光の世界
臨死体験には様々な差異はあっても、多くの場合、
光の世界との出会いが中心となっていると言える。
『かいまみた死後の世界』の中で、最も信じ難く、同時に体験者に紛れもなく絶大な影響を与えているのは、非常に明るい光との出会いであると述べられている。この光は、説明し難いほどの輝きを見せると言われるが、体験者に体験の時点で物理的な目が備わっていないためか、眩しく感じられることはないようで、このような光の性質については、
臨死共有体験時に死にゆく人が包まれているという神秘的な光が、通常の物理的光とは異なり、人の霊的成長を促すものであるという報告に通じる部分がある。
レイモンド・ムーディによれば、体験者にとって、この光は人格を備えた生命であり、この生命から発せられる愛と温情は到底、説明し難いものであり、体験者は寛ぎ、この生命の存在を受け入れるとも言われている。体験者の多くは、この光に包みこまれ保護されているという感覚を抱き、この光から受ける愛情は恋人や家族から感じるものとは比較にならないそうである。しかし、橘隆志は日本の
臨死体験ではトンネルを抜けると眩いくらい明るい世界へ入っていくという点は共通しているが、光は必ずしも人格的な存在ではなく美しさにおいて超自然的でも、光は飽くまで光であるといった事を述べている。
斎藤忠資によれば、光の生命が示す愛からは、他者と自分を「受け入れる」ということで、互いに愛し合うことの大切さを学んだという
臨死体験者も多いようである。さらに、斎藤は、
臨死体験の光の特徴を全てのものを無条件の慈愛で結び合わせる光と表現しており、全てのものが分離できない仕方で1つになっており、光は時間と空間を超えていて全てのものに遍在しているという事を述べている。この事は、
臨死体験における無時間性や全一性といった特徴に通じていると言える。
ケネス・リングは
『いまわのきわに見る死の世界』において、コア経験の3番目の段階である暗闇に入る経験から4番目の段階への移行の1つのはっきりとした特徴として、光が現れる事を挙げている。この光は、普通、きらきら輝く金色の光だと説明される。そして、光を見る経験から、その光源があるらしい世界へ入っていく経験をコア経験の最後の段階としているが、この最後の段階に達したことを示している人はケネス・リングが集めた事例のなかで約5分の1ほどであったといい、この段階の経験をしている人は、その素晴らしい体験から、死から生き還ったことを恨めしく思うような気持がはっきりあるという。そして、ケネス・リングは、ホログラフィー的見地から、光の世界をより高い周波数の領域と捉え、意識がホログラフィー的に機能し続けているから、それらの周波数は客観的なものとして解釈され、構築されると述べている。
また、光には、自分の全てを知り尽くされ、理解され、受け入れられているという報告もあり、光の生命とのコミュニケーションは直接的で非常に明快であり、嘘をついたり、光の生命の思考を誤解したりする余地は全くなかった事も報告されている。また
『続 かいまみた死後の世界』によれば、「光あふれる場所」という表現が用いられており、これは聖書の中の天国の描写に通じる部分があると指摘されている。
『臨死体験 光の世界へ』の中では、神経科学で説明できない
臨死体験の一面として、光という要素があることを挙げられている。
臨死体験を脳内現象とみなす人は、物音を聞いたり、天国のような場所を目にしたりすることは脳の器質的過程を調べれば説明がつくと言われるが、脳がほとんど機能を停止してしまい、肉体の機能が完全に停止した後に暗黒の闇ではなく光が現れることは説明できず、
臨死体験において、
体外離脱をしたり、トンネルの中を上昇したりした後の最終段階に光が現れることが指摘されており、光が、体験者がそれまで感じたことのないような温かさと温もりの中に彼らを包み込むと、体験者の態度に信じ難いほどの変化をもたらされるという。
石井登『臨死体験研究読本』の中では、
臨死体験と宗教的覚醒体験を比較する観点として、「光」体験がとても興味深く重要な要素であるという事が述べられている。石井は、
宗教的覚醒体験に伴う光と臨死体験者が出会う光とを比較検討していく上で、東洋思想や宗教、特に仏教が語る光の思想を視野に入れて考える事で、予想もしなかったような広い視野が開てくる可能性を指摘している。具体的には、
臨死体験時に垣間見られる世界が、死後の世界を暗示し、その核に「光」体験があり、体験後に大きな意識変化、時に悟りがあるという点で大乗仏教の教説と共鳴し合う部分があると言える。また、
ケン・ウィルバーは
臨死体験の報告にある光は、その強さによって、「バターランプのような顕れ」のレベル、「皓々たる白い顕れ」のレベル、「赤の増大の顕れ」のレベルが考えられ、チベット仏教の死のプロセスの説明体系との類似性を指摘している。
このような光が生命であるということに疑いを持つ体験者はいないようだが、その生命が何者かという点についての解釈は、各人の教育や信念などによって左右されるらしく、ムーディによれば、敬虔なキリスト教徒は光をキリストとみなし、ユダヤ人は天使とみなし、宗教的な信仰に無縁な人は単に光の生命とみなしたという。ただし、光の生命が物質界で経験したことのないような純粋で全き愛の持ち主であるという点で、臨死体験者は一致していると言える。また、光の生命が誰なのかという点について、
マイケル・タルボット『投影された宇宙』によれば、最終的な素性に関しては、私たちよりもはるかに長く生きており、賢く、人類との間に深い愛情に溢れた結びつきをもっているという事以外、明らかでなく、神なのか、天使なのか、輪廻転生を完了した人間の魂なのか、はたまた完全に人間の理解を超えた何者なのかという疑問の答えは出ないままで、これ以上推測する事は私たちの分を超えるというものだろうと述べられている。なお、ケネス・リングは、この存在は、自分自身であると提案しており、金色の光は、個人が本来持っている神的な性質の反映であると言い、高められた自我の象徴であると指摘している。この指摘に基づけば、個人の人格は全自我から分出した断片であり、死の時に再結合するという事になると想像されるが、このような考え方は、ある種の伝統や
トランスパーソナル心理学において
ロベルト・アサジオリが指摘しているトランスパーソナル・セルフといったものに通じる部分がある。
さらに、
飯田史彦は、2005年12月に
臨死体験をした際に、ものすごく眩しい光が現れたと言い、この究極の光と非言語的なやり取りをしている。そして、究極の光は名前がなく特定の存在ではないという事を示唆し、概念の混乱に悩む飯田に対し「その通り……お前なのだ……お前のすべてであり、もうひとりのお前なのだ」「だからこそ、お前とは別の存在として、名づけることはできないのだ」と教えたという。飯田の体験からは、光が宇宙そのものと繋がる本当の自分であったことが窺えるが、このような体験に於いて、リングが提案しているように、光は個人が本来持っている神的な性質の反映として捉えられるかもしれない。
最終更新:2023年04月24日 00:37