臨死共有体験(Shared-Death Experience)は、死に瀕した人だけでなく、その周りの健康な人々にも
臨死体験の内容の一部が共有されるという体験である。死の前後に近親者や周囲にいた人が異変を感じ取ったりする現象は
虫の知らせや
幽霊体験などとして古くから知られ、医学者のピーター・フェンウィックも研究対象として
共死体験の例が集めていた。そして、
レイモンド・ムーディによって、1980年代頃から臨死共有体験の事例の収集が行われ、かなりの報告数がある。また、ムーディと面識のないまま、本を書いていたというジャン=ジャック・シャルボニエは、この体験を
死の疑似共有体験と名付けている。なお、歴史的には中国唐代の浄土教の僧、迦才が記した「浄土論」の中にも臨終者のそばにいた全ての人が神仏の姿を見たという事例が紹介されている。
周囲の人に共有される体験として具体的には、空間が変容して見える、神秘的な光が見えたり神秘的な音楽が聞こえたりする、一緒に引き上げられる感覚を持つ、
体外離脱する、
人生回顧を共にする、天的な領域へ入る、遺体から上がる霧のようなものを見るということなどが挙げられる。
空間の変容という要素は、
臨死体験には見られないもので、様々な形への変容が報告されている。ムーディによれば、兄の臨終の床に付き添っていたある女性は、四角い部屋が別の形に変形した事を見たという事や、数学の教師をしていた男性は部屋が崩落と膨張を同時になしたように見え、代替の幾何形態を目撃したようだった事を報告している。また、部屋の形が変容したというだけでなく、「別次元」や「時間のない世界」への扉が開いたという報告もあり、私たちが見ているものは単に表面に過ぎず、「死の際にある種の出入口がポンと開き、より高い異次元の世界に導く」と表現されている。
神秘的な光や音という要素について、神秘的な光は、通常の物理的光とは異なり、人の霊的成長を促す光であり、死にゆく人がそのような光に包まれているという報告もある。音について、ムーディがメリーランド州でインタビューした女性の証言によると、夫の臨終の際、天井の隅あたりからキラキラした光が降りて、音が聞こえ、光が大きくなり夫の上あたりにくると、音が大きくなりそれまでに聴いた事のない非常に美しい音楽が聞こえたという。
また、
体外離脱、
人生回顧という要素は
臨死体験にもしばしば見られる現象で、臨死共有体験では死にゆく人の付き添いをしている人にもこれらの体験が起こり得ると言える。
人生回顧という点に関して、過去の人生の知らなかった場面や忘れていたような場面が思い出されるという報告もあり、ムーディは、サンディエゴの女性が10代の息子の病床で、息子が人生の様々な場面でなしたことを映像のように見たというケースを紹介しており、息子が部屋で一人でゲームで遊んでいる姿や友人たちと電話で話している姿など、女性には全く知らなかった場面もあったという。
天的な領域に入るという点に関しては、
臨死体験においてもこの世界とは明らかに異なる存在領域に入ったことを報告する体験者がおり、「パラダイス」「清い」「澄み渡った」「天国の」などという表現を用いているという点で、臨死共有体験中に見られたと報告される世界についての証言と酷似している事がわかっている。
霧のようなものを見るという点に関しては、臨終の人の体から「霧のようなものが立ち上るのを見た」という証言がいくつかある。霧についての表現には幅があり、白い煙や蒸気、人の形などという人もいたという。ムーディは、ジョージア州の医師が患者の臨終の際に体から立ち上る霧のようなものを目撃したというケースを紹介しており、その医師は患者の胸の辺りから霧のようなものが立ち上り空中で浮遊しているのを目撃し、その霧は幾層にもなり、複雑な構造をもち何かのエネルギーで脈打っているようだったと述べている。フェンウィックもこのような事例について、目撃されているのは、「煙」「灰色の霧」「白い霧」「とてもか細く白い形」など様々であると指摘しており、時には肉体の上に留まった後、天井を突き抜けて消えたことや、愛、光、共感、純粋、時には天からの音楽などが伴っていたとも言われている。そして、その出現は束の間で、誰かが部屋に入ってきたり、話しかけられたりしただけで消えてしまうという。また、雲のようなものが肉体から出た現場ではなく、離れた場所から目撃される事例もあるといい、フェンウィックは以下のような事例を紹介している。
夫と私は死に瀕している八三歳の祖母を見舞いに行きました。帰り際、門のところで義父とその妹に声をかけました。話している時、灰色の雲のようなものが家の背後(彼女の部屋のある辺り)から出て来て、空へ上って行くのが見えました。数秒ほど見ていた時点で、義父に「中に入って、おばあちゃんの様子を見ましょう」と言いそうになりました。けれども不幸なことにそうしないで、今見たものについても誰にも言いませんでした。家に着くと、義父から電話があり、家の中に戻るとおばあちゃんが死んでいたということでした。雲もない三月の晴れた夜で、煙が上がるような煙突のある家もありませんでした。
この他、死亡時刻に微風や空気の吹き付けがあったことを感じるという事例もあり、中には偶然にしては出来過ぎているという話もあるという。
レイモンド・ムーディ自身も母の死の際に臨死共有体験をしており、
レイモンド・ムーディ/ポール・ペリー『生きる/死ぬ その境界はなかった』によれば、母の死の際、ベッドの周りで姉妹たちと手を繋いで見守っていたところ、部屋の形が変形したように見え、その場にいた6人中4人が引き潮のような強い力に引き上げられ浮遊しているように感じたと言っているという。そして、ムーディの姉妹は父が母を迎えに来ているのを見た事や部屋の光がソフトになったと証言しているという。このような体験は、喜びに満ちており、ムーディも「私たちがいる地上世界が想像の産物なのか」と思うくらい、向こうの世界の方がリアルだったと述べている。
シャルボニエも
トンネルや光など、臨死共有体験により
臨死体験の一部が、その周りの健常者にも共有されているという事例を紹介しており、このような事例の存在は、死にゆく脳の生理的変化がもたらす幻覚であるとする脳内現象説では説明できない。
只木大翔は『現代哲学で考えた「死」と「魂」 新しい「心の哲学」』において、多数の事例に共通する要素や複数の人による目撃といった事から、幻覚説を跳ね返すと主張しており、臨死共有体験は死後について多くのことを示す可能性がある。心理カウンセラーのウィリアム・ピーターズは、スキー事故と病気で2度の
臨死体験をしており、その後、死の床の患者に付き添っていたら、急に体が宙に浮かび同じく宙に浮遊している患者と目が合い微笑まれたと言う体験をしたと言い、ピーターズは、共死体験も
臨死体験と同類の意識の変容を人にもたらすという。
最終更新:2024年07月04日 11:31