心の哲学における唯物論の問題
唯物論(materialism)とは、世界に於いて根柢的なものは物質であり、精神や心もまた物質世界または物理世界の一部である、また宇宙は物理的次元のみによって説明できるとする今日において支配的な考えである。このような立場では、心的性質がどうやって物質的なものから生じるのかを説明しなければならないという問題が生じ、それは心の自然化(naturalization of the mental)と言われる。 心の自然化が直面する主要な問題は、客観的には観察できない意識の主観的な性質であるクオリアや志向性を物理的に説明する事である。我々の脳の作用からなぜ、いかにしてクオリアが生じるかという問題は意識のハードプロブレム(難問)と呼ばれ、デイヴィッド・チャーマーズは想像可能性論法によって、普通の人間と外見的には全く同じだが、内面的な心的経験を欠いた哲学的ゾンビの思考実験により、唯物論・物理主義を否定する論証を行っている。
心の哲学まとめWikiの管理者であるエレア・メビウスは、科学の基本的規範とは人間が知覚できる現象のうち、クオリアや志向性を捨象することによって成り立っているゆえに、科学にクオリアや志向性の説明を求めるのは筋違いという考え方もできると述べている。
物質とは何か
さて、世界は物質の総体であり、「意識を含め、あらゆるものは、物質から生まれる」とする考えが唯物論であるが、そもそも物質とは何かということについて改めて考えてみたい。三省堂『大辞泉』によれば、物質について、物理学と哲学に分けられ、次のように記されている。
・古典的には、空間の一部を占め、一定の質量をもつ客観的存在。
・意識から独立して時間空間内に存在し、感覚によってとらえられる客観的存在。
唯物論の物質に対する基本的態度として、ウラジミール・レーニンは、「物質の唯一の性質は、客観的実在であるという性質、すなわち我々の意識の外に存在するという性質である」と述べている。実在するということの1つの意味、側面として、意識の働きに依存せず、それ自体として独立して存在するといったことが挙げられるが、物質が客観的に実在するとしばしば考えられるのは、私たちの意識の外に存在すると広く考えられているからである。
人間が経験する外界には三次元空間が広がっていて、様々な物が存在すると考えられている。地面には土が在り、川には水が流れ、海には海水が在り、宇宙は遠く何10億光年もの広がりをもっていると理解される。そして、外界にある存在は石ころから生物まで、いずれも三次元空間を占有する物質として存在すると考えられる。
それら、物質は究極的には何からできていると言えるのだろうか。理性的には、大きさをもたない(空間の一定領域を占めない)モノをどれだけ加算しても大きさはないため、何かが「ある」限りは、それをどこまで分割して小さくしていったとしても、何かを構成する究極の要素は一定の大きさをもって存在しなければならないと思える。一方で、大きさを持つ(空間の一定領域を占める)ということは、原理的にはどこまでも分割可能であるということを意味し、不可分な究極の要素、すなわち最小単位ではあり得ないとするイマヌエル・カントのアンチノミーに辿り着く。
外界に存在する多様な物質は、科学的には100種余りの原子によって構成され、原子は中心の重い原子核とその周りを回っている軽い電子から出来ており、原子核は更に陽子と中性子から出来ている。更に陽子は2個のアップクォークと1個のダウンクォークから出来ており、中性子は1個のアップクォークと2個のダウンクォークという素粒子から出来ている。しかし、科学の歴史を振り返ってみると、最小単位とされるものがさらに小さい粒子の複合体であることが明らかになる可能性も無いとは言えないだろう。ところで、原子核が3mmの米粒だと仮定したら、電子の軌道は直径300mとなり、原子核以外になにもない空洞が広がっていることがわかっており、超高速運動している電子を要因とするエネルギーとも言われており、質量をある種の安定した基本的物質ととらえるのは誤りであり、エネルギーの一形態として捉えられるべきである。また、量子論の登場により、極微の世界に於いては確率の法則が因果律にとってかわると言え、機械論的な世界な宇宙モデルは形骸化し、物質そのものの概念が非物質化されたとも言える。ここには、実在とは何かという形而上学的にも深遠な問いが抱え込まれていると言える。
なお、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、「物質」という概念が虚構のものであることを物理学出身の自然哲学者の立場で熱弁した。彼によると、自然界で現実に存在するのは、時空によって規定され他の物理的契機と切り離し得ない「有機的事象複合体」であり、基本的に粒子的ではなく出来事的で過程的な要素である。現実に存在するのは、巨視的レベルでも「他との関係に置かれた諸々の事物」であり、一切に先立って「物質」なるものが散在しているわけではないのである。
唯物論的な解釈に従うなら、三次元空間を占める物質という堅固な基盤を有するものがあるように思えるが、それを分析していくと物質とは何かや最小単位の有無を巡る問題が残るといえ、また、それらがどのような実在の在り方をとっているかについては、極めて曖昧なものになってしまうのではないかと思うのである。明治時代の哲学者である井上圓了も
『霊魂不滅論』(1908年)の中で次のように記している。
唯物論者に物質のいかんを尋ぬれば、若干種の分子もしくは元素より成ると答うるも、その元素たるや奇々怪々、不確実のものにして、そのなんたるやはだれも知らざるところなれば、その形はいかに微小なるも、大怪物であります
その後にカントのアンチノミーのような話を持ち出して、唯物論に反論している。井上が
『霊魂不滅論』を記してから、1世紀以上経った今日では、自然科学の進歩によって、その時代と比べて原子の構成について明らかになったことが多いが、結局、究極の要素が何であるかという形而上学的な問いが解決していない事は確かであろう。実際、物理学者の佐藤文隆は物質の最小構造について、無限小と関連付けて以下のように述べている。
観察の技術が高まるとともに、クォークやレプトンという構造が見えてきた。結局、物質を作る構造の理解は、その時代の技術の水準で決まってくる。
素粒子物理学者にも理論屋と実験屋がいる。プランクスケール(10^-33センチメートル)の手前では面白い構造は何もないだろう、というのが現在の理論屋の予測である。だが、実際に掘っていけば、何らかの構造が見つかるかもしれない、というのが実験屋的発想だ。私も掘ってみないとわからないと思う。
カントや大森(荘藏)の世界観は因果を逆順に見て「心があるから物がある」とする観念論的な世界観であった。これは意識イコール物理的でないという科学の前提と整合している。このような観念論的世界観によってのみ、物理主義の本末転倒を矯正し心と実在の関係を無理なく説明できるのである。…(略)…私の観念論的な形而上学は途方もない主張のように思えるかもしれないが、物理学的説明の見方を逆にしただけで物理学の説明そのものを否定するものではない。
この事からも「空間を物質が占めているという認識が可能になっているのは、意識があるからである」と言える点で、世界の現れを実現させる何らかの基盤としての意識を、逆に世界の現れから見出された三次元物体が特定の領域を占めている空間的世界の一角に位置づけようとすることの難しさが窺える。物質を世界理解の出発点ととるか、心を出発点ととるかはそれぞれであるが、物質を世界理解の出発点とした場合、物質とはそもそも何なのかといった問いに答えられず物質が堅固な基盤を有するという考えには形而上学的に落ち度がある事は、前記の通りである。
心がもつ力という視点から考える唯物論
ここまでは、哲学的立場としての唯物論の問題点について触れ、主として通常の意識の自然化の困難さについてみてきた。このように、心と身体の関係を扱う、いわゆる心身問題については、古来、多くの科学者や哲学者により考察されてきたわけであるが、超常現象の実在を踏まえた検討は、それほど行われているわけではないといえる。
笠原敏雄によれば、それほど明確な形ではないものの、歴史的にはイギリスの物理学者ウィリアム・フレッシャー・バレット、イギリスの古典学者フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤース、アメリカの超心理学者ジョゼフ・バンクス・ラインらが同様の着想を公にしており、それ以降にも、エディンバラ大学の心理学者ジョン・ベロフらがその考察を行なっているといい、日本大学の物理学者である堀伸夫も、自著の中でその着想を簡単に述べているという。
以下では、人間の思考、信念、感情といったものにより脳や肉体が受ける影響、そして、心の脳を超え得る側面などここまで見てきたような通常の意識(状態)を離れ正統的とされる立場に立つ科学者の陣営からは無視される事の多い
超心理学的立場から心の力の本質について眺め、唯物論の問題点について考えてみたい。
マリオ・ボーリガード
『脳の神話が崩れるとき』の中では、心が脳を変えたり、感情が病気を治すといった事が詳述されている。具体的には、本人が治療行為を信じれば信じるほど(それが偽薬であれ)発揮される治療効果は高まると言い、ノーマン・カズンズは、たとえ癌やパーキンソン病などの難病であろうとも信じる事で自己治癒能力を高められる事が証明したという。さらに、人間の思考や感情が特定の遺伝子のオンとオフとに作用するという事も分かっているという。
そして、瞑想の修行を積むことで、心を成長させ、幸福感、慈悲心、集中力などに関与する脳領域を活性化させる事が出来、瞑想は脳の構造にまで変化を及ぼすという事も指摘されている。ハーバード大学の心理学研究者、サラ・ラーザー率いるチームは15人の一般被験者たちが持つ脳構造のスキャン・データと約3000時間マインドフルネスの修練を積んだ12人の瞑想者たちのデータを比較したところ、意識的に体内の変化を察知する脳部位に濃い灰白質が見受けられたようである。
この他、重度の火傷や喘息に対して、催眠術の効果が認められたというケースもあり、深いレベルの催眠状態を体験できる患者ほど、効果が強く現れたといった事から催眠暗示が身体の修復を増進する可能性もあると言える。
このように人間の思考、信念、感情といったものにより脳や肉体が受ける影響についての解釈として、心の哲学的にはどう考えられるであろうか。「心が脳に影響を与えているように見える」だけで実際は「心は脳の活動の随伴現象にすぎない」という点で全ては脳活動に一本化されると考えれば、論理的に随伴現象説をとれないわけではないかもしれない。しかし、それは著しく直観に反し、不合理な結論に帰着すると言える。さらに、超心理学的研究の分野では、脳の特性を考えると説明できない特異的な心理現象(超常現象)が存在する事が報告され、心のもつ力は、時として肉体を凌駕するほど強く、時空を超越して情報が得られるというケースもある。このような理由から、ジョン・ベロフも唯物論と随伴現象説を却下している。
笠原敏雄は、唯物論の反証となるはずの超常現象の証拠は、既に100年以上も昔から、心霊研究者ないしは超心理学者によって提出されてきているにも関わらず、超常現象の実在性は依然として一般の科学者から認められていないという事実が存在すると述べ、現行の自然観によって超常現象の実在を否定するという没論理的、循環論法的論理を平然と用いると述べている。この点について、例えばブライアン・クレッグはエネルギーの移動を支配する熱力学の法則を持ち出して、
念力に否定的である事などが挙げられるだろう。そして、笠原は、唯物論に必然的に伴う機械論と、最終的な結果を意識的にであれ無意識的にであれ念じさえすれば、望みの現象が発生するという性質である
目標志向性は、完全に対立すると言い、心理療法の中で観察される現象を通じて、これまで無視ないし軽視され続けてきた心の力の実在を浮き彫りにしている。
このような事から、笠原は唯物論という臆説が登場した理由として、唯物論は科学的事実のみを基にして構築された理論ではなく、人間の心の力に対する無意識的な感情的抵抗の結果として必然的に生まれた観念論ではないかと推定できると述べている。また、唯物論が猛威を振るうに至った理由として、唯物論は心がもつ力に対する人間の抵抗に起因する結果、自然現象と必然的に一致する部分が多くなるため、いかにも科学的な公理であるかのごとき立場を保つ事ができると述べている。
また、生物学者の
ルパート・シェルドレイクは別の切り口から、心が脳を超えて拡がる可能性を考察している。シェルドレイクによれば心が頭の中にあって未知のやり方で脳と相互作用するとする二元論者も、心が脳の一面に過ぎない、もしくは脳の生理的な活動から生まれるとする随伴現象に過ぎないとする唯物論者も魂(心)を脳に閉じ込める「縮まる心」の考え方を共有しているという。しかし、この「縮まる心」の考え方は、科学によって保証された議論の余地なきドグマでは決してないという事を主張している。
そして、シェルドレイクは「見つめられている感覚」が実在している事と「幻肢」に検知し得る作用がある事の2つが証明されれば「縮まる心」のパラダイムは放棄されねばならないという。幻肢体験では、生身の手足を(切断手術などで)失っても、その存在感覚は必ずしも失われるものではなく形あるものが空間を占めて動いているという感覚に加え、様々な感覚を身体の一部であるかのようになくなった手足の辺りに体験されるという。このような幻影について霊魂の現れだと主張する人もいるが、「縮まる心」の視点からすれば、神経系の内部で生じた(脳の中で拵えられた)錯覚に過ぎない事となる。この「幻肢」の検知し得る作用に関連して、シェルドレイクは、子犬が脚の欠損部分に入ろうとしない、脚が占める虚空では寝ようとしないという事例を紹介している。シェルドレイクの指摘している通り、「見つめられている感覚」の実在と「幻肢」が客観的に検知され得る作用が厳密に証明されれば、心は脳に閉じ込められているのではなく、脳を超えて拡がる力があると言え、唯物論的な見方は否定されるだろう。
唯物論・脳還元論を超える諸見解
アンリ・ベルクソンの二元論
記憶が意識の問題を理解する鍵であるとし、アンリ・ベルクソンは『物質と記憶』において、脳は記憶を保存するのではなく、記憶は脳から独立して存在するという有名なテーゼを提起した。ベルクソンは
『精神のエネルギー』で、脳の傷害が重症で、語の記憶が深く害され、失われたように見えた回想が、多少とも強い刺激によって突然、戻ることがあるとし、このことは回想が変化を受けた脳の物質に蓄えられているのだとしたら、不可能であると指摘している。また、失語症を例に挙げ、病気が様々な原因によって、極めて様々な形をとることがあって、関係のある脳の部分の異なった点に始まり、異なった方向に進むことがあるのにもかかわらず、病気は文法を知っているかのように、固有名詞、名詞、形容詞、動詞といった順に忘れ、回想が消失する手順が同じであることを指摘している。
現在の神経生物学においても、ニューロンレベルで、シナプスや化学物質などが関係している事が確認されているが、人間の記憶の痕跡を解明するには至っておらず、ベルクソンの「記憶は脳から独立して存在する」という主張に対する本質的な反論はなされていないといった指摘もあり、むしろ、外からの高度の技術による探知(fMRI〔機能的磁気共鳴画像法〕やPET〔ポジトロン放射トモグラフィー法〕)などの測定が可能になったことでベルクソンの洞察が正しかった事が明らかになりつつある。
また、ベルクソンは、意識のほとんどが身体に対して独立であるということが確認される事実である限り、死によって身体が分解することで意識が消えるとする根拠には価値がなくなるとしている。
ワイルダー・ペンフィールドの二元論
脳外科医のワイルダー・ペンフィールドは治療と実験の一線で活躍していたときには、心は脳の仕組みですべて説明できると唯物論のテーゼが正しいことを確信していたが、晩年の著書『脳と心の正体』の中では、「心の働きは脳の仕組みで説明できるものではない」という反対の結論を述べている。
ペンフィールドは、多くの癲癇患者の脳に直接電極を当て(脳自体は痛みを感じないので、脳の麻酔は必要ない)、何が起きるか実験し、脳組織の働きを地図に現した。その結果、患者に微弱な感覚が生じたり、稀に幻覚作用が起こって映像を見たり、側頭葉を刺激すると過去の経験や出来事を思い出したりしたという。そして、患者は、そのような幻覚や忘れていた記憶について、自らの意志によるものではなく、ペンフィールドが電流の刺激によって引き起こしたものだということを主張した。また、脳のある部位に電極を当てて声を出させたとき、患者は、自分が声を出したのではないと認識していたという。
これらの事から、ペンフィールドは、意識の状態を超然として客観的に観察しているからには、心は神経の反射的な働きから遠く離れた存在でなければならないことを指摘している。また、最高位の脳機構が自身の働きで心を作り出しているとしたら、電極による刺激で再現された意識の流れが、現在の意識の流れと一緒に提示されたとき、心は混乱状態に陥るはずであると述べている。心が、脳の電磁気的物理学、化学的生理学によって説明できる脳の機能であるなら、患者は、声を出したり、記憶を思い出さしたりする意志が自分にあるのか、ペンフィールドによるものであるのか、判別することはできないが、唯物論に基づくと、高次の精神機能も脳機構によって生じているものであり、脳内の作用そのものをさらに上の次元から認識するいかなる主体も想定し得ないことになる。
また、ペンフィールドは元々、記憶は側頭葉に保存されていると考えていたが、過去の経験や出来事を思い出したフラッシュバック現象が起こった皮質領域を切除しても、記憶は喪失されず、このことから、記憶痕跡が脳細胞に付着することを否定するようになった。このことは、ベルクソンの「記憶は脳から独立して存在する」という洞察を補強するものであると言える。
ペンフィールドは、これらのことを、意識、論理的思考、想像力、意志といった高次の精神機能は脳が産み出しているのではないとする心身二元論を提唱する根拠とし、脳と心の関係をコンピュータとプログラムの関係に喩えている。
意識経験を貫く自己や自我といったものは、脳内の特定の箇所にその座があるのではなく、多様な情報が統合されることから生じると考えられている今日では、ペンフィールドの考えは二元論を支持する根拠としては、それほど強いものではないようにも思えるが、電極により再現された意識の状態を超然として客観的に観察している視点の存在については今後、さらに究明される必要があるだろう。
ペンフィールドは、心が死後に脳以外のエネルギー源に目覚めることを期待するのも不合理ではないと述べており、心は身体を離れても存続し得る霊魂の死後存続を認めるような見解に近づいていたことが窺える。
制限バルブ説・脳濾過装置理論
私は自分自身の体験に照らしてみて、ケンブリッジの秀れた哲学者C・D・ブロード博士の説に同感を感じる。博士はいっている。
「われわれはいままで、記憶と感覚的知覚の関係について、ベルグソンが説いた流儀の理論に影響され続けてきた。しかし私は、このタイプの理論とは違った考え方で、もっと真剣に考えてみる必要があると思う。それはつまり、脳髄や神経組織、感覚器官の主要な機能は、創造のためにあるというより、消去のためにある、ということである。人間は誰でも本来的には、その身に起こった全てのことを憶い出し、宇宙に起こっていることは、どこに起こっていることでも知覚することがどんな時でもできるものなのである。そして脳や神経組織の機能は、もしこれらがそれを締め出さなければ、われわれは時々刻々に知覚したり憶い出したりしなければならない、大量の不用でその場にそぐわない刺激押し寄せてきて、われわれがこれに圧倒され、混乱させられてしまうことから、われわれを保護することにある。そして同時に、脳や神経組織は、実用上に有用そうなごく一部の特別な意識内容だけを選んでわれわれに知覚させるのである」
このような理論によれば、人間は誰でも本来的には宇宙精神(Mind at Large)を持っていることになる。しかし、われわれが生き物である限り、人間にはどんなに大きい犠牲を払ってでも生物的生存を続けていく義務がある。そして生物的生存を可能にするためには、宇宙精神の意識内容は、脳や神経組織の減量バルブによって濾過減量という検閲を受けざるを得ない。濾過減量という検閲を経て、バルブの末端に滲み出してくるのは、宇宙精神の意識内容のうち、人間がこの地球という特殊な星の表面で生存を続けていくために役に立つような種類の、ほんのわずかな意識内容のしたたりだけとなる。
ここで、紹介されているブロードの説とは、本来の知覚作用は、時間的、空間的に無限定であり、脳の機能は、生体の生存にとって有益な情報だけを認識するように制限することにあるというものである。ハクスリーは誰でも、潜在的には宇宙精神または遍在精神(Mind at Large)を持っているとし、メスカリンを服用する事で、脳の減量バルブとしての役割が減殺され、通常の知覚では捉えられない宇宙精神の内容が現れ出るとしている。そして、ハクスリーは減量バルブで濾されて残ったわずかな意識内容だけが言葉によって表現され、言葉によって生命を失って石化されてしまっている世界がこの世界であると見ているようである。
このように、脳を減量バルブとみなす説に基づくと、見えるものも見えないものも、聞こえるものも聞こえないものも、我々が認識できるものより、さらに多くの情報が世界には溢れているということになる。この説は、脳の中のニューロンが発火しなければ、認識は生じないとする、認識のニューロン原理には収まらず、脳や神経系、感覚器官の作用を無に有を付け加えるのではなく、過剰に存在する有から、何かを引き去るという点で、生産作用的ではなく主として除去作用的であるとみなしており、ベルクソンの示唆とも通じるところがある。茂木健一郎は、このブロードの説を制限バルブ説と呼んでおり、脳の中のニューロンの発火による限定を受けない形で私の「心」がもし存在したとしても、それは、私たちに親しい意味での意識(ある特定の時間、空間に存在する)での「私」とは、全く異なるものになってしまうという事を指摘している。
アメリカ合衆国の哲学者、心理学者であった
ウィリアム・ジェームズもまた、アメリカ心霊研究会を中心とした心霊現象に関する厖大な研究や、意識の神秘的状態に関する深い考察から、脳が意識を生み出すとする
産出説(production-theory)ではなく、脳に先立って存在する広大な意識から、脳がその一部分のみを透過、伝送させるとする
透過説(transmission-theory)の方が、そのような例外的で曖昧な現象を説明できると考えている。そして、意識と脳の関係について、光と着色ガラス、プリズム、屈折レンズの関係や、空気とオルガンの関係に喩えて以下のように述べている(訳は管理者)。
着色ガラス、プリズム、屈折レンズの場合、透過機能がある。光のエネルギーは、どのように生成されたとしても、ガラスによって篩にかけられるように、色が制限され、レンズまたはプリズムによって特定の経路と形状が決定される。同様に、オルガンのキーにも透過機能しかない。キーは多様なパイプを連続的に開き、空気室の空気を様々な方法で逃がします。様々なパイプの音は、空気の柱が出てくるときに震えることによって構成される。しかし、空気はオルガンで生成されるわけではない。厳密な意味でオルガンは、空気室から分離されており、これらの特殊で制限された形状で空気の一部を世界に放出するための装置に過ぎない。
私の現在の主張は、思考は脳の機能であるという法則について考えるとき、生産機能だけを考える必要はなく、許容機能や通過機能も考慮する権利がある、というものである。そして、普通の心理学者はこれを説明から省いている。
このように、光はプリズムやレンズを通過する事で、色が限定されるがプリズムが光源ではないことと同様に、脳はより大きな意識体から、意識を透過、伝送し、発現させるが、意識は脳から生まれているのではないという事を説明している。また、ジェームズと親交が深かったフレデリック・マイヤースは、深層心理学研究のパイオニアであり、カール・グスタフ・ユングの無意識の概念に近い閾下自我の概念を主張したことで知られている。マイヤースは、意識にも通常は認識されていない部分が存在するとし、通常認識されている部分は膨大な意識の一部に過ぎないと説明している。
脳濾過装置理論は、広大な意識の広がりを想定し、脳を一種の濾過装置と考える理論である。中部大学教授の大門正幸は、
臨死体験や
神秘体験、霊媒現象、
再生型(生まれ変わり)事例などといった現象の存在は、脳還元論に基づく説明では十分に説明しきれない事を指摘しており、脳濾過装置理論以外での説明は難しいとしている。なお、
臨死体験や
神秘体験、
再生型(生まれ変わり)事例の調査研究及び、それらの現象がどのような点で脳還元論に基づく説明では説明が困難であるかについては
哲の光@ウィキのそれぞれの項目でも触れているので参照されたい。
脳の役割が、減量バルブや受信機、濾過装置などに喩えられて説明されているのは、以上の通りであるが、いずれも喩えが違ってもその背景に、より大きな意識(私たちに親しい意味での意識とは質的には異なるであろう)を想定しているという点で共通していると言える。それらは、意識の脳に還元され得ない側面を認めながらも物的なものと心的なものといった風に単純な二元論的に捉えていないという点で、唯物論・脳還元論を超え、且つ心身二元論などの問題点を解消した見解であると言える。
量子力学と関連付けられた二元論
心身二元論が今日において、科学者からの支持が少ない立場である事は、広く知られているが、自然科学の観点からの二元論の発展可能性として、量子力学と関連付けられたものがある。心身二元論の問題点の1つに、物理現象の原因を記述する限り、主観的な意識経験に代わって、それを実現しているとされる脳のある物理状態が行動の原因となるため、意識経験の入り込む余地はなくなるという物理領域の因果的閉包性があるが、それを躱し得る考えとして、幾つかの固有状態の重ね合わせとしての波動関数が観測によって1つの固有状態に収縮していく過程において、意識が物理領域に作用するとする量子脳理論が挙げられる。
神経生理学者のジョン・カリュー・エックルスは、心の単位サイコンと尖頭樹突起とその分枝から成る神経受容単位デンドロンの相互作用を自我と脳の相互作用の基本的な出来事と見ている。エックルスは、シナプス小胞の開口分泌を量子力学的に捉え、心的事象が選択の場としてデンドロン上の10万個の棘シナプスをボタンとしてもっており、それが選択される量子確率的振幅をもって、心的事象が脳に作用することができるという説を展開している。このことから、物理学の決定性に従わないと考えられる量子論の不確定性に訴え、心が脳をコントロールしているという二元論を唱えていると言える。
また、数学者、理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフは、統合されたOrch OR(Orchestrated Objective Reduction:統合された客観収縮理論)を提唱している。彼らは、意識の本質的な属性の1つである計算不可能性について、脳には常に複数の量子状態が可能性として生じており、ニューロンの微小管(チューブリンというタンパク質がきれいに整列した小さな管状の構造物)で、1つの状態に収縮すると、意識にのぼると仮定している。
麻酔科医のハメロフは、マイクロチューブルと呼ばれる脳のニューロンの中にある微小管に麻酔薬を投与すると血流のコントロールといった生命維持に必要な脳の機能には影響を与えずに、人間を無意識に出来る事を発見し、脳と意識の関係を情報通信におけるコンピュータ(ハードウェア)と情報(ソフトウェア)のような関係にあるのではないかと考えた。そして、客観収縮理論は
臨死体験に関して、マイクロチューブルが機能しなくなり、人間の意識が脳のマイクロチューブルから出て宇宙の波の一部となる過程と見ている。
コペンハーゲン解釈によれば、宇宙の万物や宇宙で起こる様々な出来事は、全て潜在的に確率的な波として存在しており、私たちがそれを観察しないうちは実質的な存在ではないが、観察すると突然、実質的な存在になるという。臨死体験者は、しばしば、あらゆる方面から、しかも一度に見えてしまうという無時間的な全ての現れを報告している。岸根卓郎は、(そのような
臨死体験を想定しているかは明らかではないが)エネルギーの最小単位としてクオークは、波動の形で宇宙に充満しており、そのクオークを意識と仮定しており、
臨死体験には脳という制限から解かれた意識が、確率的な波動として全宇宙へ潜在的に瀰漫する存在になったとして、説明することができる側面があるかもしれない。
しかし、
臨死体験者によれば、死という明確な境界をもって、スイッチが切れたかのように、意識が脳の制限から解かれて時間的、空間的に無限定な存在になるというものではなく、物理的な目を介して見ていないはずの体外離脱体験者でさえ、天井の下やベッドの横などと言った特定の視点からの眺めを報告しているし、心の安らぎや死者との再会や光の存在との出会いなどについてはこのような枠組みから説明するのは困難である。それ故、
臨死体験における意識の非局在性という側面は良く説明できたとしても、
臨死体験や脳の背景に想定されるより大きな意識の全てを説明する上では慎重にならねばならないだろう。
(以下は管理者の見解)
今日では、自然科学の進歩によって、意識と脳の相互関係が解明されていき、唯物論の正しさを補強しているように思われている。確かに、心や意識が私たちにとって馴染み深い意味で存在し、それが現実化するには脳が必要であり、その意味で脳に深く根ざしていると言えるだろう。しかし、その意識についても、fMRIやPETによって脳の機能分析がなされ、意識が発現する、その「相関項」についての究明にはなり得ても、いかにしてクオリアを核とする主観的な意識経験が産み出されるかについてはギャップがある事は明らかである。
意識と脳の関係について、冒頭で示した意識のハードプロブレムという心の哲学の問題がある。これは、物質としての脳から、いかにして現象的意識が生じるかという問題で、1994年にオーストラリアの哲学者であるデイヴィド・チャーマーズが哲学的ゾンビ(現象的意識が欠如した人間)の喩えを持ち出して説明した事で知られている。ハードプロブレムの解決に対して懐疑的な哲学者であるコリン・マッギンは、心は事実、脳ではないのであって、人間の脳を徹底的に調べても私たちの現象学は取得できないといったことを指摘している。さらに、意識と脳のギャップを埋める構造は、定義上、物理学や生理学と現象学の主観的レベルのどちらの側にも作り上げることはできず、中間に位置しており、人間の認知能力はこの構造に関して「閉鎖」されているため、ギャップは埋まらないだろうといった主張をしている。
そのような意味で、畢竟、意識と脳、主観と客観のギャップは今日でも埋められていないと言え、科学が脳と意識経験が相関している事を指摘し得ても、相関関係の内実については科学の対象ではなく、形而上学的、解釈学的問題であると言える。それ故、相関関係の内実について脳が意識経験を産み出しているのではなく、既存の(より大きな)意識を伝送したり矯正したりするという制限バルブ説や脳濾過装置理論的な解釈が正しいという可能性は十分に残されていると言える。意識と脳について、光とプリズムの関係の喩えを持ち出すなら、 結局のところ、科学が対象とし得るのはプリズムとしての脳なのであって、光としての意識がそこを通過するときの脳の様態を切り取って、脳に還元しようとしていると考える事は可能である。意識に脳に依拠していない側面があるにせよ、それに関しては、現時点で自然科学的には観測する術がなく、先ず肯定する事も否定する事も出来ないとみなすのがフェアな態度だと言え、減量バルブ説や脳濾過装置理論は、自然科学が解明してきた事と矛盾する説ではないと考える。
以上のことから、唯物論が正しいとする考えの拠り所は、単なる常識、信念以外にないとも言えるが、このような姿勢で通常の意識状態を離れた
臨死体験や
生まれ変わり事例の報告を眺め、それを掘り下げてみていくと私たちの常識的な世界観自体を揺さぶる可能性が出てくる。そして、少なくとも、これまで広く受け入れられてきたと言える唯物論的な先入見を否定したり、意識の全てが脳によって産み出される、または脳の特性に還元されるという見方を否定したりする根拠と言えるのではないかと考える。しかし、そのような考え方が否定されたとして、二元論的に自己や意識の個別性や独立性を認める事が正しいという事にはならないと言え、マーク・B・ウッドハウスはリアリティを構成する「もの」について次のように述べている。
事象といい、物質といい、そのすべてはある共通のもの、すなわち、<エネルギー=意識>から成っている。それは古来言われてきた精神と物体の相違を超越したものである。このことから、死を超えて生きつづけるものと肉体との違いは、本質的に程度の差であって原理の差ではない、と言えるだろう。
ここで言われている究極的源泉、根源としての<エネルギー=意識>は、本質的に言語的理解を超えたものであり、それを何と呼ぶかは人によって異なると言える。
本山博も光がない所に光が生じた体験、文鎮や竹籠が壁や床を通過し物質が消えたり形成されたりした事実、心霊手術で手が抵抗なく腹部に入って腎癌を浮揚さす事ができた事実等から、超意識を含めて精神には物質や物理的エネルギーを形成する力があると推測しており、高い次元の心(
神秘体験で達した超意識、神の意識の世界)のエネルギーによって物質は自由にコントロールされ、消滅せしめられたり、一定の形を与えられ保持されたりするという。いずれにしても、減量バルブ説や脳濾過装置理論も意識の起源を我々に馴染み深い意味での意識を超えたより大きな意識、存在に求めるという点で、このような意識の脳に対する優位性を唱えていると言える。そのような捉え方は、歴史的には、人間も客観的事物も神が作り出した一時的な仮象であるといった観念論的立場にも近いと言えるだろう。世界が神の一時的な仮象であるという解釈については、
立花隆『臨死体験 下』においても、脳科学者の
ジョン・カニンガム・リリーが、意識の起源に関心を寄せ、脳と意識の関係について唯物論と観念論のいずれが真実であるかを思い巡らしているという話の中で紹介されている。カール・ベッカーも唯物論では諸々の瞑想体験に見られる共通点や、精神や意識の構造を説明できない事などから、浄土経典、瞑想体験、
臨死体験などは唯識論的・観念論的解釈がその分析に適している事を指摘しており、観念論的な脳濾過装置理論により、通常の意識状態のみならず、それを離れそれを超えた多くの現象を合理的に位置付けることが可能になると思うのである。
最終更新:2025年03月06日 02:05