概説
臨死体験は、英語ではNear Death Experience(略称はNDE)といい、近死体験、近似死体験やニアデス体験などと訳される事もある。文字通りに言えば、事故や病気などで死に瀕した人が「死に臨んでの体験」であり、臨床的に死を宣告された、またはそれに近い状態にあった患者が、蘇生した後に語るその間の体験の事である。その体験には、しばしば不思議なイメージや肉体の五感を超えた意識の変容状態が含まれ、体験後に人格の変容をもたらすという例もある。
臨死体験の内容には個人差があり、体験する順番もまちまちであり、個々の体験はそれぞれ個性的であると言えるが、日本では三途の川を見た、御花畑の中を歩いた、意識体が肉体から抜け出した、死んだ人に出会ったなどといった明らかに共通のパターンがある。
レイモンド・ムーディらによって、臨死体験には以下のような内容が多く見られる事が指摘されている。また、ケネス・リングはこのような一連の要素を核という意味から
コア経験(core experience)と呼んでいる。
なお、耳障りな音という要素は、ケネス・リングの研究ではそのような聴覚的現象を裏付ける事例は僅かであるとされ、決して起こらないとは言えないが、頻繁に起こるものではないとも考えられる。また、ジェフリー・ロングは研究者たちは臨死体験には12の特徴の一部あるいは全てが含まれるとしているとし、上に挙げたもの以外では「
知覚が鋭敏になる」「強烈感情、多くの場合、ポジティヴな感情が芽生える」「この世のものではない(「天国のような」)世界に遭遇する」「特別な知識に出会い、習得する」といった特徴を挙げている。
臨死体験で見られる各要素の発生率(哲の光管理者が作成)
また、臨死体験の発生率を科学的に推定する事は困難であるが、国際臨死体験協会はその発生率を4~15パーセントとされ、これは臨床上の死とされている心肺停止の状態になってから生き還った人が臨死体験を記憶していた割合である。他にも、344名の心停止の生き残りを調査したオランダのグループが医学雑誌『ランセット』に発表した報告によれば41名(約12パーセント)、ブルース・グレイソンの研究では10パーセントとなっている。また、1982年にギャラップ社がアメリカで行った世論調査によれば、アメリカ人の4パーセントに相当する約800万人が臨死体験をしているという。臨死体験の発生率や体験内容に男女差はなく、年齢も幼児から御年寄りまで様々であるという。
臨死体験の研究史
臨死体験や、意識のはっきりとした患者が既に死亡している親族や友人等の姿を見たり気分の昂揚などを起こすと言われる
臨終時体験の研究の起源には、死後生存の可能性の検討に沿った研究と、偶発的に報告された体験の現象面に焦点を絞り死後生存との関係は特に配慮しない研究の2通りあることが指摘されている。前者は、アメリカ心霊研究協会の事務局長を務めたジェームズ・ヒスロップ(1854~1920)、英国の物理学者ウィリアム・フレッシャー・バレット(1844~1925)、アメリカ心霊研究協会のカーリス・オシス(1917~1997)と続き、後者はスイスの地質学者アルベルト・ハイム(1849~1937)、イタリアの医師エルネスト・ボッツアーノ、アメリカの精神科医の
レイモンド・ムーディ(1944~)と続く。なお、後者についてはムーディの研究が注目された後に遡って発掘されたものであり、互いに関連性はない。
そして、1975年に医師の
エリザベス・キューブラー=ロスと
レイモンド・ムーディが相次いで著書を出版した。特にムーディの『Life after Life』(邦題:
『かいまみた死後の世界』)は社会の広範な層に大きな反響を呼び起こした。その後、臨死体験の研究が科学的でないことに不満を持ったケネス・リングやマイクル・セイボムらが独自に研究し研究書を出している。ケネス・リングの考える臨死体験研究の主流は、リング自身をはじめ、ムーディやセイボム、ブルース・グレイソンなど、多くは
国際臨死研究学会(IANDS)に関係する主として医学、心理学方面の研究者による臨死研究の事を言い、IANDSに関係する各方面の自然および人文科学者が行なっている研究は、件数のうえでは、心霊研究の方面からの研究を遥かに凌いでいると言える。
また、ジェフリー・ロングは1998年に
臨死体験研究財団(NDERF)とその
ウェブサイトを立ち上げ、100以上の質問から成るインターネットアンケートにより多くの臨死体験の事例を集め、分析している。2001年には世界で最も権威のある医学雑誌である『ランセット』に循環器科の臨床医であるピム・ヴァン・ロメルが行った臨死体験研究の学術論文が発表されている。
今日では、ムーディらの研究が注目されてから半世紀近くが経っており、サム・パーニアを筆頭とする第2世代の研究者が活躍するようになっている。パーニアは医学者のピーター・フェンウィックに弟子入りし、生と死のメカニズムについて探究した。そして、生から死への移行は一瞬で絶対的なものではなく過程であるとし、臨死体験者は死に近づいたのでも死に臨んだのでもなく、死の過程を事実として体験していたと考えられるといった事から心停止した状況で客観的に死と言える期間に発生したときに実際死体験(actual-death experience)と呼ぶべきだとも提唱している。また、フランスの麻酔・蘇生医であるジャン=ジャック・シャルボニエも死に瀕している状態や死の境界での体験という用語より、一時的な死の体験という用語を使う方がより正確であると指摘している。
なお、日本でもムーディの著書などの翻訳、橘隆志(立花隆)の著書
『臨死体験』などを通じて、臨死体験という言葉自体はかなり知られていると言える。また、石井登は、精神世界関連で、これだけ信頼に足るデータが蓄積された分野は臨死体験の他にあまりないと述べている。
臨死体験を記述した歴史的文献
臨死体験が科学的に研究され、注目されるようになったのは、1970年代半ばの事で、医師の
エリザベス・キューブラー=ロスと
レイモンド・ムーディが相次いで著書を出版し、日本では1994年に橘隆志の著書である
『臨死体験』が出版されたことなどがきっかけで、「臨死体験」という言葉が広まったと言われている。しかしながら、ルネサンス期の画家、ヒエロニムス・ボスが描いた「Ascent of the Blessed」という絵画には、臨死体験に見られるトンネルと光のイメージが描かれていると言われるように、臨死体験という現象自体は現代に特有な現象というわけではないことが窺える。それ故、そのような体験が存在すること自体は古くから知られていたと言え、以下では、古今東西の歴史的文献の中から、臨死体験を記述していると思われるものを紹介していきたいと思う。
古いものでは、紀元前4世紀に、ソクラテスの弟子である哲学者のプラトンが記した『国家』に登場する内容が挙げられる。『国家』に登場するエルという兵士は、戦場で重傷を負い、死んだと思われていたが、死後10日経ってもエルの死体は腐らず、火葬される直前に生き返ったという。エルはあの世へ旅立った事を話し始め、具体的には霊魂が肉体を離れて、別の霊魂とともに、天と地につながる出入り口の穴がそれぞれ2つ開いている空間に行ったと言い、そこで霊魂は次々と神聖な生命による判決を受け、エル自身は物理的世界に戻り、「死後の世界の様子を伝えなければならない」といった事を告げられ、肉体に戻り蘇生したと言われている。
他にも、臨死体験を記述していると思われる文献はあり、チベットの賢人たちが積み上げてきた知恵の書である『チベット死者の書』には、死後に出会う光景への対処の仕方として、物理的肉体の死後に霊魂が辿る様々な階層が詳しく述べられている。『チベット死者の書』は、人間の精神、あるいは霊魂が物理的肉体を離れ、自分が喜ばしい気持ちに包まれていることに気づくということや、人が全生涯に行った善悪の行為の全てを映し出す一種の鏡といったものにも言及しており、
レイモンド・ムーディはこれらが20世紀のアメリカ人の臨死体験の報告と驚くほど似ているという事を指摘している。また、
石井登『臨死体験研究読本』の中では、チベット仏教の根底に生命の本質は心であり、その心の本体は純粋な「光」であるということが述べられ、臨死体験における「死」、「光」、「悟り」の関係を考える上でも重要なヒントを与えてくれるといったことが述べられている。
さらに、中世から臨死体験が注目され始める20世紀末までの間にも、臨死体験と考えられる報告は挙げられ、例えば、18世紀の科学者、思想家のエマヌエル・スウェーデンボリや心理学者のカール・グスタフ・ユングも臨死体験をしていたと考えられる。スウェーデンボリの著書には霊的記述があるが、スウェーデンボリ自身、死に伴う初期の出来事を体験し、物理的肉体から離れ、いくつかの生命と出会ったこともあるという事を述べている。また、『ユング自伝 思い出・夢・思想』によれば、ユングは、1944年に心筋梗塞に続いて足を骨折するという災難に遭い、宇宙の高みに上り青い地球を見たり、人生で経験した全てが自分とともにあると感じたりしたといった事を述べている。
日本でも『日本霊異記』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『扶桑略記』『日本往生極楽記』などの中にも臨死体験に似た体験が記されている事を指摘されている他、イランのバハイ教の死後の「光の王国」の記述にも類似点があると言われている。また、近代の文献では民俗学者の柳田國男の『遠野物語』に臨死体験が多く登場する。
歴史的文献に見られる臨死体験は、個々の文化や宗教、哲学的世界観などの影響を受けている部分があったり解釈に関わる点で相違があったりすると言え、そのまま事実と受け取るのは誤りであろうと言われるが、これらの話の素材となった原始的事実はあったに違いないと指摘されている。そして、
体外離脱などの主要な要素にはある程度の共通点が見出されるのではないかと考えられ、時代や文化、宗教を問わず歴史的文献に見られる臨死体験の存在から、共通点を見出していくことは、臨死体験のより本質的な、普遍的な部分を見出すことにつながるのではないかと思う。
文化的影響から考える臨死体験
橘隆志は、少数部族であるカリアイ族の臨死体験が先進国のものと共通性に乏しくいわゆるコア体験がほとんど認められない事などから死の概念の違いによって臨死体験の内容が変化する事を指摘している。そして、現実の臨死体験は全てそれぞれの文化のコンテクストの中で、その文化独自の言語、イメージ、シンボルを用いて表現されたものだと言い、文化に影響された部分を全て排除しようとしたら玉葱の皮を全部剝くように何ものこらない事になってしまうかもしれないと述べている。、
一方、ジェフリー・ロングは異文化における臨死体験についても広範囲にわたる研究を行った結果、臨死体験の主たる要素は世界中で同じであったという結論を提示している。ロングによれば、インドのヒンドゥー教徒であろうが、エジプトのイスラム教徒であろうが、アメリカのキリスト教徒であろうが、
体外離脱、
トンネル体験、穏やかな気持ち、
光の存在、
ライフレビュー、戻りたくない気持ち、そして体験後の影響など主たる特徴は同じであったといい、文化的信条は臨死体験の内容に特に影響を与えないとしている。因みに、フィリス・アトウォーターは臨死体験それ自体を
初期経験(時として「非経験」とされる)、
不愉快で地獄のような経験(内部浄化、自己との対峙)、
快適で天国のような経験(安堵感と自己確認)、
超越的な経験(天啓、現実を超えた経験)の4つに分類しており、そもそも何をもって臨死体験とみなすかという点自体も難しい問題であると言える。この事からも、臨死体験の報告は、研究者がどこまでを臨死体験とみなすかという研究姿勢や、体験を引き出す設問に左右されるとも考えられるため、文化的影響の大きさと臨死体験のそれらを超えた力について究明するのは困難ではあるが、更に究明されねばならない課題の1つと言えるだろう。
臨死体験の脳内現象説とその限界
死に瀕した人があの世を垣間見る体験である臨死体験には、生の最終段階で起こる特異な脳内現象であるといった科学的解釈、心理的逃避であるといった心理学的解釈、そして超自然的、スピリチュアル的解釈など様々な解釈がある。その中で、今日では科学的仮説であり、脳に起こる変化が臨死体験を誘発するとする脳内現象説に属する解釈が最も広く受け入れられているが、それらには、臨死体験の全体を説明する上での限界や落ち度もあると言える。
脳内現象説に属する解釈として、危篤状態に陥った際に投与される治療薬によって、臨死体験が引き起こされるといった
薬学的解釈がある。医療薬として認められている薬物は様々な影響を及ぼし、例えば麻酔薬の1つであるケタミンを注射された患者は、自分自身の物理的肉体からの分離といった
体外離脱体験に近い感覚が得られると言われている。また、歴史的には宗教的啓発を得たり別次元を発見したりするために薬物が用いられるという例もあり、臨死体験と薬物に起因する体験に何らかの類似点はあるかも知れない。しかし、細かい部分は臨死体験とは全く異なっていると言われ、薬学的解釈を否定する要素として、臨死体験以前に全く薬物を投与されていない人にも臨死体験が起こるという事が挙げられる。ケネス・リングもコア経験が報告されている事例では、麻酔に当たるものはかけられていないと指摘している。
また、脳内麻薬物質の作用が臨死体験を引き起こすのではないかといった考えもあり、その1つとして、精神的、肉体的に大きなストレスにさらされたときに脳から分泌される物質であるエンドルフィンが挙げられ、エンドルフィンは鎮痛作用のほか、満ち足りた気分や幸福感、安らぎなどを引き起こすと言われる。しかし、臨死体験の要素のうちエンドルフィン説で説明できるのは幸福感だけであると言える。また、石井登は、臨死体験者が見る光が人格を持ち、深い愛を放つ存在であるが説明できていないとしている。さらに、エンドルフィンの効果はゆっくり薄れていくが、体外離脱体験者が物理的肉体に戻って蘇生したと感じた瞬間に痛みが復活するという点もエンドルフィン説では説明できないと指摘されている。このような事から、臨死体験における満ち足りた気分や幸福感、安らぎなどが脳内麻薬物質に関する事実に全く関係がないとみなすのは誤りかもしれないが、そのような事実に還元して全て説明され得るとみなすのも誤りであろう。因みに、リック・ストラスマンは松果体由来の
DMTが
神秘体験や臨死に果たす役割を研究、解明しようとしたが、体験が「夢や幻覚ではなかった」と主張する体験者に歩調を合わせ、DMTは別のチャンネル=別のレベルの現実を観るためのアクセスを提供するといった説明の仕方を開発している。このように、DMTが臨死体験や
神秘体験の生成に役割を果たしていたとしても、それらの体験の存在論的位置付けについては議論の余地があり、幻覚であると即断しなかったのは客観的で信頼に値するものと思う。
臨死体験の要素は、脳に供給される酸素濃度の低下による脳の活動の変化によって説明され得るといった解釈がある。スーザン・ブラックモアは、酸素濃度が低下すると視覚野のニューロンが異常に活性化し、活性化する細胞の数が多い中心部は明るくなり、周囲は暗くなるという事が「光」や「薄暗いトンネル」の正体であると主張している。また、幸福感など臨死体験のその他の要素についても酸素濃度の低下から説明できると考える研究者もいる。ジェット戦闘機のパイロットは急激に方向転換すると体に大きな重力がかかり、脳への血流が減少し酸欠状態に陥ると失神する事もあり、この現象はGロックと呼ばれ、幸福感など臨死体験と類似した要素が含まれるといった指摘もある。しかし、このような仮説にも臨死体験者の報告と相容れない点がいくつかあり、例えば血中酸素濃度が低下した臨死体験者の中にもトンネルや光を見なかった人がいた事や、臨死体験者が見たトンネルには明瞭な輪郭があり、構造化されたトンネルであるということなどがブラックモアの仮説では説明できていないと考えられている。また、Gロックの体験者は意識を喪失する前後の記憶がなく意識を取り戻した直後は意識が錯乱しているが臨死体験の場合には記憶喪失は伴わず、サム・パーニアも臨死体験者は体験時の記憶を何年経っても詳細に覚えている事が多いが、低酸素状態に陥った患者は高度の錯乱をきたしており、記憶はほとんど残らないとも述べている。
臨死体験が脳の側頭葉と呼ばれる領域の活動と関連しているのではないかとする仮説があり、中でも臨死体験は側頭葉癲癇と関連付けられる事も多く、フアン・C・サヴァデラ・アギラルらは臨死体験は基本的に一種の側頭葉癲癇であると考えている。また、橘隆志は、人工的に起こされた側頭葉発作が、体外離脱や人生のパノラマ的人生回顧などをもたらした事や、臨死体験後に側頭葉が膨れ上がったと感じ脳の構造が変化したと感じた体験者がいた事を述べている。これらの事から、側頭葉は臨死体験の鍵を握っている領域であると言えるかも知れないが、フィリス・アトウォーターらは側頭葉の刺激で体外離脱が起こる事についても、体外離脱は脳のそのようなメカニズムを通して意識体のようなものが肉体から離れる現象だとも考えられると示唆しており、必ずしも脳内現象説の正しさを示す事にはならないとしている。また、側頭葉発作が起きていない臨死体験者もおり、アーンストン・ロダンは側頭葉発作を起こす患者を何百人も見てきたが、発作の最中に臨死体験を見たことは一度もないと述べている。さらに、精神発作と臨死体験の違いとして、マイクル・セイボムは、精神発作は周囲の知覚が歪む感じや恐怖感、悲愴感、思考が外部から強制される感じなどを伴うという事を挙げている。このような事からも、臨死体験を側頭葉の活動だけに還元して説明できるとするのは過大評価であると言えるだろう。
他にも、脳内現象説に属するものとして、二酸化炭素濃度の上昇、脳が分泌する幻覚物質、脳の無秩序な興奮、神経系統機能の低下、レム睡眠侵入など臨死体験が起こる理由として様々な主張もあるが、それらも臨死体験を十分に説明できているとは言い難い。そして、臨死体験の中には、臨床的脳死と診断された患者に臨死体験が生じている事例、死んだ事を知らないはずの人に関する五感では知り得ない情報を入手したという事例や
全盲者の臨死体験、
臨死共有体験など、そもそも現在の科学の常識を超えた何かを示唆する現象も多々あり、脳内現象説という立場から、説明しようとする事には、やはり無理があると言える。
心理学的解釈
臨死体験の解釈の1つの立場に、心理学的解釈がある。臨死体験で見るイメージは夢などのように、個人の心理状態の反映であるとする説である。しかし、橘隆志は、代々の日蓮宗だが特に熱心な信者でもなく宗派の間に板挟みになっていない人が、臨死体験時に僧侶の読経を聞いて念仏側に組するか題目側に組するか決めよと迫られているが、決心がつかないという体験をしたことを挙げ、心理学的解釈は当てはまらないケースがある事を述べている。また、死に直面しストレスを感じた心が生み出す心理逃避的な幻想が臨死体験であるという自我感喪失仮説があり、ラッセル・ノイエスは死に直面させられた人は「時間間隔の変容」や「記憶のフラッシュバック」「浮遊感」などが起きていた事を認めた。さらに、危機的状況で臨死体験が起こるのは、危機的状況に対する適応反応であり生存可能性を高めるのではないかという進化学的な考察もある。しかし、ノイエスも臨死体験における神秘的意識体験については、どう解釈してもうまく説明がつかないと指摘しており、自分の死を予期していなかった人にも臨死体験が起こる事や、臨死体験時に見られる人生回顧には教育的な目的が見て取れ単なる現実からの逃避という心理学的機能以上のものがありそうだとも考えられる。
また、臨死体験者の報告する内容が事前にどれだけの知識をもっているかに左右されるのではないかという懸念があり、これはオプラ・ウィンフリーがテレビ番組で臨死体験を広く啓もうした事から
オプラファクターと名付けられる。しかし、ムーディが
『かいまみた死後の世界』を出版する前と後で、同じ臨死体験の特徴が見られたと言い臨死体験以前の知識が臨死体験の描写内容に影響しない事が強く示唆されている。
(以下は管理者の見解)
臨死体験の諸要素について見ていくと、科学の枠内で妥当な説明を与えることが現時点で困難であることや、臨死体験の中には現在の科学の常識を超えた事例が存在するという事が窺え、臨死体験の本質を考えていくと脳内現象説を始めとする科学的解釈には限界があるように思える。
これは哲学的な話であるが、
立花隆『宇宙からの帰還』の中には、宇宙飛行士のエドワード・ギブソンの発言が記されており、ギブソンは、科学は「なぜ」という問いかけを「いかにして」に置き換えて説明を捻り出し、根源的な「なぜ」、存在論的な「なぜ」に答える事はできないと述べている。この事は
ヒューストン・スミスが(規範的)価値、目的、人生の意味、質といった事は自然科学の対象領域で扱われ得ないと述べている事にも通じる部分がある。それ故、臨死体験についても、仮に諸々の科学的解釈を組み合わせて臨死体験の特定の要素が脳内の特定の現象と対応して生起する事が説明できたとしても、人生の意味や質などに深くかかわる臨死体験の根源的な「なぜ」、存在論的な「なぜ」に答えた事にはならないと考えられる。
哲学者のマルクス・ガブリエルは
『新実存主義』の中で、形而上学的自然主義(唯物論)の定義を「(真の意味で)存在するものはすべて、究極的には物質とエネルギーであり、したがってそれらは、最良の自然科学が研究する因果の網目に織り込まれている」と述べていて、認識論的自然主義の定義を「(真の意味で)存在するものはすべて、最良の自然科学の特徴である理論構築の基準にしたがうことで最もうまく説明できる」と述べている。このような唯物論的一元論について、マルクス・ガブリエルは
『世界はなぜ存在しないのか』の中で、物質的なものの全体としての宇宙を存在する唯一の対象領域とみなしている事に反論し、自然法則によって説明できる宇宙もまた数ある「対象領域」の1つ(存在論的な限定領域)に過ぎないと結論付けている。このような対象領域に基づいた理解は、しばしば超自然的だと言われる事や人間の霊性の解釈においても良く当てはまると言え、例えば前出のヒューストン・スミスは、自然科学は物質レベルというただ1つだけの存在論的地平にしか関わらないとした上で、自然科学の対象領域はその方法論により限定されているため、科学的真理以外の真理は存在しないという主張は成立しないと述べている。また、死のプロセスに伴う体験に明確な存在論的地位を認めていた
ケン・ウィルバーは人間の霊性を考える上で、
肉の眼(自然科学的な眼)、
理知の眼(客観的眼より心的現実が重要な心理学的眼)、
黙想の眼(霊の眼であり、精神が精神を直接体験することによる知)といった3つの眼の考え方を提唱しており、3つの眼の内の1つだけが突出し、他の眼の存在を否定し、全てに適用してしまう事を範疇錯誤(カテゴリーエラー)だとしている。ウィルバーは、高次の意識状態について
『眼には眼を』の中で、以下のように指摘している。
そもそも高次意識を語れるのは、肉の眼の延長であるEEG機器ではなく、みずからの黙想の眼を用いたヨーギのみである。高次状態がかならず特定の脳波パターンをともなっているかもしれないということはひとつの重要なデータだろうが、それを高次のものと証明するのはヨーギ(および同様な道をゆく黙想者たちの共同体)であって機械ではない。その〈証明〉は黙想的なものであって経験論的なものではない。経験論的なデータは有用かもしれないが、中心的なものではないのだ。
このような指摘は臨死体験における意識状態についても当てはまると言え、現時点で臨死体験の諸要素には、脳内の特定の現象にある程度対応していると考えられるものもあれば、それらを超えていて脳内の特定の現象との対応関係を見出す事に苦慮するものもあると言えるが、そもそも主観的事実に関与する脳の領域を同定できたという事実は、その体験が幻覚である事を意味しないと言え、いずれにしても脳内の特定の現象だけで臨死体験を説明した事にはならないだろう。これらの事から、臨死体験についての科学的解釈、心理学的解釈といった解釈もまた、臨死体験の諸々の要素を暗黙の裡に数ある対象領域の1つの中での説明に一本化しようとしていると言え、そのような説明が結果として、臨死体験の全体の最良の説明となるとは考え難いと思う。実際、臨死体験は、体験者にとって意味に満ちた不思議なイメージ体験であったり、肉体の五感を超えた意識状態を伴ったりするわけであるが、体験の核となり本質的な部分は、価値、目的、人生の意味、質、そして存在論的な「なぜ」に繋がっていると言え、自然科学が研究する因果の網目という「対象領域」の中では、それらは良く説明されずに残ると言えるため、それこそ、脳内現象説を始めとする臨死体験の科学的解釈の限界であろう。
臨死体験の哲学的解釈
(以下は管理者の見解)
臨死体験の解釈は大きく分けると、それを現実体験とみなす説と脳内の幻覚とみなす説の2つに分けられると言える。そして、それぞれ二元論と唯物論という2つの心の哲学の立場と結びついている。
今日では、科学の進歩によって、意識と脳の相互関係が解明されていき、心や意識は脳に還元できるという唯物論の正しさを補強しているように思えるが、脳と通常の意識経験の相互関係を指摘し得ても、心や意識は事実、脳ではないのであって、物質としての脳から、質的な内容を伴った主観的経験である現象的意識がどのように生じるかという問題が残るともいわれている。このような心の哲学の問題は
意識のハード・プロブレムと言われ、その解決に懐疑的な哲学者であるコリン・マッギンは、人間の認知能力は意識と脳のギャップを埋める構造に関して「閉鎖」されていると主張している。脳が意識をいかに生じさせるかという構造について認知的に閉鎖されているという事は、脳と意識の相関関係の内実について脳科学ではなく形而上学ないし解釈学の問題であると言える。この点については、サム・パーニアも、ある意識体験がある神経活動と相関しているからといって、その神経活動がその意識体験の原因であるとは限らない事に気を付けなければならないと述べ、2つの事象の間に相関があるときには、AがBの原因となっている可能性、BがAの原因となっている可能性、他の何らかの事象がAとBの両方の原因となっている可能性という3種類の因果関係が考えられると指摘している。むろん、今日において心の哲学者は心的因果の問題から脳と独立した意識、心の存在を疑う事が多いと言え、マッギンの真意もまた「意識は、〈ある種〉の脳組織の自然特性を通じて脳に根源をもつが、それはなじみの電気化学的過程では説明できない」というものである。しかし、意識と脳のギャップを埋める構造に関して「閉鎖」され、心的なものがなぜ存在するか説明できていないという事は、畢竟、「知覚で知覚を知覚する」ことはできないという事であり、ウィリアム・ジェームズ、
イアン・スティーヴンソン、
スタニスラフ・グロフ、
アーヴィン・ラズロ、
ルパート・シェルドレイク、ピム・ヴァン・ロメルなどといった専門分野が異なった研究者がそれぞれ達した結論でもある映像と受信機のような関係や音楽家と楽器のような関係として意識と脳を解釈する事も十分可能であり、このような形而上学的立場は自然科学の見地とも共存し得ると言える。このような解釈によって臨死体験で起こっている事を始めとする超自然的な事実や人間の霊性を合理的に解釈することが出来る。そして、このような解釈は、ある体験に関与する脳の領域や刺激を同定できたという事実は、必ずしもその体験が幻覚である事を意味しない事を示唆していると言え、この事はアトウォーターが指摘したような側頭葉の刺激と
体外離脱体験の対応や、ストラスマンが指摘したDMTと臨死体験の関係にも当てはまるだろう。実際、ストラスマンはDMTが臨死に果たす役割を解明しているが、体験を幻覚であると即断せず、別のチャンネル=別のレベルの現実を観るためのアクセスを提供するといった説明を開発し、次のように述べている。
DMTは、この「別チャンネル」を観るための安定的で反復可能な信頼のおけるアクセスを提供する。別世界の存在はいつでもそこにある。実際のところ、それらはここにあり、いつでもこちらに発信を続けている! にもかかわらず私たちが知覚できないのは、そういう装置が備わっていないからだ。私たちの心身に備わっている配線では「通常チャンネル」しか受信できない。ほんの1~2秒で、2~3回の心拍で精神の分子は脳に進入し、チャンネルを変え、この別世界に意識を開かせる。
さらに、臨死体験後に、代謝率、体温、血圧の低下といった生理的変化や神経系や脳の構造が変わったという感じがするといった神経学的変化が挙げられる事があるが、臨死体験の事後効果であるサイキック現象などについてもそれらと対応関係があっても必ずしも還元されるものであるとは限らないと言える。
そして、
体外離脱体験中に五感では知り得ない情報を得た臨死体験者がいた事や、
全盲者の臨死体験など、脳内現象説では説明できない臨死体験の事例が存在している事からも、臨死体験という深化した意識の領域においては、脳と意識経験のギャップがさらに顕著になるのではないかと考えられる。
一方の二元論的な解釈は確かに、臨死体験が意識には脳に還元されない側面があるという事を示唆しているという点では当てはまるかも知れない。しかし、心の哲学における二元論は肉体や物質といった物理的実体とは別に霊魂や精神などの実体としての存在を主張しており、二元論に基づいて臨死体験が現実の体験であるとする考えにも、そもそも「魂とは何か」や「現実とは何か」といった問題が含まれていると言え、この事を慎重に考える必要があると言える。
菅原浩『魂のロゴス』の中では、「何をもって現実とするか」という事は、解釈学的問題が含まれていると言われ、臨死体験が現実か幻覚かという事自体が偽の問題であるという事が対話形式で表現されている。また、
『魂のロゴス』の中では、客観的な世界というものがあって、その中に、人がいて、それが意識や心を持っているという多くの人々が自明の事として捉えている世界観を、世界というものが眼に見えたまま存在しているとする素朴実在論と科学に対する過剰な期待が合体して作り出されてしまったものだと述べられている。この事からも、現実という概念がそもそも自明ではないとされ、
暗いトンネルや
光の世界といったものもまた、この世界とは別の世界なのであり、日常、私たちが見ている世界と異なる世界は「幻覚」であるという意見への反論が述べられている。サム・パーニアも人の現実とは、その人が知っている事によって決定かつ限定され、その意味は恣意的であることを指摘している。確かに、臨死体験のうち、体験者が体外離脱中に目にした客観的事実と一致している体験だけでなく、マイクル・セイボムが超俗型臨死体験と呼んでいる
光の世界もまた臨死体験者にとっては夢や幻覚とは異なり、何よりも現実味を感じたと言われる事もあるほどリアルなものであり、価値観や意識の変容をもたらしているため、このような体験を私たちが日常、見ている世界と異なるという理由で、現実ではないとみなす事は不合理であると言えるかも知れない。そして、このような体験は、二元論的に肉体や物質といった物理的実体とは別に霊魂や精神などの実体の存在を仮定しただけでは、必ずしも上手く説明できないように思える。
さて、
心の哲学まとめWikiというサイトを運営しているエレア・メビウスの論考
『存在と時間と〈私〉』の「心脳問題の解消」の条によれば、イマヌエル・カントや大森荘蔵らの世界観は「物があるから心がある」という唯物論の因果を逆順に見て「心があるから物がある」とする観念論的な世界観であるという。このような世界観は、世界を見る視点を変えただけで物理学の説明そのものを否定するわけではなく、意識は物理的ではないという科学の前提と整合していると指摘されている。そして、このような観念論的世界観によってのみ、唯物論の本末転倒を矯正し心と実在の関係を無理なく説明できると述べられている。この事は、哲学者のマルクス・ガブリエルが科学的世界像は唯物論的でなければならないわけではないと主張している事とも整合性が取れていると言える。そして、観念論は歴史的には、人間も客観的事物も神が作り出した、一時的な仮の存在であるといった考えにも通じており、臨死体験時に、心、意識の領域が拡大し、体験者が質的に異なる存在領域へ移行し、異なる世界を体験するという事もまた、心の哲学的には、唯物論でもなく、二元論でもなく、観念論的世界観に立つ事によって無理なく説明する事ができるのではないかと思われる。ちなみに、宗教哲学の博士号をもつカール・ベッカーも唯物論では諸々の瞑想体験に見られる共通点や、精神や意識の構造を説明できない事などから、浄土経典、瞑想体験、臨死体験などは唯識論的・観念論的解釈がその分析に適している事を指摘している。過去生記憶を語る子どもについて研究している
ジム・タッカーも物質的なものは心的なものから派生すると考えているが、物理的な宇宙もまた共有されたイマジネーションまたは夢の産物であるとすると、死の時点でもう1つの夢をスタートさせ、その夢の性質は人によって違うことがありそうだとも述べている。さらに、エレア・メビウスの論考
『反実在論の極限』の中では、観念論的立場から考えられる死後の可能性について以下のように述べられ、メビウスは臨死体験などを視野に入れているわけではないであろうが、この哲学的主張もベッカーやタッカーらの主張と矛盾するものではないと言える。
もし観念論が正しければこの人生は夢の一つのようなものである可能性が高く、「私」の全体量は全く不明であり、死んだらどうなるかわからないという問題は、明日見るであろう夢が全くわからず、夢でどんな奇想天外な体験をするかわからないことと同じである。
臨死体験のリアリティは言語的に語る事が困難であるとも言われ、このような私たちの理解さえも超えた側面がある事は否定できない。しかし、いずれにしても、世界が物質的な部分で完結しているという見方や意識のすべてが脳によって産み出される、または脳の特性に還元されるという唯物論的な先入見を否定して臨死体験を眺めることで合理的な解釈が可能となり、このような事実は心の哲学にも新たな視野をもたらすのではないかと思うのである。
臨死体験の語りえなさ
(以下は補足)
臨死体験者の多くが自身の臨死体験を「口では表せない」「言葉にできない」「筆舌に尽くせぬほど美しい」など言葉では表現できない事だと述べており、臨死体験についての言語的な説明は絶対的で完全なものではないという事を忘れてはならない。
『かいまみた死後の世界』には、臨死体験者の多くが、「話そうと思っていることを、適切に表現するためのことばがまるで見つからない」と述べていたり、「この体験を説明するためには、どんな表現方法も全然役に立たない」などと述べていたりすると記されている。ムーディは、私たちが互いに言葉を理解できるのは、私たちが暮らしている社会の中に共通の体験が存在するからで、一般社会における体験を超えた死後の世界に踏み込んだ人の体験を説明するときにずいぶん苦労するのではないかと予想している。また、私たちが生きている現実は三次元世界であるのに対し、臨死体験で垣間見た世界は別の次元の世界であったため、三次元の世界の言葉で体験を完全に伝える事は全く困難であるといった事も述べられている。「時間は存在しない」「過去、現在、未来に及ぶあらゆる事が同時に存在していた」等と語る現代の臨死体験者の証言について
心の哲学まとめWikiの管理者であるエレア・メビウスは以下のように述べている。
そういう臨死体験者の証言は、真理を垣間見たものである可能性は否定できませんね。ただ私は真理とは人間の理解の形式を超えた(カントの物自体のような)ものだと思っています。
この事から、臨死体験者が真理の一端を垣間見た可能性を否定していないものの、メビウス自身は真理について臨死体験や
神秘体験によって直覚され得るものというよりは、人間の理解の形式を超えた全く不可知なもので考えていると窺える。しかし、臨死体験がこの世界に生きる私たちにとって、本質的に語り得ないもので私たちの理解を超えたものであるとすると、メビウスの考える人間の理解の形式を超えたものも、最終的に臨死体験者が垣間見たものと通じているのかもしれない。
なお、
『「あの世」からの帰還』の中でも、臨死体験は筆舌に尽くし難いという事が述べられており、マイクル・セイボムらは、テープに録音された臨死体験者のインタビューを聞き直して、「言葉で表現できないこと」を何とか表現しようと患者たちが苦心している事が手にとるように分かったと述べている。また、自身の臨死体験を夢などの心的経験になぞらえて説明しようとしながら、最後には、こういう比喩は全く当たっていないと否定する患者も少なくなかったことや、臨死体験時のような感じは、日常生活ではまずないという表現が普通だったとも言われている。
臨死体験と三次元の像を記録したホログラムの類似点を指摘し、臨死体験を時間、空間が崩壊し、万物がただ「共存」する「周波数の領域」を象徴するものとして捉えるケネス・リングは、
『いまわのきわに見る死の世界』の中で、臨死体験のホログラフィックな現実は、身体及び五感の働きに束縛されている限り、知的な概念構造でしかありえないが、身体から解放されるとき、人はそれを直接体験する事ができると述べている。実際、私たちにとって、時間と空間は根本的なものであり、それらが存在しない領域とはどのようなものであるのか、想像する事は困難であり、それが天国のような世界であれ、光の世界であれ、ホログラフィクな現実であれ、直接体験していない人に言語的に説明する事は不可能であると言えるのではないだろうか。
最終更新:2024年11月11日 10:44