勝五郎の前世とされる須崎藤蔵の墓石(高幡不動尊 金剛寺)
生まれ変わり研究の第一人者であったヴァージニア大学の
イアン・スティーヴンソンが注目した前世の記憶を語る子どもの事例として、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1897年に発表した短編集の中で紹介されている勝五郎の物語がある。
勝五郎は、本名を小谷田勝五郎と言い、1815年に中野村(現在の東京都八王子市東中野)で生まれた。勝五郎が8歳の頃、
生まれ変わりに関する話をし始め、自分の前世は、中野村から5キロメートルほど離れた程久保村(現在の日野市程久保)の藤蔵であったと家族に話したそうである。実際、程久保村に須崎藤蔵という人物がおり、勝五郎が生まれる5年前にあたる1810年に天然痘のため6歳で亡くなっている。ちなみに、藤蔵の墓は現在、高幡不動尊 金剛寺の墓地にある。
勝五郎は、まだ行った事のない藤蔵の家の様子や「父は久兵衛、母はしづと言った」ということなどを話し、両親は最初、放っておいたようでだが、「程久保村に行って久兵衛さんの墓参りがしたい」と話した。そして、勝五郎の祖母が勝五郎を連れて程久保村へ行くと、勝五郎は藤蔵の生家に駆け込んだ。藤蔵の家の人たちは、勝五郎が藤蔵によく似ていたので驚き、勝五郎が「向かいのたばこ屋のあの木はなかった」など以前と変わった様子を話し、周りの人々を驚かせたと言う。
勝五郎の話した事が事実であると分かると、勝五郎は「ほどくぼ小僧」と言われ、地元だけでなく、江戸にも知れ渡り、勝五郎の
生まれ変わりに関する信頼性の高い記録が少なくとも3つ残されている。1つは、鳥取藩の支藩であった若桜(わかさ)藩の池田冠山によるもので、娘を亡くしていた事もあり、勝五郎の家を訪ね、1823年に『勝五郎再生前生話(ぜんしょうばなし)』を記した。2つ目は中野村の領主であった多門伝八郎が記した報告書である。そして、3つ目は江戸時代後期の国学者として知られる平田篤胤が勝五郎と父の源蔵から聞き取った話を記した『勝五郎再生記聞(きぶん)』である。
大門正幸は、勝五郎が藤蔵としての前世の記憶だけでなく、藤蔵の死亡時記憶、
中間生記憶、
胎内記憶、勝五郎の
誕生時記憶といったものも持っていたと指摘しており、勝五郎の事例は生まれ変わりのサイクルを考える上でも興味深い事例であると言える。具体的には、
中間生記憶として、藤蔵の死後、白い髭に黒い着物を着た老人に連れられ「あの世」に行ったという事や、生まれ変わるために勝五郎の家の様子を見たということなどが挙げられる。勝五郎の事例は、今日、文化圏にかかわらず報告のある生まれ変わり事例に当てはまるだけでなく、近年、報告されている
胎内記憶を語る子どもの証言とも類似点があると言える。
勝五郎の
生まれ変わりの話は、地元では口伝えで最近まで語り継がれ、日野市郷土資料館では2006年より、市民参加の「勝五郎
生まれ変わり物語探求調査団」を結成している。また、勝五郎の
生まれ変わりを探訪するコースとして、多摩モノレール大塚・帝京大学駅から出発して、高幡不動尊 金剛寺の藤蔵の墓地まで歩くコースも紹介され、程久保駅近くには、藤蔵の生家、藤蔵の実父が建てた馬頭観音や藤蔵が毎日遊んでいた場所だという程久保六地蔵など当時を偲ばせるものも残されている。また、中央大学の多摩キャンパス内には、勝五郎と祖母が藤蔵の生家を訪ねるために程久保村へ向かって歩いた「勝五郎の道」が残されている。
最終更新:2023年04月24日 10:02