実際は非物質的な宇宙である)。
そして、スピリットの世界を離れ、この世に再び旅立たなければならない時がやってくるのだといい、二度とこの世に戻りたくないと感じる魂も少なくないという。また、生の選択について、ニュートンは、魂は本来の生の自分の死について私達とは違った見方をすると言い、突然の病気で急死したり、誰かに殺されたり、災害や事故などで不慮の死を遂げる肉体も、基本的には予め、自分の意志で選んでいるのだという。このように、この世での不条理な体験も自ら予め選択しているという考えは、前述のホイットンの結論とも一致していると言える。さらに、魂が新しい人生と肉体から派生する身体的・心理的な問題について、ガイドや仲間たちとの相談し終えると、転生の判断が下され、再誕生の瞬間について被験者は、長く暗いチューブの中を滑り落ちて母親の胎内に居る事に気が付いたと述べており、ニュートンは死後に魂が通るトンネルのようなものと同じ通路かもしれないと指摘している。
中間生と臨死体験との類似性
退行催眠で想起した過去生が本物であるかといった事には議論の余地もあり、退行催眠によって誘発された過去生での死の体験を実際の死や
臨死体験などと同一視することには慎重であるべきだと言えるが、見方によっては両者には類似点もあるといった事が指摘されている。
稲垣勝巳も退行催眠において発見された現象は、
体外離脱体験や
臨死体験と呼ばれ、死後の世界を垣間見たり「守護的存在」と出会ったとされる一般の人の数多くの体験とも軌を一にする現象だと考える事ができるのではないかと指摘しているし、前出の
ジョエル・ホイットンも被験者が中間生に入る際に、波のように押し寄せる恍惚感やこの世のものとは思えない慈悲の光に迎えられるなど臨死体験談と類似した話を始める事を述べている。他にも
暗いトンネルのような空間に入る体験についても、ホイットンの被験者達は下の方に横たわっている自分の身体を見てから、長い円筒形の通路を通って急激に引っ張られていった、と繰り返し述べている事を報告している。また、中間生において、「裁判官たち」(指導役の魂)は、これまでの一生を回想させてくれるといい、魂の眼前には一瞬のうちに展開するパノラマのようなフラッシュ・バックがつきつけられるというが、これも
臨死体験における人生回顧と共通している。さらに、ホイットンは中間生においては、時間の経過や三次元的感覚がすっかり欠落し、理論も秩序も時の経過もなく全ては同時に起きると言い、このような証言は
臨死体験における無時間性にも通じる部分がある。
過去生退行催眠療法の第一人者である
ブライアン・ワイスも、退行催眠によってキャサリンという女性が経験した過去生で、死に対する考えが転生の度に全く違っているにも関わらず、彼女の死の体験は同じであり、死の瞬間前後に意識体が体から離れ、素晴らしいエネルギーに満ちた光の方へ引き寄せられていき誰かが助けに来てくれるのを待っているというプロセスを経ていることを述べている。キャサリンは、
エリザベス・キューブラー=ロスや
レイモンド・ムーディの
臨死体験研究の本を一冊も読んだことがなかったようであるが、それらにも通じている。また、ワイスは過去生への退行催眠と
臨死体験の体験後に生じる人生観やものの見方の変化も非常に類似していると指摘しており、意識を広げ、霊性を高め、物に対する捉われから解放され、一層愛情深くなるといった事から退行催眠と
臨死体験には殆ど同じ効果があるとも述べている。
マイケル・ニュートンも催眠で過去生へと退行する初期のステージで、被験者が精神的に通過する過去の死の描写は、臨死体験者の報告と一致していると述べている。ニュートンは被験者たちが過去生での死の瞬間に魂が肉体から離れ、トンネルを通過し光が見えてくるという証言の多くを紹介している。
また、大門正幸は、退行催眠によって過去生を体験し、その過去生での死を擬似的に体験する事ができるといった事を述べている。そして、退行催眠による死の体験が
臨死体験と同様に甘美なものであるといった指摘もあり、
『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』のエピローグで大門は退行催眠で過去生での死の場面に誘導された際、「どんどん上に上っていった私をまぶしい光が迎えに来てくれています」と述べている。そして、眩しい光と一体となり、幸福感に満たされ、全ての存在と繋がり、全ては愛であるといった事も述べている。この事は、臨死体験者が
臨死体験の核となっている
光の世界の特徴として、全てのものが分離できない仕方で一つになっており、他者と自分を受け入れ互いを愛し合う事の大切さを学んだと述べている事と一致していると言える。さらに、大門は前世療法時の死の体験と
臨死体験の類似性について、臨死体験尺度と改訂版人生変化目録という2つの尺度を用いて確認している。そして、認知的側面、現象的側面において前世療法時の死の体験は
臨死体験と十分類似していると言う事が出来ると結論付けている。また、前世療法での死の体験での改訂版人生変化目録の全体的な数値からは、
臨死体験と同等かそれ以上に前世療法時の体験が人生観に影響を及ぼす事が分かっている。
退行催眠によらない中間生記憶
石井登は、
『臨死体験研究読本』を書いた時に、学問的に信頼の得られる裏付けという視点から、臨死体験者が出会うものと類似した
光の存在に出会う場面を含む退行催眠の中の事例を引用する事が躊躇われたと述べている。そして、
イアン・スティーヴンソンらの研究と相互補完的に大きな意味を持っていく可能性を示唆しているが、今日では、スティーヴンソンとその後継である
ジム・タッカーが退行催眠によらず、前世の人格が死んでから現世で生まれ変わるまでの出来事を語る子どもも少なからずいたことを報告している。このような記憶は、広い意味での
胎内記憶の一種として位置付けられる事もあり、前世の人格の葬儀について述べたり、現世で生まれ変わるまでに実際に起こった出来事を正確に語ったりした子どももいたようである。ジム・タッカー
『転生した子どもたち』の中で、紹介されている祖父としての前世の記憶を持つウィリアムという少年は、死後にどんどん上に昇っていき、天国では神と対面し、動物達の姿も見たと述べている。また、
ジム・タッカーは、このようにあの世の記憶を語る子どもの割合は、前世の人格が変死や突然死を遂げている場合より、自然死を遂げている場合の方がやや高いことも指摘している。さらに、タッカーは
臨死体験の普遍的な特徴は中間生の描写に一致し、類似点は中間生記憶や
臨死体験は死後の生についての報告の一部と考える必要がある事を示しているという事や、死に近づいた事のない健康な幼い子どもが
臨死体験とよく似た中間生記憶を語っている事は、
臨死体験が死にかけた脳が発する最後の火花の副産物という考えでは説明できないといった事も述べている。なお、江戸時代の日本における
勝五郎の事例では、死んだ後、あの世に連れていかれ、そして生まれ変わるために勝五郎の家を見に来たという記憶が中間生記憶に当たると言える。
大門正幸「中間生体験と
臨死体験の類似性〜ちょうと島の話〜」の中では、生まれる前に蝶々がたくさんいるところにいたと言う子どもの話が紹介されており、脳神経外科医のエベン・アレグザンダーの
臨死体験にも無数の蝶が登場している事から類似点が指摘されている。この点に関して更に言えば、蝶は古代ギリシャでは
生まれ変わりの象徴であったし、
エリザベス・キューブラー=ロスも死ぬ事は、蝶が蛹の殻を脱ぎ捨て、新しい世界へと飛び立つようなものだと話している。そして、大門は、三次元空間的な意味での現実性を問うことはできず、一見空想に過ぎないように思われる内容であっても、他の子ども達が語る中間生記憶や、臨死体験者の語る「あの世」の描写との比較から、人間心理の重要な一側面を示す貴重な記録であることに疑いはないであろうと結論付けている。臨死体験者が垣間見た世界をこの世界の言葉で語り理解する事は全く困難であると言えるが、退行催眠によって誘発された死の体験や中間生体験と
臨死体験の不思議な一致、類似性は、人間意識の重要な側面や、「人間は死ぬとどうなるのか」という世界の仕組み、
生まれ変わりのサイクルといった事を考える上でも貴重なヒントとなると考えられる。
最終更新:2023年12月03日 23:27