概説
ケネス・アール・ウィルバー・ジュニア(Kenneth Earl "Ken" Wilber Junior、1949年1月31日-)は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の哲学者、ニューエイジの思想家、
トランスパーソナル心理学の論客ある。デューク大学医学部に進学後、老子『道徳教』と出会い、それまでに彼を支えていた現代科学を核とする思想的基盤を根本的に揺さぶられることになる。そして、デューク大学を退学したのちネブラスカ大学に再入学し、化学と生物学を専攻すると同時に東西の哲学書を貪るように読破し、瞑想などの実践にも取り組んだ。大学院進学後、思索とそのような実践に重心を移し学位取得目前で退学しており、1973年に
『The Spectrum of Consciousness』(邦題:
『意識のスペクトル』)を完成し、意識の全体像を階層モデルで捉える
意識のスペクトラムを提唱した。なお、ウィルバーは自身の思想を、ウィルバーI、ウィルバーⅡ、ウィルバーⅢ、ウィルバーⅣ~Ⅴという時期に分けて説明しており、鈴木規夫はウィルバーの思想活動の基盤にある根本的な発想は次のように説明され得ると指摘している。
世界に存在するあらゆる視点は必ずある真実を内包する。従って、必要とされるのは、存在する多数の視点のうち、どれを最も正しいものとして選択するかということではなく、それぞれの視点が内包する真実を認識・尊重したうえで、それらがどのように相互に関係しているかを理解することである。
実際、ウィルバーⅠの代表作である
『意識のスペクトル』において、
意識のスペクトラムの諸段階は互いに対立するものではなく相補的であるとし示唆しているし、
トランスパーソナル心理学から袂別した後に提唱したインテグラル思想の原理も「すべては正しいが、部分的である」というものである。そのような事から、ウィルバーは、存在するあらゆる視点は、それぞれの世界を構築する創造装置ということができるが、それぞれの創造行為は独特の方法で世界を照明すると同時に、独特の方法で世界を覆い隠してしまうため、あらゆる視点は構造的に盲点を内包するとしている。
ウィルバーⅡ
ウィルバーⅡを代表する著作として、
『The Atman Project』(邦題:
『アートマン・プロジェクト』)と
『Up from Eden』(邦題:
『エデンから』)が挙げられる。両書を執筆中、ウィルバーは、ウィルバーⅠを代表する
『意識のスペクトル』において、高度の宗教的体験を病的な退行体験として解釈したり、幼児的な体験を高度の宗教的体験として解釈したりといったように、高度の成長段階(脱人格、トランスパーソナル段階など)と低度の成長段階(前人格、プリパーソナル段階)の混同を内包していた事を認識するに至る。この認識を契機として、ウィルバーは、数年間におよぶ思想的な危機を体験する事となり、ウィルバー思想の第2期ウィルバーⅡを形成する。そして、ウィルバーは原初の統一性から発して分離を経て再び原初に戻るという円環思想を捨て、単線的な進化論に転換するに至っていると言える。
『アートマン・プロジェクト』においては、人間の個体発生的な心理の発展を論じ、
『エデンから』では、人類全体の系統発生的な進化の歴史を取り扱っている。両書は、1つの作品として構想されたと言われ、人間の心理の発展と進化の歴史は、人間の心の発展という点で同じ軌跡を辿るという視点から論じている。ウィルバーは、人間個人の心の発達を
プレローマ・ウロボロス、
テュポーン、
メンバーシップ自己、
メンタル自己、
ケンタウロス、
微細(subtle)、
元因(casual)、
究極(非二元)といった諸段階に分けて論じている。
意識のスペクトラムにおける見解と同様、実存的なケンタウロスのステージまでは、多くの人々が認める心の発達の最終段階と言えるが、世界の偉大な神秘家や聖人、賢者はより高次な心の発達ステージにあったという。微細領域の中でも低位微細(low-subtle)は霊能力者の世界であり、高位微細(high-subtle)はさらにその上の段階で、カール・グスタフ・ユングの言う元型が現れる。元因(casual)は高位微細からの脱同一化であり(これも上位と下位に分けられる場合もある)、そして究極(非二元)は、最終の目覚めた意識状態で、粗い領域、微細領域、元因領域の一切の意識状態であるという。
ウィルバーは、人間の心の発達は、ウパニシャッドの「梵我一如」の「我(アートマン)」であるところの真の自己を希求して進んでいく運動であると捉えるが、人類全体の系統発生的な進化の歴史を取り扱う
『エデンから』の中では、歴史が目的のない単なる進化に過ぎないとする現代科学の見解には1つの欠陥があるという事を以下のように述べている。
何ゆえに進化があるのか、歴史の行きつく先は何か、ある方向に向かうことの意味合いは何か。しかし、「意味」ということばは科学的な意味をもたない。価値を計測する実証的テストはないからである。そこで哲学者の衣をまとった科学者である実証哲学者たちはこのような問いを発することさえ許さない。科学的な解答が出ないような質問はそもそも出すべきではないし、「人間の歴史の意味は何か」という問いかけに対する答えは「愚問である」となる。論理的実証主義には良い面も多々あるが、実証主義者たちがおこなう観念的分析は現代の悩める魂を救い得ないでいる。
科学は自らが取り扱う現象の意味や目的を説明しきれない。意味や目的を問うことは科学のめざすところではなく、科学はそのように組み立てられてはいないからである。それは科学の責任ではない。しかし、「科学が計測し得ないがゆえに意味なるものは存在しない」と主張して科学が科学至上主義に変身するところに悲劇がある。実は、科学的証明のみが真実であるという科学的証明はないのである。
そして、ウィルバーは、「歴史の意味とは何か」という問いに対する神学的答え、思想は反科学的ではなく、ある意味では超科学的、原科学的であるとし、純粋科学のもたらす厳密なデータとも共存すると述べている。このような事からも、ウィルバーは偶然が宇宙を突き動かしているという考えには否定的である。
ウィルバーⅢ
ウィルバーⅣ~Ⅴ
ウィルバーは、1990年代中期以降、トランスパーソナルから決別し、より包括的な理論としてインテグラル思想を提唱しているが、その原理は「すべては正しいが、部分的である」というものである。なお、ウィルバーⅤの特徴としては、意識構造(Stages)と意識状態(States)との関係に注目した意識進化の枠組みを構築したところにあると言われる。
存在の大いなる入れ子(the Great Nest of Being)
存在の大いなる入れ子(『科学と宗教の統合』p.10より)
ヒューストン・スミスらが、世界の偉大な叡智の伝統のほぼすべては
存在の大いなる連鎖という信念に同意していると指摘している事をもちだして、ウィルバーは現実(リアリティ)とは、物質から心そして霊(スピリット)に至る、一連の入れ子の中の入れ子であると表現し、
大いなる入れ子のそれぞれの上位レベルはそれより下位の諸レベルを含むが、さらに下位の次元にはない創発的な性質をもつという。そして、物理学は物質を研究し、生物学は生命体を研究し、心理学や哲学は心について語り、神学は魂ならびに魂の神との関係を研究し、神秘主義は無形の神性、純粋な空、神や魂すら超えた霊の根源的経験を研究するといったようにいずれの次元もそれに対応した特定の知識部門があるという。ウィルバーは西洋における近代の興隆とともに、このような存在の大いなる連鎖は姿を消したと言い、宇宙が物質またはエネルギーで構成されているとする科学的唯物論として知られる世界観が支配的になった事を述べているが、
『眼には眼を』の中で提唱した肉の眼(自然科学的な眼)、理知の眼(客観的眼より心的現実が重要な心理学的眼)、黙想の眼(霊の眼であり、精神が精神を直接体験することによる知)といった3つの眼の考え方を基盤に、科学的言語では論述しきれないリアリティがある事を主張している。また、そのような事から霊的ないし全体論的な世界観と符合するニュー・パラダイムのアプローチが科学的リアリティと宗教的リアリティを統合するだろうという主張に対して批判的であり、カオス理論、複雑性理論、システム理論、量子理論も黙想的領域に関しては直接的な霊的知識を提示する事はないとしている。そして、ニューパラダイムは、事実上、黙想の眼を理知の眼と肉の眼を台無しにしてしまっていると述べている。一方で、ウィルバーはヒューストン・スミスとは異なり、科学もまた永遠の哲学の味方であり、科学が科学以前の幼稚な信仰を拭い去った点は賞賛している。
四つの象限
四つの象限の詳細(『万物の歴史』p.113より)
存在の大いなる連鎖は階層構造であるが、現代科学にも粒子、原子、分子、細胞、組織、組織システム、生命体、生命体の社会…といったような独自のヒエラルキーがあり、ウィルバーは前近代的宗教と近代科学の両方がヒエラルキーをもっていることに注目している。そして、システム理論、生体科学、生物進化、宇宙・恒星進化、カバラ、道徳的発達、仏教の瑜伽行派、ヒンドゥー教ヴェーダーンタ派、新儒教主義、華厳仏教など数百のヒエラルキーを収集、分類し、それらは個人における内面(主観的な心理現象)と外面(客観的な行動現象)、集合的領域における内面(文化)と外面(社会・システム)という4つのホラーキー、全体論的秩序から見ることができるという四象限モデルを提示している。
『Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution』(邦題:
『進化の構造』)において、ウィルバーは、思想活動をその端緒より特徴づけていた「個人」と「集合」の領域を相互に有機的に関連するものとして一つの包括的な理論構想のなかに統合する事に成功する。ウィルバーの理論構想を支えている発想は、人間の意識のそれぞれの視点が内包する真実を認識・尊重した上で、それらがどのように相互に関係しているかを理解することであるという。そして、
トランスパーソナル心理学の理論である
意識のスペクトラムは、こうした態度を基盤として、垂直的に存在する認識(存在)の階層を纏めたものであるが、『進化の構造』以降の著作の中で提唱され、継続的な修正が加えられて展開した
AQAL("All Quadrants, All Levels"を省略したもの)は、この意識(存在)の階層を、水平的に存在する認識(存在)の領域へと展開したものである。水平的に存在する認識(存在)の領域として、"I「私」"・"WE「私たち」"・"IT「それ」"の3つを挙げている(文脈によっては右下象限は"ITS"であり、「それら」と表記される)。
"私"(Individual Interior)
左上は個の内面の領域である。意識、自己、主観的な知覚そのものを記述する。全てのホロンの主観的要素が「私」という要素である。この視点は、個の主観的(subjective)な存在としての真実性を尊重するもので、そこでは、個は、自己の内的な意図にもとづいて行動する自律的な存在としてとらえられる。
"私たち"(Collective Interior)
左下は集合の内面の領域、文化あるいは間主観的な次元である。この視点は、倫理道徳、世界観、共通の文脈、文化、相互理解などを重視するもので、「私たち」が世界をどのように見るかに関わる。このような「私たち」の世界観は古層的、呪術的、神話的、合理的という段階を経て進化する。
"それ"(Individual Exterior)・"それら"(Collective Exterior)
右は、個の外面の領域、集合(共同体)の外面の領域である。この視点は、客観的に観察をする事のできる自然、事象を重視するもので、そこでは、主観的な要素や価値に影響される事のない普遍的な事実が追求される。この領域は、物理学から生物学、エコロジー、社会学、行動主義などに至る分析的なシステム科学の共通言語である。客観的な外面とその相互関係などを記述する。
死後生に対する態度
ウィルバーは
トランスパーソナル心理学の論客であったが、人間の心の発展の最終段階が、究極(非二元)であると捉え、実在の世界は「この世」と「あの世」という二元論を超えていると捉えている事が窺え、究極を愛する彼にとっては死後生は取り立てて論ずるに足りない主題であろう。西平直は、ウィルバーのモデルで言えば、「死後の魂」は、意識の低いレベルにとどまったものの見方であるといい、より拡大したアイデンティティのレベルに至れば、「肉体と魂の分離」それ自体は、さしたる問題ではなくなり、個体としての「自我」の死後存続に執着する必要はないという。ウィルバーの死後生に対するこのような態度は、
『グレース&グリット』の中で、妻の臨終に際して不可解な現象が重なるが、それらも超個的(トランスパーソナル)帯域における最初の次元に過ぎないとして、無関心を表明している事からも窺える。
また、ウィルバーⅣ~VにおけるAQALの中でも、個人と社会集団の発達段階が多彩に展開される一方で、その中に死後生を位置づけるべき余地を見出すのは困難であると言える。ウィルバーのインテグラル理論は、
トランスパーソナル心理学が扱う魂や神などを削ぎ落としているといった意見もあるが、
『科学と宗教の統合』の中では、AQALの左上の象限に関して、ヴィジョン・ロジックまでの人間の発達段階を受け入れ、さらに4つの高次のトランスパーソナルな段階(心霊から非二元まで)を付け加えるなら、その結果はまさに伝統的な「存在の大いなる連鎖」になると述べており、
『万物の歴史』においても、以下のように述べている。
もしこうした高次のトランスパーソナルな段階が私たちの未来の集合的進化において出現するとすれば、意志的、行為的、文化的および社会的といった四つの象限すべて顕現するでしょう。で、私たちは、たとえ高次の段階を個々の場で探究しているだけだとしても、こうした未来の進化の可能な形を待っているわけです。
なお、ウィルバーはAQALの中で、内面的次元としての心または意識は「私」であり、外面的な脳は「それ」に位置づけられるとしているが、両者に相関関係を認めていると言える。しかし、高次のトランスパーソナルな段階がいかに脳と相関しているかは詳述していないように思う。
ちなみに、
『グレース&グリット』の中で、「死の瞬間が重要なのは肉体が滅びた後も、もし何かが残っているとしたら、死の瞬間こそが、それを見出す時だからである。ちがうだろうか。」と自問自答しているが、このような死の瞬間の重視は『チベット死者の書』等に特有の考えであり、普遍的合意はないという意見もある。。
最終更新:2024年04月23日 23:23