概説
意識のスペクトラム / 意識のスペクトル(Spectrum of Consciousness) は、
ケン・ウィルバーが、個人的な思想の混乱に終止符を打ち、西洋心理学と東洋神秘思想を統合し、意識の全体像を階層モデルで捉える包括的な理論である。後にウィルバーは、意識は電磁波のスペクトルに喩えたことを一種のカテゴリー・エラーと気付くが、意識のスペクトラムは、電磁波のスペクトルと同じように、ある一貫した連続性をもって展開する。その中で、意識は多次元的で多くのレベルから成っているといい、心理学、心理療法、宗教の主だった学派や宗派はそれぞれ異なったレベルに力点を置いているため、それらは互いに対立するものではなく相補的であると主張している。
なお、トランスパーソナルの考え方はオルダス・ハクスリーの
『永遠の哲学』や
ヒューストン・スミスの宗教哲学などにも現れているが、心(宇宙)のレベルといった究極のレベルと超個(トランスパーソナル)の帯域といったトランスパーソナルなレベルの区別関係を明らかにしたところにウィルバーの優れた点はあると言われる。実際、ウィルバーは、以下に示した意識のスペクトラムの段階において、超個(トランスパーソナル)の帯域では自己は拡張しているといえども依然として世界から本質的に分離したものとして体験されるという事を強調している。
意識のスペクトルの段階
ウィルバーは、意識の全体像を影(仮面)のレベル、自我のレベル、生物社会的帯域、実存のレベル、超個のレベル、心(宇宙)のレベルなどといったレベルと帯域から成っていると捉えている。数多くの意識の探究者が、それぞれのレベルを僅かに異なった視点から研究している事に気づけば、その総合の性格ははっきりっしてくるといい、ウィルバーは彼らの下した結論を吟味し協働させている。
そして、これらのレベルを自分と宇宙との一体性という至高、最深のレベルからアイデンティティが狭まっていくプロセスと捉えることができるとしている。なお、こうした階層構造は、数多くの帯域ないしアイデンティティのレベルによって構成される一条の虹のようなものであり、その層数は、識別する視点により、多様なものとなり、あくまでも便宜的なものであるため、必ずしも、この層数にこだわる必要はないとも言われる。ウィルバーは
『無境界』の中では、アイデンティティの境界は、宇宙のどの側面を「自己」と捉え、どの側面を「非自己」と捉えるのかを決定すると述べている。ウィルバーは、意識のスペクトルのあらゆるレベルは、真の自己、心(宇宙)のレベルを次々に境界づけ、制限していくものと捉えており、心のレベルから記述しているが、ここでは、便宜上、一番上の影(仮面)のレベルから記してみる。なお、
『意識のスペクトル2 意識の深化』では、アイデンティティを狭めていった人間が本来のアイデンティティを取り戻す治癒と意識の深化の過程を心のレベルへ向かって記述している。
意識のスペクトル(『意識のスペクトル 1』p.234より)
諸セラピーと意識のスペクトルのレベル(『無境界』p.25より)
影(仮面)のレベル
自分だと信じられた部分(仮面=ペルソナ)が本来自分のものである他の部分(影=シャドー、無視され意識の光が当たっていないという意味)を抑圧している。すなわち、立場、役割、地位、性格、能力など自分の一部分と自己自身を同一視している段階である。このような瘦せ細った自己のイメージは、怒り、自己主張、性的衝動、喜び、敵意、有機、攻撃性、動因、興味などの自分自身の特定の傾向の存在を否定しようとするときに生み出されるという。
自我のレベル
実存のレベルから二元性による人間の断片化が続き、自らの有機体全体と融合していると感じられなくなるこの段階では、影はある程度認め、統合しているが、身体とは分離している。身体は自分の所有物や道具であって、自分自身ではないと感じられ、そのアイデンティティは、身体を統合せず、排除している。人間の死からの逃亡の結果、自我という観念化されたイメージを生み出し、死を回避しようとする不安の元で有機体の生そのものが分断され、その一体性が抑圧されて投影されるという。
生物社会的帯域
自我のレベルから実存のレベルへと統合が進む途中にあり、社会的なプログラム、つまり言語、習慣、教育、文化の習得などが含まれる帯域。その帯域の大半は、様々な意味であまりに身近であり、はっきりとは見えない。
実存(全有機体)のレベル
アイデンティティが、自我を超えて身体にまで広がっている。統合された心身=有機体が「自己」と感じられている。ウィルバーは心身が完全に融合した状態を表現するために、半人半馬のケンタウロスという概念を導入している。しかし、この心身一如の有機体は、環境とは分離している。
超個(トランスパーソナル)の帯域
実存のレベルと、心と呼ばれるまったく対立のない領域との間にあり、トランスパーソナルな帯域、超個の帯域と呼ばれ、自己と他者との境界が完全に結晶化していないスペクトルの帯域である。ウィルバーは現代の宗教の全般的貧血状態に伴い、大半の人は超個的自己(トランスパーソナル・セルフ)が眠っているという指摘に対しては懐疑的であると示唆している。また、正統な精神医学はそれらを精神の障害の兆候とみなし、心(宇宙)のレベルを追求する者はそれらを有害な気晴らしに過ぎないと考えている事などもあり、歴史的に他の帯域ほど広範に研究されてこなかった。
この帯域では
ESP(テレパシーや透視、予知、既知体験など)や
共時性、
体外離脱体験、
至高経験、超常現象が起こり得るという。トランスパーソナルな体験はある意味で後述の統一意識に似ているが、統一意識においては完全にあらゆるものにアイデンティティを持つようになる一方、トランスパーソナルな体験では、アイデンティティは全体にまで拡大せず、有機体の皮膚の境界を超えるに留まる。また、
ESP研究において、この帯域の出来事の中には客観性、測定、実証などといった正統的な基準に当てはめることが可能な出来事もあるが、これらの出来事やその証明が心(宇宙)のレベルとその証明に一切関係がないことも強調している。
心(宇宙)のレベル
人間は本来、心(Mind)、統一意識と呼ばれる非常に幅広く、いかなる分離分裂も二元対立もない状態、自分が根本的に世界ないし宇宙と一体化している状態を深層にもっている。東西の神秘思想が、たとえばブラフマン、永遠、無限、空、無、宇宙など、さまざまな言葉で表現した、人間と全者が一つである究極のレベルである。ウィルバーは、リアリティは一つの同じものであるという事から、実存のレベルが公共的宗教のレベルであるのに対し、心(宇宙)のレベルは秘教的宗教の超越的一体性のレベルであると言い、宗教は実存のレベルで枝分かれし、心のレベルで融合する。また、ウィルバーは、真の自己とは無境界の自覚であると捉えるが、言葉や思考が境界以外の何物でもないといった事から統一意識を論理的、形式的に語ろうとする神秘主義者は逆説的な矛盾に陥らざるを得ないと指摘している。そのようなことから、このレベルは、スペクトルの「最深レベル」として語られても、「深い」といった形容詞の冠せられるものでもないという。
諸境界の成長
正統派心理学は、人間の真の自己を自我と定義したために、統一意識を正常性の喪失、意識の異常あるいは変性意識として描写するしかなくなったが、統一意識を人間の自然な自己、唯一のリアルな自己と見れば、自我は統一意識を不自然に制限、縮小したものになるといった世界観の逆順をウィルバーは提唱している。そして、意識のスペクトルのあらゆるレベルは、統一意識、無境界の自覚、真の自己といったものを次々に境界づけ、制限していくものと見ることが出来る。ウィルバーは、新たなスペクトルの帯域の誕生の際、原初の二元論である主体対客体、自己と他者、あるいは有機体対環境などといったように相対立するものとして自らを投影するようになるといい、二元論-抑圧-投影というプロセスが重要になるともいう。
ウィルバーは、唯一の真の自己が統一意識であるとすると、なぜ様々なアイデンティティのレベルが存在するようになったのかという質問に対する唯一可能な答えは、「なぜ」は存在しないという事であると述べている。この点については、神学的に第一原因に原因があれば、それは第一原因ではなくなるという事を持ち出している。
意識のスペクトルと形而上学的諸伝統の心理学との比較
ウィルバーは、意識のスペクトルを禅、瑜伽行派仏教、ヒンドゥー教ヴェーダーンタ派、チベット密教などの形而上学的伝統による説明や著名な探求者による説明と比較している。まずヴェーダーンタの鞘の心理学が意識のスペクトルと極めて近い事を指摘しており、グロス体という外側の鞘は自我のレベル、サトル体という3つの鞘が実存のレベル、そして、自我と物質的身体を超越する至福の鞘であるコーザル体は超個(トランスパーソナル)の帯域に相当し、最後に梵我は心のレベルに対応するという。
ヴェーダーンタの鞘の心理学と意識のスペクトル(『意識のスペクトル 1』p.267より)
また、大乗仏教の心理学(特に『楞伽経』『大乗起信論』『六祖壇経』等の経典に記述される心理学)とほぼ一致する事を見出しており、例えばチッタは心のレベル(絶対的かつ非二元的意識)に対応し、阿頼耶識は超個(トランスパーソナル)の帯域に相当するとされる。
仏教心理学と意識のスペクトル(『意識のスペクトル 1』p.273より)
最終更新:2025年07月16日 23:38