概説
至高経験(peak experience, peak-exparience)は、ピーク体験などとも言われ、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験の事である。必ずしも特別な出来事の最中に起こるとは限らないが、感動や恍惚感など人生において最高の幸福と充実を感じる瞬間であると同時に、その魂の深い部分を震撼させ、人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもあるとも言われる。人間の成長が自我という領域を超えて広がる事を予感していたアブラハム・マズローは後年、自己実現を達成した人々の生活上の動機や認知に重なる特徴を示す至高経験をする人が多々いる事を報告している。マズローは、心理学者が至高経験を無視したり、その存在を公に認めようとしなかったり、客観主義的心理学に於いて科学的研究のための対象として、その存在を頭から否定しようとするのは、全く解せない事であるとしている。また、マズローは、至高経験におかれている時、最も同一性 identity を経験し、現実の自己に近づいており、最も固有の状態であると見ているようである。
至高経験に見られる認識の特徴
至高経験において、精神の統一(合一、全体、一体)が感じられると言われる。マズローの言う至高経験に見られるB(B=Being〈存在・生命〉)認識は、普通の人々の日常的な認識のあり方であるD(D=deficiency〈欠乏〉)認識と比べ、宇宙における全てであるかのように、宇宙と同じ意味の生命の全てであるかのようにみられ、対象は1つの全体として把握される。世界と渾然一体に深く繫がることができるという点は、ワンネスの体験にも通じ、「分かる」という言葉の語源は「分ける」事であると言われるが、日常的な認識の在り方は、そのような全体を整理し都合の良いように分類して把握しているという事になる。そのような意味でも、B認識は無選択的な認識であると言え、具体的であると同時に抽象的である。
また、B認識の場合、認識の対象に専ら傾倒され魅惑され、あるいは没頭するとも言われ、普通の認識に比べ、受動的な性格をもつと言える。さらに、B認識は無比較的認識、没価値的、没判断的認識とも言え、自己自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる。通常、人間の認知は人間の産物であり自己が生きていく手段として見られるが、至高経験の際には、自然がそのまま、それ自体のために存在するかのように見ることができ、人間との関係を絶った認識が可能になる。
至高経験において、認知は自己超越的、自己忘却的であり、無我でありうる。認知的な経験は自我に基づいているのではなく、中心点を対象に置くといい、観察者と観察されるものとが一体となり、本来2つのものが1つの大きな全体、並外れた単一体に融合するとさえ言っている。また、至高経験は自己合法性、自己正当性の瞬間として感じられ、それとともに固有の本質的価値を担うという点でも、それ自体非常に価値の高い経験である。さらに、至高経験において、自分がその力の絶頂にいると感じられ、全ての能力は、最善かつ最高度に発揮せられているとも言われ、他のときと比べて、知性を感じ、認知力に優れ、才気に富み、力強く、好意的である事を感じるとも言われる。
至高経験における時空の超越
マズローの研究してきた至高経験では、全て時間や空間について非常に著しい混乱が見られる。この瞬間には、人は主観的に時間や空間の外に置かれているというのが正しいだろうと指摘している。マズローは、創作に熱中している詩人や画家が時間の経過を覚えていないといったようなことに輪をかけたことがよく報告されるとし、以下のように述べている。
恍惚感の時が驚くべき速さで過ぎ去るので、一日はまるで一分間であるばかりか、またその一分間は非常に激しく生きられるので、一日あるいは一年のように感じられるのである。かれらはある意味で、時間が停止していると同時に非常な早さで経過してゆく別の世界に住んでいるかのようである。われわれの通常の分別からすれば、もとよりこれはパラドックスであり、矛盾である。それでもやはりこれは、報告された事柄であり、したがってまた考慮しなければならない事実なのである。
また、通常の経験は、人間の変動する相対的な欲求に基づき、歴史や文化の中に組み込まれ、時間や空間の中で組み立てられるものであり、大きな全体や準拠枠に相対的なものであると言える。しかし、至高経験には、自己の人生を越えて永続する現実を見つめているかのような強い絶対性が伴う。
登山家の至高経験
類史上初めて8000メートル峰14座全てに単独無酸素で登頂したイタリアの登山家ラインホルト・メスナーは、様々な登山家が極限的体験の中で経験した不思議な体験報告を多数取り上げており、その中には、至高経験のような意識の変容や覚醒をもたらすものも含まれることが指摘されている。
無限の、なにもない空間の中心である頂に私は座っていた。はるか他の谷々に乳色の靄が沈んでいた。私のまわりの地平線が、私の中にある空虚さと同じように膨らんできた。すると私の深い呼吸が自然に凝縮して、純粋の幻視的な輪となった。なんともいいようのないほがらかな放下感とともに私のこの調和状態、一種のニルワナ――涅槃から目覚めた。
人に踏まれることのなかったこの世界で、私を支配するものは、一方では雲や谷、深さや広がりの現実的知覚であるが、他方では、自然が演出するその劇とは一見ほとんど関係がないような、精神的感銘と内的照明(悟り)である。私は八千メートル峰から再び低地にもどったとき、精神的に生まれ変わったように思ったことが何度もあった。だから私が高所での体験から得た認識を、私は錯乱や幻覚ではなく、深い真実だと思っている。
初めてのいくつかの大きな遠征の後で、私は自分の人生がひろがったのを感じたが、同時により思慮深くもなった。三つ目の八千メートル峰であるヒドゥン・ピークが私に鎮静作用を与えた後、涅槃とは何であるかがようやくわかりかけてきたと思った。つまり私は生を超えるものの息吹を吸ったのである。エベレストの頂上では一種の精神的オルガスムを体験した。それは時間と空間のない全有意識における感情的振動である。そのとき私の理性は完全にシャットアウトされていた。
メスナー自身のこのような極限状態における実体験から、人間についての未知の生体(組織)についても、仮説を巡らせており、精神的人間の経験能力には限界がないことを示唆している。
臨死体験との関連
石井登は、宗教的な覚醒体験の場合にも
臨死体験の場合にも見られる自己からの解放、自己超越とは、人間の内的な成長が最高度に達した段階であるという結論付けられるとしている。 そして、自己超越は、スーザン・ブラックモアの理論のように人間の内的成長のプロセスを度外視した機械論的な理論によっては、説明できるものではないという。
臨死体験がもたらす意識の変容のとして、特定の宗教の教義から自由になり、より深い霊性、精神性に目覚め(自分の内に大いなる命、神のエッセンスが内在していると実感し)、個別の宗教のドグマに固執しなくなることは至高経験の体験者にも通じる部分があると考えられる。正統派心理学者が至高経験を無視しているが、至高経験は我々の意識の可能性に満ちている事を示しており、このような経験に目を向けることで「人間とは何か」「宇宙とは何か」といった事について新たな事実が見出されるかもしれない。
最終更新:2025年02月09日 16:39